生石高原の麓から

和歌山の歴史・文化・伝承などを気ままに書き連ねています

木曜島のキング・佐藤虎次郎(オーストラリア木曜島・古座川町・串本町)

 「和歌山あれやこれや」のカテゴリーでは、和歌山県内各地に伝わる歴史や伝承などを気ままに紹介していきます。

 

 今回は、明治時代から第二次世界大戦前までの間に多くの紀州の若者たちが出稼ぎに行ったことで知られるオーストラリアの木曜島(もくようとう 英名 Thursday Island)という島を紹介します。
 あわせて、現地のイギリス人資本家らと対等に渡り合って主要産業を傘下に収め、島の実権を掌握して「木曜島のキング」との異名をとった佐藤虎次郎(さとう とらじろう)についても紹介していきます。

サーズデイ・アイランド墓地(googleMapより)
Google マップ

 木曜島※1は、オーストラリアとパプア・ニューギニアの間にあるトレス海峡に浮かぶ小さな島ですが、ここには多数の日本人が葬られた墓地があり、異国の地で命を落とした人々を悼む慰霊塔が建立されています。
※1 この島を「Thursday Island」と名付けた人物については、海洋探検家のジェームズ・クックイギリス海軍士官で「バウンティ号の反乱」事件によりトレス海峡を漂流したウィリアム・ブライ、パプア・ニューギニアオーウェン・スタンレー山脈にその名を残すイギリス海軍士官オーウェン・スタンリーなど諸説ある。近隣には「Wednesday Island(水曜島)」、「Friday Island(金曜島)」と名付けられた島々もあるが、これらはしばしば「ウェンズデー・アイランド」、「フライデー・アイランド」などと原語読みで表記されるのに対して、木曜島については後述のように日本との関係が深かったため、日本国内で発行される地図ではほぼ例外なく日本語で「木曜島」と表記される木曜島、サーズデイ・アイランド (Thursday Island) [Bun45] オーストラリア辞典

 

 

 ここで亡くなられた方々の多くは、和歌山県の紀南地方から木曜島にダイバー(潜水夫)として出稼ぎに行った若者でした。
 串本町が発行する広報紙「広報くしもと 2014年12月号」では、同年10月に田嶋町長を団長とする墓参団が同島を訪問した際の記事を大きく特集していますので、その一部を下記に引用します。

墓参団、木曜島に渡航
木曜島を想う-

串本町と縁のある木曜島を墓参団が訪問

 日本から遠く離れた地。オーストラリア北部のトレス海峡に浮かぶ木曜島には日本人墓地があります。
 明治から昭和初期にかけて、多くの日本人の若者が夢を抱き、この地に渡りました。
 彼らは、当時世界一危険な職業といわれた潜水での白蝶貝※2採取事業に従事し、中には潜水病や遭難などで故郷から遠く離れた地で命を落とす方もおられました。
 10月21日から23日にかけて、串本町出身者も多く眠る木曜島を墓参団が訪問。
 日本人墓地での慰霊式典や地元の方々との交流が行われました。
(中略)
木曜島の概要
 オーストラリア大陸の最北部に位置するヨーク岬。その岬とニューギニア島の間に広がるトレス海峡に浮かぶ木曜島は、面積約3 ・ 5平方km、人口3,000人ほどの島です。
 串本町紀伊大島の面積が約9 ・ 9平方kmであることから、木曜島紀伊大島の半分にも満たない小さな島であることがわかります。
 島自体は小さいですが、周辺諸島の行政や経済の中心となっており、主な産業は漁業と観光です。
(中略)
 また、木曜島の周辺海域は高級ボタンの素材となる白蝶貝の生息地となっており、これを採取するダイバーたちが明治時代より木曜島を拠点とするようになりました。明治から昭和初期にかけて日本人ダイバーも多数居住しており、一時は木曜島に住む日本人は1,000人を越え、全人口の60%を占めていました
(中略)
木曜島と串本町の関係
 明治以降、木曜島を含むトレス海峡地域で白蝶貝の採取に従事した日本人は約7,000人。そのなかで、和歌山県出身者は8割を占めたと言われています。
 多くの日本人が白蝶貝採取において活躍していましたが、明治34年イギリス連邦政府移民制限法(オーストラリアへの移住を規制する法律)を設けたため、船を所有するためには帰化しなければなりませんでした。また、病気などの理由がなければ陸に上がることも出来ず、海上での生活を強いられるなど、日本人渡航者たちは大きな影響を受けることとなりました。
 このような過酷な条件の中、木曜島では潜水病などの理由により、約700人の日本人が命を落とされました。このうち、162名が串本町の出身者であり、127基のお墓が日本人墓地にあることが確認されています
広報くしもと 平成26年度|串本町

※2 白蝶貝は真珠貝の一種であるが、貝殻の内面に光沢のある真珠層が存在することからこれを加工して装飾品として利用された。中でも衣服などに用いられるボタンの原料としては最高級のものと位置づけられており、現在でも高価で取引されている。

www.excy.co.jp

 

 この地にある墓地慰霊塔について、平成3年(1991)8月に同地を訪れた浜本収和歌山県議会議員(当時)は同年9月に開催された定例県議会の一般質問で次のように述べています。

 8月14日正午、照りつける太陽のもとで私は、持参の線香と久原脩司先生-現新宮高校の先生です-から届けられた線香を慰霊塔に供える。白御影石慰霊塔の高さは2メートル50、重量8トン。黒御影石の文字盤がはめ込まれ、その題字は和歌山県知事仮谷志良の達筆で、碑文は次のように記されている。
この慰霊塔は、このトーレス海域において死亡された約700名の日本人の霊を慰めるとともに、彼等の功績を後世に伝えるために、建立されたものである。日本人は1878年から1941年まで、北部オーストラリアの基幹産業であった真珠貝、高瀬貝、ナマコの採取漁業に雇われ、島の人々と共に活躍し、漁場の発見、漁法の改良を通して、この漁業を発展させた。この塔は、和歌山県愛媛県を中心に、彼等の遺族や郷土と、この漁業に従事した人々、この海域の真珠養殖会社等の寄付により、日本人来島100年を記念して、ここに建設した」。
慰霊塔建立の意義はこの碑文に要約されているが、私は、いま少し立ち入って、慰霊塔建立の経過に触れてみることにする。
 この慰霊塔の除幕式は、昭和54年(1979年)8月22日、現地木曜島で行われた。当然のことながら各新聞社は、全国版と和歌山版で大きく報道した。記事の概要は、次のとおりであります。重複をいたしますが、
明治11年島根県人・野波小次郎さんが木曜島渡航したのを皮切りに太平洋戦争まで、アラフラ海を舞台に日本人ダイバーが真珠貝採取に雇われ、危険な潜水作業や重労働に従事した。しかし、明治31年に漁業法が改正され、貝を採取する船の所有は英国人のみに限定された。また排斥運動もあったが、その中で潜水技術の改良や漁業の開拓などを続けた。木曜島は、その漁業の中心地。全盛期の明治31年ごろには日本人漁民は1,000人を超え、島の人口の6割を占めた。日本人町も栄え、太平洋戦争までに、わかっているだけでも延べ7,000人が働いていた。うち5,000人は紀南の人たちで、愛媛県広島県、その他の県を入れて延べ2,000人に達したと言う。しかし、潜水病などの犠牲者も多く、アラフラ海一帯で2,000人近い日本人が死亡。木曜島の墓地には墓碑名もろくに読めない、朽ち果てた約700人の墓があった」。
 昭和50年夏、西南太平洋学術調査隊の特別隊員として島を訪れた、先ほど申し上げた新宮高校の久原教諭は、40日間にわたり、荒れほうだいの約700基の墓を調査。オーストラリアの裁判所の資料から、ここで亡くなった525名の名前を確認したが、墓標で氏名の判読ができたのは170基にすぎなかった。久原教諭は、帰国後、調査報告書をまとめる傍ら、この見捨てられた日本人墓地について、2年有半にわたり、いろいろな会合やダイバー等の出身地を回りながら慰霊碑建設を訴えた。その努力が実を結び、県知事仮谷知事を名誉会長とする慰霊碑建設会が組織され、当時、和歌山県議会下川議長大江敏一副議長もこの会に名を連ねているが、和歌山県広島県愛媛県などの遺族や関係県市町村などから1,000万の募金が集まり、慰霊碑は完成した。
 昭和54年8月22日の除幕式には、オーストラリア・クィーンズランド州知事関係大臣久原教諭を初め、新宮市三輪崎の浜口宇之次郎会長ら、150人が参列した。故早川代議士は式場ですばらしい演説を行ったと聞いてございます。また、当時木曜島で生活されていたただ一人の元ダイバー藤井富太郎さん串本町有田の出身の方です-(筆者注:詳細は別項「木曜島最後の真珠貝ダイバー・藤井富太郎」参照)がこの慰霊碑の建立に献身されたことは、今も島民の記憶に新しいところであります。
(以下略)
平成3年9月 和歌山県議会定例会会議録 第5号(浜本 収議員の質疑及び一般質問) | 和歌山県議会

 

 上記浜本議員の質問は、慰霊塔建立から10年余が経過して塔や墓地全体の荒廃が進んできたことから、県がオーストラリア政府と協議して適切な維持管理体制を整えられたいとの趣旨でしたが、その後、日本政府の現地事務所(在ブリスベン日本国総領事館、同ケアンズ領事事務所)の尽力により、現地の方々と協力して墓地の整備と維持管理が続けられています。
【オセアニア在外公館便り】第16回 ケアンズ領事事務所 - NNA ASIA・オーストラリア・社会

 冒頭に掲げた写真はgoogle mapに投稿された近年のサーズデイ・アイランド墓地の様子ですが、これによれば現在はかなり管理が行き届いているように思われます。


 さて、このように遠く離れた南方の小島に和歌山の若者達がおおぜい押し寄せることとなった背景には、「木曜島のキング」と呼ばれた一人の日本人の活動がありました。
 和歌山県が管理するWebサイト「和歌山県ふるさとアーカイブ」では、「木曜島のキング」こと佐藤虎次郎について次のように紹介しています。

オーストラリア移民 佐藤虎次郎(さとう とらじろう)
1864年(元治元年)~1928年(昭和3年
   古座川町出身 木曜島のキング
 元治元年(1864)、本泉村(現:埼玉県本庄市に生まれる。小学校卒業後、村塾で漢学を習い、その後小学校の助教をする。さらに、渋沢栄一の世話で、横浜の実業家原家に仕えて貿易の修業をしながら商法と英語を学ぶ。青年になるにつれて海外遊学の志を抱き、明治18年(1885)渡米、明治23年(1890)ミシガン州立大学を卒業し、法学士の学位を得て帰国する。
 その後、和歌山県東牟婁郡高池町(現:古座川町の材木商の娘おくと結婚、養子として移り住む。
 明治26年(1893)、外務大臣陸奥宗光の嘱託を受けて、オーストラリアでの移民の実態を調査。帰国後、オーストラリア進出を決意し、町の青年たちを率いてクイーンズランドサースデーアイランド(木曜島)に移り、真珠採取事業造船事業商店経営など幅広く事業を行う。特に、洋服の高級ボタンや工芸品に用いられる白蝶貝の採取事業では、和歌山県紀南地方出身の優秀なダイバーの働きでその実権を握り、「木曜島のキング」と呼ばれるようになる
 しかし、日清戦争後、日本人事業家に対する圧力が強くなり、さらに移民制限法が制定されたため、やむなく帰国する。
 明治36年(1903)、第8回総選挙に群馬県から立候補して当選。また、横浜新聞を創刊するなど幅広い活動を行う。明治43年(1910)、朝鮮半島に渡り農林業を経営。大正15年(1926)、故李王殿下弔問の帰途、金虎門前で凶徒に襲撃され、この傷が原因となり、昭和3年(1928)、64歳で亡くなった。

佐藤 虎次郎 | 和歌山県文化情報アーカイブ

 

 木曜島における真珠貝採取事業の進展と佐藤虎次郎が日本人のダイバーの地位向上(被雇用者から個人事業主へ)に果たした役割について、「和歌山県移民史和歌山県 1957)」では次のように記しています。

第十一章豪州及南方諸邦
第一節豪州移民
一、豪州探貝事業
1 県人の独占舞台・木曜島
真珠貝と本県人
 豪州地区の移民は、主として木曜島を中心とした豪州東北部アラフラ海一帯の真珠採貝の移民がその主なるものである。この方面の移民は出稼移民※3が主体となっている。わが和歌山県と東豪の採貝事業とは古いつながりをもつことは既に地区的考察のところで述べたとおりである。
 明治16年ジョン・ミラーの雇う邦人採貝夫37名が木曜島に渡り、それに続いて神戸方面から49名が渡航しているが、この49名の中に本県人瓜田次郎兵衛上村元吉山口岩吉芝崎伊左衛門春日長助竹田清七等の7人が加っていた。しかしそれ以前に既に本県人の若干のものが同島に居たことも確実となっている。その後引続いて外国人に誘致されて年々その後を追うものも増加し明治24年から同26年末までの三ヶ年間に豪州渡航者の数は441名に達し、それまでに在留していた百七、八十名のものを加えると約620名となるわけである。しかもその多くはわが県人であった。勿論この方面の移民は既に述べたように出稼的な性格のものが多く従って婦女子の同伴者が少なかったことは今も昔も変りはなく一つの地区的な特色となっている。
(中略)
 アラフラ海に産する真珠貝には数種があるが、漁業上から見て最も重要なのは白蝶貝である、白蝶貝は同種族中でも最も大形で、老成したものは穀長30cmに達する。その貝殻は真珠層が厚くて美しく、高級な貝ぼたん、貝細工の材料として優良である。採取した真珠貝の中には時に貴重な真珠玉を産するものもあるが、これはむしろ副産物で、真珠採貝業の主目的はその貝殻にあるのである。
(中略)

明治26年頃の木曜島
 外務省の委嘱によって豪州各地を実査した渡辺勘十郎明治26年9月木曜島に着き「今日20軒の住家30余隻の採貝船、1倶楽部、1病院、5戸の商家、1個の造船所、その他の幾多の営業は三千里外の豪州の一角において、日章旗飜々たる下、以て白人その他諸外国人の間に雄飛するにあらずや」と報じている。(豪州探険報告書) 造船所というのは勿論採貝木造船に関するもので10乃至15屯の小型船製造所である。また1倶楽部というのは同年1月設立の日本人倶楽部のことで当時会員150名、小綺麗な一棟の家屋を有していた。1病院というのはどういう性質のものだか不明だが、1人の邦人の医者がいたに過ぎない(入江氏著、明治南進史稿) それが明治30年12月現在で木曜島邦人1,027名に達しているのである。こうした木曜島採貝移民の発展の跡を考察すると年代的に大体三つの時代的な変遷があったように思われる。その第一期は契約移民で所謂雇用時代であり、第二期が月給制から下請事業の時代、第三期が独立営業時代というこの三期である。もっともこれらの境界に判然とした区別が設けられないことは云うまでもない。
(中略)
 これによっても如何に多数の邦人、ことに本県人が一時に多数木曜島に渡ったか。しかもその大部分のもの(三分の二)和歌山県であって、これに続いて愛知県鹿児島県の順序で他に少数の広島三重神奈川県人があるのみであった。こうした空気のつづく間にこのアラフラ採貝事業に新機軸を開いて、邦人の意気を白人の間に誇示したのは、東牟婁郡高池町(筆者注:現在の古座川町出身の佐藤虎次郎であって、佐藤は豪州アラフラ移民史上に特筆すべき人物である。またこの佐藤の活躍によって邦人の採貝事業は急速なテンポをもって経営上の変化を現わして行ったのである。

3 月給制から下請事業へ
 佐藤虎次郎明治26年6月頃に豪州に渡り、真珠採貝事業の有利なことを認め同年11月一旦郷里に帰って諸般の準備を整えたのである。そこで郷土の壮丁(筆者注:そうてい 成年に達した男子。一人前の働き盛りの男子のこと。)を率いて再び豪州に渡り、木曜島クインスランド州サース・アイランドにその居を構えて採貝事業に乗り出すと共に造船事業商店を営んだのである。彼の高邁なる志気と胆略とは忽ち衆望を収めて在留日本人を牛耳ったばかりでなく、彼は米国ミシガン大学の卒業であり米国法学士の肩書を持っているという、学才もあり語学にも堪能なところから白人同業者でも彼には全く歯が立たないという有様であつた。それだけまた在同胞のためにもよく面倒をみてやった。
(中略)
 佐藤虎次郎の隆盛時代は自己の採貝船も数十隻の多きに及び、1,800人の部下を擁し年々十余万円の純益※4をあげていたといわれている。これに刺激せられて完全雇用の形が変って船舶や諸施設を会社が潜水夫に貸与し、その採取した貝を会社に納めさせ、その収益で諸施設の損料、燃料費及び船員の給料などを潜水夫から支払うという一種の下請事業に変って行った。中には自分で船舶や施設を整えて採貝の権利をもつものがだんだんと増加し、これが漸次独立経営へと移行するようになって行ったのである。
(以下略)
和歌山県移民史 - 国立国会図書館デジタルコレクション

佐藤虎次郎
和歌山県移民史 - 国立国会図書館デジタルコレクション
国立国会図書館デジタルコレクションの閲覧には無料の利用者登録が必要。以下同じ。)

※3 明治以降、海外に職を求めて移住する者が増加するようになったが、明治29年(1896)に制定された「移民保護法」において「労働を目的として外国に渡航する者」の総称として「移民」という用語が定義された。この用語にはいわゆる「一時的移民」と「永住的移民」の両方が含まれていると解釈されており、上記引用文にある「出稼移民」はここでいう「一時的移民」に該当するものである。移民と移住者 - ディスカバー・ニッケイ
※4 右記のWebサイトによると明治34年(1901)と令和元年(2019)の企業物価指数を比較すると約1,490倍になっているとされることから、当時の10万円は現在の約1億5,000万円に該当することになる。昔の「1円」は今のいくら?明治・大正・昭和・現在、貨幣価値(お金の価値)の推移|気になるお金のアレコレ:三菱UFJ信託銀行

 

 このように、木曜島において着々と事業を拡大した虎次郎でしたが、あまりにその権勢が盛んであったためか、現地を政治的に支配していた英国系住民の反発を買い、各種の法改正によって事業の継続が困難になってしまいます。こうした経緯について「和歌山県移民史」は次のように記しています。

 その後佐藤を中心とする日本人の請負業者も増え、移民者の数も激増してその勢力は白人を圧倒するようになった。かてて加えて日清戦争による日本の大勝利がいたく豪州人を刺激し日本人に対する畏怖心と猜疑心とを起さしめ、その結果日本人に対する事業経営上の権利を剥奪し且つその帰化をも拒否するということとなったがため、佐藤は勿論のこと一般の日本移民者が大打撃を被ることなった。ここに彼は大いに感ずるところがあった。このまま放置すると、わが国民は将来南方に進出する道が遮断せられてしまう。この際大いに国論を喚起して豪州政府に迫りかかる非人道的な差別条約を撤廃しめねばならない。これが彼を政治家として起たしめた動機であるといわれている。そこで多年に亘って築き上げた地盤を他人に譲り、明治34年1月帰国の途についた。
和歌山県移民史 - 国立国会図書館デジタルコレクション

 

 明治44年(1911)に創刊された「海外之日本」という雑誌は日本人の海外移住や植民(ここでは必ずしも国家による「植民地」政策を指すものではなく、もともとの居住地を離れて他の地域へ移住・定住して開拓や経済活動に従事することを指し、海外移住のみならず北海道開拓など国内移住も含まれていた)を奨励する目的で発行されたものですが、その第4号明治44年4月1日発行)佐藤虎次郎の伝記が掲載されていますので、このうち木曜島に関する部分を以下に引用します。

(四) 木曜島キング時代
帰朝後彼は紀伊国東牟婁郡高池町の佐藤家を嗣ぐこととなった、やがて彼は時の外務大臣陸奥宗光の知遇を得て、明治二十六年六月、豪州地方巡遊するに当り、移民の実況及び将来移民に適当すべき地方取調の嘱託を受けた、
彼は豪州企業の有望なるを認めて、同年十一月諸般の準備を整え紀州の壮丁を率いて渡航し、クインスランド州サース、アイランド、即ち木曜島に居を定め、主として真珠採取業を経営し、傍ら造船業一般商業を営んだのであるが、彼の偉才と卓見とは着々として実績の上に現れ、事業は好調を以て発展し、彼の志気と膽略とはよく衆望を収め島民の信頼するところとなった、
かくして彼は在留日本人の牛耳を執るばかりでなく、白晳人(筆者注:はくせきじん 皮膚の白い人種(いわゆる「白人」)を「黄色人」に対応して呼称した名称)以外の東洋人南洋人はことごとく悦服して何事をもその裁断を仰ぐという有様であるから、木曜島の王(キング)とうたわれ、一方事業においては数十隻の真珠採収船を有し、千七、八百人の部下を使用して、一時は一か年に十万円の純益を得るに至った程であるが、好事魔多しの譬(たとえ)に洩れず、彼の所属船が旭日旗を翻し數十隻舳艫(じくろ)相銜(あいふく)んで海峡を通過する壮観を羨望せる外人等は、やがて一種の猜忌(さいぎ)を以て之を観測し、彼は「ミカド」の隷属地を作るものである、彼の部下は皆軍人の変装せる者だと奇怪の風評したのである

 

(五) 政界に現れし動機
最初この木曜島へは主に労働者が行ったものである、
その労働者が金儲けをして今度は自分で事業するものが出てきた、
けれども日本人が段々に殖えて、事業を経営する者もようやく多くなり
殊に彼の如き人物も来住して、日本人の勢力は白人を圧するようになった
そこへ日清戦争が起って日本が勝利を得たものであるから、日本を畏怖し次で猜忌するの傾向が生じて、ついに法律を以て日本人の勢力を根底から排除するの手段に出で、
殊に木曜島は豪州のジブラルタルという程の兵要上の位置であるから、そこへ日本人の勢力を扶殖(ふしょく)するは豪州の為に危険であるということで、
その結果は豪州連邦の成立※5となり、日本人の事業経営の権利を剥ぎ、その帰化をも拒絶するようになった、
彼はこれが為に大打撃を蒙りたると、
時あたかも南阿戦争※6の影響で真珠の市価は不況となり、事業用のゴムは反て高価となるという有様で、各方面に於て非常の損害を蒙るの不幸に遭遇したのである、
この損害は単に彼一己の損害でない、日本人全体の損害である、
これが回復は世論を喚起して条約の改正を要求するより外に途はない、と彼はここに政治的運動の必要を感じ、事業を知人に譲り十年の苦心経営を放擲して朝の途に就たのは34年1月であった
(以下略)
海外之日本 1(4) - 国立国会図書館デジタルコレクション

※5 オーストラリアにおける有色人種の排除政策は一般に「白豪主義(はくごうしゅぎ)」と呼ばれるが、その直接の契機となったのは金鉱関連の作業に携わる中国人労働者の急増であり、やがて「カナカ人」と総称される太平洋諸島の住民や日本人などの他の有色人種にも差別が拡大されることとなった。白人以外の移民に対する様々な権利の制限は「中国人移民制限法」や「有色人種制限及び取締法」などの名称で法制化されることとなり、ついには「世界で初めて人種差別を国是とする国家・オーストラリア連邦(引き続きイギリス連邦の一員と位置づけられ、国内自治権保有するものの外交権はイギリスが握っていた)」が成立した。オーストラリア連邦が成立したのは、奇しくも虎次郎が帰国したのと同じ1901年(明治34年)1月であった。オーストラリアの歴史#白豪主義 - Wikipedia

※6 1899~1902年、オランダ系入植者が南アフリカに設立したオレンジ自由国トランスヴァール共和国に対してイギリスが植民地化を目的として軍事侵攻を行った戦争。「ボーア戦争」とも。南アフリカ戦争/ブール戦争/ボーア戦争

 この雑誌は日本人の海外進出を奨励する目的で発行されていたものであるため記述内容に若干の誇張が含まれている可能性はあると思いますが、それでも木曜島において大きな権勢を振るっていた虎次郎の存在が、中国人労働者の排斥から始まった人種差別政策が他の有色人種へも拡大していく引き金のひとつになった可能性は十分にありえることであったと思われます。

 

 帰国後、虎次郎衆議院議員を三期努めますが、三期目に疑獄事件に連座して議員資格を失ってしまいます(疑獄については後に無罪が確定)。その後は上述の「和歌山県ふるさとアーカイブ」にあるように朝鮮半島で農林業を経営していましたが、暴徒の襲撃を受けた傷が原因で昭和3年(1928)に亡くなりました。Wikipediaによればこの襲撃事件は虎次郎が当時の朝鮮総督斎藤実と誤認されたものであったとされており、これが事実であれば実に残念なことであったと言わざるを得ません。
佐藤虎次郎 (群馬県の政治家) #経歴- Wikipedia


 佐藤虎次郎が日本から木曜島への出稼移民の黎明期に活躍した人物であるのに対して、もうひとり、木曜島から大半の日本人が退去した後も同島にとどまり続けた人物がいます。次項ではその人物・藤井富太郎について紹介します。