生石高原の麓から

和歌山の歴史・文化・伝承などを気ままに書き連ねています

室町幕府第15代将軍 足利義昭と興国寺

(「紀州 民話の旅」番外編)

 前項、前々項で由良町興国寺を紹介したが、同寺には、天正2年(1574)、室町幕府第15代将軍である足利義昭が移り住んでいる。義昭は、その前年に行われた「槇島城の戦い」で織田信長に敗れたことから、京都を追放されたのである。

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足利義昭像(東京大学史料編纂所蔵)

足利義昭 - Wikipediaja.wikipedia.org

 

 義昭は、枇杷(現在の京都府城陽市河内国若江城(現在の大阪府東大阪市(現在の大阪府堺市と居所を転々とし、天正2年(1574)に興国寺に入った。この当時、紀伊室町幕府管領畠山氏の勢力がまだ残っていた地域であり、中でもその重臣である湯川直春日高郡から牟婁郡にかけての広い地域で強大な勢力を有していたことから、湯川氏の庇護を求めたものと考えられている。義昭は、興国寺から泊城(現在の和歌山県田辺市芳養)に移った後、天正4年(1576)に毛利輝元を頼って備後国(現在の広島県福山市に移るまで2年弱の間、紀伊に滞在することとなる。

 

 道成寺御坊市に伝わる道成寺縁起絵巻(国指定重要文化財の奥書によれば、義昭は興国寺滞在中に同絵巻を見たいと所望し、当時の道成寺の住職が興国寺に赴いて絵巻を披露した。この際、義昭は「日本無双の縁起なり」と絶賛し、巻末に花押(署名)を記すとともに、住職に太刀を褒美として授けたとされる。しかしながら、その太刀については、平成29年(2017)に和歌山県立博物館が鑑定を行ったところ、「来國光(らいくにみつ)」との銘があるものの偽作であったとの結論が出された。これについて、地元紙「わかやま新報」のニュースサイト(2017年10月21日掲載)では次のような記事が掲載されていたので紹介する。

将軍義昭の刀は偽物 道成寺伝来の来國光
         17年10月21日 18時59分[文化・暮らし]
 和歌山県日高川町鐘巻の道成寺小野俊成住職)が、約450年前に室町幕府最後の将軍足利義昭から贈られたとして保管してきた名刀「来國光(らいくにみつ)」が偽物であることが分かった。現在開催中の県立博物館の特別展「道成寺日高川」に合わせて行った鑑定で判明。小野住職は「残念ではあるが、放浪中の将軍の持ち物としてはつじつまが合い、道成寺の歴史がまた一つ解明されたと思う。今後も大切にしていきたい」と話している。

 足利義昭は将軍家の権力が弱まった室町時代末期の1568年、織田信長を頼って第15代将軍に就任したが、後に信長と対立。上杉謙信毛利輝元武田信玄戦国大名に呼び掛け「信長包囲網」を形成するなどして対抗したが、73年に降伏し、京都を追放された。

 その後、将軍家の力が及ぶ地域を放浪。同年12月、室町幕府管領畠山氏の勢力が残っていた紀伊国興国寺由良町を訪れた。道成寺絵巻巻末の記述によると、その際、義昭道成寺縁起絵巻を見たいと所望し、当時の道成寺の住職が興国寺に赴き、絵巻を披露。義昭は「日本に二つとない立派な縁起」と絶賛し、巻末に花押を記すとともに、住職に太刀を褒美として授けた。

 太刀には、鎌倉時代末期から南北朝時代の刀工で作品の多くが国宝や重要文化財に指定されている「来國光」の銘が入っており、道成寺では杯とともに大切に保管してきた。

 過去に2回行った鑑定では「刃の反り具合が不自然」という指摘はあったが、偽物とは分からなかった。今回、県立博物館が鑑定したところ、「来國光」の銘の字体が他の作品とは異なっていることなどが分かり、偽物と結論づけられた

 小野住職は「刀をもらったあと、寺の者が手間をかけて偽物とすり替えたとは考えにくく、将軍からもらった時にすでに偽物だったのでしょう」と話し、「当時の将軍が偽物と知らずに持っていたとも考えにくい。侍に渡すと偽物だと分かるので、刀に詳しくない僧侶に渡したのではないか」と分析。「約450年間、絵巻とともに大切に保管してきた刀が偽物だと判明し残念。ただ、放浪中の将軍が僧侶にくれたものと思えばふに落ち、将軍からもらったという信ぴょう性が高くなったと思います」と話し、今後も寺で大切に保管していくという。

 刀は県立博物館の特別展が開催されている11月26日まで、同寺の宝仏殿で展示している。

 

 足利義昭は、紀伊滞在中の天正3年(1575年)に武田勝頼北条氏政上杉謙信三者に対して和睦をするよう呼びかけて織田信長包囲網を形成しようと試みた(甲相越三和)。結果的に北条・上杉の不和により甲相越の三者同盟は実現しなかったものの、武田と上杉はこの調停を一つのきっかけとして和睦に応じるなど、この時点でも義昭は将軍としての一定の権威を維持していたと考えられる信長が政権を掌握した後も義昭征夷大将軍の身分を失っていなかったとされる)

 

 天正4年(1576)、義昭備後国に移る。これは、紀伊湯川氏のもとでは幕府の再興は困難と見た義昭が、中国地方の実力者・毛利輝元の支援を求めたためである。輝元義昭から事前に相談を受けていなかったとされており、その対応に苦慮したものの、最終的には義昭を庇護し、「鞆幕府」とも称される組織体制が構築された(後に津之郷(現在の広島県福山市)へ移転)

 

 本能寺の変織田信長が討たれた後、山崎の戦い賤ヶ岳の戦いを経て関白太政大臣となった羽柴秀吉は、天正15年(1587)、九州平定に向かう途中で津之郷を訪れ、義昭と対面した。その年の秋に念願の京都帰還を果たした義昭は、翌天正16年(1588)、秀吉に従って参内し、将軍職を辞したのち受戒し、名を昌山道休)と改め、朝廷から三后の称号(待遇)を受けた。

 

 その後、義昭秀吉と急速に接近したとみえ、山城国槇島織田信長との決戦の地であり、義昭には因縁深い場所である)1万石の領地を与えられ、大名以上の待遇を受けたほか、文禄・慶長の役には秀吉のたっての要請により由緒ある奉公衆などの名家による軍勢200人を従えて肥前国名護屋まで参陣するなど、良好な関係を築いたとされる。また、晩年には秀吉の御伽衆に加えられ、太閤の良き話相手であったとも伝えられている。

慶長2年(1597)、大坂で病没。享年61(満59歳没)であった。