生石高原の麓から

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子育て地蔵 ~広川町広~

 江戸時代の話。広の呉服屋「丸大」に長く投宿していた修業僧が、恩返しにと、自分が刻んだ地蔵尊を置いて行ったとか。小さな石仏なので、「丸大」では「長持ち」に安置していたところ、大津波でほとんどの家財道具が流されたにもかかわらず、長持ちだけはそのまま残ったという。

 

 その後、「丸大」に女の子が生まれたが、地蔵さんに親しみを持って病気もせずに成長。また近所の子供たちもこの地蔵さんにお願いすると、病気や痛みをすぐに治してくれるところから、この名がついた……と。


 このお地蔵さんは、いまも残っているともいうが、その所在ははっきりしない。

 

(メモ:広は広川町の中心部。国道42号線の西側。国鉄紀勢線湯浅駅から徒歩10分。)

(出典:「紀州 民話の旅」 和歌山県 昭和57年)

往時の賑わいを残す広の町並み(東濱口家住宅)

  

  • 子育て地蔵に関する伝承は、広川町(「ひろかわちょう」と呼ぶ人もいるが、正式名称は広報紙の紙名にもあるように「ひろがわちょう」である)の広報紙「広報ひろがわ 平成25年5月号 No.433」の「広川町誌からみる広川町」のコーナーで紹介されている。

-子育地蔵尊の話-


 昔、広の町が大繁昌していた時、「丸大」という大きな呉服屋があり、代々栄えた老舗であった。ある日訪れた一人の旅僧が一夜の宿を乞うたので、こころよく招き入れてもてなした。ところが、よほど居心地がよかったとみえて、相当永らく逗留してしまった。
 もともと修業の旅僧は、宿をかりるのは一夜かぎりで、居続けはせぬものと不文律があったのに。それはともかく、その僧は旅立つに当たり、いとまごいを述べて、何一つ恩返しは出来ないが、この地蔵尊は私自身が刻んだもので、どうぞ心をこめておまつりくださいといって去っていった。
 さて「丸大」家では、さしあたり長持ちの上に安置しておいたが、それは小さな石仏であった。そんなことが家人の記憶からうすれていくまでに年月を経てから、広に津波がおしよせてきた。みな命からがら逃げ出したが、やがて水もおさまったので、わが家のあたりにもどると、家は勿論、家財道具なに一つ満足なものはない。ところが、かの石仏とそれを置いた長持ちだけはそっくりそのまま残っていた。あらためてこの地蔵尊の有難さを痛感したことであった。
 それからまた時を経て、この家にセキという可愛い女の児が生まれたが、この児はいつとはなしにこの地蔵さんに親しみ、自分でもの等供えておまつりしていた。
 セキさんは地蔵さんのおかげか、虫気一つ起こさず順調に成長して、年頃の娘になった。
 子供の病気や痛みなど、この地蔵さまにお願いすると、即座になおしてくださるので、だれ言うとなく「子育地蔵」と名づけられた。

広報ひろがわ 平成25年|広川町

 

  • 本文では、この物語は江戸時代のこととされている。記録によれば、江戸時代に広地区に大きな被害をもたらした津波は3回あり、それぞれ慶長9年(1604)の「慶長地震」、宝永4年(1707)の「宝永地震」、安政元年(1854)の「安政南海地震」、に伴って発生したとされる。このうち慶長地震が発生した慶長9年は徳川家康征夷大将軍に就任した翌年であり、江戸幕府が開かれたといってもまだまだ政情不安定な時期であったことからこの時点で既に呉服屋が何代にもわたって繁盛していたとは考えにくい。また、安政南海地震とこれに伴う津波は前項の「稲むらの火」の逸話でよく知られているにもかかわらず、この「子育て地蔵」の物語は「稲むらの火」とは切り離して語り継がれているようである。こうしたことを考えると、この物語は宝永地震の前後にあった出来事と考えるのが適当か。ちなみに、近年の研究では宝永地震マグニチュードは8.4~9.3と推定されている。また、この地震からの49日後には富士山の大噴火が発生しており、このときに生じた噴火口が「宝永火口」である。
    宝永地震 - Wikipedia 
  • 宝永地震について、和歌山県立博物館施設活性化事業実行委員会が令和3年(2021)1月に発行した小冊子「先人たちが残してくれた「災害の記憶」を未来に伝えるⅥ -命と文化遺産とを守るために-【湯浅町・広川町】」では次のように記載されており、広村(現在の広川町広)でも津波による甚大な被害を被ったことが確認できる。

 今から314年前に起こった宝永地震津波では、湯浅村で家屋563軒・蔵65軒、広村で家屋850軒・蔵90軒が流失や破損する甚大な被害を受けました。その記憶を後世に伝えようと、記録に残した人たちがいました。ここで紹介する『宝永四年の大潮』は、地震発生直後に書かれた原本(所在不明)を書き写し、1冊にまとめて後世に警鐘を鳴らそうとしたものです。
 「宝永四年丁亥十月四日大潮」には、湯浅村・広村を中心とした被害の様子、被害がなかった栖原村や田村の様子も記されています。
(中略)

【現代語訳】(抜粋)
 宝永4年10月4日昼八つ半時(午後3時ごろ)地震があり、南西の方から大きな鳴動があった。その後、1時間ほど過ぎたころ、大潮津波が来て、高さは2.4mほどに達した。北川山田川は石垣を境に惣海、南川(広川)は雁木<がんぎ>・石垣を境に惣海となった。広村は広御殿跡(現在の養源寺)が一面の海となった。昼の騒動ではみんなが心得ていたので、湯浅村では60人ほどの溺死者であった。広村では潮が岡へ回ったため、早くも足を取られ、やむを得ず安楽寺の堂へ逃げ込んだが、願い叶わず、600人ほどが溺死してしまった
災害小冊子

 

  • 現在の広川町の基盤を築いたのは、応永7年(1400)に足利幕府から紀伊・河内の守護職を与えられた畠山基国(はたけやま もとくに)である。平安時代後期から南北朝時代にかけて、この地域は湯浅荘を本拠とする「湯浅党」の支配地であったが、天授5年(1379)に北朝方の山名義理(やまな よしただ)が湯浅城を攻略したことを契機に湯浅党は急速に勢力を失った。この功績により一旦は山名義理守護職に就いたが、山名は後に大内義弘に討たれ、さらにこの大内を討った畠山基国紀伊国守護の職に就いた。この畠山基国が城と居館を築いたのが広庄(現在の広川町)である。江戸時代後期に編纂された地誌「紀伊風土記」によれば、当時の広地域は「郡中一都会の地」であったとされる。

 畠山氏は応永7年(1400)から永正12年(1515)約110年余りの間、紀伊国守護職に就いた。畠山氏は、広庄天洲の浜を埋め立て居館を作り、海岸沿いに四百間余の波除石垣を築いた。畠山氏による新田開発もあったと伝わる。現在の養源寺の境内は、畠山政長(はたけやま まさなが)が築いた「畠山御殿」の跡である。
 畠山氏の城下町的存在であった広浦は、港には諸国の船の出入りも多く、海岸に開かれた市場も大繁盛であったという。室町末期には広千七百軒との伝承もある。江戸時代後期に書かれた『紀伊風土記』巻五十九広村の記事に「此地古は海中 後世陸地となり 運送の便宜きに因り 人家次第に充満し 富豪の者多く 広の町の名起れり 其後畠山氏が邸宅を建て 益々繁栄するに従いて 土地狭小なれば 洲浜へ家宅を建出し 四百軒余の波除石垣を西北の海浜に築き 郡中一都会の地になりぬ」とある。
(広川町歴史的風致維持向上計画 令和元年12月)
広川町歴史的風致維持向上計画|広川町

 

  • 本文の物語の舞台となった江戸時代には、広地域は漁業で大変栄えていた。広の漁民たちは、紀伊半島沿岸のみならず、(いわし)を追って遠く関東まで進出しており、最盛期には約3,000人が諸国へ漁に出ていたとされる。

 近世初期、広浦漁民は鰯を追って遠く西国関東などの諸国沿岸に出漁を開始した。八手網まかせ網による鰯漁で、慶長の初めの頃(1596~1600)には、その網数は80帖を数え船団を組んで出漁した。当時、広浦から諸国沿岸に出漁した漁民数は、網一帖につき漁夫30~40人ずつであったことから、約3,000人に及んだ模様である。
(広川町歴史的風致維持向上計画 令和元年12月)
広川町歴史的風致維持向上計画|広川町

 

  • 広庄から関東へ漁に出た漁民の中に崎山治郎右衛門(さきやま じろうえもん)という人物がいた。治郎右衛門は、海難に遭ったところを飯沼村・高神村(いずれも現在の千葉県銚子市の人々に助けられたことから、その恩返しのために同地の漁港整備に取り組んだ。あわせて紀州から多くの漁師を呼び寄せ、漁業技術を伝承するとともに、漁港建設や街並み整備にも取り組んだ銚子市が発行する広報紙「広報ちょうし 平成20年6月号」では、「外川のまち開発の祖」として崎山治郎右衛門の功績を次のように紹介している。
    崎山次郎右衛門とは - コトバンク

崎山次郎右衛門
(元禄元年[1688]78歳で死去)

 紀州和歌山出身の次郎右衛門は、明暦2年(1656)に銚子・飯沼村(現、銚子市東部地域)に移り住み、マカセ網と呼ばれる新しい漁法でイワシ漁を始めました。
 万治元年(1658)には、外川浦の波止場の築港工事を始め、これと並行して外川の町並み整備を進めました。
 大正11年(1922)の改修までの約250年間、一度も修理されなかったという見事な築港は、わずか6カ年で完成。町並み整備では、波止場を中心に自然をたくみに活かし、縦横に街路を走らせた碁盤目状の区画整理を行いました。
 また、次郎右衛門は、紀州から多くの人々を外川に呼び寄せ、漁業と海運を営み、当時の外川の盛況ぶりは、今でも「外川千軒大繁昌」と語り継がれています。
 このように当時、名実ともに関東一の外川港を築港した次郎右衛門の先覚的な業績は語り継がれるべきものといえるでしょう。
(広報ちょうし 平成20年6月号 P16)

広報ちょうし平成20年6月号、議会だよりNo.186 | 銚子市

 

 初代濱口儀兵衛紀州から銚子に渡り、ヤマサ醤油を創業したのは1645年(正保2年)です。 新しい漁労法で大成功をおさめて銚子外川港を作った、同じく紀州出身の崎山次郎右衛門という人物に刺激されて銚子での商売を始めたのではないかといわれています。以来、ヤマサ醤油は創業から3世紀半以上、途中若干の起伏盛衰はありましたが、12代に渡り品質の高い醤油を作り続けてます。 同時に、銚子は気候が醤油作りに最適な紀州とよく似ていることもあり、漁業だけではなく醤油の町としても発展していきました。
ヤマサ醤油紀州から銚子へ」
紀州から銚子へ 【ヤマサ醤油株式会社】 

 

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本ページの内容は、昭和57年に和歌山県が発行した「紀州 民話の旅」を復刻し、必要に応じ注釈(●印)を加えたものです。注釈のない場合でも、道路改修や施設整備等により記載内容が現状と大きく異なっている場合がありますので、ご注意ください。