生石高原の麓から

和歌山の歴史・文化・伝承などを気ままに書き連ねています

首大仏・無量光寺(和歌山市吹上)

 「和歌山あれやこれや」のカテゴリーでは、和歌山県内各地に伝わる歴史や伝承などを気ままに紹介していきます。

 

 今回は「首大(くびだいぶつ)」があることで知られる和歌山市吹上の「無量光寺(むりょうこうじ)」を紹介します。

 

 前項、前々項では和歌山市寺町通に面した場所にある恵運寺窓誉寺という寺院をそれぞれ紹介しましたが、今回は寺町通の南側の通りに面して山門がある「無量光寺」という寺院を紹介します。

 この寺院は、文政12年(1829 文政11年との資料もある)紀州徳川家第十代藩主徳川治宝の時代に徳本上人を開基として創建されたもので、高さ約3mという巨大な首だけの大仏首大仏)が鎮座していることで知られています。
※徳本(とくほん)は江戸時代後期の浄土宗の僧。「南無阿弥陀仏」の念仏を唱えて日本全国を行脚し庶民から熱狂的な支持を得た。詳細は「徳本上人」の項を参照されたい。徳本上人 ~川辺町(現日高川町)千津川~

無量光寺首大

 浄土宗が編纂した「Web版 新纂浄土宗大辞典」では、同寺について次のように解説されています。

無量光寺 むりょうこうじ

 和歌山市吹上。里宮山(りぐうさん)寿経院。和歌山教区№8。本弁の開基。
 文政12年(1829)、徳本の高弟であった本弁紀伊国紀州藩徳川治宝(はるとみ)の内命を得て、京都の法然院を模し不断念仏道場として創建。遺徳により徳本を開山とする。
 明治41年(1908)、廃寺になった末寺の大福寺より頭部のみの首大を迎え入れる。
 九品院(愛知県岡崎市所蔵と同一の『徳本行者集』写本や広島県安芸高田市甲立(こうたち)の民家から移管された資料など徳本関係資料を多く伝える。
 徳本自筆の名号を所蔵。
無量光寺 - 新纂浄土宗大辞典

 

 記録によれば、この首大仏の由緒は江戸時代の享保年間(1730年頃)に遡ります。
 和歌山城下の武家屋敷に仕えていた青年が仏に仕えることを決意し、修行を経て浄土宗の僧侶となって蓮心と名乗るようになりました。蓮心は、名草郡納定(現在の宮北小学校のあたり)にあった荒廃した辻堂(後に大福寺となる)を修復し仏道に励みます。
 あるとき蓮心の眼前に高さ一丈六尺(約5m)に及ぶ仏の姿が現れたことから、蓮心は村人の助力を受けて「露座唐金の丈六佛(「露座(ろざ)」は屋根の無い場所にあること、「唐金(からがね)」は青銅のこと、「丈六佛(じょうろくぶつ)」は高さ一丈六尺の仏像のこと、をそれぞれ示す)」を建立したのです。
 この仏像は近隣の人々の信仰を集めて大変賑わいましたが、残念なことに蓮心の死後に火災が発生し、この仏像も焼失してしまいました。 村人達は悲嘆にくれますが、やがて再興を決意し、今度は鎌倉の大仏に匹敵するような大仏を作ろうと、まずは毘盧舎那佛大日如来の首だけを鋳造することにしました。
 こうして現在も残る毘盧舎那佛の首は見事に完成し、天保11年(1804年)に開眼大法要が営まれました。その後、村人たちは胴体を作ろうと金策に苦心したのですが、なかなか実現にはいたらず、やがて安政元年(1854年)に発生した南海地震により大福寺そのものが壊滅的な被害を受けてしまいました。
 これにより大福寺は寺を維持していくことが困難になったため、明治41年(1908年)に至って廃寺となってしまいます。このときに、首だけの大仏は大福寺の本山にあたる無量光寺へと移して安置されることとなったのです。
 こうした経緯について和歌山市役所のWebサイトでは次のように解説しており、ここでは首大仏を無量光寺へ移そうとした際に不思議な出来事が起きたために一度は移設が中止されたものの、遂に大福寺が廃寺となったことから移設に至ったという物語が記されています。

無量光寺(むりょうこうじ)
 文政11年、10第藩主徳川治宝の時代に、徳本上人を開基として創建されました。
 寺格として最高位を表す5本の白い横筋が入った築地塀、そして、「禁葷酒肉」、「禁殺生」と刻まれた石碑が建つ山門をくぐると、高さ約3メートルの首だけの大仏があります。地元では、首大(くびだいぶつ)の名で親しまれ、「首から上のことなら何でもご利益がある」とされ、受験シーズンが近づくと多くの受験生が参拝します。
 首大仏ができたきっかけは、江戸時代の半ば、和歌山城下の武家屋敷に仕えていた青年が主人を送り出そうと主人の草履を揃えようとした際、主人の草履の上に自分の数珠を落とすという「不吉」な無礼を働いたことから始まります。青年は、無礼者と主人から叱られ、自分の部屋以外で数珠を持つことと念佛を唱えることを禁じられました。幼い頃から佛心を持ったこの青年は、3日間一睡もせず考え悩み、主人の許しを得て、武家奉公の一切を断ち、御佛に仕えることを決意します。
 青年は、生まれ故郷・大橋村(現日高郡みなべ町菩提寺萬福寺で剃髪出家の儀式を受け、京都の本山に登嶺、3年間の修行にて浄土宗の僧侶となり蓮心と名乗りました。2年後和歌山に帰り着き、名草郡納定にあった破れ傾いた辻堂(後に大福寺と称す。跡地に宮北小学校が建つ。)で足を止め、修復し、怠らぬ念佛三昧に励んでいたところ、ロウソクの火が揺らめき、壇上の御佛が異様に輝き出し、一丈六尺(約4.85メートル)に及ぶ佛様がパッと目の前に現れました。その不思議な現象を村人に語ると、蓮心和尚のためならと村人たちの衆力により露座唐金の丈六佛が建立され、丈六堂と名付けられました。以後、蓮心に教えを請う者が後を絶たなかったといわれています。
 蓮心滅後、66年後に丈六堂が火災にあい、丈六の大佛が溶けてしまい悲嘆にくれた村人が丈六堂の再興を発願したものの、徳川末期の世態でかなわず、焼け跡を無量光寺の末寺に加え大福寺として復興されることとなりました。第2代は鎌倉の大仏様を目標にと、初代大仏のとけた銅を利用して、まず昆盧遮那佛のお首だけを溶銅で鋳造しました。その後お首に佛体を継ぐことを何度も企てられましたが世勢の騒憂にかなわず、さらに納定の大福寺の伽藍も安政元年の大地震で全部壊滅し、時世とともに寺の維持も困難となり、結局佛体が作られることはありませんでした。
 大福寺が吹上の無量光寺へ合併されることになった際、惜しむ村人を横目に首大仏はコロに載せ運び出されました。もう一息で納定の地を離れるというところで、コロが燃え出し、首大仏は、納定の方向を振り返りみるように傾き、惜しむ村人の方を見つめたという不思議な出来事が起こり、一度目の運搬は中止されました。
 その後、再び修復されたお堂も暴風雨で大破し、明治41年(1908)廃寺。首大は、本寺である吹上の無量光寺に安置されるようになり、現在に至ります。
寺社・名所旧跡(市内中心部)|和歌山市

無量光寺の首大仏 - Wikipedia

 

 ちなみに、この首大仏の高さは約3mですが、モデルとなった鎌倉大仏の顔の長さは2.35mとされており※1、この比率どおりに胴体が制作されていればその高さは約14m鎌倉大仏の高さは約11m)ということになるようです。(ちなみに、プロポーションはだいぶ異なりますが東大寺の大仏の顔の長さは約5.3mとされており※2、この比率に従えば高さは約8.5mとなります)
※1 【鎌倉の歴史】鎌倉の大仏は誰が、何のためにつくったの? - 古都ごとく鎌倉
※2 東大寺 | 見どころガイド | 奈良の世界遺産学習 もっと奈良っちゃう WEB


 和歌山市役所の紹介文にもあるとおり、この首大仏は「おぼとけさま」と呼ばれて現在も多くの人々の信仰を集めており、「首から上の願いはなんでも叶えてくれる」として、受験生の参詣者も多いそうです。
無量光寺の首大仏(むりょうこうじのおぼとけ)|はっけん 穴場和歌山 ゆるくて、おもしろい