生石高原の麓から

和歌山の歴史・文化・伝承などを気ままに書き連ねています

三兵衛の義挙 ~上富田町朝来~

  江戸時代、朝来村の農民は、厳しい年貢の取り立てに苦しめられていた。その上、その年の稲の出来具合いを調べる「毛見(けみ)の回数が多く、そのたびに村人たちは、役人に白い飯を炊いてもてなした。

 

 「毛見があったからといって、年貢が減る訳でもない。毛見が少なければ、子どもに米を食わせることができるのに・・・」村人のそんな話を聞くと、正義感の強い三兵衛は、死罪になるのを覚悟で、奉行に直訴しようと腹を決めた。女房も「私や子どもの事は心配いりません」と、けなげにいう。


 このうわさが、やがて役人に知れ、三兵衛は捕えられてス巻きにされ、川へ投げ込まれた。


 その後、毛見の回数が少なくなり、村人の暮らしは楽になった。いま円鏡寺に建つ三兵衛の供養塔には「鉄堂祖心信士 文政九年五月二十六日」と彫られている。いまから160年ほど前のことだ。

 

(メモ:円鏡寺は国鉄紀勢線朝来駅から徒歩8分。国鉄バスを生馬口で下車してすぐ近く。)

(出典:「紀州 民話の旅」 和歌山県 昭和57年)

三兵衛の墓がある円鏡寺

 

あっそ 朝来上富田町
「あっそう」ともいう。富田川の下流域右岸の沖積地および丘陵付近に位置する。地名の由来は、「アサコ」より転化したとする説、アイヌ語に基づくとする説、この地に広がっていた湿地の意から起こったとする説など、諸説あるが不詳。

難読・難解な地名である。類似の地名に朝来帰(あさらぎ)朝来(あさら)且来(あっそ)がある。兵庫県朝来郡を「あさご」と読むので、「あさご → あそ → あっそ」となったと思われる。「(接頭語)」+「さこ(迫・狭い谷)」のこと。

 

円鏡寺
 臨済宗妙心寺派に属する寺院、本尊は薬師如来坐像
 寺伝によると天文5年(1536)南嶺元浦和尚によって寺山(今の地の西500メートル)に創建、元禄年間鉄翁祖元和尚が現在の勝景地に移した。同14年(1701)本堂以下堂宇も建立されたと伝う。山門は昭和41年(1966)に大改修され、現在の本堂は昭和57年(1982)、庫院は平成4年(1992)に改築された。境内墓地(本堂側)に、文政のころ毎年秋の毛見巡検の接待(他村では一日の滞在に対し朝来下村では交通が便利なため二・三日滞在する)に苦しんで、農民三兵衛がこの制度の改革を直訴し遂に処刑された。
 この義民「鐵堂祖心信士」の墓がある。また当寺観音堂には紀南では少ない奪衣婆(三途河で亡者の衣類をはぎ取るという鬼女)の木像もある。
       上富田文化財 出典

 

  • 円鏡寺の境内には「義民三兵衛由来記」と題された看板が掲示されており、ここには三兵衛の義挙について次のように記述されている。

義民三兵衛由来記
 朝来九十歩の住人三兵衛は農民の苦しみを訴え藩の役人に悪政を改めるよう強く要望した為、文政四年十月十七日西ノ谷の牢屋に入れられたが獄中でも主張をやめなかったのでお上を恐れぬ不届者として翌文政五年(今から約百六十年前)死刑に処せられました。
 このことがあって翌年から藩の政策が改められ農民の負担が軽減され人々は三兵衛さんのお蔭と感謝し義民三兵衛と敬ひ永く徳を讃えるようになりました。

 

  • また、上富田町が編纂した「上富田町」では「民俗」の項に次のような物語が収載されている。

義民三兵衛
 昔、朝来に三兵衛さんちゅう人住んだあってん(住んでいたそうな)。三兵衛さんは、毎年毎年毛見の役人さんが入れ替わり、立ち替りやってきて、飲み食いするのに腹立てて、郡の奉行所(へ)抗議したんや。奉行所で調べたところ、ほかの庄屋ら口つぐんでほんま(本当)のこと言わなんでんとう(言わなかったそうだ)。ほいで(それで)三兵衛がうその申し立てをして役人の悪口言うたちゅうて(悪口を言ったということで)牢屋に入れられてん。
 三兵衛は毎日調べられたけど、けっして嘘やないて言い張ったもんやさか(言い張ったものだから)、とうとう簾巻き(すまき 人を筵(むしろ)で巻いた上から縄で縛って動けなくすること)にして海へほり込まれてしもてん(投げ込まれてしまった)。でもそいからは(それからは)毛見に来ても飲み食いすることはやまって(止んで)、村の人ら大喜びしてん。ほいで三兵衛が死んでから命をかけて村の人救てくれたちゅうて、円鏡寺石碑立てて、いまに村の人のお参りがたえんということや。
※筆者注:かっこ内は筆者による

  • 毛見(けみ)」は「検見」の古い表記。近世の日本における年貢徴収法の代表的なもので、米の収穫前に領主が役人を派遣して稲のできを調べ、その年の年貢高を決めることをさす。

 

  • 上富田町」では、上記引用文にある伝承とは別に「第4章 幕藩制の動揺と農村の変化」という項において「義民三兵衛」という見出しを設けてこの物語についての詳細な検証を行っている。このうち、主要な部分を下記のとおり引用する。

義民三兵衛
 朝来村下村の三兵衛が農民の苦しみを救おうとして官権に抗議し、残酷な処刑をうけたと伝えられ、その墓が円鏡寺にあり、義民としてあがめられている。
 自然石の三兵衛の墓には、「鉄堂祖心信士」という戒名が大きく刻まれ、左側面に「下邑九十歩俗名三兵衛」、右側面に「文政九庚戌(ママ五月廿六日」とある。もっとも、寺の過去帳には三兵衛の名は出てこず、何も記載されていない。
※筆者注:文政九年は「庚戌(かのえ いぬ)」ではなく「丙戌(ひのえ いぬ)」が正しい。

 三兵衛の義民としての事績を具体的に明らかにできる史料はなく、墓石を除けばいわば伝承上の人物の観がある。しかし、田辺の『万代記(筆者注:代々田辺組大庄屋をつとめた田所家の古記録)』に三兵衛の入牢などの記事があり、当時の田辺領の状況からしても、その伝承にはかなり信憑性があると推測される。三兵衛について伝えられているのは次のようなことである。

 毎年の年貢を決めるのに、郡奉行一行の毛見があり、そのあとまたすぐ代官の毛見が行われた。そのために村民が大勢出なければならぬ上、役人に対する接待や饗応は繁雑で経費もかかり、農民の負担が大きく生活を苦しめていた。
 三兵衛はそれを慨嘆し、近村の庄屋たちを語らって、郡奉行の毛見巡検は無意味で有害であると上申した。そこで、代官の事実調査が行われたが、各村の庄屋は口を閉ざし、越訴の責任を三兵衛一人に押しつけた。三兵衛は妻の励ましもあり、農民の困窮を救おうと頑強に言い張り、節を曲げなかった。そのため遂に獄に投ぜられたが、獄中でも同じ主張を繰り返したので、お上に逆らうものであるとして、簾巻きの刑にされて天神崎の海中に投ぜられたといわれる。
※筆者注:「越訴(おっそ、えっそ)」とは、正規の手続きを経ずに上級の役所に訴え出ることを指す。
 そのことがあったためか翌年から郡奉行の毛見が廃止され、村民の負担が軽くなった。人々はひそかに三兵衛の義挙を徳とし、後に碑を建てたのである(『朝来村郷土誌』)

 

文化・文政期の毛見
 田辺の『万代記』によれば、文化年間前後の田辺領の稲作毛見は、領内を東方と西方に二分して、日程を組んで同時に行われ、まず郡奉行一行の巡検があり、更に何日か隔てて同じように代官一行の巡検があった。いつからそうなったか不明であるが、宝暦10年(1760)には、既に郡奉行と代官による二重の毛見が実施され、それが年々変わりがないばかりか人数がふえたりして、文政4年(1821)まで続いた。
(略)
 これで明らかなように、朝来下村の場合は、役人一行を二日ずつ接待し、この年は四日連続したことになる。大勢の人足を出さねばならぬ上、このように役人を接待するのは、たしかに村にとって大きな負担であった。


三兵衛の入牢

 史実の面からみた場合、朝来の三兵衛が田辺西ノ谷村の牢に入れられたのは、文政4年(1821)10月17日である。(略)収監の理由は明らかでない
(略)
 『万代記』に取り上げられた関係記録によって、三兵衛は文政4年(1821)10月17日に西ノ谷村の牢屋に入れられ、牢腐の刑(筆者注:終身刑を受けて、約4年後の文政8年(1825)8月19日の時点まで牢中にいたことは明らかである。


三兵衛の死とその後

 文政8年の『万代記』の記事で、三兵衛が8月20日の早朝支度をしたのは、牢改めのためであったと推定されるが、その後の三兵衛に関することは、いまのところ史料がなく不明である。
 ただ、円鏡寺の石碑に刻まれた文政9年(1826)5月26日は、この時から9か月余り後であるから、三兵衛の死去の時期とみるのが自然であろう。
 伝承では、簀巻きにして西ノ谷村天神崎の海中に投ぜられたとされているから、牢中での死後あるいはそうした処置がとられたのかもしれない。しかし、紀州藩の刑法には海中投棄などの処刑が存在せず、義民としてあがめられ伝えられてゆくなかで、生まれてきた仮構である可能性がある
 三兵衛は生前よく赤い鉢巻をしていたといわれ、その死後田畑に夜盗虫(筆者注:ヨトウムシ)が多量に発生したが、その虫の頭に赤い筋が入っていたので、俗にこれを三兵衛虫といい、三兵衛のたたりでないかと恐れられたと伝えられている(朝来風土記)。
 なお、三兵衛の義挙の翌年から毛見の巡検は代官のみとなり、郡奉行の巡検がなくなったのは事実である。これは文政5年(1822)に郡奉行が廃止されたからである。『万代記』同年5月27日の条に、「此度御国御一統之品思召を以郡奉行闕役被仰付、在中取扱之儀御代官一箇ニ被仰付」とあり、本藩同様に郡奉行を廃止するというわけで、郡奉行だった駒田五左衛門を代官上席に就かせるなどして、郡奉行は代官に一本化された。
 これが三兵衛の義挙と関係があるかどうかは明らかでないが、当時の農民たちが三兵衛のおかげで郡奉行の毛見が廃止されたとみたことはまちがいない。 

 

  • 平成25年(2013)2月24日、上富田町の住民有志でつくる「町民創作劇実行委員会」がこの物語に題材をとった創作劇「三兵衛 ~ 義民と呼ばれた男」を上演した。同会のブログ「上富田町民創作劇 稽古日記」ではその稽古の様子や公演後の新聞記事などが紹介されている。同ブログに掲載されている紀伊民報の記事によれば、公演は昼と夜の2回行われ、合計約1,100人が来場したという。

    kamitonda.exblog.jp

 

 

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本ページの内容は、昭和57年に和歌山県が発行した「紀州 民話の旅」を復刻し、必要に応じ注釈(●印)を加えたものです。注釈のない場合でも、道路改修や施設整備等により記載内容が現状と大きく異なっている場合がありますので、ご注意ください。