生石高原の麓から

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小池の大日如来さま ~日高町小池~

  高さ83センチ。桧の寄木造り。背中の扉を聞けると、多くの古文書がある小池の大日如来。この如来さまの話は、応仁の乱にさかのぼる。

 
 応仁元年(1467)11月13日、日高町小池にあった妙楽寺が炎上、中の大日如来も首だけを残して焼け落ちた。それから約40年たった永正6年。鹿児島・蓮生院の二人の坊さんが、そろって眼を患った。ある夜二人の夢枕に立った神さまが「紀州小池庄の西山の麓の深林に入れば、輝くものを見るであろう。それこそ大日如来のお首だ。そのお首をとりたてて一体の尊像とすれば、眼病は全快するであろう」という。二人は早速、小池の庄に出かけ、林の中で大日如来の首を見つけ像を刻んだという。

 この大日如来さまは、今も小池の西福寺大日堂に安置されている。

 

 西山には最近、遊歩道ができ、いまは、ツツジやハギの花・ヤブツバキなど植物を訪ねる人々が多い。

 

(メモ:南海白浜急行バス阿尾行きで下志賀下車。徒歩約15分。)

 (出典:「紀州 民話の旅」 和歌山県 昭和57年)

西福寺

 

  • この物語については、日高町が編纂した「日高町」に「小池の大日如来さまの話」として次のように記載されている。

小池の大日如来さまの話

 日高町小池の西福寺浄土宗のお寺であるが、不思議なことに真言宗の本尊である大日如来が祭られている※1

 いまから約500年ほど昔の応仁の乱時代まで話はさかのぼるが、乱は紀州の田舎まで及び西福寺大日堂が炎上し、大日如来も焼けた。ところがありがたいことに、二日ほどして焼跡から大日如来お首だけが発見された。

 それから約40年ほどたった永正6年(1509) いまの鹿児島県にある蓮生院※2という寺の正八幡若宮の社僧、海重法印と、もう一人、正往院※3阿春房の二人の坊さんがこの八幡宮に仕えていた。この時代はお寺の中に神社が祭られているのが多かった。海重法印も、阿春房も眼病に苦しんでいた。しかし不思議なことにこの二人の坊さんがある晩、同時刻に八幡宮から霊夢をこうむったのである。
 夢の中に八幡宮の神が現れて言うには、お前たちの眼病は宿業の致すところである。お前たちがその病を治したいのであれば一つの祈願をおこすがよい。すなわち紀州日高の郡 小池の庄、西山の麓の深林に入ればそこに一つの輝くものを見るであろう。それこそ大日如来のお首である。そのお首をとりたてて一体の尊像とすればお前たちの眼病はたちまち全快するであろう
 夢からさめた二人は早速大隅の国を出て小池の庄に着いた。急いで場所を探すと、不思議にも夢のとおり茂った大木立の奥に光り輝やくものがあった。取り上げると正しく大日如来のお首であった。二人は斎戒沐浴して尊像を刻みお祭りして、寺の名を妙薬寺※4と呼んだ。そして、大日如来におまいりする人がしだいに増えた。

 それから200年ほどたって、妙薬寺はその寺号だけ財部へ移職したが、大日如来さまは今も小池の西福寺の大日堂に安置されている。

 

※筆者注:

  1. 大日如来は、真言密教において「一切諸仏諸尊(しょぶっしょそん)の根本仏」とされている。これは、全ての仏・全ての菩薩は大日如来より出生し、大日如来の徳をそれぞれが分担し、また衆生救済にあてられている諸尊の働きも大日如来の徳の顕現である、とする考えである。大日如来をはじめとする諸仏と縁を結び、その縁を通じて自らに厳しい修業を課すことによって悟りを開こうとする真言密教と、阿弥陀仏阿弥陀如来)を本尊とし、誰もが念仏を唱えることによって極楽浄土への往生(おうじょう)が可能であると説く浄土宗とでは、仏に対する向き合い方に大きな差があるものの、西福寺にはこの両者が併存していることをもって「不思議」と述べている。

    高野山霊宝館【収蔵品紹介:仏に関する基礎知識:大日如来】

  2. 上記本文及びこの項では「蓮生院」とされているが、次項で詳述する「日高町誌」の「西福寺」の項では「大隅国の蒲生院」となっている。「蒲生院(かもういん)」とは、寺院の名称ではなく鹿児島県の地名(現在の鹿児島県姶良市蒲生町の旧称である。
  3. この項では「正往院」とされているが、同じ「日高町誌」の「西福寺」の項では「正住院」となっている。
  4. 同様に、この項では「妙薬寺」とされているが、「日高町誌」の「西福寺」の項では「妙楽寺」となっている。 

 

  • 前述の「日高町」によれば、西福寺について次のように記述されている。

沿革史(寺歴)
 開山上人・開基年代ともに不詳なるも、応仁元(1467)年に兵火のため焼失したものか。
 開山から享保年間までの間不詳。享保のころ、最誉秀善上人住し爾後今日に及ぶ。
 当寺には本尊阿弥陀如来のほか、別堂に大日如来西山地蔵尊を祭る。遠近から参けい人多し。

 

小池の大日如来縁起
 小池西福寺境内の大日堂等身大の大日如来が祭られている。小池の大日ちゃんと愛称されている。付近の田を大日屋敷と呼んでいる。
 昔、小池庄には妙楽寺済広寺西福寺の三寺ありしも応仁の兵火で焼失したようである。その後永禄のころ(1558~1570)に和田に人家増加に伴い済広寺は和田(現在の美浜町和田)へ、また延享4年(1747)には天台宗妙楽寺は財部(現在の御坊市財部)へ移転したようである。妙楽寺が応仁の炎火にあった時、御堂とともに本尊大日如来も焼失したが不思議にも如来のお首だけが残り、これに後年胴体をつけて一体の座像となし大日堂を建ててここにおまつりし、後年妙楽寺が財部へ移転後も、ここに鎮座ましまして今日に至ったのでありますが、お首の継いだ所は素人にもうかがえる。
 この如来の背中のあたりに縦22センチメートル、横34センチメートルのとびらがあり、胎内に次の記あり。

 

刀始永正六年 十一月十五日 同七年二月九日成就
 右此尊像御頸尋由来応仁元年丙戌十一月十三日申時来焔火御堂共無残彼明火故畠山両家由相論熊野本領雖為用当敵放火去程比御頸同十五日従灰中出現濁世田舎雖栖寄異 事 如是愛妙楽寺当住侶阿聖致無二懇志求細工作続巳上従応仁元年丙戌迄永正七年庚午四十五年 叓成畢
細工九州 大隅国蒲生院正八幡若宮社僧 権大僧都 法印海重 正住院阿春房

 

 また、この大日如来由来書によれば
 大隅国蒲生院正八幡若宮の社僧権大僧都海重法印正住院阿春房はともに眼病を患うに、両僧ともに同夜同刻正八宮より霊夢を蒙り、話し合う所寸分違うところなし。霊夢に日く、汝等の眼病を治さんとせば一つの祈願を起こすべし。これより南紀日高の郡小池の庄に森林あり。ここに大日如来の御頸を見るなり。これを取り立て一体の尊像となさば眼病は早速に本快せんと。それより両僧大隅を発足し小池の森林を尋ね見るにもったいなくも御頸を拾い上げ細工を始めたり。これ永正六年巳年十一月、翌年二月九日成就、一宇既に建立し妙楽寺とし弥繁昌せり。今我が日本といえども大日如来の本国なり、衆生両眼ありといえども如来の光明によって黒白をわかち得、火を使うも皆これ如来の御力を受けるものなり。大日如来を信ずる者は父母孝養の心生ず。眼病の難ある時は祈願すべし。うんぬん
 徳本行者も18歳のころ、出家の本懐を遂げるべくこの大日如来に日参された。
 この大日如来とは、もともとサンスクリットでは毘盧遮那(ビルシャナ)と言い支那に伝来して大日(だいにち)と訳された。
毘=あまねく  盧遮那=光明照す でビルシャナとは光明遍照の意味である。

 

筆者注:徳本行者とは、江戸時代後期の浄土宗の僧・徳本上人(とくほん しょうにん 1758 - 1818)を指す。現在の日高町志賀の出身で、鉦(かね)や木魚を激しく打ち鳴らす独特の念仏によって「流行神(はやりがみ)」と称されるほどに全国で熱狂的に支持された。詳細は「徳本行者」の項で解説している。

徳本上人 ~川辺町(現日高川町)千津川~ - 生石高原の麓から

 

 

  • 大日如来の胴部を作成したとされる海重法印が住していた正八幡若宮は、現在の鹿児島県姶良市蒲生町にある神社。昭和61年(1986)に蒲生八幡神社(かもうはちまんじんじゃ)と改称した。社伝によれば、平安末期の保安4年(1123)蒲生院総領職であった蒲生上総介舜清(かもう かずさのすけ ちかきよ)が、宇佐八幡宮を勤請して創建されたと伝えられ、それ以降、蒲生家及び薩摩藩島津家から崇敬された。               

 

守護大名と奉公衆・寺社勢力

 

紀伊国守護畠山氏と寺社勢力

 山名義理(やまな よしただ/よしまさ)の後,紀伊の守護となったのが中国との貿易で豊かになった山陽地方の大名大内義弘です。その大内義弘も1399(応永6)年,足利義満と対立して滅ぼされ,畠山基国が守護となりました。基国はかつて紀伊国守護であった畠山国清の甥で,当時は将軍を助ける管領であり,紀伊のほかに河内大阪府越中富山県などの守護を兼ねる有力な守護大名でした。
 室町時代紀伊国が他の国と違うところは,高野山粉河寺・根来寺熊野三山(本宮・新宮・那智など,寺院や神社の勢力が強いことでした。これらの寺社は,地元に多くの荘園を持ち,独自の武力も持って,強力な支配を行っていました。1418年には,守護畠山氏の軍と熊野三山の軍が,田辺の支配をめぐって衝突し,守護方が大敗しました。また,1460(長禄4)年には,守護の軍と根来寺との間で,灌漑用水の使用をめぐって戦いになりましたが,これも守護方が敗北しています。このように寺社の武力は,守護畠山氏にとって,たいへん手ごわいものでした。

 

奉公衆湯河氏

 畠山氏は基国の後も,1573(天正元)年に室町幕府が滅びるまでの間,紀伊国守護大名でした。そのため,次第に畠山氏の家臣となる武士が増えていきました。
 しかし,南北朝の動乱の途中から幕府方についた湯河氏は,当時守護の力が弱かったこともあって,直接将軍の家臣となりました。湯河氏はもとは道湯川(どうゆかわ 田辺市を根拠地としていましたが,南北朝の動乱の間に,小松原御坊市に進出しました。有力な武士として活動した手取城日高川町玉置氏,竜松山城上富田町山本氏も湯河氏と同様に,将軍の家臣となりました。直接将軍の家臣となった地方の武士を奉公衆といいます。
 奉公衆は京都で将軍の護衛を行ったり,守護大名が大きな力を蓄えて,幕府に逆らわないよう監視する役目を持っていました。奉公衆は守護の力が及ばない支配地域を持っていました紀伊国は奉公衆や寺社勢力が強かったため,守護畠山氏は十分に力を伸ばせませんでした。
 湯河氏は日高平野を一望できる山の上に亀山城を築き,そのふもとに普段生活するための館を築きました。多くの戦国大名は,山城とふもとに館を築いていますので,湯河氏の計画は,戦国大名と同じものといえるでしょう。戦国時代の湯河氏は,日高郡から有田・牟婁郡へと勢力を拡大していきました。

応仁の乱紀伊国
 15世紀の中ごろ,8代将軍足利義政のときに,畠山氏の跡継ぎをめぐり,義就政長の間に争いがおこりました。これがひとつの原因となり,1467(応仁元)年,畠山義就と政長が京都で戦ったことをきっかけに,応仁の乱がおこりました。紀伊も畠山氏が守護だったことから戦乱にまきこまれましたが,根来寺湯河氏を味方につけた政長方が,有利に戦いを進めました
 15世紀中ごろの紀伊国では,政治が大きく変わることになりました。それとともに紀伊の守護所は,紀北の大野海南市から紀中の(広川町)に移されました。守護所とは,守護が領国の支配を行うために設置した役所です。移転の理由は,15世紀半ばには守護の力が紀南にも及ぶようになり,大野では不便になったからと考えられています。守護所が置かれた広は紀伊の政治・経済の中心地として,戦国時代をとおして栄えました。

わかやま発見|目次

 

湯河氏については、別項「湯川直春の亡霊」で詳述している。
 湯川直春の亡霊 ~日高町志賀~ - 生石高原の麓から

畠山基国が城と居館を築いた広庄については、別項「子育て地蔵」において解説を行っている。
 子育て地蔵 ~広川町広~ - 生石高原の麓から 

 

  • 上富田町が運営するサイト「上富田町文化財教室シリーズ」のうち「松山城と山本氏 畠山氏の内紛と山本氏」によると、応仁の乱の原因のひとつとなったのは畠山義就(はたけやま よしひろ/よしなり)畠山政長(はたけやま まさなが)との間の家督争いであるが、この際、紀伊において当初は義就方の畠山政国が優勢であったものの、後に政長方が優位に立ったとされる。この後、義就方から政長方に転向した山本氏(本拠地は現在の上富田町市ノ瀬にあった龍松山城)が幕府奉公衆として高家(現在の日高町高家の管理にあたったとされていることから、応仁の乱の初め頃にこの周辺地域で領主が交代するような争いがあったものと思われる。妙楽寺が炎上したとされるのは、これに関連した争いのひとつではないか。

 京都で応仁の乱が始まり、応仁元年(1467)6月5日に畠山政国紀伊を離れたことと、同6月3日に将軍が牙旗(筆者注:将軍旗)を東軍(細川勝元畠山政長方)に授けたことが加わって、紀伊では一転して、畠山政長方が優勢となった。山本氏の畠山義就(西軍)としての活動もここまでであった。山本氏は奉公衆であり、将軍が東軍について義就追討の命令を各方面に発したこともあって、山本氏は義就方への加担を止めたようだ。

 山本氏が東軍についたことで、幕府は高家(現日高町を御料所として山本氏に預け置いた。前述したように御料所を管理するのは、奉公衆としての務めである。高家荘は元来京都の大徳寺の荘園であり、御料所となったのは、応仁の乱の混乱によるものであったらしい。そのため、紀伊の状況が安定した文明四年(1472)十月、幕府は高家荘を大徳寺に還付している。

上富田町文化財教室シリーズ

 

  • 西山(標高328.7メートル)は、日本本土から南西諸島・台湾へかけて「渡り」を行うことで知られる蝶「アサギマダラ」の飛来地として知られ、現在、頂上付近には「西山ピクニック緑地・逍遙の森」が整備されている。
    西山ピクニック緑地・逍遙の森 | 和歌山県 日高町

 

  • メモ欄の南海白浜急行バス阿尾行きは現在熊野御坊南海バス阿尾線となっている。

 

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本ページの内容は、昭和57年に和歌山県が発行した「紀州 民話の旅」を復刻し、必要に応じ注釈(●印)を加えたものです。注釈のない場合でも、道路改修や施設整備等により記載内容が現状と大きく異なっている場合がありますので、ご注意ください。