その名の通り、豊かな水田がひろがる上富田の里。だが、かつてこのあたりは、富田川のはんらんで多くの沼ができ、芦が生い茂って、たくさんの鶴が飛来したという。
400年ほど前、この村に腕ききの猟師と、心やさしい、おたえという娘が住んでいた。そこへ見知らぬ男が訪れ、「鶴を射ってくれ。高い金で買おう」と誘った。
鶴は撃つことを禁じられていたが、猟師は「金が入れば、娘の嫁入り支度ができる」と、深夜ひそかに家をぬけ出して鶴を撃ち、その金でおたえに美しい反物を買って喜こばせた。猟師の密猟はそれからも続き、とうとうおたえに知られてしまった。
おたえは必死になって止めたが、猟師は娘の願いを聞き入れなかった。ある夜、猟師は、ひときわ美しい鶴を見つけ、夢中で引き金を引いた。鶴が倒れたので駈け寄ると、それは息絶えたおたえだった。その日から、あれほど多かった鶴の群れが消えたという。
- この物語は、上富田町が編纂した「上富田町史」の「伝説」の項に「鶴を助けたおたえ」という題名で次のように収載されている。ここでは鶴を撃つことは禁じられておらず、鶴猟は父親の生業であったとされており、おたえは銃弾が急所を外れていたため命を取りとめたことになっている。
鶴を助けたおたえ
昔、朝来におたえちゅう器量のええ娘はん住んだあったんや。おたえの父親は猟師で、大沼に集まってくる鴨や鶴ら撃ってきては、そいを売って暮らしを立てやったんや。
でも、おたえは優しい子やったはか(だったので)、おとはんが鶴撃ってくんのを見るたんびに「お願いだから鶴を撃つのやめて」て、言うんやけど、お父はんはなかなか止めんねて(やめないのだそうだ)。ほいで(それで)おたえは、よし今晩こそお父はんに鶴撃つの止めさいたろ(やめさせてやろう)と思て真白い着物着て、大沼の方い(へ)出ていってんとう(出ていったのだそうだ)。
そい知らんと(それを知らずに)、お父はん真夜中に起き出いて、鶴撃ちにいてんちゅわだ(行ったというではないか)。ほいたら(そうしたら)、お月さんの薄明かりに、白い鶴、立ったあんねとう(立っていたのだそうだ)。ほいで(それで)、鉄砲構えてどーんて撃ってんとう(撃ったのだそうだ)。ほいたら、鶴はちょっと羽をばたばたさいて倒れてんて(羽をばたばたさせて倒れたのだと)。
猟師は「今晩も鶴とれた」て喜んで、沼い(へ)ざぶざぶ入って拾いにいてん(行った)。ほいて近寄ってみたら鶴やと思たのは、白い着物着た娘のおたえやってん(だったのだ)。猟師はびっくりして、おたえを負うて家へ戻ってきて介抱してんとう(介抱したのだそうだ)。おたえのきずは急所外れたあったさか(外れていたので)よかったけど、そいから無師はびたっと鶴撃ちにいくの止めたとう(やめたということだ)。
※筆者注:かっこ内は筆者による。
- また、昭和5年(1930)に発行された那須晴次著「伝説の熊野(郷土研究会)」には、「鶴と猟師の娘」という題名で、次のような物語が収載されている。ここでは、鶴を撃つことは領主によって禁止されていたとし、撃たれた娘(名は記されていない)は落命したとする。
鶴と猟師の娘(朝来)
昔と言っても未だ安藤侯※1がこの地方の領主であられた時分に、それ以前までは鶴が非常に多く田畑を荒すことも僅少ではなかった。それで田辺朝来等の人々は作物の害を防ぐ為、一方利益の為に多く之を射殺したものであった。それで、あれ程多かった鶴も年々に減じて来た。英邁なる安藤侯は早くもこの事に気をとめられ、鶴の種の絶えん事を憂えられた。それで「以後は鶴射るべからず 必ず追ふべし、従わざるものは罰すべし」という法度をお出しになった。そして役人を設けてその追番とした位であった。それでも役人の目をぬすんでは鶴をうつ者が非常に多かった。所が朝来に或る猟師(名は不明)があった。毎日狩に行くのであるが、鶴がうたれなくなってからは猟は少くなった。それで悪心を起し夜に入っては役人の目をぬすんで法度の鶴をうって居た。
この猟師には一人の娘があった。父の残酷にひきかえ彼女は非常に従順で、而も遵法の志が厚かった。日頃彼女は何度となく父の鶴を撃つことを止める様に諌めた。けれども、頑固で残忍な父はその一人娘の諌言に耳をもかさなかった。彼女は終に意を決した。真夜中頃「おいづる※2」に身を包んだ彼女は人知れず裏口から消えた。
一時間程して一箇の黒影は猟師の家の裏口に現れた。彼はあたりを見まわした。---物におびえた様に。微かな月光は彼の顔を照らしてすごみをおびて居た。彼の手には短銃が握られて居た。突然彼は立止って月明りに向うを凝視した。白いものが沼の中に立って居る。正しく鶴だ。彼はねらいを定めた。一発の銃声はあたりを気味の悪い程にこだました。と同時に白いものはその儘そこに斃(たお)れた。勿論彼は駆け寄った。
彼は何を見ただろうか。彼は殆んど失神せんばかりに驚いた。鶴と見たのは白い「おいづる」を着た一少女であった。而も彼自身の娘だった。彼は今は冷たくなった娘をひしとだきしめた。彼は男なきに泣いた。彼は始めて目が醒めたのだった。夢遊病患者が或る刺激にあって本心に立ち帰った様に。
※1 筆者注:江戸時代に紀伊田辺藩主であった安藤家の当主を指す。歴代藩主のうち最も良く知られているのは徳川頼宣の懐刀と呼ばれた紀州藩付家老・田辺藩初代藩主の安藤直次(あんどう なおつぐ 1555 - 1635 1619から田辺藩主)なので、この人物を指すものか。
頼宣の懐刀! 徳川家に忠誠を誓った付家老・安藤直次 | わかやま歴史物語
※2 筆者注:「おいづる(笈摺)」は、巡礼の際に着用する白色の単(ひとえ)の袖なし上着のことをいう。
笈摺とは - コトバンク
- 昭和54年(1979)に発行された「和歌山の伝説(和歌山県小学校教育研究会国語部会編著 日本標準)」には「むすめづる」という題名で次のような物語が掲載されている。上述の「伝説の熊野」と比較するとかなり脚色が加えられているように思われるが、内容・題名を考慮すると、本文の物語はこれを参考にしたものであろう。
むすめづる -西牟婁郡上富田町
今から400年ほど昔、上富田(西牟婁郡上富田町)の村里にあったと伝えられる話です。
たんぼがあったり、沼があったりする荒れ野の真ん中に、一軒の貧しい猟師の家がありました。猟師には、おたえという一人の娘がいました。
とっぷり暮れたある冬の日のことでした。
見知らぬ男が一人、猟師の家にやってきて、こんな話を始めたのです。
「あんたは、ここらあたりで、めっぽう腕の立つ猟師だちゅうことを聞いての頼みやが・・・。」
そこまで言うと、男は猟師のそばににじり寄り、耳もとで声をひそめてこう言うのでした。
「ツルを撃たんかね。高く買いとるがのう。」
あまりの事に、猟師は思わず声を出すところでした。
ツルは、撃つことはもちろん、飼うことさえもいけないとされていました。土地の領主から固く禁じられていたのです。
「馬鹿な事を言いなさんな。そんなことをしたら、きついお咎めを頂戴する。」
そう言って、猟師はきっぱりと断りました。
ところが、次の日も、またその次の日も、日暮れを待って、男は猟師のところにやって来ました。
「捕まらんように、夜撃つのや。よい金儲けになるんやがなあ。」
男は、しつこく頼むのでした。
それから、幾日か経ちました。
町から帰った父は、にこにこしながら、おたえに風呂敷包みを渡しました。中からは、それはそれは手にしたこともない美しい反物が出てきました。
「まあ、きれい。」
「おまえも、そろそろ嫁入りごしらえをせにゃいかんな。わしが貧乏なばっかりに、苦労ばかりかけて、何一つ支度をしてやれなんだ。今日、ちょっとまとまった金が入ったんで買ってきたんや。おまえの着物を作るといい。」
「私の嫁入りのために。」
おたえは、とび上がって喜びました。
それから、おたえは野良の仕事の合間をみつけては着物を縫いました。
もうすぐ縫い上がるという、ある夜のことでした。
おたえは、着物を着た自分の姿を思い浮かべたり、嬉しそうにそばで見つめている父の様子を思ったりして、なかなか寝付かれませんでした。
その時、カタッという物音がして、裏の戸が開いたようでした。おたえが起き出してみると、土間に父が立っていました。しかも、その足元に、一羽のツルが埋もれるように置かれていました。おたえは、恐ろしさのあまりぶるぶる震えました。
「父さん。」
「しっ、大きな声、出すんじゃない。なに、心配せんでもいい。たった一羽のことだ。」
「父さん、やめて。今日、私、辻でお触れを見たのよ。隣村の弥助さんが、ツルを撃って、捕らえられたそうよ。だから、父さん、ツルを撃つのだけは、やめて。」
「でもな、儂らにとっては、こうでもせんと金が入らんからな。金が無いと、お前になんにもしてやれんしな。」
「私は着物なんか無くてもいいの。今のままで、父さんと二人でいるのがいいの。父さんの身に、もしものことがあったら大変だから。」
「うん、判ったよ。もう心配せんでもいい。さあ、はよ寝よ。」
おたえは、父の言葉を信じていました。けれど、父は、それからもツルを撃ちました。おたえが何度頼んでも聞き入れてはくれませんでした。
それから間もない、ある月の明るい夜のことでした。
寝静まるのを待って、おたえは足音を忍ばせて外に出ていきました。仕上がったばかりの着物をきちんと身につけたおたえは、一度我が家をふりかえってから、うつむいたまま立ち去っていきました。その後ろ姿を、月の光が見送っていました。
しばらくしてから、おたえの家の裏木戸から、頬かむりをした父が、あたりを見まわしながら出てきました。手には鉄砲が握られていました。
荒れ野を横ぎり、村のはずれの朽ちかけた土橋をわたりました。
と、向こうのくさむらに、一羽のツルを見つけました。
「ほっ、今夜は早々とおいでなすった。」
猟師は、鉄砲に弾をこめると、身をかがめて、ツルに近づいていきました。
ツルは、その気配に感づいたのか、少し身動きしたようでした。
猟師は、すばやく狙いをつけました。
「ダーン。」
銃声はあたりに気味悪くこだまし、同時に、ツルはその場に倒れました。
猟師は、駆けつけました。けれど、その場のありさまに、猟師は立ちすくんでしまいました。それは、おたえだったのです。
「お、おたえ、しっかりせえ、しっかりせえ。」
父は、娘をひしと抱きながら、必死で叫びました。
「父さん、・・・ツルだけは・・・やめて。・・・」
苦しい息の底からそういうと、おたえは息を引き取りました。
「おたえ、おたえ。」
おたえの体を抱きしめたまま、父は男泣きに泣き崩れました。
月が、一段と高く昇っていきました。
おたえの着物にも、夜露がおりはじめていました。
文・奥村カ※筆者注:読みやすさを考慮して、原文のひらがなを適宜漢字にあらためた
- 上富田町朝来地区は低地にあり、上記上富田町史からの引用文にもあるようにかつては「大沼」と呼ばれる沼があった。これについて、上富田町が管理するWebサイト「上富田町文化財教室シリーズ」のうち「上富田町の地名 -無形文化財としての地名-」の項には次のような記述があり、「エコロジーの先駆者」とも呼ばれる和歌山県出身の博物学者・南方熊楠がその埋め立てに反対していたことが伺われる。
地名は地形的特徴からつけられた例が多いが、その地形的特徴が今も残っている場合、たとえ残っていなくともその地名が明確にその地域の特徴を捉えてさえいれば、その意味も比較的容易に理解できる。たとえば、朝来の「大沼」である。南方熊楠が埋め立てに反対した沼地がそのまま地名として残したので、景観的にはまったく残されていないが、陸橋から眺めてみるとそこが元沼地で湿地帯が広がっていたことが想像できるのである。
上富田町文化財教室シリーズ
- 上述のWebサイト「上富田町文化財教室シリーズ」には富田川に関する記事も掲載されている。このうち「藩政時代の水害と治水 -富田川の災害と治水(その1)- 富田川について」の項から一部を引用する。これによれば、現在の富田川(とんだがわ)には近世まで明確に定まった名が無く、古い記録には「石田川(いわたがわ 「岩田川」とも書く)」と書かれているが、概ね上流では「栗栖川(くりすがわ)」、中流では「岩田川」、下流では「富田川」と呼ばれていたようである。
大和国十津川郷と境を接する果無山脈の安堵山(1184m)に源を発する富田川は、中川、鍛冶屋川、石船川、岡川、生馬川など多くの支流を集めて南西方向に流れ、富田の中村で紀伊水道に注いでいる。「河川箇所表」によると、延長33.6km、流域面積240平方kmといわれる。鮎川付近から上流は渓谷であるが、それより下流は沖積平野で、牟婁地方最大の水田地帯をつくっている。
富田川は、記録の上では、弘仁12年(821)夏、天台宗の高僧智証大師が熊野を訪れたとき、「石田川」(現富田川)を通過したと記されているのがもっとも古い。
また、「中右記」の天仁2年(1109)10月23日に、熊野参詣に向う藤原宗忠も「石田川」を渡っているし、有名な「熊野御幸記」においても、後鳥羽上皇の熊野参詣に随行した藤原定家が、「石田河」を渡ったのは建仁元年(1201)10月13日である。また、「平家物語」や「源平盛衰記」などにも岩田川がみえている。熊野参詣途上の中世の歌人たちによっても、「石田河」「いはた河」「岩田川」が和歌の中に詠まれているこの川が、熊野参詣の垢離場でもあった。岩田荘内を通過する熊野参詣者たちが、河水で身を清め、渡河するこの大川を、「いわたがわ」と称していた。
(略)
近世後期(文化~天保頃)に編纂された『紀伊続風土記』は、上流部では、栗栖川、中流部では岩田川、下流部では富田川と称したと記されており、近代以前は統一した川の呼称はなかったようである。
(略)
近世には富田川の河川の管理は、田辺安藤氏にまかされていたが、明治七年以後国庫の定額金にあらためられ、さらに再三にわたる改編をしながら、明治二十二年以降は地方税支弁となっている。『和歌山県誌』は、富田川について、「(西牟婁)同郡栗栖川村大字真砂字カト谷より同郡富田村大字富田字川口海口まで」として、本流全長を県費支弁の対象にしていないが、支流の岡川、内ノ井川を含んで指定していると述べている。
富田川の呼称が、この大川の呼称として定着していくのは、明治後期以降ではないかと推測される。
川沿いには、上流から二川、栗栖川(現中辺路町)、中流には鮎川(現大塔村)、市ノ瀬、岩田、朝来、生馬(現上富田町)、下流には北富田、南富田、東富田(現白浜町)などの各村が存在している。
富田川は、これらの村々の農業の発展はもちろん、舟運による物資の運輸、人々の交流などをとおして、流域一帯の経済圏や文化圏を形成して、そこに住む人々の生活に大きな恵みをもたらしてきた。
しかし富田川は、また一変して怒涛を起こし、濁流が氾濫して未曽有の大洪水によって人家に多大の被害を及ぼすこともあった。そのため流域の人々は、堤防の整備や川ざらえなど常日ごろから防備を怠らなかった。そして、災害の状況を記録に残したり、水害の記念碑や水難者の供養碑を建てたり、追弔の法要を営んだり、ありとあらゆる方法で後世の人々に対して教訓とすべきことがらを伝えていこうとしてきた。
(以下略)
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本ページの内容は、昭和57年に和歌山県が発行した「紀州 民話の旅」を復刻し、必要に応じ注釈(●印)を加えたものです。注釈のない場合でも、道路改修や施設整備等により記載内容が現状と大きく異なっている場合がありますので、ご注意ください。