生石高原の麓から

和歌山の歴史・文化・伝承などを気ままに書き連ねています

「バンクーバー朝日」と旧制和歌山中学(カナダ・バンクーバー、和歌山市)

 「和歌山あれやこれや」のカテゴリーでは、和歌山県内各地に伝わる歴史や伝承などを気ままに紹介していきます。

 

 今回は第二次大戦前にカナダ・バンクーバーで活動していた日系カナダ移民の二世を中心とする野球チーム「バンクーバー朝日」と旧制和歌山中学(現在の和歌山県立桐蔭高等学校との関わりについて紹介します。

バンクーバーの朝日 : 作品情報 - 映画.com

 2014年に「バンクーバーの朝日(主演:妻夫木聡」という映画が公開されました。
 この映画は「フジテレビジョン開局55周年記念作品」として制作されたもので、1914年から1941年にかけてカナダのバンクーバーを拠点として活動した実在の野球チーム「バンクーバー朝日」を描いた作品です。
 この映画について、総合映画情報サイト「映画.com」には次のような解説が掲載されています。

バンクーバーの朝日
     劇場公開日:2014年12月20日
 1914~41年、戦前のカナダで活躍し、2003年にカナダ野球殿堂入りを果たした日系移民の野球チーム「バンクーバー朝日」の実話を、「舟を編む」の石井裕也監督が妻夫木聡を主演に迎えて映画化。
 1900年代初頭、新天地を夢見てカナダへと渡った多くの日本人が、過酷な肉体労働や貧困、差別という厳しい現実に直面する。
 日本人街に誕生した野球チーム「バンクーバー朝日」は、体格で上回る白人チーム相手に負け続け、万年リーグ最下位だった。ある年、キャプテンに就いたジー笠原は、偶然ボールがバットに当たって出塁できたことをきっかけに、バントと盗塁を多用するプレースタイルを思いつく。その大胆な戦法は「頭脳野球」と呼ばれ、同時にフェアプレーの精神でひたむきに戦い抜く彼らの姿は、日系移民たちに勇気や希望をもたらし、白人社会からも賞賛と人気を勝ち取っていくが……。
 「ぼくたちの家族」に次いで石井監督作に主演する妻夫木のほか、亀梨和也勝地涼上地雄輔池松壮亮が「バンクーバー朝日」チームメイトを演じる。その他の共演に高畑充希佐藤浩市ら。脚本は「八日目の蝉」「おおかみこどもの雨と雪」の奥寺佐渡。撮影に「私の男」「そこのみにて光輝く」などで注目される若手・近藤龍人
2014年製作/132分/G/日本
配給:東宝

バンクーバーの朝日 : 作品情報 - 映画.com

 

 一般社団法人日本映画製作者連盟のWebサイト※1によると、この映画の興行収入は14.2億円で同年公開(12月公開のため2015年公開分として集計)映画の第27位にランクされています。
※1 同水準の映画としては23位に「海街diary 16.8億円」、24位に「進撃の巨人 ATTACK ON TITAN エンド オブ ザ ワールド 16.8億円」、30位に「日本のいちばん長い日(2015年公開版)  13.2億円」、31位に「ギラクシー街道 13.2億円」など 過去興行収入上位作品 

 

 この映画を取り上げたライブドアニュースの下記記事では、西山繭子氏の公式ノベライズ※2を踏まえて当時の「バンクーバー朝日」を取り巻く状況について次のようにまとめられています。
※2 『バンクーバーの朝日』 - 西山繭子 著

 時は明治維新から20年が過ぎようとしていた頃、日本は想像以上に貧しく、明日の生活もままならない者も多かった。そこで政府は移民奨励策をとることになる。ちょうど時同じくして好景気に沸いたバンクーバー。夢を追いかけ一旗あげようと者たちは自ずと海を渡り、そこに移り住んだ。このような経緯で日系1世となった彼らの子ども、つまり日系2世たちがこの話の主人公たちだ。
 
 移民奨励策からいくらか年が経ち、バンクーバーにできた日本人街に定住する日系人が増えた頃、「子どもたちの野球クラブをつくろう」との提案がある者からなされた。この時はまだ誰も知る由がないが、このチームは後に伝説として語り継がれる「バンクーバー朝日」となる。

 

■「バンクーバー朝日軍」が伝説として語り継がれるのはなぜ?
 その理由としてまずは、チームとしての強さが挙げられる。大人の白人チームに圧勝することも珍しくなく、何度も上位リーグ優勝を果たすなど、その強さはカナダ全土に知れ渡っていた。
 また、強さだけでなくその「勝ち方」も白人の印象に強く残るものであった。エラーや四死球で出たランナーをバントやエンドランで送り、スクイズで点を取る。また、時にはランナーが意表をついたダブルスチール。そしてそつのない守備。さらにはプレー以外の面でも「大和魂と武士道精神を忘れるな」という教えの元、審判への抗議をせずに正々堂々戦う姿勢。そんな彼らの戦いぶりは日系人のみならず白人をも魅了したのだ。
 それはまさに、それから約80年後に小技を駆使した"スモールベースボール"でWBCを2連覇した野球日本代表のようであった。
 そんな朝日軍は日系社会の誇りであり、絶対優位の白人社会に対等に渡れる唯一の手段でもあった。白人に打ち勝ったことへの喜びから、ときには涙を浮かべる者もいた。

 

■なぜ白人に打ち勝つことはそこまで嬉しいことだったのか?
 白人に打ち勝ったことの喜びで涙……これは今の時代を生きる私たちはピンとこないかもしれない。しかし、当時は今では想像もできないほど日系人は差別と抑圧の日々を過ごしていたのである。
 まず、白人たちは急加速度的に増えていく移民たちに恐怖を抱き、帰化が必要だという条件をつけて職場を制限して締め出しにかかった。だが、白人たちの日系人への差別はそれに留まらず、より過激化することとなる。今日では「バンクーバー排日暴動※3」と呼ばれるデモが起きてしまう。
 そこでは、白人たちが「ここは白人のパラダイスだ」と叫び、日本人街に投石を繰り返した。これに対して日系人は反撃するのだが、それにつけこんだカナダ政府は、過剰なまでに移民制限して事実上、新たな受け入れを拒絶する。バンクーバー朝日の活躍に日系人たちが歓喜する背景には、このような白人による差別と排斥があったのだ。

 

■「バンクーバー朝日軍」が伝説となった悲劇的理由
 そしてバンクーバー朝日が伝説となった理由には、さらに悲劇的な要素も含まれている。5年連続のリーグ優勝※4を果たし、まさに成熟期を迎えた朝日軍だったが、突然の解散を告げられて彼らの生きがいであった野球が奪われてしまう。日本が真珠湾攻撃を仕掛け、カナダにとって日系人は「敵性外人」となったからだ。
 その後、バンクーバー朝日が復活することは2度となかった。
(以下略)

「バンクーバーの朝日」から見る伝説の野球チームの栄光と悲劇 - ライブドアニュース

※3 1907年9月7日、アジア排斥同盟のメンバーによる人種差別的な演説会をきっかけに、群衆がバンクーバーのチャイナタウンと日本人街を襲撃した事件。アジア排斥同盟 #バンクーバー暴動
※4 バンクーバーオッペンハイマー公園に朝日軍の記念碑が建立されたことを報じるバンクーバー新報の記事によれば、同軍はパシフィック・ノースウェスト・リーグを5連覇したとされる 

jbpress.ismedia.jp

 

 上記の2つの引用文とも、バンクーバー朝日」の強さの秘訣としてバントやスクイズ、盗塁などを駆使した「頭脳野球」あるいは「スモールベースボール」という戦略をあげています。Wikipediaによれば、同チームがこの戦略を用いるようになったのは1921年(日本では大正10年)に同チームが日本遠征を行った後のことであるとされています。

 1921年朝日日本運動協会の招待を受けて日本に遠征する。しかしこの時、理由は不明だが朝日はチーム分裂を起こす。二代目の監督であった笠原、主力選手のハリー宮本トム的場ジョージ伊藤らが脱退して別の野球チームを結成する動きがあった。本体のチームは結局4人の白人を加えての遠征となった。遠征における朝日の試合経過や結果はよく判っていないが、当時の雑誌の論評によれば、「守備はともかく打力がさっぱり」と酷評されていた。当時和歌山中と対戦し敗れた記録が残っているようである。また函館太洋倶楽部とは3回戦を行い、1勝2敗の成績を残している。
 遠征から帰国後、朝日はチームを再編成し、ハリー宮崎が監督を務めた。ハリーブリティッシュ・コロンビア州各地の白人チームから有力な選手を引き抜く一方、堅い守りとバントやエンドランなどの緻密な機動力を駆使する「Brain Ball(頭脳野球)と呼ばれた戦術を編み出す。1926年に朝日は前年から加盟していたターミナル・リーグで優勝を果たし、その後1930年と1933年にもリーグ制覇を遂げている。当時ハリーは選手に対して、ラフプレーを禁じ、抗議も一切行わないよう指導した。これは当時の日本人社会と白人社会との間の軋轢を鑑みたものと考えられている。結果、朝日日系人だけでなく、白人も応援するチームになっていった。

バンクーバー朝日 #球団史

 

 バンクーバー朝日のピッチャーとして活躍したテディ・フルモトを父に持つ古本喜庸(テッド・Y・フルモト)氏は、2008年に出版した「バンクーバー朝日軍 伝説の日系人野球チーム その栄光の歴史文芸社 2008.5)」を皮切りとして同チームの物語を複数出版されています※5が、その中で同チームが上記の「頭脳野球」を取り入れるようになったのは、日本遠征の際の旧制和歌山中学との対戦が大きなきっかけになったと記しています。
※5 「バンクーバー朝日軍~伝説の「サムライ野球チーム」その歴史と栄光~」(東峰書房 2009.3)」、漫画版「バンクーバー朝日 漫画:原秀則 小学館ビッグコミックス)」 、文庫「バンクーバー朝日日系人野球チームの奇跡~文芸社文庫 2020.7)」など  Amazon テッド.Y.フルモト


 ここでは文庫版の「バンクーバー朝日日系人野球チームの奇跡~」から旧制和歌山中学との対戦部分の一部を下記に引用します。

 そうなると、朝日の訪日試合の日程はたちまちのうちに決まった。
 日本の野球界もまだ黎明期だったので、どのチームもそれほど先まで試合の予定が入っていたわけではなかったのだ。スケジュールの管理も今ほど厳密ではなかった。
(中略)
 そうして1ヶ月の訪日の間に13試合という、移動日も含めるとかなりハードな、だが密度の高い日程を組むことができた。その中でももっとも注目度が高い試合が和歌山中学野球部との試合だった。
 中学とは言え、今の学制にすれば高校生と同じである。さらにアマチュア野球が全盛であった当時の日本の野球界では、中学野球は現在の高校野球か、それ以上の実力があるとみなされていた。そして、和歌山中学その年の全国大会の優勝校なのである。
(中略)
 試合が行われた10月は南国の和歌山ではまだ暖かい時節だった。バンクーバーから来た朝日にしてみれば、ほとんど夏かと思うような陽気だ。
 この試合で先発のピッチャーにテディを選んだのは馬車松(筆者注:バンクーバー朝日初代監督 宮崎松次郎の通称)だった。テディの球速と球威は白人と比べればやや見劣りはするものの、日本の中学生が相手ならば、その速球は十分通用する。いや通用するどころか、和歌山中学のバッターたちの度肝を抜けるだろうと馬車松は判断したのだ。
 そして、馬車松のその予想はある程度は当たった
 アンパイアの試合開始の合図のあと、おもむろにテディが投げた1球目のストレートは馬車松が思っていたとおり、和歌山中学の1番打者の度肝を抜いた。彼はこれまでこれほど速い球を見たことがなかったのだ。和歌山中学のベンチからも驚きの声が漏れた。
 1球目は驚いているうちに見送りのストライクだった。2球目のストレートには果敢にバットを振ってきたが、呆気なく空振り。そして、3球目はかろうじてバットに当てたものの、振り切ることもできず一塁線を越えるファールとなり、ファーストのジュン伊藤がキャッチしてアウトとなった。
 2番打者もやはり1球目2球目ともにほとんど手が出ない状態だった。ところが、3球目、1アウトで走者がいないというのにいきなりバントをしてきた。いくらテディの球が速いと言っても、全国優勝を果たしたチームの2番打者である。バントならいくらでも好きなところにボールを転がせるだけの技術は持っている。バントしたボールは三塁線上を驚くほどゆっくりと転がっていった。
(中略)
 和歌山中学の選手たちは朝日の選手や馬車松が想像していた以上に冷静でしかも緻密な野球を好んだ。彼らは1番打者に投げたテディの球を、それもたったの3球だけのピッチングを見て、自分たちの実力ではあの速さの球をまともに打つことはできないと判断した。ならば、外野にまで球を打ち返してヒットにすることを狙うのは、単に無駄で無謀なだけだ。
 そこで彼らはボールにはただバットを当てるだけ、という戦法にすぐさま切り替えた。そして、大きい当たりを狙う代わりに、足を使うことにしたのである。
 そのことにジュンが気づいたのは3番打者もバントをした時だった。しかも、この打者もケンのように絶妙なバントを行い、やはり足が速かった。かろうじてこの打者をアウトにできたのはセカンドのケンのフィールディングとファーストのジュンのおかげだった。だが、その代わり、一塁走者は何とその間に三塁にまで進んでいた。
 そして4番打者。
 まさかとは思いながら、それでも警戒していたものの、和歌山中学の4番はさらにその上を行く見事なスクイズバントを決め、三塁走者をホームに還した。見事な1点先取である。
 この試合展開をレフトから見ていたハリー宮本は、三塁走者が素晴らしいスチールでホームベースを奪った時、思わずつぶやいた。
まるで朝日が朝日と戦っているみたいだ。しかも向こうの朝日のほうが僕たちよりも数倍巧い
(中略)
 和歌山中学が巧みなのはバッティングだけではなかった。
 十代だけあって体格はテディよりも小柄なピッチャーは、その体格から想像したとおり、球速も球威もテディの足元にも及ばなかった。そして、何球か投げるのを見る限りではミッキーほど変化球の球種も持っていないようだった。
 だが、コントロールだけはテディどころかミッキーも及ばないほど正確だった。
 しかもキャッチャーが天性の勘を備えているのか、朝日の各バッターの一番嫌いなコースだけを選ぶ絶妙なリードをしてくる。
(中略)
 馬車松率いる朝日は、和歌山中学を相手に0対2で負けた。点差こそ2点でしかなかったが、試合内容を考えれば、朝日の一方的な負けだった。朝日は一打席たりとも朝日らしい攻撃をさせてもらえなかったのだ。
(中略)
 馬車松朝日の選手たちの盛大な見送りを受けてカナダを去ったのは、それから1ヶ月後のことだった。
 バンクーバー朝日を結成し、チームをここまで引っ張ってきた立役者がついに監督を辞める。テディたちオリジナルメンバーには受け入れがたい別れだったが、それはチームがさらに高いステージに行くには必要なことだった。馬車松にしかできないチームでの役割は、和歌山中学に惨敗した時点で終わっていたのである。
 さらに強くなるには、和歌山中学が見せた野球、つまり、朝日も白人チーム相手にやり続けてきた緻密で頭脳的な野球を、さらに極めるしかなかったのだ。
 そして、それから5ヶ月後、朝日は最強のリーグ、ターミナル・リーグに初めて参戦することになった。
(以下略)

 

 旧制和歌山中学は現在の「夏の甲子園全国高等学校野球選手権大会」の前身である「全国中等学校優勝野球大会」の第1回大会(大正4年 1915)に関西(大阪・和歌山・奈良)代表として出場した経験を有する伝統校ですが、バンクーバー朝日が来日した大正10年(1921)と翌11年(1922)には大会初の2連覇を果たし、大正12年(1923)の和歌山県予選では「和歌山中学に負けたチームは特例として敗者復活を認める」という奇妙なルールが制定されるほどその強豪ぶりは群を抜いていたのです。

 和歌山中は1915年(大正4年)の第1回大会から29年(昭和4年)まで14年連続出場を果たし、地元では「和中の前に和中なし、和中の後に和中なし」とまでいわれた。まさに和歌山中(以降、和中と表記)は野球王国の最強チームなのである。
 中等野球創世記において全国的な強豪チームとしても知られた。なかでもひと際輝いたのが1921(大正10年)・22年(大正11年)に達成した史上初の夏連覇である。21年の第7回大会は好投手・北島好次と主砲・井口新次郎(早稲田大~大阪毎日新聞社がチームの二枚看板。特に井口を中心とした強力打線は破壊力抜群で、和歌山大会で海草中(現・向陽)を32-0、和歌山工を39-0で粉砕し、奈良代表と争う紀和大会でも11-1で郡山中(現・郡山)を降して全国大会にコマを進めたのである。
 迎えた本大会でも初戦からその打棒で相手を圧倒した。神戸一中(現・神戸=兵庫)を20-0、釜山商(朝鮮)を21-1、豊国中(現・豊国学園=福岡)を18-2と撃破して待望の決勝戦へ進出。最後の大一番も京都一商(現・西京)相手に16-4という一方的な勝利を収める。なんと4試合で奪った得点は実に75にも達した。これは大会史上チーム最多得点として今でも燦然と輝いている。まさに大暴れでの初優勝だった。
 用具もまだ粗悪で、飛ばない球を使用した投手優位の時代にもかかわらず、計4試合で本塁打3本、三塁打5本、二塁打に至っては11本も記録している。さらにこの大会で和中がマークした打率3割5分8厘は50年(昭和25年)第32回大会で鳴門(徳島)に塗り替えられるまで大会記録となっていた。4試合で喫した失点も7。得失点差68は100年近くを経た現在でも破られていない。
(中略)
 この頃の中等野球は、異常なほどの盛り上がりをみせていた。そのタイミングで大会2連覇したことで、その名を瞬く間に全国に轟かせた。連覇を達成した年の12月には、当時皇太子だった昭和天皇が行啓され、現役生対OBの試合を台覧。皇太子にとって初めての野球観戦だったこともあり、「野球といえば和歌山」を象徴する出来事となったのである。
 このとき、県や市、そして有志らの寄付で、記念の応援スタンドが作られた。バックネット裏からライトスタンドまで長さ約90メートル。今でも桐蔭のグラウンドにはこのスタンドが残っている※6
 思わぬルールが生まれたのはこの翌23年(大正12年)である。和中のあまりの強さを考慮し、県予選では「和歌山中に負けたチームは特例として敗者復活を認める」という特別ルールが設けられたのだ。ただ、このルールの恩恵に与かった海草中が、和中との再戦で善戦したこともあり、この特別規定は1年限りで廃止されてしまったのだった。
(以下略)
夏の甲子園、14年連続出場の大記録を持つ伝統高といえば… | デイリー新潮
※6 このスタンドは「旧制和歌山中学校運動場スタンド(桐蔭高等学校運動場スタンド)」として令和3年2月に国の有形文化財(建造物)に登録された。 

bunka.nii.ac.jp

 

 上記で引用した文庫版「バンクーバーの朝日」ではバンクーバー朝日が0対2で旧制和歌山中学に負けたと記されていますが、他の資料※7によれば実際の得点は「3対5」であったとされており、現実の試合展開は上記引用文の内容とはかなり異なっていたのであろうと思われます※8。
 とはいえ、いずれにせよこの試合でバンクーバー朝日和歌山中学に手痛い敗戦を喫したことは間違いないようです。
※7 【内田雅也の追球】100年の時空を超えて――バンクーバー朝日軍、桐蔭高(旧制和歌山中)と再会へ― スポニチ Sponichi Annex 野球
※8 「バンクーバーの朝日」巻末に「この物語は百年前の事実をもとにしたフィクション」と記されているとおり、同書は史実を正確に記述したものというよりはむしろ当時のバンクーバー朝日に関わった人々の歴史をドラマチックに描いた「物語」であると理解すべきであろう。


 詳細は不明であるとはいえ、上記Wikipediaの記述にあるようにバンクーバー朝日は日本遠征後に体制を刷新し、「Brain Ball(頭脳野球)を駆使して同地最強のリーグ「ターミナル・リーグ」で1926年、1930年、1933年と優勝を果たすのですから、日本遠征が同チームの快進撃に何らかの影響を与えたであろうことは間違いないと思われます。
 
 
 このように「バンクーバー朝日」は徐々に人気・実力を兼ね備えた球団としてカナダの地に定着していったのですが、上述のように太平洋戦争の勃発とともに解散を余儀なくされます。
 同チームのその後について映画「バンクーバーの朝日(2014年12月公開)」に関連して書かれた上記ライブドアニュースの記事には「復活することは2度となかった」と書かれていますが、実はバンクーバーではこの映画公開と同じ2014年に新たなチーム「Asahi」が設立されていました。

伝説の日系人球団再結成、カナダ 94年ぶり来日へ
 第2次世界大戦前にカナダで人気を誇りながら戦争により消滅した伝説の日系人野球チーム「バンクーバー朝日」が、創設100周年となる昨年に現地で復活した。再結成したチームは少年が中心で、3月上旬に来日する。1921年以来94年ぶりとなる日本遠征では親善試合を行い、友好を深め合う。
 朝日軍は日本人移民を中心に14年に結成された。当時、日本人移民は弁護士などの専門職や公職に就けず、主に従事した漁業や林業でも雇用を奪うとして反感を持たれた。だが、差別と排斥の時代でもフェアプレーに徹し、現地の人々の心を捉えたチームは日系社会の誇りとなった。バンクーバー共同)
2015/02/18 09:20   【共同通信
伝説の日系人球団再結成、カナダ 94年ぶり来日へ (Way Back Machineによるアーカイブ)

 

 こうして結成された新生「Asahi」は2015年から2年おきに日本遠征を実施しています。
 そして、1921年の「バンクーバー朝日日本遠征からちょうど百年にあたる2021年には満を持して和歌山を訪れ、旧制和歌山中学の伝統を受け継ぐ和歌山県立桐蔭高校と対戦する計画が立てられていたのです。しかしながら、ちょうど時を同じくして世界中で新型コロナウイルス感染症パンデミックが発生したためこの計画は残念ながらキャンセルとなり、その翌年の2022年になって両国をつなぐオンラインイベントとして装いを改めて実現されることになりました。
 その開催を告知する Asahi Baseball Association 及び日本カナダ商工会議所のリリースには次のように記されています。

 朝日ベースボール・アソシエーション日本カナダ商工会議所共催によりますイベント「カナダと日本を野球でつなぐ」をご案内します。元祖バンクーバー朝日は1921年に日本遠征ツアーを実施しており、日本各地で試合を行いました。その対戦相手のひとつに旧制和歌山中学(現桐蔭高校)がありました。それから100年が経った昨年の3月に朝日軍桐蔭高校を訪れ、記念セレモニーをする予定でしたが、パンデミックのためにキャンセルとなりました。そこで来たる3月26日(土)にオンラインで記念イベントをする運びとなりました。ぜひ皆様にご参加いただければうれしいです。
 バンクーバー朝日は1914年に発足し、1921年秋には念願の日本遠征を実現した。
 横浜港へ船で入港し、二ヶ月間かけて全国をめぐり、大学野球部、社会人野球部に加え、当時全国優勝中学校野球大会を制した旧制和歌山中学校(現在和歌山県立桐蔭高校)とも対戦。このツアーを通じて、朝日軍は日本の野球からブレインボール(頭脳野球)を学んだと思われる。
 このレガシーを継承して2014年にスタートしたAsahi Baseball Associationは2015年から2年おきに少年野球チームの日本遠征を実施して、2021年には100年前に対戦した旧制和歌山中学校(現在桐蔭高校)を訪れて記念式典をする予定だったが、コロナ禍パンデミックで今年に延期になり、今年もできず、来年に先延ばしになったので、先ずはオンラインで朝日軍桐蔭高校をつないで祝賀会を開くことにした。
(以下略)

【オンライン・イベント】バンクーバー朝日軍と和歌山県立桐蔭高校(旧制和歌山中学校)友好100周年記念 - Oops!うっぷす カナダ・バンクーバー情報誌

 

 令和4年(2022)3月27日(日本時間)に開催されたこのオンラインイベントについて、バンクーバーに拠点を置き日系カナダ人を主要な購読者とするニュースサイト「日加トゥデイ」では次のように報じています。

「カナダと日本を野球でつなぐ~100年の時空を超えての交流~」イベントに日本やカナダから約90人
 バンクーバー朝日和歌山県立桐蔭高等学校(以降、「桐蔭」)野球部の友好100周年記念の祝賀式典が3月26日午後6時(太平洋標準時。日本時間では3月27日午前10時)から、オンラインで開催され、約90人が参加した。朝日ベースボール・アソシエーション日本カナダ商工会議所の共催。
 バンクーバー朝日は1914年に発足した野球チーム。当時のバンクーバー日系人だけでなく、日系以外の野球ファンも魅了した。
 1921年秋には日本に遠征。その際に全国中等学校野球大会(現在の「夏の甲子園」、全国高等学校野球選手権大会を制した旧制和歌山県立和歌山中学校(現「桐蔭」)とも対戦した。
 バンクーバー朝日の野球を受け継ごうと、朝日ベースボール・アソシエーションが結成した「Asahi」は、日本遠征も2015年から1年おきに行っていた。特にバンクーバー朝日が遠征した100年後にあたる2021年には、Asahi桐蔭の交流が予定されていた。
 新型コロナウイルス感染拡大で延期となっているため、オンラインでAsahi桐蔭をつないで友好イベントが開催された。
 式典の冒頭で司会のサミー高橋さんが、「100年の時空を超えて、バンクーバー朝日軍と桐蔭高校野球部をつなげた今回のオンライン・イベントは意義深い。このイベントを通じて過去から学び、次世代に伝説の野球チーム、バンクーバー朝日軍の栄誉を語り継いでいきたい」とあいさつした。高橋さんは朝日ベースボール・アソシエーション理事で、日本カナダ商工会議所会長も務めている。
 羽鳥隆バンクーバー日本国総領事は「過去1世紀にわたり、野球への愛情を通じてバンクーバー朝日軍と桐蔭高校、そしてカナダと日本がつながってきたことに感慨を感じる」と語った。
 桐蔭高校硬式野球部部員をはじめ、日本側の参加者の多くは桐蔭高校に集まった。笹井晋吾校長はバンクーバーの参加者らに対して、同校が1897年和歌山中学として創立したこと、文武両道を目指す伝統ある学校であることを紹介した。そして「野球部やOB会のメンバーとともにオンラインでバンクーバーの皆さんと会うことができるのは、100年前の朝日と桐蔭のご縁がきっかけです」と述べた。
 桐蔭の野球部OBで、「スポーツニッポン」で野球記者をして37年という内田雅也さんは、1921年当時の和歌山中学の活躍ぶり、バンクーバー朝日とのつながりをスライドを用いて紹介した。1921年9月に開催された両チームの試合は、5対3で和歌山中学が勝利したという。和歌山中学は1927年には北米に遠征した。
 また、和歌山には外を見て大志を抱いている県民が多いと話し、その一例としてアメリメジャーリーグでも活躍した、元プロ野球選手の吉井理人さんを挙げた。
 マンガ 「バンクーバー朝日軍 A Legend of Samurai Baseball」の原作にもなった「バンクーバー朝日」の著者のテッド・Y・フルモトさんは、本が生まれた経緯を説明した。
 フルモトさんは、朝日軍のピッチャーだった父親から、同チームがアジア人差別で多難な時代に、頭脳野球で勝ち、民族の壁を越えて地元の人たちに愛されていたことを聞いていたという。どう伝えるか考えあぐねていたところ、朝日軍でキャッチャーだったケン沓掛(くつかけ)さんに、チームを後世に伝えてくれと励まされた。そうして書き上げたのが、「バンクーバー朝日」だった。

 

元朝日軍選手のケイ上西さんもビデオメッセージ
 「バンクーバー朝日物語」の著者の後藤紀夫さん、「カナダ移民の父」と呼ばれた和歌山県出身の工野儀兵衛※9のひ孫で国際協力推進協議会の会長を務める高井利夫さん、朝日軍選手だった嶋正一さんの甥の嶋洋文さん、元朝日軍選手で1月17日に100歳の誕生日を迎えたケイ上西さん※10は、ビデオでメッセージを届けた。
 バンクーバー朝日は、2003年にカナダ野球殿堂入りを、続いて2005年にBCスポーツ殿堂入りを果たした。バンクーバー朝日研究者の嶋洋文さんは殿堂メダルを受け取っていない朝日軍の家族を探し出して渡す活動をしている。これまでに20のメダルを届け、残りは5つとなっているという。
 イベントに参加した人たちからは、「歴史の一幕に残るイベントに参加できて感動した」「過去を知り、未来に繋ぐ重要なイベントであった」「時空を超え、海を越え、一体感を野球を通して感じた」などの感想が寄せられた。

www.japancanadatoday.ca

※9 三尾村(現在の美浜町)出身で、バンクーバー渡航して鮭漁などに従事した。工野氏の呼びかけで多くの若者が三尾村からカナダへ渡り、その後裔が現在も多数カナダに在住している。詳細は「煙樹ヶ浜の狐 ~美浜町和田~ 」の「参考」欄を参照されたい。
※10 ケイ上西氏は「バンクーバー朝日」に所属していた選手のうち唯一の存命者であるとされる。私のカナダ物語 - 『朝日軍』選手 ケイ上西(かみにし)さん- - Discover Nikkei

 

 この桐蔭高校とのオンラインイベントバンクーバー側の関係者にも大きな感銘を与えたようで、同年の7月にはバンクーバー朝日が活動拠点としていた「パウエル通りグラウンド(現在はオッペンハイマー公園)」で関係者の追悼慰霊式が開催されたということです。これはオッペンハイマー公園で毎年開催されている「パウエル祭※11」にあわせて開催されたもので、オンラインイベントにも参加したサミー高橋氏、高井利夫氏、ケイ上西氏のほか、新生「Asahi」の選手らが集まって浄土真宗本願寺派・カナダ開教区バンクーバー仏教会の青木龍也僧侶の読経のもと法要が営まれました。
※11 バンクーバーで毎年開催されている日系カナダ人文化の祭典。2022年はコロナ感染症蔓延に伴う中断を経て3年ぶりの開催となった 2022年第46回パウエル祭 | 在バンクーバー日本国総領事館

 この慰霊式について、日本カナダ商工会議所のWebサイトでは次のように報じています。

 2022年7月30日、3年ぶりの開催となったパウエル祭で、浄土真宗本願寺派・カナダ開教区バンクーバー仏教会の青木龍也僧侶が、朝日軍の選手たちに敬意を表し、追悼慰霊式を執行いたしました。
 記念式典は夏の日差しがまだ燦々と差す夕方5時から約20分間くらいに渡りました。真っ赤なバンクーバー朝日のチームシャツを身に纏う現役選手、チーム関係者達が参列、祭りに足を運んだ人々も大勢加わり、厳かに黙祷をしました。バンクーバー仏教会の青木僧侶が戦前活躍された選手たちへの敬意と感謝を込めてお経を上げて下さり、参加者代表の方々が焼香しました。
(中略)
 今年2022年三月には、オンラインでバンクーバー朝日和歌山桐蔭高校(旧制和歌山中学)友好100周年記念イベント朝日ベースボール・アソシエーション日本カナダ商工会議所の共催で行いました。それがきっかけとなり、朝日軍追悼慰霊式を、その延長線上にある元祖朝日軍選手たちへの鎮魂と感謝の意を込め、敬意を表する目的を持ち、多くの関係者達の協力を得て日系コミュニティの伝統であるパウエル祭での実施に至ったのです。
 参列者のなかにはバンクーバー日本領事館羽鳥隆総領事からのメッセージを代読された今村香代領事をはじめ、トミオ福村(朝日ベースボール・アソシエーション副会長)、他沢山の関係者が集まりました。
 強く関心を引いたのには、参列者の中に日系パイオニア移民や旧朝日軍選手の子孫である人たちの顔があったことです。日本からバンクーバーを訪問中であった、工野儀兵衛のひ孫にあたる高井利夫さん、そしてバンクーバー在住の工野儀兵衛のひ孫、ゲリー工野さんは、ひ孫同士の初めての顔合わせも果たしました。
 さらにオリジナルプレーヤーのひ孫、ワイリー・ウオーターズタイ・スガの孫であるリン富田さんんの顔もありました。特に上西功一(ケイ上西)さんは唯一生存されているオリジナルプレーヤーであり、わざわざこの日のために酷暑の中にもかかわらず、カムループスから息子のエド上西さんと駆けつけてくれました。
(中略)
 感極まった式終了後、周りに参列していた白人の女性が“なんて美しい瞬間だったのでしょう。まるで選手がそこにいるようでしたよ“と彼女の横にいる日系女性の肩を軽く抱いている姿が目に付きました。周りを見渡すと、参列者や祭りに来ていた客達の顔がとても穏やかになっていたのも見受けられたのです。魂を鎮められたのは旧朝日軍選手だけではなく、今に生きる現役朝日軍選手や関係者、そして偶然その場に居合わせた多くの参加者達でもあったのでしょう。
 バンクーバー朝日史を振り返ることは、古きをあたため新しきを知る、日本人移民である事を誇りに思う気持ちを分かち合える瞬間に繋がったと信じます。平和な気持ち、明日への希望をもたらしてくれ、バンクーバー朝日の強制解散から約80年後のパウエル通りグラウンドに、旧・新バンクーバー朝日チームやそのサポーターが再び集まれた事に心から感謝し、合掌。

jc-coc.org

 

 現在アメリカではロサンゼルス・エンゼルス大谷翔平選手が世界の野球史に残る驚異的な活躍を見せてくれていますが、今から百年以上も前に同じ北米大陸でカナダ人を感動させていた日系人の野球チームがあったことを、もっと多くの人々に知っていただきたいものです。