生石高原の麓から

和歌山の歴史・文化・伝承などを気ままに書き連ねています

秋葉山古戦場(和歌山市秋葉町)

 「和歌山あれやこれや」のカテゴリーでは、和歌山県内各地に伝わる歴史や伝承などを気ままに紹介していきます。

 

 今回は和歌山市秋葉町の秋葉山(あきばさん)山頂にある「秋葉山古戦場(あきばさん こせんじょう)」を紹介します。


和歌山市小雑賀地区から秋葉山方面を望む(中央部分は和歌川)

 

 秋葉山(あきばさん)については以前「秋葉の大蛇」という項で詳述していますが、もともとは「弥勒寺山(みろくじさん)」と呼ばれていたものが、戦国時代に本願寺紀州御坊がこの地に一時的に移転していたことから「御坊山ごぼうやま)」とも呼ばれるようになりました。江戸時代に秋葉権現が勧請されたことで同社のある一角を「秋葉山」と呼ぶようになりましたが、山全体を指して「秋葉山」という呼称が定着したのは第二次大戦後に「秋葉山公園」が整備されてからの話であったようです。

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 秋葉山(当時の呼称は弥勒寺山)は、戦国時代に全国に名を轟かせた雑賀衆の砦「弥勒寺山城(みろくじさん じょう)」があった場所としてよく知られています。

 天正4年(1576年)、石山本願寺を攻めた織田信長は、本願寺方についた雑賀衆の鉄砲による攻撃で大きな損害を被りました。これに脅威を感じた信長は、翌天正5年(1577年)、雑賀衆の本拠地である紀州へ討伐軍を送り込んだのです(第一次紀州征伐)

 10万人の大軍を擁して攻め込んだ信長軍に対抗する雑賀衆の軍勢はわずかに数千人。数に勝る信長軍は、弥勒寺山に立てこもる雑賀衆に対し、和歌川をはさんだ南岸から騎馬隊を先頭に力まかせに攻めかかります。
 ところが、雑賀孫一率いる雑賀衆はこれを予測してあらかじめ川の中に「馬防柵」という木の柵を設けるとともに、川底におびただしい数のを埋めていたのです。一気に攻め寄せる信長軍ですが、川の中途で馬防柵に行く手を阻まれて立ち往生すると同時に、馬が川底のに足をとられて次から次へと倒れていきます。にもかかわらず後方からは続々と徒歩の兵が押し寄せてくるため、信長軍は川の中で進むことも退くこともできない状態になってしまいました。
 これを待ち構えていた雑賀衆は、複数人が組になって「弾と火薬の装填」、「火縄のセット」、「射撃」、「銃身の清掃」などの作業を分業する戦術を用いて、熟練の射手が山上から息もつかせぬ速度で正確に鉄砲を連射し続けます。反撃しようとしても、川から山の上に向かって撃ち上げる形となる信長軍の銃弾は雑賀衆の兵にまでは届かず、信長軍は事実上何もできないまま次々と倒れていったのです。

 とはいえ、雑賀衆信長軍を一気に撃破するほどの戦力は無いことから、このあと戦況は和歌川をはさんで約一か月にも及ぶ膠着状態に陥ります。予定が狂った信長軍は、「織田軍苦戦」の噂が全国に広まると本願寺などの反織田勢力が反撃に出る恐れがあるため、雑賀衆に対し「本来ならば成敗するところだが、降伏するなら許してやる」という書状を送りつけます。要するに、「『まいりました』と言ったら、今日はこれぐらいにしておいてやる」という「強がり」ですね(笑)。

 



 あまり戦いを長引かせても利益にならないと考えた雑賀衆は、名を捨てて実を取ることを選択し、「降伏」したことにして信長軍を退去させます。 数千人の軍勢で10万人の大軍を追い返した雑賀衆は実質的な勝利であると大喜びしました。

 伝承によれば、このとき雑賀孫一が喜び勇んで踊った姿を今に受け継いでいるのが「雑賀踊(さいかおどり)」であるとされています。この踊りは和歌山では一旦途絶えていたのですが、かつて雑賀衆とは同盟関係にあった湯川衆によって印南町に伝えられていたということで、現在ではこれをもとに復興された「雑賀踊(笹羅踊)」が毎年「和歌祭」で披露されています。
37-7.笹羅踊 | 和歌祭公式サイト