その昔、五右衛門という大男がいた。大泥棒の石川五右衛門と同名だけあってか、めっぽう負けん気が強く、イノシシを射つのが三度の飯よりも大好き。あるとき、山ヘイノシシ狩りに行ったが、その日に限って一頭も仕止めることができない。イライラしながら山を降りる途中、木の上で笑い声がした。
ムカッときた五右衛門、その木をめがけてズドンと一発、鉄砲を見舞い、気にもかけずに帰った。その夜ふけ、表の戸をたたき
「五右衛門、足の傷を治せ」
という声がするので
「よし、治してやろう」
と戸をあけてみたが、誰もいない。
こんなことがいく晩もくり返されているうちに、五右衛門は足が痛みだし、白浜の温泉へ湯治に出かけた。ある日、その宿に一人の坊さんがきた。聞くと「由良で、五右衛門という男に撃たれた」という。それで、さすがの五右衛門も気味が悪くなり、逃げ帰ったとか。
- この物語は、荊木淳己著「日本の民話 -紀の国篇-(燃焼社 1993)」に「ケガをした天狗」という題名で収載されている。ここでは、猟師の男の名前は五左衛門とされており、上記の五右衛門とは異なっている。
ケガをした天狗(由良町の民話)
なぜか知らんけど、由良町の興国寺と天狗とのつながりはかなり深いようで、そのせいか、今でもここに大きな天狗の面が祀られてるで。
これも、天狗にかかわりのある話やけど、むかし、むかしのことに、この近くに五左衛門という猟師が住んでたんやと。この男、なかなか腕前のええ鉄砲打ちで、天気の日はここら一帯を駆けめぐって猟をしていたそうな。
ある日のことに、興国寺の奥山でイノシシの足跡を見つけたんで、夢中になってそれをたどっていくうちに、とうとう森深く迷いこんでしまい、方角も分からんよになってしもうた。
五左衛門は永年にわたって猟師をしているくらいで、格別あわてることもなく、そこらの大きな木の根元へ腰を下ろして一服つけていると、その木の上の方で「カラカラ・・・」という笑い声が聞こえてきたんやと。
(ハハーン。これは天狗のしわざに違いないぞ。人をばアホにしくさって・・・。よ~し、一発お見舞いしちゃるか)
腹立ちまぎれに、五左衛門はそ~っと鉄砲にタマをこめると、いきなり木の茂みをめがけて、ダ~ンとぶっ放した。
さてその晩のことや。五左衛門が昼間の疲れでぐっすりと眠りこんでいると、表の戸をドンドンと叩く者がいてな
「ヤイ、五左衛門。昼間はようもワシの足を撃ってくれたな。この足を治せ、さっさと起きてきてこの足を治せ・・・」
とわめきちらしてるんやしょ。
これには五左衛門もたまげて、フトンの中でガタガタ震えてた。それからあと、五左衛門は持病の神経痛がでて、ふしぶしが痛んでどうしようもないので、湯崎(いまの白浜町)へ湯治に出かけたんやしょ。
四、五日ほども滞在して、大分痛みも治まったので、明日あたりは由良へ戻ろか・・・と考えながら夜もおそくになってから温泉につかっていると、どうやら先客があったらしく、それもお坊さんらしいんや。そこで五左衛門が声をかけたんやと。
「いいお湯でございますな。してどちらからお越しで・・・」すると、そのお坊さんはにわかに立上がって、白い布でグルグル巻きにした足をつき出し
「五左衛門、ようもワシの足を撃ってくれたな、さっ、この足冶せ!」
とわめき立てたんで、もうびっくり仰天、裸のまま由良まで逃げ戻ったんやとい。
- この物語に類似した話が、大阪府豊能郡豊能町に伝わっている。大阪日日新聞の「亀井澄夫の妖怪不思議千一夜」という連載で紹介されているので、これを引用する。なお、ここでは主人公の名前は西条流鉄砲術の名人・源右衛門となっており、湯治に行くのは有馬温泉(兵庫県)である。
鉄砲名人、源右衛門物語
摂津高槻藩藩主、永井直期(なおざね)(1703~65)が新式の鉄砲を手に入れ、西条流鉄砲術の名人、源右衛門に100羽のスズメを打ち落とすという試合を申し入れた。直期の鉄砲はさすがに新式だけあって、あっと言う間にスズメを落としたが、源右衛門のスズメは100羽すべて左目を打ち抜かれていた。これには直期も負けを認め、源右衛門に武術と知略にたけ、知恵を超える人という意味で「越智」と名付け、以降、越智源右衛門と名乗らせることにした。
そんなある日、高山村では悪い天狗(てんぐ)が出没し、田畑は荒らすは家畜はさらうは、ひどい事件を頻繁に起こしていた。そこで村人は、源右衛門に天狗退治をお願いした。源右衛門はてんぐ退治用に小判をつぶして黄金の玉を一つ作り、一発で仕留めるつもりで出かけた。
天狗は鉄砲名人がやって来ることを知って、ハトに化け、岩陰から「源右衛門!」と声をかける。「どこにおるか」ときょろきょろする源右衛門に「松の木のてっぺんを見ろ!」と言い、顔を上げたところをのど笛にかみつこうと狙っている。
ところが、源右衛門は上を見ると見せかけて、いきなり下のハトをズドンと撃った。天狗は正体を現し、血まみれになりながらころげまわって逃げ出した。しかし、源右衛門も天狗の妖気に当たったのか気分が悪くなり、その日から寝込んでしまった。村人たちは源右衛門に感謝して、お金を出し合いカゴに乗せて有馬温泉に湯治に行かせた。
源右衛門が温泉につかっていると、大きな男が入ってくる気配。振り向くと、なんと手傷を負った天狗である。あわてた天狗は一目散に逃げ出した。しかし、源右衛門もそれ以降、病気が回復せずに亡くなってしまった。今も豊能町には天狗岩という地名が残る。
豊能町高山 [亀井澄夫の妖怪不思議千一夜] - 大阪日日新聞
この物語については、株式会社阪田新聞舗が運営するWebサイト「はろーあさひ」の「民話 再話」というコーナーで「天狗と源右衛」という題名でさらに詳しい内容が紹介されている。これによれば、源右衛門が直期にスズメの早撃ちで敗れたのは、食べられる身を残すために胴ではなく目を狙って撃つべしとの教えを忠実に守ったからであるとする。
民話 再話 天狗と源右衛 | はろーあさひ
- 「天狗」は、日本の民間信仰にあらわれる神や妖怪の類で、一般的に山伏の服装で赤ら顔で鼻が高く、翼があり空中を飛翔するとされる。興国寺と天狗との関係については、別項「天狗の建てた寺」で詳述している。
- 伊藤信博氏(現:椙山女学園大学教授)の「天狗のイメージ生成について -十二世紀後半までを中心に-(名古屋大学大学院国際言語文化研究科「言語文化論集 29巻1号)」によると、天狗はもともと中国において流星や彗星の姿をした「物の怪(もののけ)」とされていたものが我が国に伝来し、「今昔物語集」が成立した12世紀頃に「鳶の羽根や嘴を持った僧形の怪物」で「反仏教の代表」としての「天狗」のイメージが明確になってきたとする。
天狗は元来中国の物の怪で、流星または彗星の尾の流れる様子から来ている。中国の『山海経 3』「西山経」三巻、章莪山の条には、「(前略)有獣焉、其状如狸而白首、名日天狗、其音如榴榴、可以御凶。」とその様子が記されている。流星または彗星の尾が天狗と例えられたのである。
(略)
日本においての流星の初見は『日本書紀』の舒明天皇六年(634)八月で、舒明天皇九年(637)二月二十三日戊寅は、「大きなる星東より西に流る。便ち音有て、雷に似たり。時の人の曰く、流星の音なりといふ。亦は曰く、地雷なりといふ。反是に、僧旻法師が曰く、流星に非ず。是天狗なり。其の吠ゆる声雷に似たらくのみ。」と記し、流星を天狗と表現している。
(略)
したがって、流星が災厄を象徴したことから、天狗と記された「モノ」自体も災厄を 象徴する結果となったのであろう。そこで、天空を飛ぶ異常なもので、災をもたらすものとして先ず後の天狗のイメージ形成を捉えることができる。
(略)
一方、五来重氏を筆頭に烏天狗の原型は「迦桜羅(かるら)」像、鼻が高い天狗の原型は、舞楽面の一つである「酔胡(すいこ)面」や伎楽面の「治道(ちどう)面」を考える先行研究者は多い。「迦桜羅」はサンスクリット名「Garuda」で、インド神話では鳥類の王とされる。この迦楼羅(ガ ルダ)が仏教に取り入れられ、梵天、帝釈天などの「天」、「竜」、「夜叉」、「乾闥婆(けんだつば)」、「阿修羅」、「緊那羅(きんなら)」、「摩睺羅伽(まごらが)」と共に八部衆となり、仏教を守る仏法に帰依して護法神となったのである。また、密教では、風雨を沈静化させるための修法である迦楼羅法の本尊でもある。
(略)
このように、十一世紀末には新たに、仏法への阻害もはっきり記され、天狗は空を飛ぶ羽を持つ「物の怪」と具体化してきており、疾病を自由に操る霊力を持つ存在となっている。そして、やがて仏教と強く敵対するものとして、描かれるようになるのである。
(略)
前章では、護法童子や金剛童子として三法を守護する神霊や鬼神を意味し、また高僧が使役する神霊・鬼神であった「モノ・天狗」が、人を惑わしたり、病を引き起こしたりする性格など「物の怪」の性格を付加されてきたと分析した。また、羽の生えた天狗の原像も現れていることを示した。
そして、この章では、鳶の羽根や嘴を持った僧形の怪物が天狗であると明らかに表現され始めたのが十二世紀初頭から中頃であると示し、新たに、仏法に敵対し、調伏される天狗が現れたのを『今昔物語集』を中心に考察した。同時に天狗が「カミ・モノ」の古代的思想も受け継いでいることも考察した。また、この説話集では仏法に敵対する天狗がはっきり現れてきており、仏法に調伏され、法力の強さがより堅固に強調される説話が多いとも指摘した。そして、僧が己の呪力を強く慢心し天狗となるような新たな思想である天狗道の萌芽も垣間見たのである。
その中で、政治的に抹殺され、非業の最後を遂げた特定の人間の霊が人や社会に祟り、災禍をもたらすという御霊信仰の図式、つまり、死んだ人間が神に生まれ変わる「人(霊)から神へ」の信仰から、呪力の高い高僧の霊が、神ではなく、天狗に生まれ変わるという逆の「人(霊)から魔」への図式まで生まれていることを知った。このような性格の付与には、御霊信仰との関係で、菅原道真を祀る北野神社での天台僧の活発な宗教活動の動きがあり、「御霊」と「物の怪・天狗」の結びつきと共に将来の研究視野に入れる必要もあるであろう。
- 由良町の伝承では天狗は僧の姿で五右衛門(五左衛門)の前に現れており、また豊能町の伝承では天狗はハトの姿に化けている。これは、上記伊藤氏の論文に「僧が己の呪力を強く慢心し天狗となる」、「鳶(とび、とんび)の羽根や嘴を持った僧形の怪物が天狗である」とあることと符合しており、12世紀以降に成立した天狗のイメージを保持しているものと考えることができる。
- 石川五右衛門(いしかわ ごえもん 生年不詳 - 1594)は、安土桃山時代の盗賊の首領。一般的には、浜松(静岡県)の生まれで、初め真田八郎といい、文禄3年(1594)37歳のとき捕らえられ、京都・三条河原で子どもとともに釜茹(かまゆで)の刑に処せられたとされる。盗賊という罪状に対して釜茹でという刑罰が非常に重かったことから、江戸時代には「伝説の大泥棒」として浄瑠璃や歌舞伎などの演題として広く取り上げられるようになってきた。この過程を通じて、「義賊」としてのイメージや、「時の権力者である秀吉の命を狙った」などの脚色が加えられてきたものと考えられている。
- 巷間伝えられるイメージの大半が創作であるため、石川五右衛門の実在自体が疑われることもある。しかしながら、江戸時代初期の貿易商ベルナルディーノ・デ・アビラ・ヒロンが記した「日本王国記」に「都を荒らしまわる集団の頭目ら15人が捕らえられ三条河原で生きたまま油で煮られた」との記述があり、ここにイエズス会の宣教師ペドロ・モレホンが「この事件は1594年の夏で、油で煮られたのは Ixicava goyemon である」との注釈をつけており、盗賊団の頭目である石川五右衛門という人物が釜茹でにされたという出来事は事実であろうと考えられている。(Wikipedia 「石川五右衛門」の項目より)
- 江戸時代中期に書かれた読本「絵本太閤記」には、石川五右衛門が根来寺(岩出市)に居たとの話が書かれている。これについては、別項「根来寺の五右衛門」において詳述している。
根来寺の五右衛門 ~岩出町(現岩出市)根来~ - 生石高原の麓から
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本ページの内容は、昭和57年に和歌山県が発行した「紀州 民話の旅」を復刻し、必要に応じ注釈(●印)を加えたものです。注釈のない場合でも、道路改修や施設整備等により記載内容が現状と大きく異なっている場合がありますので、ご注意ください。