「和歌山あれやこれや」のカテゴリーでは、和歌山県内各地に伝わる歴史や伝承などを気ままに紹介していきます。
今回は、和食の基本中の基本と言える「だし」の代表的素材である「鰹節(かつおぶし)」の製法を発明し、それを全国に普及させた印南出身の三人の漁民、角屋甚太郎(かどや じんたろう)、森弥兵衛(もり やへい)、土佐與市(とさ よいち)を紹介します。
「かつお節発祥之地」の看板(印南漁港)
顕彰碑と説明板
印南町の印南漁港内にある印南浜公園には「かつお節発祥之地」と書かれた大きな看板が設置されており、その脇には三人の印南漁民の名を刻んだ顕彰碑と「かつお節発祥の由来」を記した説明板が設置されています。
顕彰碑
鰹節の始祖 土佐で活躍
角屋 甚太郎枕崎に鰹節製法伝授
森 弥兵衛房総・伊豆に鰹節製法伝授
印南 與市(通称 土佐與市)
かつお節発祥の由来
一、かつお節は印南漁民の開発したものです。
徳川時代1600年代の初期、印南漁民は船団をなし、日向(宮崎県)方面に出漁していました。
二、1600年代中期、印南漁民初代角屋甚太郎は、日向へ出漁した帰り、土佐(高知県)足摺岬沖臼婆(うすばえ)に、豊富な鰹漁場を発見し、以来船団は年々通漁して、その地に仮住まいの上、かつお節の製造を行いました。
三、延宝年間(1673~)、二代目甚太郎は、土佐清水の地で、現地の資本家の援助を受け、燻乾かび付け法による固乾改良土佐節を開発しました。
四、宝永4年(1707)、印南漁民森弥兵衛は、枕崎(鹿児島県)にかつお節製造法を伝授しました。
五、更に天明年間(1781~)、かつお節の達人印南與市(土佐與市)は、安房(千葉県)南朝夷村(現南房総市)に、また享和元年(1801)には、伊豆(静岡県)安良里村(現西伊豆町)に、改良土佐節の製法を伝え、安房節・伊豆節を改良しました。
六、およそ200年に及ぶ通漁による操業も、やがて土佐の地にその成果を残したまま、天保の頃には印南漁民の出稼ぎ熱が衰えました。この頃から印南漁民は、鯖の夜焚釣り※1に転向を始めています。
七、ここにかつお節発祥の由来を記述し、印南漁民の功績を後世に伝えます。
印南町※1 夜間に魚が光に集まる習性を利用して、水面近くで篝火(かがりび)を焚いて集まってきた魚を釣り上げる漁法
鰹節の原料となるカツオは古くから日本で食べられてきた魚で、干物としても利用されていたものの、江戸時代頃まではまだそれほど保存性の高いものではなかったようです。これを一変させることとなったのが角屋甚太郎による「燻乾法(くんかんほう)」及び「燻乾カビ付け法」の発明であったのですが、ここではまず甚太郎が登場する前までのカツオ利用の歴史についてWikipediaの記述を引用して紹介します。
歴史
起源
カツオ自体は古くから日本人の食用となっており、縄文時代前期にはすでに食べられていた形跡がある(青森県八戸市の一王寺貝塚など)。5世紀頃には干しカツオが作られていたとみられるが、これらは現在の鰹節とはかなり異なったものであったとみられる(記録によるといくつかの製法があったようだが、干物に近いものであったと思われる)。
宮下章は、『鰹節考』の中で「カツオほど古代人が貴重視したものはない。(中略)米食中心の食事が形成されて以来、カツオの煎汁だけが特に選ばれ、大豆製の発酵調味料と肩を並べていた」と述べている。
モルディブ起源説
モルディブ起源説は、鰹節の製法が交易によりモルディブから東南アジアを経由して日本にもたらされ、その後日本においてカビ付けの工法が考案されたとする説である。今日、鰹節が広く伝統的な食習として定着している国は日本だけであるが、インド洋の島国モルディブには、モルディブ・フィッシュと呼ばれる、サバ科のハガツオ(Sarda orientalis)を原料とするカビ付けをしていない荒節が古くから伝わる。本説は、このモルディブ・フィッシュの製法が日本に伝わった、というものである。本説においては、鰹節の日本における最古の起源は沖縄にあると言われている。
アイヌ起源説
『枕崎市史』などでは鰹節はアイヌがカツオを保存用として素干しにしていたものが起源であるとしている。
燻乾法以前
飛鳥時代(6世紀末-8世紀初頭)の大宝元年(701年)には大宝律令・賦役令により、この干しカツオなど(製法が異なる「堅魚」「煮堅魚」「堅魚煎汁」に分類されている)が献納品として指定される。うち「堅魚」は、伊豆・駿河・志摩・相模・安房・紀伊・阿波・土佐・豊後・日向から献納されることとなった。
現在の鰹節に比較的近いものが出現するのは室町時代(1338年以降)である。長享3年から延徳元年(1489年)のものとされる『四条流庖丁書※2』の中に「花鰹」の文字があり、これはカツオ産品を削ったものと考えられる。
「鰹節」が文字として文献に登場する最古の資料は、永正10年(1513年)に臥蛇島(筆者注:がじゃしま 鹿児島県のトカラ列島に属する島)から領主の種子島家への貢物に関して記したもので「かつおぶし」とある。※2 日本料理の流派「四条流」の大意をまとめた料理書 四条流庖丁道 - Wikipedia
上記引用文にあるように、室町時代になると現在の鰹節に近いものが作られ、利用されるようになってくるのですが、当時はまだ日干し、又は稲わらなどを焚いて燻(いぶ)すといった製法が一般的であり、水分が完全には抜けきっていなかったため保存性が十分ではありませんでした。これを改良し、クヌギやカシなどの木材で燻しながら乾燥させる工程を何度も繰り返すことで水分をしっかりと抜き、同時に燻煙により風味を高めるという「燻乾法※3」を編み出したのが初代角屋甚太郎であったと言われます。そして、その息子である2代目甚太郎が鰹節にあえてカビをつけてさらに乾燥度合いを高めるという「燻乾カビ付け法※4」を発明したことにより、極限まで水分量を減らし、「世界で一番堅い食品※5」とさえ呼ばれる現在の鰹節とほぼ同じものが製造されるようになったのです。
※3 燻乾とは鰹節を製造する時の大事な工程!燻乾の効果と方法を徹底解説
※4 本枯鰹節ができるまで|株式会社にんべん 「10. カビ付け」「11. 天日干し」の項参照
※5 しばしば「世界一堅い食品としてギネス世界記録に登録されている」との言説が見られるが、右記のブログによればこれは事実ではないとされる。検証!かつお節の硬さってどのくらい? | まいにち、おだし。
和歌山県が管理するWebサイト「わかやま歴史物語100」の「鰹節発祥の地・印南。漁民3人衆の功績を訪ねる」という項には次のような解説があり、鰹節の製造と普及に「印南漁民3人衆(上述のように、「角屋甚太郎」については初代・2代目をあわせて一人と数えている)」がそれぞれ果たした役割を紹介しています。
鰹節は日本人にとって馴染み深い食材です。カツオの加工品は古くからあったようですが、今に伝わる鰹節が出回るようになったのは江戸時代の中期頃。製法を発明したのは、印南の漁民であった角屋甚太郎(かどやじんたろう)といわれています。甚太郎は印南と土佐を股にかけて漁を行い、魚が傷みやすい初夏から秋にかけてはカツオが大量に釣れるので、保存するために煮て乾かしていたそうです。甚太郎はそこに、煙で燻すという工程を付け加え、延宝2年(1674)に「燻乾法(くんかんほう)」を開発。その後、息子の2代目甚太郎が試行錯誤を続け、青カビをつけて日光乾燥を繰り返す「燻乾カビ付け法」による固乾改良土佐節を編み出しました。甚太郎親子が考案した鰹節の製法は、同じく印南漁民である森弥平兵衛と印南與市(通称・土佐與市)により、枕崎、南房総、西伊豆に伝授され、その後全国に伝わったといわれています。現在の印南町では鰹節製造は行っていませんが、日本全国で作られ続けています。彼ら印南漁民の活躍なくしては、和食が世界遺産に認定されることもなかったかもしれません。
このように現在のような鰹節の製法を発明したのは印南出身の角屋甚太郎であるというのが通説となっているのですが、どうもこれは学術的に明確な根拠のある話ではないようで、上記Wikipediaの記述にも登場する食品史研究家の宮下章氏は「鰹節について(「食生活総合研究会誌 3巻2号」日本食生活学会 1992)」において次のように記しており、この説は「あくまで巷説に留まる」と述べています。
鰹節の燻乾法は,延宝のころ土佐国で紀州の甚太郎が創案したものだ,という巷説がある.あくまで巷説に留まるのは,伝承もなく,裏付け資料もないからである.確かに角屋甚太郎はいたが,彼は土佐の清水浦で紀州のカツオ漁法を教えた漁師である(この伝承はある)※6.彼について詳しい要海正夫氏によれば,紀州印南の人であり,二代目甚太郎(宝永年間死亡)が,土佐国で鰹節製法を指導したのだという.
既に慶長年間(1612~),あるいは明暦年間(1654~)に,土佐国には鰹節が存在した記録がある.延宝年間(1673~)に甚太郎が教えたと伝えられるものは,進歩した熊野式製法とカツオ漁法-釣りため法である.甚太郎に代表される印南浦カツオ船団が,延宝のころ土佐国清水浦にそれらを伝えた功により,天保のころまで百数十年にわたり,印南漁民に限って土佐入漁の特権を得たのである.
(以下略)※6 和歌山市出身の作家・神坂次郎氏の「紀州歴史散歩 古熊野の道を往く(創元社 1985)」によれば、「嶺滄誌(れいそうし)」という土佐の地誌に次のような記述があり、甚太郎を「土佐鰹釣りの祖也」と称しているとのことである。「越浦(土佐清水)に甚太郎と云う者あり、これ土佐国鰹釣りの祖也。紀の熊野の甚太郎と云う者土佐の沖へ流されし時此の海にて鰹食うべしとて釣れる故、年々通漁せしに此の甚太郎紀州にて、しかとせる者ゆえ、土佐にて(現地妻との間に)生まれし一子甚太郎と名付けるを残し置き、其の身は紀州に帰り、其の子孫いまも血脈絶えざる由」 目録詳細 / 嶺滄誌
これに対して、この論文の2年前にあたる平成2年(1990)に発行された「印南町史(印南町史編集室編、第一法規出版)」には次のような記述があり、ここでは甚太郎らが鰹節の始祖であることは「歴史的事実」であると高らかに謳っています。
第四章 漁業
第一節 印南漁民と鰹節の歴史
日本における「鰹節」の発祥が、我が印南漁民の研究発明によるものであることは、既に、『日本堅魚史(筆者注:本書が参照した資料であろうが詳細は不明)』の中で明らかにされているとおりである。すなわち、土佐節の始祖と仰がれる「熊野の甚太郎」は印南の角屋甚太郎であり、伊豆節、安房節の始祖と仰がれる「印南与市」も印南字東浜の善五郎の子である。
また、寛永年間、枕崎に鰹節製法を伝えた紀州の森彌兵衛もまた、印南、森家の祖である。
以上の歴史的事実から、印南の漁民史は、印南漁民による「鰹節の歴史」から、筆を起こさなければならない。
(以下略)
ちなみに、ネット上で入手できる資料の範囲内では、明治44年(1911)に博文館が出版した大竹健吉著「鰹節の製造(実験応用通俗産業叢書 第19編)」に次のような記述があり、「紀州熊之浦の漁者 甚太郎(筆者注:「熊之浦」は「熊野浦」の意)」が土佐に出漁の際、あまりにも多数の鰹を漁獲したために「脯(ほ 本来は「鳥獣の干し肉」の意であるが、ここではいわゆる「荒節(あらぶし 鰹を燻して乾燥させたもので、「カビ付け」の工程を経ていないもの)」であろうと考えられている)」を作ったものが鰹節の濫觴(らんしょう 物事のはじまり、起源)であるとしていることが確認できます。
沿革
鰹節製造の濫觴は何時代頃よりなるか正確に知る能わずといえども、今を去る350年前 彼の延喜式に「調輸錢土佐國鰹魚八百五十斤」と記載あるより この時代より始まりしといい、又 一説に延宝年間(220余年前)紀州熊之浦の漁者甚太郎という者、土佐国西の岬に出漁の際 多数の鰹を漁獲し、中佐浦に碇泊せしが その全部を生売すること能わざりし故 時期を見て販売せんがため 脯(荒節ならん)に製せしが濫觴なりという、そのいずれが真なるやは明らかならざれども、要するに我国中古以来の製品にして 紀州熊之浦の漁民がその創製者なるものの如く、その鰹節としての形質を備うるものを製するに至りしは200年前内外のことなるべし、徳川幕府隆盛の時代には各地の諸侯より将軍家へその封内(筆者注:ほうない 領国内)の特産魚貝類を贈献せし慣例あり、薩摩の島津公、土佐の山内侯よりの鰹節はその献上品中の主なるものにして、藩政時代には諸侯はその封内の鰹節を産出する浦々に命じ御用節と称し普通価格の半額にて若干の鰹節を上納せしめし制度あり
(以下略)
※筆者注:読みやすくするため、漢字、かなづかい等を適宜現代のものにあらためた
上記引用文にあるように、当初、この地に鰹の漁法や鰹節の製法を伝えた者は「紀州(熊野)の甚太郎」とのみ伝わっており、紀州のどの地域出身だったかは不明であったようですが、先の宮下氏の論文において名前が挙げられていた要海正夫氏らの調査によって印南町の印定寺(いんじょうじ)※7に2代目甚太郎の位牌が祀られていることが判明した※8ことから、甚太郎は印南出身であることが確認されたとのことです。
※7 Google マップ - 印定寺
※8 「近世に於ける紀州印南漁民の活躍史 : 鰹節製法ルーツの確証を求めて(非売品 1980)」国立国会図書館サーチ
こうした経緯について、印南町文化協会会長の坂下緋美(さかした ひみ)氏は、平成24年2月18日に和歌山県水産試験場(串本町)で開催された「『食』と『漁』を考える地域シンポ 第10回 紀州漁民の活躍史とカツオ漁の今を考える」の講演において次のように語っています。
初代の角屋甚太郎さんが臼碆で漁場を見つけたわけですが、鰹節を発明した方は二代目甚太郎さんです。実は、紀州の甚太郎というのは明記されていたようですが、それが印南の人であるかというのが分かりませんでした。ところが、1707年に二代目甚太郎さんが印南に帰られた時に、162名が亡くなった宝永の津波が起きました。その際に二代目甚太郎さんも亡くなって、印定寺というお寺さんに位牌が残っていました。それで先生方は甚太郎さんが印南の人だということの確証を得たそうです。その後、甚太郎さんの弟の甚三郎さんが後を継いで、代々角屋をもり立てていくわけですが、五代目甚三郎の時に悲劇がおきます。後でご説明します※9。現在は角屋十三代目が先祖の墓守をして、お醤油を作られています※10。
(以下略)食と漁の地域活性化シンポジウム - 水産に関する普及啓発事業 ::: 一般財団法人 東京水産振興会
※9 和歌山県町村会が制作したパンフレット「おーじとしずくとたなっちの あの町この村 ぶらり旅 Vol.18 印南町編」に次のような物語が掲載されている。
角屋与一とヲサナ
かつお節発祥の地として知られる印南町。その立役者である角屋甚太郎の弟、甚三郎の5代目に与一という一人息子がいました。当時の角屋は、かつお節製造を幅広く営んでおり、「印南片荷か、角屋片荷か(印南全体と角屋とを天秤にかけても、同じくらい大金持ちという意味)」と謳われるほどの大豪商でした。
与一は、桶屋の一人娘であるヲサナという女性と恋に落ちます。しかし、ヲサナは角屋に奉公に出ていた女中、身分違いの恋が許される時代ではなく、2人の関係は周囲に猛反対されてしまいます。
「君と一緒になれないなら、僕はいっそ........でも、ヲサナは生きて幸せになっておくれ」
「あなたのいない世界なんて嫌! どうか私も一緒に...」
2人は印南町の高岩(海際の崖)から抱き合い、心中を遂げたのです。与一が遺した「世を照らせ。月も十夜の道あかり」という辞世の句が、切なく心に響きます。
明和7年(1770年)、10月のことでした。
「両親からの反対、でもヲサナ以外の女性を愛することもできず、板挟みになった与一は辛かったろうと思いますよ。まさしく“悲恋物語”ですね」と坂下さん。
与一の両親は深くショックを受け、家督のすべてを甥に譲り、印定寺に2人の永代供養を任せて土佐へと移りました。
印定寺には、与一とヲサナの供養のために「比翼塚」が建てられています。切ない悲恋物語ですが、それほどまでに愛する人と出会えた2人は、幸せだったかもしれませんね。
おーじとしずくとたなっちの あの町この村ぶらり旅(「DOWNLOAD(PDF)」をクリック)
※10 角屋13代目にあたる久保田英介氏は、現在印南町で「ダルマ醤油」を営んでいる。
「おだしの日」認定、10月28日に » Lmaga.jp
以上のように、諸説はあるものの、現在では角屋甚太郎を「鰹節の創始者」とする考え方は概ね定着している※11ようであり、以下のリンクにある「朝日日本歴史人物事典(朝日新聞出版)」や鰹節の大手企業「にんべん」「ヤマキ」のWebサイトでも甚太郎の功績を大きく取り上げています。
※11 「初代甚太郎が燻乾法を開発し、2代目甚太郎が燻乾かび付け法を開発した」という説については必ずしも一般的になっていないようで、リンク先の資料でもこの点は曖昧にされている。
角屋甚太郎(かどや・じんたろう)とは? 意味や使い方 - コトバンク
鰹節の歴史|株式会社にんべん
かつお節大百科 歴史編|ヤマキ かつお節プラス|鰹節屋・だし屋、ヤマキ。
上記の坂下氏の講演にあるように、土佐で「燻乾かび付け法」を開発したとされる2代目甚太郎は宝永地震(1707)による津波で命を落としますが、これと相前後する宝永年間(1704~11)には同じく印南出身の森弥兵衛が枕崎(まくらざき 現在の鹿児島県枕崎市)へ同法による鰹節の製法を伝えました。
枕崎水産加工業協同組合が「枕崎鰹節製法伝来300年記念」として制作したWebサイトによると、この功績は明治44年に編纂された「東南方村(ひがし みなかたむら)郷土誌」に次のような記述があることから確認できるということです。
枕崎の鰹節製造の移り変わりについては、先にもふれたように、東南方村郷土誌(明治42年編集)に、
「枕崎の鰹節製造は、宝永年間(1704~11)、毛利英祐氏の祖、森弥兵衛が紀州より来り鰹節製造法を教えられ、追々当地方に広まったとのことである。
思うに、当時は鰹魚は近く沿痕に遊泳して容易に捕うることを得たものであろうが、これが製造貯蔵の法を知らなかったため、只、生食塩蔵にのみ使用せしものであろう。
ところが、上製造法の伝わると共に、その従業者も年々増加し、漁労の方法も追々改良進歩せられ、今より、150~160年前に至りてやや盛大に趣き秋田千代氏の祖秋田権作翁(寛政2年4月没)、故中村彦五郎氏の祖中村蔵右衛門(文政9年5月没) 丸谷久米氏の祖丸谷儀左衛門(享和1年9月没)翁等、その重要なる船主であったからして、今に権作船、儀左衛門船等の名称残り居るを見て、その事実の確実なるを知ることができる。」
とある。
同Webサイトにはまた「森弥兵衛 鹿籠(かご 現在の枕崎市の旧称)に伝える」という項があり、ここでは弥兵衛をはじめとする印南3漁民の功績を大きく紹介するとともに、前述の要海正夫氏の研究をもとに弥兵衛の家系などが詳しく解説されています。これによると、推測ではあるものの、弥兵衛は印南の有力な船主の縁者であり、宝永地震に伴う津波により印南浦が壊滅的な打撃を受けたことをきっかけに薩摩藩からスカウトされて枕崎に移住し、門外不出とされていた最新の鰹節製造技術(土佐と印南でのみ技術の伝承が許されていた)を同地に伝えたものであろうと記されています。
森弥兵衞 鹿籠に伝える
鰹節の食品価値を高め盤石にした功労者
江戸において、カツオ漁法と鰹節製法を全図の主要産地に伝えたのは、時代も違えば相互の関連もないが、期せずして紀州印南浦の3人の漁民であった。彼等の創始努力がやがて実を結んで、土佐、薩摩、伊豆は、天下に名だたる鰹節の名産地となるのである。
(中略)
江戸初期には初代甚太郎の土佐カツオ漁業開発があり、江戸後期には与市による伊豆、安房への鰹節改良法の伝授が行われ、その中間に当たる宝永年間には、森弥兵衛によって鹿籠(枕崎)の鰹節製造が創始された。与市は、独力で東国へ伝えた功績が高く評価される。また甚太郎、弥兵衛の2人は、それぞれ土佐藩、薩摩藩という大藩をバックに持つとはいうものの、中世末以来知られた鰹節の食品価値をより一層高め、磐石のものとした点で功績は絶大である。というのは、彼等は単に土佐節、薩摩節の名声を高めただけでなく、焙乾、カビ付けを含めた、現在の鰹節により近い優良品を市場に提供して、食味の世界に鰹節の旨味のすばらしさを充分に知らしめるきっかけを作った点で、高く評価されるからである。
印南カツオ船は、それぞれに船団を組んで出漁しているから、3人は、どの漁船団かに所属していたはずである。出自の最も明らかなのは甚太郎で、有力な船主の角屋一族であり、2代目甚太郎については、死亡年月と位牌まで印南の印定寺に残されている。経歴のほとんどわかっていないのは与市で、幼名が善五郎であるところから、善の字を冠する人の多い石橋屋系統ではないかとの見方がある(要海正夫氏説)。
弥兵衛は、この点でも2人の中間にあり、与市ほど身許不明ではないが、甚太郎ほどはっきりもしていない。3人の中でただ1人、森の姓を持つところから、先祖は由緒ある家柄だと推定され、印南浦に江戸時代から続く森家3軒につながるとみて間違いなかろう。森家は、浦の有力な船団主だった中村屋、戎屋とは深い縁戚関係にある。森3家のうち、安政3年に森若兵衛の子として生まれた徳太郎は、明治22年~大正11年に町長を7期、明治27年~大正4年に県議会議員を5期それぞれに勤めたほか、大正4年には県会議長にも選ばれている名望家である(印南の郷土史家、要海正夫氏調べ)。明治初年当時、このような顕職に就ける人は、江戸時代から代々庄屋格の家柄の出身であると見てまず間違いあるまい。
(中略)
「大野氏覚書」によれば、中村屋の祖先、治(次)郎右衛門は、日向で鰹旅漁を始めた江戸初期から、鰹節を製造した上で、大船を使って京坂地方へ輸送した人だという。
(中略)
中村屋本家は、市郎兵衛の子、次郎右衛門(襲名)を最後として、名跡は途絶えてしまう。その年代を勘案した場合に、宝永4年(1707)の大地震、大津波によって、一家全滅の悲運に見舞われたものとの推察が成り立つ。その中村屋の栄光と滅亡は、以下に記すとおり森弥兵衛の鹿龍移住と無関係ではない。
中村屋は、大阪へ向けて鰹節を輸送していたのだから、当然に大阪の塩干物鰹節問屋と親交を結んだはずである。戎屋船団に属する船主だったと見られる森弥兵衛は、製造に熱達すると同時に中村屋の縁で大阪の塩干物鰹節問屋衆にその名を知られたことであろう。しかも枕崎への鰹節製法の伝授者となったほどだから、その製造技能の優れた人であることも知られていたに違いない。
薩摩藩が、印南浦の災害を機会に鰹節問屋に依頼して技術者を招いた時、弥兵衛が選ばれたのは偶然ではないのである。
これより先、元禄初年前後にはカビ付け節が土佐に生まれていたから、宝永4年(1707)に移住した弥兵衛が、カビ付けまで含めた新製法を伝えたものとみてよい。
(中略)
以下は推測であるが、薩摩藩もしくはその依頼を受けた鰹節問屋は、大阪へ土佐節を運んでいた中村屋に着眼し、製法の伝授を依頼したけれども、中村屋としても印南浦の秘法厳守の錠を破ることはできない。
ところが折りよくと言おうか、宝永4年の大地震、大津波に襲われて、印南浦は壊滅的打撃を受けた。頼みにしていた中村屋本家の滅亡は大きな痛手だったが、この機を逃さず森弥兵衛を選び、移住を条件にして、技術指導の承諾を得た。彼としてもおそらく津波によって係累の多くが死亡するような災厄に遭っており、故郷へなんらかの未練を残さなかったのであろう。
紀州蕃もまた、未曽有の災厄に苦しむ浦人に対して、厳しく束縛できなかったのではないか。藩の諒解を得られたか、密出国か、ともかく彼は鹿寵へ渡り、温かく迎えられたのである。
令和2年(2020)の「水産加工統計調査(農林水産大臣官房統計部)」によれば、全国の鰹節生産量の7割以上が枕崎を含む鹿児島県産(鹿児島県内で枕崎に次ぐ生産地である指宿は、明治後期に本格的な鰹節の製造がはじめられた後発地である)であるとされており、鹿児島県は我が国の鰹節生産の最重要拠点となっているのですが、その技術を同地に伝えたのが印南出身の森弥兵衛であり、この地域の発展に弥兵衛が果たした役割はきわめて大きいものであったといえるでしょう。
節製品(節類・削りぶし)の産地 |
鰹節の製法を枕崎に伝えたのが森弥兵衛であったのに対し、安房(千葉県)・伊豆(静岡県)に伝えたのが與市(土佐與市、印南與市とも また「与一」「余市」との表記もある)です。
「南房総観光ポータルサイト 房総タウン.com」というWebサイトによれば、南房総市にある東仙寺という寺院には「土佐の与市の墓(南房総市指定有形文化財)」があり、下記のような解説板が設置されているとのことです。
與市(本名 善五郎)
宝暦八年(1758)、紀州日高郡印南村に生まれる。天明(1781~1789)の頃に当家、千倉町南朝夷 渡邊久右衛門に滞在し鰹節の製法を伝授して千倉町の隆盛に尽力した。後に伊豆に渡り鰹節製造を指導。享和二年(1802)再び当地に戻り久右衛門に寄寓し遂に本国に帰ることなく文化十二年(1815)三月二十三日満五十七歳の生涯を閉じる。久右衛門は與市の功を讃え、類縁として渡邊家墓地に葬る。
※かっこ内の西暦表記は筆者による
また、南房総市のWebサイトにある「千倉の民話」という項には「鰹節(かつおぶし)の土佐与市」という話が掲載されており、次のように與市の功績を紹介しています。
鰹節(かつおぶし)の土佐与市
房州の漁業は、江戸時代の初め関西の人たちによって開発されました。その訳は、徳川家康が江戸に幕府を開き、たくさんの人が住み着きますと、房州近海から獲れた魚が評判よく消費されるようになり、それを知った関西の漁師たちが、進んだ漁法や加工技術を引っ提げ、房州へ出稼ぎにやってきたからです。
その中に、「土佐与市」と呼ばれる人がいました。宝暦8年(1758)紀州に生まれた与市は、鰹節を作る名人でしたが、30歳の頃、家を出て東国の港町を渡り歩き、房州の南朝夷村に辿り着くと、網元の渡辺久右衛門の家に身を寄せたのです。
与市は渡辺家に、命の尽きるまで留まり、紀州の秘伝だった鰹節を作る方法を南朝夷の人たちに教えたのです。やがてそれは、太海や天津方面まで伝わり、当時の江戸市場で、房州産の鰹節の評判は、本場の熊節(紀州産の鰹節)と肩を並べるほどになったそうです。
与市の墓は、千倉町南朝夷の東仙寺にあります。房州の海産物加工に大きく貢献した人の墓ですから、皆さんも一度お参りしてみませんか。
與市の墓の解説板にあるように、與市は安房から伊豆に渡ってここでも鰹節の製法を伝えています。若林良和氏の「静岡県西伊豆町におけるカツオの産業と文化-「ぎょしょく」をもとにした地域モノグラフ(4)-(「愛媛大学社会共創学部紀要 第5巻第1号」愛媛大学社会共創学部 2021)」によれば、この與市の行動は浅草の鰹節問屋の主人・山田屋辰五郎が仲介したものであるとされています。
江戸期になると、カビ付けを1回だけのものを「節一乾」と呼び、土佐から大坂までの長い輸送に耐えられる改良土佐節が開発された。この製法は江戸後期に紀州印南浦出身の鰹節職人である土佐の与市によって他国へ伝播されたのである。安房の千倉で製法を紹介した与市は、1801(享和元)年、浅草の鰹節問屋の主人である山田屋辰五郎を介して、その実兄の高木五郎右衛門の居住する安良里地区と田子地区(筆者注:いずれも現在の静岡県賀茂郡西伊豆町にある地名)でその製造技法を伝授した。
(以下略)
このようにして、與市が安房に伝えた鰹節の製法は後に「房州節」と呼ばれるようになって南房総の名産となり、また伊豆に伝えた製法は「伊豆節(伊豆田子節)」として現在も製造が続けられています。
そして、伊豆に伝えられた技術がさらに発展を遂げた焼津は鰹節の一大生産地へと成長し、遂には枕崎、指宿と並ぶ「日本の三大鰹節生産地」と称されるほどに至っているのです。
南房総の歴史 水産業史
鰹節の歴史 – カネサ鰹節商店
焼津鰹節とは | 焼津鰹節水産加工業協同組合
しかしながら、「門外不出」とされる鰹節の製造技術を各地に伝えた與市の行動に対して故郷の印南での風当たりは強かったようで、上記「土佐の与市の墓」の解説板にあるように、與市は生涯本国(印南)に戻ることはできなかったということです。このことについて、上述の坂下氏の講演では次のように語られています。
印南与市について、この人も印南生まれで、千葉、そして伊豆に鰹節製法を伝えました。この方は、掟を意に介せず他国に広く製法を広げたようです。50歳頃印南に帰られたのですが、掟を破ったということで返されたんだそうです。でも最後には、千葉、 伊豆で大事にあがめられて、まつられたと言われています。
食と漁の地域活性化シンポジウム - 水産に関する普及啓発事業 ::: 一般財団法人 東京水産振興会 平成23年度 「食」と「漁」を考える地域シンポ 第10回 紀州漁民の活躍史とカツオ漁の今を考える
こうした歴史を考えれば「鰹節の故郷の地」であると言っても決して過言ではない印南町ですが、同地では現在鰹節の製造は行われていません。しかしながらカツオ漁は依然として盛んであり、特に「ケンケン釣り(疑似餌を使った引縄漁)」で釣り上げられたものは「地域団体商標 すさみケンケン鰹」として全国にその名が知られています。
すさみケンケン鰹 | 一般社団法人すさみ町観光協会
同町では、上記の坂下氏が会長を務める印南町文化協会が中心となって3漁民の顕彰を行っており、2代目甚太郎の命日(旧暦)である10月4日を「江戸時代・印南漁民顕彰の日」と定めて献花式などの行事を行っています。
地元紙「紀州新聞」の記事によれば、令和2年(2020)の式典に出席した同町の日裏町長は挨拶で次のように述べて、先人の勇気ある開拓者精神に負けないよう一層努力すると誓ったとのことです。
出席者が顕彰碑に献花し、日裏町長は「印南町ではかつお節は作られていないが、伝えられたそれぞれの地域が名だたる名産地と成長されていることは、この上もない喜びであり、我々印南町民の誇りでもある。印南町が『かつお節発祥の地』であることを全国に発信していくとともに、先人の勇気ある開拓者精神に負けないよう一層努力する」と誓った。
伝統的な日本食は平成25年(2013)に「和食;日本人の伝統的な食文化」としてユネスコ無形文化遺産に登録されましたが、その味の中核をなすものは「鰹節」などを用いた「だし」、そして「味噌」や「醤油」などの調味料であると言えるでしょう。
以前、「天狗の建てた寺 ~由良町門前~ 」という項で由良町にある興国寺が我が国における味噌・醤油の発祥地であるということを紹介しましたが、これに加えて印南が鰹節のルーツといえる場所であることを考えあわせると、紀州・和歌山はまさに「和食の原点の地」であると言うことができるのです。「和食」がユネスコ無形文化遺産に登録されています:農林水産省
和食の原点 発祥の地