生石高原の麓から

和歌山の歴史・文化・伝承などを気ままに書き連ねています

稲むらの火 ~広川町天州~

 チャポン、チャポンと、根気よく打ち寄せる小さな波が、西陽に輝やいてみえた。ひっそりとした堤の上に人影はなく、浜風に揺れる櫨(はぜ)の小技だけが、いつまでも、かすかな音を立て続けていた。

 

 
 かつて涼しい緑陰をつくり、人家を浜風から守ったという松は、マツクイムシの被害でそのおもかげをとどめず、数本を残すのみとなった櫨の大木が「あの日」を語りかけてくれる。

 土地の人は、いまもここを「ごりょさんの堤防」と呼ぶ。丹精こめた稲束に火をつけて、多くの人命を津波から守り、後年、ばく大な私費を投じて防波堤をつくったという浜口梧陵。百余年を経て、なお人々の胸の内にある梧陵はまた、近代日本の行く道を説いた先覚者の一人でもあった。

 広川の河口に近い天州(てんす)から、市場、中ノ町と伸び、内海町までの650メートル。人々がその巨大な堤を歩くとき、必ずといってよいほど「あの事件」が語られる。

 

 江戸時代も終わりに近づいた安政元年(1854)11月5日。湯浅湾に面した広村(広川町広)では、タ方から村祭りがはじまった。儀兵衛も祭りばやしに誘われて出かけようとしたとき、大きな地震がやってきた。それは、長く激しい揺れだった。
 やがて儀兵衛は、祭りに出かけた。と、そこで儀兵衛は、海の異変に気がついた。
 動いている。真っ黒な海が、沖へ沖へと。砂浜が沖へ広がり、大きな岩が次々と姿を現わしてくるのが、暗闇の中でかすかな影となって見えてくる。


 「えらいこっちゃ。津波が来る
 津波が押し寄せる前には、潮がいったん引くという。儀兵衛は、直感的に津波を感じとった。

 

 「早く、みんなに知らせなきゃ」あわてて家へ引き返した儀兵衛は、タイマツの火を振りかざしながら神社へと走った。
 「津波が来るぞー
 「早よう、山へ逃げよー
 儀兵衛は叫んだ。しかし、祭りに夢中になっている村人の耳には入らない。彼らは、地震さえ知らなかったのかも。

 

 「あかん。このままじゃ、えらいことになるぞ
 儀兵衛がつぎに取った手段は、刈り取られて脱穀を待つ稲むらを燃やすことだった……。

 小泉八雲が「生ける神」として小説に書き、小学校の教科書にも紹介された「稲むらの火」。儀兵衛がまだ30路の半ばにも達していないときのことだった。
 儀兵衛が堤防を築いたのは、安政2年2月から。3年10か月をかけた堤防は、堤頂幅2メートル、基礎の幅15メートル、高さ8メートル。ひと抱えもある石を無数に積み上げ、その上に土を盛った堤防は、昭和36年の「第二室戸台風」で石積みが流されるまで100年間、ビクともせずに、人々を荒波から守り続けてきた。当時としては、思い切った築堤の方法といい、いま国指定の史跡。

 

 中世、畠山基国が築いたという堤防をもひと呑みにし、広の村を一瞬のうちに廃虚と化してしまった安政の大津波は、いまや、古い昔のできごとでしかなくなった。

 

 「命さえあれば、家なんか、また建てられるさ。田畑も開懇すりゃええんじゃ
 何もかもが姿を消してしまった集落の跡と、はるかな沖に、無数に浮かんだワラ屋根を見やりながらつぶやいた村人の言葉通り、広の街並みはいま、たくましい息吹きを感じさせる。

 だが、たとえ話は昔に去ったとしても、その史実と、人々の儀兵衛に寄せる思いには変わりはない。
 広川寄りの堤の上には「史跡広村堤防」の碑とともに、自然石の巨大な「感恩碑」が立つ。


 儀兵衛は文政3年(1820)6月15日の生まれ。二十代で開国を唱え、幕府に容れられないと知るや、郷里に「耐久社」を開いて、近郊の若者たちに「いかに生くべきか」を説き続けたともいう。
 やがて明治。満を持していたかのように躍り出た儀兵衛は、13年の県議会開設と同時に初代議長。17年にはアメリカへ渡ったが、翌18年4月21日、二ューヨークに客死した。66歳だった。「成則」と名乗った儀兵衛は、また「梧陵」とも号した。

 

(メモ:広村堤防は国道42号線から約1キロ、国鉄紀勢線湯浅駅から歩いて20分。すぐそばに、畠山基国が築いた堤防がある。また名島の国道から西へ約1キロ入った山本には、梧陵の墓もある。) 

(出典:「紀州 民話の旅」 和歌山県 昭和57年)

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初代県議会議長 濵口梧陵像 (和歌山県庁)
  • 「稲(いな)むら(叢)の火」は、安政元年(1854)11月5日に発生した安政南海地震とこれに伴う津波に際しての出来事をもとにした物語である。明治29年(1896)に小泉八雲ラフカディオ・ハーン)が英語で記した「A Living God (生ける神)」が原典となるが、これはあくまでも史実をもとにした創作であり、史実とは異なる部分も多い。この作品は日本人の宗教観を説明することに主眼が置かれており、濵口五兵衛(儀兵衛をモデルとした人物)が存命中に「濵口大明神」と称されて神社が建立されたと書くが、史実では儀兵衛の意向により神社建立計画は中止されている。

 

  • 耐久中学校(濵口儀兵衛が創立した耐久社を前身とする)出身の中井常蔵(なかい つねぞう 1907 - 1994)は、南部小学校日高郡みなべ町の教員を務めていたとき、文部省による国定教科書の国語教材公募を知り、小泉八雲の「A Living God」を児童向けに翻訳・再構成した「燃ゆる稲むら」を応募作として提出した。この作品は「稲むらの火」と改題したうえで国定教科書に採用され、昭和12年(1937)から昭和22年(1947)までの間、全国の尋常小学校で教材として使用された

 

  • 平成23年(2011)度から平成26年(2014)度まで使用された光村図書出版小学5年生用教科書「国語 五 銀河」には、「百年後のふるさとを守る」のタイトルで、河田惠昭(かわた よしあき 人と防災未来センター長)氏が書いた浜口儀兵衛の伝記が掲載された。文中では国定教科書に掲載されていた「稲むらの火」の一部も紹介されているが、この教科書が使用開始される直前の平成23年3月に東日本大震災が発生したことから、大きな注目を集めることとなった。また、東日本大震災の被災地にある小学校では、児童の心理的な負担に配慮してこの単元を差し替えて教えたとも伝えられている。

 

 我が国では、「天災は忘れたころにやってくる。」と言われます。これは、我が国が、地震・台風・火山噴火などの災害に不意に見舞われ、繰り返し犠牲を払ってきた苦い経験にもとづく教訓であります。
 現在世界で使われているtsunamiが日本語であることはご存じでしょうか。それほどに、我が国は過去度々津波による被害を経験してまいりました。
 今から150年ほど前に巨大な地震とそれに続いて津波が発生したときに英雄的行動をとった、ある村の庄屋の話が現在まで伝えられています。彼は、地震の直後、海岸からはるか沖まで波が引いていくのを見つけました。津波襲来にまつわる先祖代々の言い伝えを思い出し、「これはきっと津波が来る」と考えました。しかし、村人全てに事情を説明して回るいとまはありません。そこで、即座に、村で収穫された稲の束に火をつけ、これに気づいた村人たちを高台に誘導しました。この迅速な判断と行動によって、村を襲った津波から、多くの村人を救ったのです。この庄屋は、その後、私財を投げ打ち、村人と協力して、集落の面する海岸に大きな堤防を築きました。彼の作った堤防は、それから約90年後、再び村を襲った津波の際に、多くの命を救いました
 この話は、災害についての知識や教訓を常に頭に入れておくこと、災害発生の際には、迅速に判断し行動をとること、そして、日ごろから災害への備えを怠らないことの重要性を教えています。

(以下略)
国連防災世界会議 総理ステートメント

 

  • この会議を契機として、アジア諸国の防災担当者の中で一般市民に対する防災意識啓発の重要性が認識されるようになった。これを踏まえ、アジア諸国の防災能力強化を目的として設立された「アジア防災センター(神戸市 1998設立)」では、「アジア地域における『稲むらの火』普及プロジェクト」として、「稲むらの火」を外国語に翻訳した教材を作成し、各国に提供している。この教材は、単なる翻訳ではなく、登場人物の名前や顔、衣服、習慣などをそれぞれの国にあわせて変更することで各国の人々に違和感なく受け入れられるように配慮していることが特徴で、現在、下記のとおり8か国に向けて9言語版が作成されている。

バングラデシュ向け ベンガル語
インド向け ヒンディ語版、タミル語
インドネシア向け インドネシア語
マレーシア向け マレー語版
ネパール向け ネパール語
フィリピン向け 英語版(大人用)、タガログ語版(子ども用)
シンガポール向け 英語版
スリランカ向け シンハラ語版(大人用)、シンハラ語版(子ども用)

 

  • 平成23年(2011)、東北地方の太平洋沖で発生したマグニチュード9.0の巨大地震東北地方太平洋沖地震)は、東北・関東地方の沿岸部に波高10メートル以上、最大遡上高40メートル以上の大規模津波を発生させた。警察庁の調べ(2019年12月10日時点)によれば死者は1万5899人とされているが、その90パーセント以上が津波による溺死であるとされている。
    東日本大震災 - Wikipedia
  • 同年6月、国会において「津波対策の推進に関する法律」が可決、成立した。この法律は、津波による被害から国民の生命、身体及び財産を保護するために必要な事項を定めたものであるが、その中で11月5日を「津波防災の日」とすることもあわせて定められた。これは、稲むらの火の故事にちなみ、安政南海地震の発生日である11月5日を選定したものである。ちなみに、この法律の前文では東日本大震災による甚大な国民生活への影響について述べているが、もともとこの法律は平成22年(2010)2月に発生したチリ地震を教訓にしたものであり、一旦は同年6月に議員立法で提案されたが、当時の与党民主党が消極的であったため本格審議は行われていなかった。こうした状況のもとで東日本大震災が発生したことから、震災後の平成23年(2011)に法案を一部修正して国会に再度提案され、無事可決成立に至ったものである。

 

  • 平成27年(2015)、国連総会本会議において11月5日を「世界津波の日」とする決議が採択された。これについて、外務省は下記のとおり報道発表を行っており、11月5日が「稲むらの火」に由来することを明確にしている。

我が国が提案した「世界津波の日」の決議の国連総会本会議での採択
       平成27年12月23日

1 12月23日(現地時間22日),ニューヨークで開催中の第70回国連総会本会議で「世界津波の日」を定める決議がコンセンサスにより採択されました。

2 この決議は,第3回国連防災世界会議及び持続可能な開発のための2030アジェンダのフォローアップとして,我が国をはじめ142か国が共に提案したもので,11月5日を「世界津波の日」として制定するものです。この決議により,津波の脅威について関心が高まり,その対策が進むことが期待されます。

(参考)
1 決議の具体的な内容としては,
(1)11月5日を「世界津波の日」として制定すること,
(2)早期警報,伝統的知識の活用,「より良い復興」を通じた災害への備えと迅速な情報共有の重要性を認識すること,
(3)すべての加盟国,組織,個人に対して,津波に関する意識を向上するために,適切な方法で,世界津波の日を遵守することを要請すること,
等を含む。

2 11月5日を指定することは1854年11月5日に和歌山県で起きた大津波の際に,村人が自らの収穫した稲むらに火をつけることで早期に警報を発し,避難させたことにより村民の命を救い,被災地のより良い復興に尽力した稲むらの火」の逸話に由来する

 3 この決議は,12月5日(現地時間4日),国連総会第2委員会において,コンセンサスにより採択されていた。

 

  • 平成30年(2018)5月、広村堤防を含む広川町内の史跡などが「『百世の安堵(あんど)』~津波と復興の記憶が生きる広川の防災遺産~」として「日本遺産」に認定された。日本遺産は、我が国の文化財保護制度の一環で、各地域の魅力溢れる有形・無形の文化財群を一つのストーリーとし、地域が主体となって整備活用し、国内外へ発信することで地域活性化を図ることを目的としたものである。令和2年(2020)度までに全国で104件が認定されており、文化庁としてはこれをもって新規認定を当面終了する考えとしている。ちなみに、和歌山県内市町村が関係する日本遺産は以下のとおりである。

    百世の安堵 - 和歌山広川町の日本遺産

鯨とともに生きる新宮市那智勝浦町太地町串本町
絶景の宝庫 和歌の浦和歌山市海南市
「最初の一滴」醤油醸造の発祥の地 紀州湯浅湯浅町
「百世の安堵」~津波と復興の記憶が生きる広川の防災遺産~(広川町)
1300年つづく日本の終活の旅〜西国三十三所観音巡礼〜那智勝浦町和歌山市紀の川市ほか)
女性とともに今に息づく女人高野~時を超え、時に合わせて見守り続ける癒しの聖地~九度山町高野町ほか)
「葛城修験」-里人とともに守り伝える修験道はじまりの地和歌山市橋本市紀の川市岩出市かつらぎ町ほか)

 

  • 濵口儀兵衛(はまぐち ぎへえ)」とは、紀伊国有田郡広村(現:和歌山県広川町)をルーツとし、江戸時代初頭に下総国銚子(現:千葉県銚子市で創業した醤油醸造業者・廣屋儀兵衛商店(現在のヤマサ醤油の当主に代々受け継がれる名前である。また、初代濱口儀兵衛の兄は初代濱口吉右衛門といい、後のヒゲタ醤油につながる家系となる(詳細は後述)
  • 稲むらの火の逸話で知られる濵口儀兵衛(1820 - 1885)は、正式には「7代目 濱口儀兵衛」となる。雅号(本名以外に本人が名乗る風雅な名前)として「梧陵(ごりょう)」の名を用いており、他の「儀兵衛」と区別するために「濵口梧陵」と呼ばれることも多いため、本稿では特に注釈がない限り呼び名を「梧陵」で統一する。(以下、経歴は主にWikipedia「濵口梧陵」の項による)
    濱口梧陵 - Wikipedia
  • 梧陵は、濱口家の分家七右衛門の長男として生まれるが、12歳で本家の養子となり、銚子に移った。30歳で広村に帰郷して事業を行い、嘉永5年(1852)には同業者と協力して現在の県立耐久高等学校の前身となる「耐久舎」を開設した。嘉永7年(1854)頃に7代目濱口儀兵衛を名乗り、事業を相続するが、安政南海地震が発生し、「稲むらの火」の逸話が生まれたのはちょうどそのころのことであった。
  • 安政南海地震の後、梧陵は私財を投じて災害復旧につとめたほか、広村堤防の修理・築造にも取り組んだ。これは、荒廃した被災地の住民に仕事を与える一種の失業対策事業であるとともに、将来の災害に備えての防災事業でもあった。現在で言えば緊急雇用対策としての防災・改良復旧事業であり、これに投じた梧陵の私財は4,665両にのぼると伝えられている。
  • 慶応4年(1868)には商人身分ながら異例の抜擢を受けて紀州藩勘定奉行に任命され、維新後には藩校教授大参事(副知事に相当)を歴任するなど、藩政改革の中心に立って紀州藩和歌山県経済の近代化に尽力した。その後、明治4年(1871)年には、大久保利通の要請で明治新政府の初代駅逓頭(えきていのかみ、郵政大臣に就任するものの、権頭(次官)であった前島密との確執もあって半年足らずで辞職した。
  • 明治13年(1880)年、県内1区8郡から選ばれた43人の議員で構成される和歌山県議会において、初代の県会議長に就任した。和歌山県庁には、梧陵の功績をたたえて銅像が建立されている。
  • 梧陵は家業の醤油醸造業もおろそかにせず、「ヤマサ醤油」の7代目当主として幕末の動乱の中で事業を守り、発展の礎を築いた。同社のWebサイトでは、梧陵の経営について次のように記載している。
    戦前の国定教科書にものった「稲むらの火」 【ヤマサ醤油株式会社】

1864年(元治元年)、ヤマサ醤油が幕府より特に品質に優れた醤油として認められ、最上醤油の称号を得たのも梧陵の時代です。
また、これからは日本も洋食の時代が来るとして、8代儀兵衛(梧荘)は国産ソース第一号のミカドソースを作り米国に輸出しましたが、これは常に海外に目を向けていた梧陵の志を継いだ功績です。

 

  • ヤマサ醤油創業家である濵口儀兵衛家は通称「西濵口家」と呼ばれる。これに対して、ヒゲタ醤油のルーツの一つも紀州広村出身の濵口家(浜口吉右衛門)であり、こちらは通称「東濱口家」と呼ばれる。東濱口家はもともと醤油問屋を業としていたが、9代目吉右衛門実弟浜口吉兵衛(1868-1940)が、現在のヤマサ醤油株式会社を設立した10代目濵口儀兵衛梧洞)とともに海外視察を行ったことがきっかけで醤油蔵を買収し、「ジガミサ」という商標で醤油醸造に乗り出した。
  • 濵口吉兵衛が興した「ジガミサ印」は、大正3年(1914)に、田中家の「ヒゲタ印」、深井家の「カギダイ印」と合併して銚子醤油合資会社を設立し、昭和51年(1976)に現在の社名であるヒゲタ醤油株式会社となった。
  • 昭和60年(1985)度上半期のNHK連続テレビ小説として放映された「澪つくし(みおつくし)」のモデルはヒゲタ醤油とされる。同作に登場する醤油会社「入兆」を経営する坂東家は紀州に本家があるという設定となっていた。
    澪つくし - Wikipedia

 

  • 前述の9代目濵口吉右衛門は、実業家、政治家として活躍し、豊国銀行頭取、富士瓦斯紡績社長、九州水力電気社長、猪苗代水力電気取締役、東洋拓殖設立委員などを務めた人物である。その長女・尚子(ひさこ)は嵯峨家30代当主・侯爵・嵯峨実勝(さが さねとう)の妻となった。
  • 嵯峨実勝・尚子夫妻の長女・(ひろ)は、昭和12年(1937)、清国最後の皇帝にして満州国皇帝愛新覚羅溥儀(あいしんかくら ふぎ)の弟である愛新覚羅溥傑(あいしんかくら ふけつ)の妻となった。これは、満州国皇帝溥儀が、弟の溥傑を日本の皇族女子と結婚させて血縁関係を持ちたいと考えていたのに対し、日本の皇室典範はこれを許さなかったことから、満州への影響力を維持したい関東軍の主導によって昭和天皇の遠縁(父親同士が母系のまたいとこ、八親等)にあたる嵯峨浩との結婚が進められたものであり、明白な政略結婚であった。
  • 発端は政略結婚ではあったものの、愛新覚羅溥傑・浩夫妻は愛情で結ばれていた。流転の日々を乗り越えて、二人は最終的に北京でともに暮らし、浩は昭和62年(1987)に、そして溥傑は平成6年(1994)にそれぞれ亡くなった。
    愛新覚羅浩 - NPO法人 国際留学生協会/向学新聞

 

 

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本ページの内容は、昭和57年に和歌山県が発行した「紀州 民話の旅」を復刻し、必要に応じ注釈(●印)を加えたものです。注釈のない場合でも、道路改修や施設整備等により記載内容が現状と大きく異なっている場合がありますので、ご注意ください。