生石高原の麓から

和歌山の歴史・文化・伝承などを気ままに書き連ねています

高田曹長之碑(和歌山市直川)

 「和歌山あれやこれや」のカテゴリーでは、和歌山県内各地に伝わる歴史や伝承などを気ままに紹介していきます。

 

 今回は和歌山市直川にある「高田曹長之碑(たかだ そうちょう のひ)」を紹介します。

 

 和歌山市直川地区の「さんさん公園」にある屋根付多目的広場の横に大きな石碑が建てられており、そこには「高田曹長之碑」という文字が刻まれていました。



 その横に立てられた説明版を読むと、これは、大正10年に直川上空を飛んでいた軍の飛行機がエンジン故障により墜落したが、その際、同機を操縦していた高田傳十郎曹長が地上の人々にハンカチを振って危険を知らせつつ、民家を避けるように機を誘導したことから、その勇気ある行為を顕彰するために建立されたものだということでした。

 碑は昭和10年に当時の村長ら有志により建立されたものですが、その後荒廃していたものを、近年になって地区の老人クラブの方々が再びきれいに維持管理するようになり、工業用地開発等に伴って現在地へ移設したのだそうです。

 参考に碑の説明文を書き起こしておきます。

故陸軍曹長高田傳十郎の碑
 大正10年(1921年)4月16日、陸軍第61連隊(和歌山)の合同演習に参加のため僚機5機と共に岐阜県各務ケ原飛行場から和歌山へ飛行途中大阪と和歌山との境界(和泉山系)上空付近において高田曹長機の発動機が故障したが、直川民家集落への墜落を避けつつ、現碑の東南東約200メートルの地点に炎上墜落・殉死したものと言い伝えられる。目撃者によれば高田曹長は、ハンカチを振って危険を知らせつつ民家を避けて墜落したもので、その行為はひとり軍人のみならず我々国民にとっても範とすべき人格者であったと称されている。
 昭和10年(1935年)には当時の村長等の有志により「英霊を慰め勇敢なる飛行士を偲び」墓碑が建立された。
 その後、第二次世界大戦の敗戦を経て碑は荒廃のままとなっていたが、平成10年頃から直川老人クラブ連合会会員の奉仕により維持管理が図られてきた。
 この度、直川工業用地の開発、和歌山北インター設置工事等に伴い碑の移転が必要となり、直川の歴史遺産として関係当局のご支援により約200メートル南から当地に移設したものである。
  平成20年7月吉日
     直川地区連合自治

 

 碑文にある「陸軍第61連隊」とは、現在の和歌山市砂山南3丁目付近に駐屯していた「大日本帝国陸軍歩兵第61連隊」のことを指します。同連隊は明治38年(1905)に編成されて満州に派遣されましたが、明治40年(1907)に帰国して浜寺大阪府の仮兵舎に入った後、明治42年(1909)に和歌山市衛戍地(えいじゅち 陸軍部隊が恒久的に駐屯する場所)としました。同連隊の詳細については、下記リンク先の日高新報の記事に紹介されています。
それぞれの戦争を訪ねて21⑧ 身近な精鋭ロクイチ - 日高新報

 

 ちなみに、和歌山市立博物館の館長(当時)であった寺西貞弘氏は、この歩兵第61連隊が「和歌山ラーメン」のルーツになったのではないかとの説を発表しています(寺西貞弘「和歌山ラーメンの源流(「和歌山市立博物館研究紀要 第26号」和歌山市立博物館 2011)」)
和歌山ラーメンはなぜ車庫前で発祥したのか : おもしゃい和歌山、などの和歌山

 

 

 また、碑文にある「各務ケ原飛行場(かかみがはら ひこうじょう)」とは、現在の岐阜県各務原市にあった軍用の飛行場(陸軍各務原飛行場)を指します。ここは現在も航空自衛隊岐阜基地として運用されていますが、日本国内で現用されているものとしては最も古い飛行場になります。その開設は大正6年(1917)で、翌7年(1918)から航空第二大隊の拠点として運用されましたが、敗戦により昭和20年(1945)から同32年(1957)までは米軍基地として使用されました。その後、同32年から33年(1958)にかけて順次日本に返還されて現在の航空自衛隊岐阜基地になりました。近年では、航空自衛隊の先進技術実証機「X-2」の試験飛行がこの岐阜基地を拠点として実施されたことでも話題となりました。

www.aviationwire.jp

 

 さて、碑文に書かれた高田曹長の墜落事故についてですが、この事故が発生したのは大正10年(1921)というかなり古い時代の話です。

 ライト兄弟による本格的な有人飛行機の初フライトは明治36年(1903)のことでしたが、その後飛行機は急速に発展していきます。特に第一次世界大戦(1914~1918)では飛行機の果たす役割が飛躍的に拡大していきました。これについてWikipediaの「飛行機の歴史」の項では次のように解説しています。

第一次世界大戦 - 軍用機の実用化(1914年 - 1919年)

 第一次世界大戦では、飛行機は最初偵察機として使用された。当初敵の偵察機と遭遇しても「同じパイロット仲間同志」としてハンカチを振り合ったという逸話があるが、すぐにピストルを撃ち合うようになり、武器自体も機関銃へと進化して戦闘機が生まれた。また敵地上空まで飛んでいって爆弾を落とす爆撃機も誕生した。イギリスは世界最初の雷撃機を製造した。一部の機体では骨組みや外板に金属が用いられるようになった。
飛行機の歴史 - Wikipedia

 この記事の中で、初期には偵察機同士が遭遇するとハンカチを振り合って挨拶を交わしたという話が書かれていますが、上記碑文にも高田曹長がハンカチを振って地上の人々に危険を知らせたとの話が出てきます。おそらくこれは偶然ではなく、当時は飛行機乗りの矜持として「騎士道精神」のようなものが伝えられており、それが「ハンカチを振る」という行為に表されていたということなのではないでしょうか。

 

 それはともかく、当時の日本大日本帝国でも飛行機を軍用として用いるようになりました。日本が関わった戦争ではじめて飛行機が使用されたのは大正3年(1914)の「青島の戦い」であったとされますが、これについてWikipediaでは次のように解説しています。

航空戦
 第一次世界大戦に参戦した各国軍隊がそうであったように、日本軍は初めて飛行機を戦闘に投入した。陸軍有川鷹一工兵中佐の元にモ式二型4機、ニューポールNG二型単葉1機、気球1、人員348名を集めて臨時航空隊を編成した。海軍日本海軍初の水上機母艦にあたる若宮を運用して、モーリス・ファルマン式(以下モ式)複葉水上機を投入した。「若宮」の搭載モ式は大型1機と小型1機を常備し、小型2機は分解格納された。海軍航空隊(指揮官山崎太郎中佐)は9月5日に初出撃を行った。
(中略)
 日本軍はドイツ軍偵察機の排除に乗り出したが、9月30日に「若宮」が触雷して日本に帰投し、海軍航空隊は砂浜からの出撃を余儀なくされるなど、完全に水を差された。10月13日、タウベを発見した日本軍は陸軍からニューポールNGモ式海軍からはモ式2機が発進し、空中戦を挑んだ。タウベの機動性は日本軍のモ式を圧倒的に上回っていたが、包囲されかけたため、二時間の空中戦の末に撤退した。これが日本軍初の空中戦となる。
(以下略)
青島の戦い - Wikipedia

 碑文の事故が発生した大正10年(1921)といえば、この青島の戦いからわずか7年後のことですが、この間に旧日本軍はかなりの勢いで飛行機の導入をすすめていたようです。「お話・岐阜の歴史」サークル のWebサイトにある「ふるさと岐阜の歴史をさぐる No.25 各務原飛行場と川崎航空機」という記事によると、この当時の状況は次のようであったとされます。

 大正7年11月に第一次世界大戦終結しましたが、この時の各国の航空兵力は、フランス4500機、イギリス3300機、ドイツ2400機だったと言 われています。その中で航空技術に関してはフランスが最もすぐれていました。わが国の陸軍はフランスの軍用飛行機の導入を決意し、大正8 年1月には60人のフランス空軍将校団を招いて航空技術の導入教育をスタートさせました。その一つ飛行機の操縦訓練は、すでに完成していた各務原飛行場においてフランス製の飛行機を使って行われました。
 一般公開された飛行訓練には、遠くから弁当持参で来る人たちなど、連日黒山の人だかり…。木曽川の渡し舟は乗り込む人が多く、重量オーバーで沈没する舟が出るほどでした。
 そんな中で大正8年(1919)7月陸軍は、川崎造船に対し「サルムソン2A-2型偵察機」の試作命令を出しました。この製作には大変手間取りましたが、3年4ヶ月後の大正11年(1922)ようやく試作機を完成させました。そして試作を担当した兵庫工場から岐阜までは貨車で輸送し、岐阜駅で牛車に積み換えて、狭く曲がりくねった中山道を、各務原飛行場脇の組立工場まで運びました。
 その後、この試作機2機の試験飛行が陸軍各務原飛行場で行われました。試作機の車輪が初めて地面を離れた瞬間、「離れたぞ。見ろ…飛んだ!飛んだ!」と歓喜の叫び声が耳をつんざいたそうです。

 この試作機2機の飛行試験の成績は極めて良好で、陸軍は「乙式1型偵察機」という名称をつけて制式化し、中島飛行機(現在の富士重工業の「甲式4型戦闘機」とともに、陸軍最初の国産制式飛行機になりました。その後、陸軍は乙式1型偵察機の量産を指示、川崎造船各務原の飛行機組立工場を拡張して昭和2年8月までに300機を納入しました。
各務原飛行場と川崎航空機

 上記引用文によれば、「乙式1型偵察機(サルムソン 2)」、「甲式4型戦闘機(ニューポール・ドラージュ NiD 29)」がそれぞれ陸軍初の国産制式飛行機になったとされますが、それぞれの機種の導入経緯をみてみると、陸軍への導入はややサルムソン2の方が早く、大正8年(1919)に輸入機を「サ式二型偵察機」として制式採用していたようです。対してNiD29は最初の生産発注が1920年フランス軍への配備が1922年だったということなので、高田曹長の事故が発生した大正10年(1921)にはまだ正式に日本国内には入っていなかった可能性が高いのではないでしょうか。

ja.wikipedia.org

ja.wikipedia.org

 こうしたことを考えると、高田曹長が事故にあった機体はまだ輸入品であった時代のサルムソン2サ式二型偵察機」だったのではないかと推測します。下記のリンク先の記事によれば、同機のエンジンは信頼性に富んでおり、操縦性も良好であったということですが、墜落事故も何件か発生しているのは間違いようです。
サルムソン2A2乙式一型