生石高原の麓から

和歌山の歴史・文化・伝承などを気ままに書き連ねています

日本本土に初めて鉄砲をもたらした砲術家・津田監物算長(岩出市、和歌山市)

 「和歌山あれやこれや」のカテゴリーでは、和歌山県内各地に伝わる歴史や伝承などを気ままに紹介していきます。

 

 今回は、戦国時代に種子島へ伝来した火縄銃をいち早く入手して根来(現在の岩出市に持ち帰り、鍛冶職人にその複製品を作らせることで我が国の鉄砲生産の端緒を開くとともに、「津田流砲術」の始祖として大量の鉄砲を装備した屈強な僧兵集団を率いて活躍したと伝えられる津田監物算長(つだ けんもつ かずなが)を紹介します。


国宝 根来寺大塔

 根来寺(ねごろじ/ねごろでら)岩出市にある新義真言宗(しんぎ しんごんしゅう)総本山の寺院で、正式な名称は「一乗山 大伝法院 根来寺」です。
 この寺院は、平安時代後期に金剛峯寺座主(ざす)となって高野山全体を統轄する地位についた覚鑁(かくばん)が、山内の衆徒と対立して山を下り、弘田荘根来(現在の岩出市根来)にあった豊福寺(ぶふくじ)に拠点を移したことが始まりとされています。後に覚鑁の教えを受け継いだ頼瑜(らいゆ)が「新義真言宗」として確立した根来寺(当時の名称は大伝法院)の教義はみるみるうちに広まり、室町時代末期の最盛期には坊舎450(一説には2,700とも)を数える一大宗教都市を形成し、「根来衆」と呼ばれる大規模な僧兵軍団を擁していたと伝えられます。
根来寺 - Wikipedia


 この根来寺の隆盛は鉄砲の伝来とも深い関係を有しており、このことについて和歌山市出身の作家・神坂次郎氏は「紀州歴史散歩 古熊野の道を往く創元社 1985)」において次のように記しています。

14 鉄砲で興り鉄砲で滅んだ根来寺
 根来といえば、朱色の下から黒うるしがうかびあがっている独特の美しさをもった根来塗※1や、根来鉄砲、そして戦国の野を駆けめぐった勇猛な根来衆を思いだす。
 中世、大伝法院根来寺と改められたのは昭和21年)は寺領72万石、堂塔2,700、僧坊4,500、行人(僧兵)3万、それに本物の僧である学侶と雑人までふくめると数万におよぶという巨大な寺院であった。この一大宗教都市ともいう大世帯の商品経済をまかなうために、東・西の坂本に商人や工人たちの住居が軒をつらね、繁栄をきわめていたという。
 当時の根来は、開祖、興教大師(筆者注:こうぎょうだいし 覚鑁の死後に贈られた諡号(しごう、おくりな))の偉大な思想を伝える新義真言宗の寺としてではなく、僧兵たちの剽悍さによって海外にまでその名を知られていた。中国の史書(みん)に、
<ネゴロの僧、常に武器を帯び、人を殺すを事とす>
と書かれ、そのころ日本にきていた宣教師ガスパル・ヴィレラは故国ポルトガルへの報告書のなかで、
<ネンゴロ(根来)のポンズ(坊主)は>
と溜息する。
<かれらは死を恐れざる甚しからざる人にして、その職業は戦争である。諸国大名は金銭をもって彼らを傭入れる。かれらは日頃から鉄砲および弓の試射をなし、武技を重んじ腰に高価な剣をおびる。この剣はヨロイを着た人を斬ること鋭利な庖丁をもって大根を切るごとしである>
 ヴィレラのこの書簡の文章は、根来衆の表情をよくうかびあがらせている。
 天文12年(1543)ポルトガル人が種ガ島に伝えた二挺の鉄砲のうち、一挺をゆずりうけた根来は、天下にさきがけて最新火器、鉄砲の一大生産地となり、この鉄砲で装備した天下無双の根来軍団をつくりあげた。
 根来はまた銭(ぜに)経済に鋭敏であった。諸国大名から買われ精妙な射撃術と鉄砲をもって富を得、戦闘のないときは、
<根来法師たちは鉄砲を教え、かつ(鉄砲を)売った>
と、史書は記す。
 こうして諸国を歩きまわった行人根来衆は、戦さと鉄砲を売ることによって得た金で自分たちも豊富に鉄砲をもち、おびただしい火薬を貯えていった。しかし、彼らが傭兵集団となり死の商人となって売り歩いた鉄砲が、やがて、意外な結末を根来にもたらすことになる。
 この鉄砲のために、日本六十余州碁石でもぶち撒いたように幡居(ばんきょ)していた土豪5、6千が巨大な経済力をもった大名たちによって淘汰され、天下統一織田豊臣氏を成立させてしまったのである。そしてやがて、根来自身もまたマンモス象の牙のように、自分の生産したその“鉄砲”によって我とわが身をほろぼしていく。
 天正13年(1585)3月、秀吉の紀州遠征軍の放った火に根来寺炎上。大伽藍を中心に粉河までの約七キロにわたって威容をほこっていた2,700の堂塔も灰燼に帰した。
 いまも当時の秀吉軍鉄砲の弾痕が、大塔(国宝)に残っている。

大塔に残された弾痕(写真は筆者)

※1 根来寺の工房で作られてきた漆器。表面は朱塗りで、使い込んでいくうちに下地の黒漆が模様のように現れてくるのが特徴。堅牢であることから社寺や上流階級の日常生活用具として多く用いられた。
復活した朱塗りの漆器「根来」 | May 2022 | Highlighting Japan

 

 根来寺に大きな繁栄をもたらした鉄砲を同寺に伝えたのが津田監物算長でした。この人物について、渡邉一郎氏は「日本大百科全書(ニッポニカ)小学館)」において次のように解説しており、南北朝時代の忠臣として名高い楠木正成や、その子孫にあたる河内国交野郡津田城主・津田周防守正信らの後裔であるとしています。

津田流
 近世砲術の一流派。
 流祖は紀州那賀郡小倉の人、津田監物算長(?―1567)。俗に本邦砲術の開基という。
 算長楠正成4代の孫で河内国交野郡津田の城主津田周防守正信の後裔といい、根来寺の衆徒行人(ぎょうにん)方の頭役四坊※2の一つ、杉之坊(すぎのぼう)の家元として、僧兵らの指導的立場にあった。
 同家譜などの伝えるところによれば、彼は中国や琉球方面の密貿易にも活躍したとみられ、享禄年間(1528~32)中国を目ざしての航行中に遭難し、種子島に漂着、この地に滞留すること10余年、1543年(天文12)ポルトガル船の漂着鉄砲の伝来という事件に巡り会い、蛮商 皿伊旦崙(ベイタロ)(屏太郎)の指導で、火縄銃の使用法および製造法の奥秘を究めたという。
 翌44年この鉄砲を携行して帰国、ただちに杉之坊に入り、門前町に住む堺出身の刀工芝辻清右衛門(しばつじ せいえもん)を督励して、その模作に成功し、行人衆の間にその使用法の普及・研究を図った。
 こうして永禄年間(1558~70)に入ると、わが国最初の砲術書がつくられるようになり、算長の名は京都にも聞こえ、将軍足利義晴に召し出されて鉄砲術を披露し、従五位下 小監物(こけんもつ)※3に叙せられる栄誉に浴した。
 算長に2子あり、長子を算正(かずまさ)、次子を明算(めいさん)(算長の弟とする説もある)といい、いずれも父の芸を継いで鉄砲術に優れた。なかでも明算は鉄砲の道に精進してついに玄妙に達し、後年自由斎と号した。彼はまた兄の嫡子重長(しげなが)の成長を待ってその奥儀を伝えたが、この門流を自由斎流という。
[渡邉一郎]

津田流(つだりゅう)とは? 意味や使い方 - コトバンク

※2 高野・根来では仏教の研究を専らとする僧衆を「学侶方」と呼ぶのに対して、事務や雑役等の役割を担う僧衆を「行人方」と呼び、「僧兵」もこの区分に含まれる。「頭役四坊」とは、根来寺において行人方のトップに位置する子院(傘下の寺院)のことで、杉之坊・岩室坊・閼伽井坊・泉識坊の四坊がこれにあたる。
※3 「監物」は、律令制のもとで中務省(なかつかさしょう)に属した役職で、諸官庁の倉庫の出入庫などを監督する立場の役人を指す。律令時代にはその地位によって大監物、中監物、少監物、監物主典という名称が与えられていたが、津田算長に与えられ、その通称の由来となった「小監物」はこれらとは異なり律令時代の「監物」職にちなんだ名誉称号であったと考えられる

 

 初期の火縄銃が別名「種子島(たねがしま)」とも呼ばれていたとおり、我が国に最初に鉄砲(火縄銃)が伝来したのは種子島であり、それは、天文12年(1543)のことであったとされています※4種子島北部に所在する西之表(にしのおもて)が発行している広報紙「西之表 市政の窓」の第330号(平成2年3月1日発行)には鉄砲伝来に関連した「西之表市と長浜市の出会い」という記事があり、種子島に伝来した鉄砲が全国に伝えられた様子を簡単に紹介しています。
※4 異説もあるが、現在のところ大きな論争とはなっていない模様である。 鉄砲伝来 - Wikipedia

西之表市と長浜市の出会い
1 第14代の種子島島主時堯(筆者注:ときたか) は天文12年(1543年)、種子島に漂着した明国船に便乗していたポルトガルから火縄銃を手に入れ、そのうちの1挺を紀州根来寺の住持・津田算長の熱心さに感じて贈った。

2 算長根来山の麓に住む鍛冶、芝辻清右衛門(しばつじ せいうえもん)に、自分が教わった通りの製法を伝え、その模作を頼み、共に力を合わせて数十挺を作った。芝辻は、もともとの町の出身だったので、貰い受けた1挺の鉄砲を見本としてで鉄砲作りを始めた。

3 この頃、橘屋又三郎(たちばなや またさぶろう)もまた、種子島で鉄砲製作の法を学んで帰り、で鉄砲作りを始めたので、堺は日本の鉄砲作りの中心地となり、 橘屋鉄砲又(てっぽうまた)と呼ばれるようになった。

4 豊臣秀吉(1536~1598)はが鉄砲を独占し、自由市として大きくなり過ぎないよ うに、堺にいる多数の鉄砲鍛冶職人を分けて、自分の城下・国友村(現在の長浜市で鉄砲製作をさせたのが国友(くにとも)の始まりである。
(以下略)
平成1年度市政の窓/種子島 西之表市

 

 上述のように、我が国に最初に鉄砲が伝来したのは種子島であるというのが通説となっていますが、その論拠となっているのが「鉄炮(てっぽうき 鐡炮記)※5」という書物です。これは、慶長11年(1606)に種子島の第16代島主・久時が禅僧・南浦文之に編纂させたもので、久時の父・種子島時堯ポルトガル人から鉄砲を入手したいきさつ鉄砲製造方法確立の過程などが記されており、鉄砲伝来に関する基本的な資料とされています。
 この資料を踏まえ、関周一氏は「中世日本における外来技術伝来の諸条件(「国立歴史民俗博物館研究報告 第210集」国立歴史民俗博物館 2018)」において鉄砲伝来の状況や、畿内への技術移転の過程を次のように整理しています。
※5 「全国遺跡報告総覧(奈良文化財研究所)」のWebサイトから「郷土史料集 鉄砲記(鉄炮記の原文が掲載されている)」及び「鉄砲記 意訳」がダウンロードできる 詳細検索 - 全国遺跡報告総覧

(1)種子島への鉄砲生産技術の伝来
(中略)
 最初に鉄砲生産技術が伝来したのは、文献で知り得る限りは、大隅国種子島である。尚、以下の記述の一部は、拙著と重複することをお断りしておきたい〔関 2015〕
 『鉄炮』は、薩摩島津氏に仕えた大竜の禅僧南浦文之が記したもので、慶安2年(1649)成立の『南浦文集』や、『種子島家譜』巻四(『鹿児島県史料 旧記雑録拾遺 家わけ四』所収)に収められている。
(中略)


(2)『鉄炮記』にみる鉄砲生産技術の伝来
 では、『鉄炮』の検討に入ろう。
 「天文癸卯(天文12年、1543年)秋8月25丁酉」、種子島西村という小浦に、船客百余人を乗せた大船が入港した。その中に大明儒生(筆者注:「明国」の「儒学者」の意)五峯(王直)がいた。西村を治めていた織部は、砂の上に文字を書いて、五峯との間で筆談をした。織部は、乗船している客は、どこの国の人かを尋ねた。五峯は、彼らを「西南蛮種の賈胡ポルトガルの商人)と説明した。織部の指示で、8月27日、王直の船は、島主の種子島時堯がいる赤尾木の港に入った。
 そして次のような経緯で、鉄砲の生産技術が伝来した。

種子島時尭が、商品(兵器)として、ポルトガル人から鉄砲を購入する。
時尭の家臣篠川小四郎が、火薬の調合の仕方を修得する。
種子島の「鉄匠(刀鍛冶とみられる)数人が、ポルトガル人から購入した鉄砲を模倣して銃身を鍛造する。だが、外形を似せることはできたが、底を塞ぐ尾栓を造ることはできなかった。
④翌年、種子島に来航した船に乗船していた「蛮種」の「鉄匠」が、矢板金兵衛尾栓ネジの作り方を教える※6
⑤一年余りにして、新たに数十の鉄砲を製造する。

 ④の段階において、鉄炮の生産技術システムが種子島に伝わり、⑤が製品化した段階といえる。外来技術がそのまま一気に定着するというよりは、在来の技術と交流を繰り返しながら咀嚼され、独自に消化されてく経過が見て取れる。
(中略)


(3)畿内への鉄砲生産技術の移転
 次に種子島から畿内への鉄砲やその生産技術の伝来について考えてみたい。『鉄炮』には、右の②の記事の直後に次のような記載がある。尚、『鉄炮』は書き下し文で引用する。

 

 この時において、紀州根来寺杉坊某公という者あり。千里を遠しとせずして、わが鉄炮を求めんと欲す。時尭人のこれを求めることの深きことを感ずるにや、その心これを解していわく、「むかし徐君、季札が剣を好む。徐君口にあえて言わずと雖ども、季札心にすでにこれを知り、ついに宝剣を解けり。吾が嶋褊小なりと雖も、なんぞあえて一物をおしまんや。かつまた、われ求めずして自ら得るすら、よろこんで寝られず。十襲これを秘す。しかもいわんや求めて得ずんば、あにまた心に快からんか。われの好むところは、また人の好むところなり。われあに独りおのれに私にして、匱におさめてこれを蔵さんや」と。すなわち津田監物を遣わして、持してもってその一を杉坊に贈る。かつこれをして、妙薬の法と火を放つの道とを知らしむ。

 

 紀伊国根来寺杉坊の某公から、種子島時尭に鉄砲を求めてきた。この依頼に感じ入った時尭は、津田監物杉坊に遣し、入手した鉄砲のうち一挺を贈っている。そして火薬の製法と、発射の仕方も合わせて伝えている。種子島における②の段階に呼応したものが伝えられている。
 『鉄炮』の右の記述に従えば、津田監物種子島側の人間であるが、先行研究では「津田監物(丞はない)根来寺側の人間と解されている。
 有馬成甫が、芝辻文書の「鉄砲由緒書」などに基づき、津田監物について考察を加えている〔有馬 1962、638~640頁〕有馬は、『津田流鉄砲口訣記(内閣文庫蔵)により、その名を算長とする。紀州根来寺杉之坊に入り、門前町である西坂本に住む、堺出身の芝辻清右衛門なる鍛冶を呼んで製作させようとしたところ、種々切意日夜鍛錬してついに代々名人になった。後、将軍足利義晴(?)に召し出され、その推挙により従五位下を賜り、永禄10年(1567)、卒す。2人の子がおり、兄を算長(筆者注:「算正」の誤りか)、弟を自由斎という。そして有馬は、「津田監物が将来した鉄砲は、一は根来寺の行人衆によってその使用法が普及し、いわゆる津田流砲術として天下に流伝することとなり、他は門前町の鍛冶芝辻清右衛門によってその製造法の技術が起り、西坂本は鉄砲細工をもって名を知られるに至った」と述べている〔有馬 1962、639~640頁〕
 また的場節子村井章介が紹介したように、文化年間に成立した『紀伊国名所図絵』(二編)、六之巻下、那賀郡に、「砲術家津田監物算長宅」の記事や図がある〔的場 1997。村井 2013、305~306頁に引用されている。〕(本稿では、国立国会図書館デジタルコレクション〈請求記号839-80〉で確認した※7。これによれば、津田監物は、根来寺杉の坊の人であり、またその「舎弟」として「杉の坊明算」の名がみえる。
 したがって『鉄炮』にみえる「津田監物」は、根来寺から種子島に渡った人物と解しておきたい。
 ついで『鉄炮』の⑤の段階の後の記述に、下記のようにある。

 

 その後、和泉堺橘屋又三郎という者あり。商客の徒なり。わが嶋に寓止する一、二年にして、鉄炮を学びほとんど熟す。帰旋の後、人みな名いわずして、呼んで鉄炮という。然うして後、畿内の近邦、みな伝えてこれを習う。ただ畿内・関西の得てこれを学ぶのみにもあらず。関東もまた然り。

 

 「然うして後、畿内の近邦、みな伝えてこれを習う」以下の部分は誇張もあって、そのままでは信じ難い。だが、その直前の記述(人名については検討の余地がある)は、蓋然性が高いであろう。和泉国の商人である橘屋又三郎が、種子島に一、二年滞在して鉄砲製造の技術を習得して、に戻った。このような経緯で、堺に鉄砲生産技術が伝わり、堺を鉄砲の生産地にしたのである。
 このように畿内へ鉄砲伝来は、(1)鉄砲と、火薬の製法と発射方法が根来寺に伝わった段階(2)鉄砲の生産技術が、堺に伝わった段階という二段階があったことがわかる。
 尚、『紀伊国名所図絵』は、『鉄炮』の記述とは異なり、津田監物が、種子島時尭から「鳥銃および製作の法」を伝えられたこと、「蛮賈」の「皿伊多崙(ベイタロ。スペイン名ではペドロ。的場節子は、Pedro =ペドロ・ディアスと解する)から製作の法の「奥妙」が伝えられたとある。根来寺に鉄砲生産技術が伝来した経緯を示しているものだが、根来寺側に引き付けた可能性がある。本稿では、『鉄炮』に従って、右の二段階にわけて考えた。
 以上、『鉄炮』をもとに、畿内への鉄砲生産技術の移転を考えてみた。
国立歴史民俗博物館学術情報リポジトリ

※6 種子島では「当時の日本にはネジの概念がなかったので島主から鉄砲の製作を命じられた矢板(八板)金兵衛は銃身の一端を強固に塞ぐ方法を見つけられず苦悩したが、これを見かねた娘の若狭が、ネジの秘密と引き換えに南蛮人に嫁いだ」との伝承が伝えられている。しかし、これを立証する資料や記録は残されておらず、残されているのは口承のみである。若狭(八板清定女) - Wikipedia

※7 以下の図は「紀伊国名所図会」に掲載されている「津田監物算長 種子島にて鉄砲を得る」と題されたもの

紀伊国名所図会』後編 中巻,昭11至12.
国立国会図書館デジタルコレクション
https://dl.ndl.go.jp/pid/1239113

 

 ちなみに、上記※4のリンク先記事にあるように宇田川武久氏は鉄炮記の記述は信憑性に欠けるとし、津田監物種子島から根来へ鉄砲を持ち帰ったという説を否定しています。これに対して氏は上記論文において次のように反論しています。

 宇田川武久は、的場節子の学説に対する批判を通じて、本稿で述べてきた方法や解釈を真っ向から否定している。
 宇田川は、鉄砲(宇田川は「鉄炮」と表記する)の源流鉄砲伝来が、種子島を含めた九州および西国の広い地域に分散波状的にあったとし、そのため砲術諸流の鉄砲の仕様が多様になったとする〔宇田川 1990・2006〕種子島において天文13年(1544)にスペイン人ペドロ(「皿伊多崙」)津田監物鉄砲(アルカブスの扱いを教えたという事実があったからこそ、津田家関係の資料にのみスペイン名、スペイン語単語(ペドロ、アルカブスが残ったとする的場説〔的場 1997〕は成り立たないとし、次のような根拠をあげる。

 

 津田監物は第一期(天文12年から元和年間=引用者による注)に属する紀州根来寺から起こった津田流砲術家であり、もともと種子島とはなんの関係もない人物である。
 天文13年といえば、鉄炮伝来直後であり、いまだ砲術武芸は誕生していない。それなのに砲術家津田監物の登場は不可解の一語に尽きる。すでに文禄・慶長初年の砲術秘伝書には、種子島に渡って鉄炮を鍛錬して帰国したとの記述があり、鉄炮記』はそれらを参考に種子島から紀州鉄炮が伝播した物語を創作したのであって、とても伝来時の事実とは認められない。
 17世紀初頭の砲術秘伝書のなかには南蛮の影響をうかがわせる用語がある。(中略)江戸初期になると砲術の体系化がすすみ、砲術諸流はそれぞれに優位性を誇示して、虚実取り混ぜた由緒を作成して秘伝書に盛り込んだのである。南蛮流秘伝書の外国名や都市名、あるいは南蛮詞はその反映にほかならいが、種子島渡島説もおなじ次元の発想である。〔宇田川 2015、11頁〕

 

 そして的場論文の引用する『津田流鉄砲口決記(前述したように、有馬成甫の学説の根拠史料)の史料的価値に疑問を呈する〔宇田川 2015、11頁〕
 確かに右で引用した『鉄炮』には、砲術家津田監物に結びつけようとする意図がみえるが、そのことによって「種子島紀伊国根来寺とはまったく関係がなかった」とまで言い切れるのだろうか。宇田川の議論は、『鉄炮』や砲術秘伝書の記述について、それは事実とは認められないという印象論にとどまっており、どのようにそうした物語がつくられたかの分析をしているわけではない。
(中略)
 右のような疑問から、宇田川の見解に直ちに従うことはできず、本稿では有馬成甫・的場節子・村井章介の研究に依拠して考察してきた。

 

 確かに宇田川氏が指摘するように、紀州根来寺の幹部であった津田監物(算長)がたまたま種子島に滞在していて、たまたまそこに渡来した貴重な鉄砲二挺のうちの一挺を根来に持ち帰った、というのは俄には信用し難い出来事であろうと考えられます。しかし、実はこの時期、根来寺薩摩、そして薩摩を拠点とする海外交易とは非常に深い繋がりがあり、根来の人間が種子島との間で密接な関係を築いていたとしても何ら不思議ではないという状況があったのです。
 前回「鰹節」の話を紹介した際に、鉄砲伝来よりはかなり後の時代にはなりますが、江戸時代に印南の漁民が枕崎(鹿児島県)へ渡って最先端の鰹節製造技術を伝えたというエピソードを紹介しました。
鰹節の製法を発明し全国に広めた印南の三漁民、角屋甚太郎・森弥兵衛・土佐與市(印南町)

 その枕崎からわずか5kmほど東に坊津(ぼうのつ 現在の地名は鹿児島県南さつま市坊津町坊)という小さな港町があります。今ではごく小さな港町ですが、かつては古代から江戸時代初期に至るまでの長期間にわたって中国大陸や東南アジアとの交易の一大拠点として栄えた港でした。ちなみに、かの鑑真和上が艱難辛苦の末にはじめて日本に上陸した場所は、この坊津にある秋目浦であったと伝えられています。
鑑真の上陸地―坊津を訪ねて - 中華人民共和国駐日本国大使館

 こうしたことから、中国の明代に記された文書「武備志(1621年(和暦では江戸時代の元和7年)刊行)」では日本の主要港として「安濃津(あのうつ 現在の三重県津市)」、「博多津(はかたのつ 現在の福岡県福岡市)」と共に「坊津」の名を挙げて「日本三津(さんしん)」と称したほどにこの地は重要な港として位置づけられていたのです。
坊津 - Wikipedia

 

 この「坊津」という地名は、この地に一乗院という大きな寺院があり、そこに坊舎(僧の住む建物)があったことに由来するものとされていますが、鉄砲伝来当時この一乗院新義真言宗に属しており、紀州根来寺の別院としておおいに栄えていた※8のです。
※8 通説では、長承2年(1133)の鳥羽上皇院宣をもって龍巖寺を大伝法院(根来寺の旧称)の別院とし、「如意珠山一乗院」の勅号を授けたとされる。鹿児島県教育委員会/記念物 (「県指定」のうち「一乗院跡」参照)

 

 戦国時代に海外交易の重要拠点・坊津の中核をなしていた一乗院根来寺の別院であったとすれば、上記で引用した「日本大百科全書(ニッポニカ)」の記述にあるように算長がこの地を通じて中国琉球方面との交易に関与し、その過程で種子島とも交流していたということは十分にありえる話です。こうした当時の状況について、高橋秀城氏は「シンポジウム報告:坊津一乗院における〈中央〉と〈地方〉(「国文学研究資料館調査研究報告第36号」人間文化研究機構国文学研究資料館 2016)」において次のように記しています。

はじめに
 坊津一乗院は、現在の鹿児島県南さつま市坊津町にかつて存在していた寺院で、鹿児島大乗院鹿児島大興寺とともに鹿児島における真言宗の三本山と称されていた。山号如意珠山と言い、寺伝によれば百済の僧日羅(?~583)の建立と伝えられている。和歌山県岩出市にある来寺の別院、後に京都の仁和寺の別院として繁栄し、江戸時代に入ってからも島津氏の尊崇を集めた。
 元禄年間に作成された「元禄薩摩絵図」によれば、一乗院の付近には、外国船の来航に備えた「異国船番所」が置かれている。坊津は大陸と距離的に近く、間近に異国を意識する港町でもあった。近年の発掘調査によって、一乗院跡地から中国陶磁器が出土するなど、貿易港としての坊津大陸との交流が明らかとなっており、そこには一乗院という大寺院の関与が注目されている。
(中略)

 

二 根来寺と坊津一乗院
 本節では、坊津一乗院紀州根来寺にかかわる記述を取り上げ、〈中央〉と〈地方〉における文物の移動や人的交流について考えてみたい。
 『三国名勝図会』には、坊津一乗院紀州根来寺の別院となったこと、第四世頼俊上人根来寺学頭快憲僧都に随ったこと、根来寺焼き討ちの際には覚因という僧侶が根来寺の寺宝を一乗院に將したことなどが記されており、坊津一乗院紀州根来寺との密接な結びつきをうかがうことができる。
(中略)


おわりに
(中略)
 以上、本報告では、雑駁ではあるが、〈中央〉としての根来寺仁和寺と、<地方>の大寺院である坊津一乗院との文物の移動や人的交流、またそこから全国へと広がる密教文化の状況について考えてみた。坊津一乗院は、都から離れた〈地方〉ではあるが、大陸側を視野に入れればそれは〈中央〉となる。坊津一乗院は、海路や陸路による広域に及ぶネットワークの結節点としての重要な役割を担っていたのであろう。
国文学研究資料館学術情報リポジトリ


 このように、津田監物根来寺から坊津を通じた海外交易のネットワークの一環として種子島に長期滞在していた人物と考えられ、同地に鉄砲が伝来するとすぐにその一挺を根来に持ち帰って同型銃の製作に取り掛かるのですが、実際にその製作にあたったのは芝辻清右衛門(しばつじ せいえもん)という鍛冶職人でした。
 根来寺大量の鉄砲を装備した強大な僧兵集団を擁することができたのは清右衛門ら鉄砲鍛冶の力によるところが非常に大きかったのですが、天正13年(1985)の秀吉による紀州征伐根来寺一帯が灰燼に帰したことから、こうした鉄砲が根来のどこで製造されていたのかについてはまだ良くわかっていないようです。
 これらの事柄について、「和歌山市」では次のように記されており※9根来における鉄砲の製造拠点は現在の岩出市金屋周辺、あるいは岩出市森周辺であったのではないかとしています。
※9 和歌山市史第一巻 中世の和歌山 第三章 第二節 雑賀衆根来衆 1 雑賀衆と鉄砲

鉄砲の使用と製造
 鉄砲が初めて合戦に使用されたのは、天文18年(1549)3月の島津氏肝付(きもつき)蒲生(がもう)渋谷氏が戦った黒川崎の合戦とされている。根来衆鉄砲を使用した記録の初見は、永禄5年(1562)3月5日の三好実休畠山高政が戦った久米田合戦で、実休根来衆などの「鉄砲に当たり死去(「長享年後畿内兵乱記)したという記事である。しかし、「三好記」では、実休は「何処ヨリカ来ルトモ知レザル流矢一ツ来リテ、実休ノ胸板ニ篦(の 筆者注:矢竹のこと)(ふか)ニ立チ」て果てたと記されており、必ずしも鉄砲による戦死とは言いがたい。しかし、その後の高屋城をめぐる攻防では「鉄砲いくさ」が中心となり、さらに、元亀元年(1570)9月の石山合戦野田・福島の戦いでは、根来衆雑賀衆鉄砲隊が大活躍をした。織田信長が、石山本願寺を最大の敵と考えたのは、本願寺の背後にあった一向一揆と、その鉄砲隊であったとよく言われる。石山合戦の緒戦における「鉄砲いくさ」こそ、信長に大きな教訓を残した戦いであったに違いない。
 これら根来衆雑賀衆の使用した多量の鉄砲は、どこで製造されたのであろうか。この点については、まだ確証を得ない。「鉄炮」の伝えるところでは、根来寺付近の坂本(現 那賀郡岩出町根来)と考えられるが、上丹生谷(かみにうや)(現 那賀郡粉河町上丹生谷)丹生神社所蔵「金銅鳥頸太刀」の鞘墨書銘(さや ぼくしょ めい)に「紀州根来寺坂本住人金物之大工善左衛門家次・・・・文明二 庚寅 年九月廿七日」とあり、坂本に「金物大工」の存在したことがうかがえる。『紀伊風土記』には、山崎荘金屋(かなや)(現 那賀郡岩出町金屋)の項に、「古へ根来寺全盛の時、此ノ村鍛冶を業とす、因て金屋の名あり」と記している。また、大字森には、「鍛冶垣内(かじかいと)」という小名があって、鉄砲製造との関係をうかがわせる。根来寺付近のこうした鉄砲製造伝承地については、最近注目を集めている根来寺跡発掘調査の進展に期待するところが大きい。
(以下略)

 

 詳細な時期は不明ですが、秀吉の紀州征伐と相前後して清右衛門は鉄砲製造の拠点をに移したようです。そのでは、上述の関氏の論文にあるとおり既に橘屋又三郎算長とは別のルートで鉄砲製造法を持ち帰っていたことから、これ以後は堺が我が国の鉄砲製造の中心地として発展していきました。武士の時代が終わった後、旧来の鉄砲の需要は急減しましたが、金属の精密な加工技術を身につけた職人の技は、やがて「堺打刃物(さかい うちはもの)」と呼ばれる包丁やハサミなどの刃物製品、「世界のシマノ」に代表される自転車産業などを生み出していくことになるのです。
堺の伝統産業 – 堺伝匠館

 

 現在の堺市堺区には江戸時代に「鉄砲年寄」として鉄砲製造の中核的役割を果たした芝辻理右衛門(清右衛門の孫)家と榎並屋勘左衛門家の屋敷跡が残されており、次のような説明板が設置されています。

榎並屋勘左衛門 芝辻理右衛門屋敷跡

 榎並屋勘左衛門(えなみや かんざえもん)家は、江戸幕府御用鉄砲鍛冶として重用され、芝辻理右衛門(しばつじ りえもん)家とともに鉄砲年寄として堺の鉄砲鍛冶の中心的地位にありました。この両家に分家の榎並屋九兵衛(次右衛門)榎並屋勘七(忠兵衛)芝辻長左衛門を加えた五鍛冶(のちに二鍛冶が脱落して三鍛冶)平鍛冶と呼ばれ、他の鉄砲鍛冶を統制しました。榎並屋勘左衛門家の屋敷は桜之町東1丁で、大道(だいどう 紀州街道に面して東にありました。
 芝辻理右衛門は、徳川家康から大坂城攻めのために鉄張の大砲を作ることを命ぜられ、慶長16年(1611) 銃身一丈(約3m) 口径一尺三寸(約39cm) 砲弾重さ一貫五百匁(約5.6kg)の大砲を作りました※10。これは、わが国で作られた鉄製大型大砲のはじめであったといわれています。また、大坂冬の陣(1614)の前に、1,000挺の鉄砲を急いで製造するようにという徳川家康からの命に応え、その功労により、元和元年(1615)高須の地高須神社付近)を賜りました。屋敷は、榎並屋勘左衛門家と向かい合って桜之町西1丁で、大道に面して西にありました。
 鉄砲を作る技術はその後、刃物自転車の製造へとつながり、堺の伝統産業の礎となりました。現在もこの周辺に刃物、自転車の工場が多いのはそのような歴史を引き継いでいるからです。
※10 この大砲は現在東京の靖国神社遊就館に保管されているが、右記のブログによればその正式な寸法は「全長3.13m、口径9.3cm、弾の重さ約4.5Kg」であるとされる。芝辻砲製作の芝辻理右衛門屋敷跡など 堺市文化財特別公開の紹介8 | みどりの木のブログ

 

 こうして、算長が初めて日本本土にもたらした1挺の鉄砲は、やがて戦の姿を大きく変貌させて数多の戦国大名の消長を左右し、江戸時代から明治維新を経て国内での戦が無くなってからは、近代産業への道を拓くこととなる多くの職人を送り出していきました。

 このように、我が国の歴史に大きな影響を与えたと考えられる算長ですが、意外やその人物像はあまり詳しくは伝えられていないようです。上述した「和歌山市」には次のような記述があり、津田監物(算長)は現在の和歌山市吐前(はんざき)に居城を構える土豪であったとされており、根来寺の関係者ではあったものの、純粋な「」ではなかったと考えられます。

鉄砲伝来と雑賀・根来
(略)
 いちはやく、鉄砲紀州にもたらした津田監物は、那賀郡小倉おぐら)荘吐前(はんざき 現 和歌山市吐前)に居城を構え、加地子(かじし 筆者注:小作人荘園領主に納める年貢(本年貢)とは別に名主などの在地領主に支払う年貢)800石を取得する土豪であったと伝えるが、生没年は明らかでない。「津田家系譜」によると、祖先は楠正成四代の孫、河内国交野(かたの)郡津田(現 大阪府枚方(ひらかた)市津田)の城主津田周防守正信で、その子孫が小倉荘に移り、小監物算長の時に鉄砲を伝えたとする。算長の子に算正自由斎があり、彼らが、いわゆる津田流砲術を後世に流布したのである。
和歌山市史第一巻 中世の和歌山 第三章 第二節 雑賀衆根来衆 1 雑賀衆と鉄砲

 

 上記引用文において言及されている「津田家系譜」については、江戸時代後期に編纂された地誌「紀伊風土記」の「那賀郡小倉荘 新荘村(現在の和歌山市新庄)」の項にある「地士 津田瀬太郎」に関する記述が参考になると思われます。

〇旧家 地士 津田瀬太郎
その祖を吐前の城主 津田小監物算長という
楠正成 三代の孫 河内の国交野郡津田城主 津田周防守正信 六代の孫なり
当荘及紀泉の内にて一万石余の地を領す
享禄年中 大隅種が島に渡り初めて鉄砲を伝来し
天文年中帰国す
将軍義晴公 その功を賞して従五位下に叙せしむ
算長の子を 監物算正 という
織田家に属し 天正年中雑賀征伐に功あり
織田家より平姓を与えられ
泉州佐野の城を賜い 一万石余の地を領す
小牧の役東照神君(筆者注:徳川家康のこと)に属す
豊太閤(筆者注:豊臣秀吉のこと)南征のとき 所領を没収せらる
其後大納言秀長(筆者注:豊臣秀長のこと)に仕え 当郷にて三千石を傾す
算正の子を 監物重長 という
増田長盛に仕え千石を領し
増田家滅亡の後浅野家に仕え
その後金吾秀秋(筆者注:小早川秀秋のこと)に仕えて千五百石を領す
秀秋滅亡の後 美濃加納城松平家に仕え
飛騨守忠隆の後見となり三百石を領す
重長の子を荘左衛門重信という
初は秀秋に仕え
富田修理大夫に仕え
富田家滅亡の後 松平摂津守に仕う
飛騨守の父なり
重信の子を六郎左衛門算長という
主家断絶の後浪人となり
多病にて仕をなさず
帰郷して当村に住し 世々地士大荘屋をつとむ

 

 岩出市のWebサイトによると、上記引用文に登場する「算長」「算正」「重長」に加えて算長の父である「算行」や算正の弟である「照算(自由斎)」もそれぞれ「監物」と呼ばれていたようで、各種史料に登場する「津田監物」については、このうちどの人物に該当するかを吟味しなければ混乱してしまうようです。この点について、同サイトの記述の一部を引用します。

根来寺の歴史
津田監物
(略)

 根来寺を代表して杉之坊明算種子島に公式に伝来銃割愛を要望し、津田監物算長が使者となり根来へ持ち帰った、算長芝辻に倣製を命じ、国産化量産化に成功した。根来鉄砲隊を創設し、砲術を工夫しその精鋭度を高めた。津田流砲術の始祖となり、実子算正照算に継承せしめる。しかし、この津田監物算長は永禄11年12月22日、69歳の天寿を得て没する。
 弟明算も永禄元年すでに先だち、算長の子照算杉之坊惣門主となり元亀・天正根来軍団の総指揮者として門跡を継いでいる。
 天正13年3月21日、根来寺の砦にて鬼神の如く荒れ狂い、幾多の剛敵を討ち取りながらついに増田長盛の手に殪れた津田監物とは、実に杉之坊二代目院主・津田照算その人であった。
 照算自由斎を号し、父算長に劣らぬ砲術家であり、その系統は没後重長に継がれ津田流自由斎流として後世の数多くの砲術流派の根幹となった。すなわち津田流津田守勝自由斎流津田自由斉世徳へ伝えられ、この後津田家の血伝は失われて行く。
 津田監物算長こそが根来鉄砲の普及者であり、和流砲術の宗祖であり、根来鉄砲隊の創始者である。根来寺滅亡の悲惨な最後を知ることもなく、紀の川市安楽川の墓石の下に静かな眠りを続けている※11
根来寺の歴史|岩出市
※11 「紀の川市安楽川の墓石」に関する詳細は不明だが、右記のサイトによれば、紀の川市野田原(旧 荒川荘)の大日堂の境内に「津田監物の墓」と伝えられる五輪塔があるとのこと。しかしながら、この五輪塔は平成7年の調査で津田春行(楠木正成の4代目とされていることから上述の津田周防守正信の子ではないかと推測される)の墓であることが確認された。詳細は右記サイトの記述を参照されたい。 紀州根来衆の津田氏と津田出 2 津田監物算長と紀州根来衆 (2)津田監物算長の家系-津田氏の先祖と一族


 上記※11では現在の紀の川市に「津田監物の墓」と伝えられる五輪塔があることを紹介していますが、以前「名号と秤石 」の項で紹介した光恩寺和歌山市大垣内)にも「津田監物の墓」が存在します。
 下記のブログによれば、ここにある墓は光恩寺の開基とされる津田監物算正(算長の子)の墓だそうですが、同寺の境内には、これとは別に算長の供養塔も建立されているとのことです。
津田監物 : 紀州よいとこ


 現在、岩出市では「根来鉄砲隊(根来史研究会 鉄砲部会)」が組織されており、「かくばん祭り根来寺の開祖・覚鑁上人の名を頂き、毎年11月下旬に根来寺周辺で行われる地域イベント)」などの機会には往時を思わせる勇壮な僧兵集団による演武が行われます。演武のスケジュール等は同隊のWebサイトで随時公表されているようですので、機会があればぜひご覧ください。
根来鉄砲隊 | 岩出市観光協会のホームページ