生石高原の麓から

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煙樹ヶ浜の狐 ~美浜町和田~

 あたかも煙が、ゆったりと浜辺にたなびいているかのようだとして、名付けられたとか。その「煙樹ヶ浜(えんじゅがはま)」のみごとな松林。かつて十万本を超えたという松林だが、最近はマツクイムシの猛攻にあい、徳本上人が沖行く船の安全を祈って百日百夜、念仏を唱えて植えたとされる「念仏松」も伐り倒された。古老たちは「煙樹ヶ浜は寂しくなるばかりや」と嘆く。

 

 それでもいまなお、狐とりの話が、まことしやかに語りつがれている。

 

 明治のはじめ、吉原村狐とりの名人がいて、ネズミの天ぷらで毎晩のように狐を釣った。ある晩、巡査に化けた狐を釣り上げて帰ると、雌狐が「コン、コーン」と悲しげに鳴いてまわりをうろつき、雄狐を連れ戻していった~とか。

 

(メモ:煙樹ヶ浜は幅500メートル、長さ6キロもある日本有数の大松林。南海白浜急行バス日の岬パーク行きで和田下車、徒歩2分。「アメリカ村」(美浜町三尾)にも近い。) 

(出典:「紀州 民話の旅」 和歌山県 昭和57年)

念仏松跡

 

  • 煙樹ヶ浜(えんじゅがはま)は、日高川河口から約4.5キロメートル(現在)にわたって続く砂利の海岸。海岸線に沿って、初代紀州藩徳川頼宣防潮林として植えさせたとも伝えられる松林が連なる。「美浜町町勢要覧美浜町役場 平成26年3月)」では次のように紹介されている。

美浜が誇る松林の歴史

 美浜町の誰もが「自慢できるもの」としてあげる、煙樹ヶ浜の松林。幅は広い所で約500メートル、長さ約4.5キロメートルに及ぶ大松林は、近畿最大の規模を誇り、その景観は煙樹海岸県立自然公園の中核となっています。
 この大松林がいつ頃形成されたのか、その時代は明らかではありませんが、紀州初代藩主徳川頼宜公の頃には、すでに松林があったと考えられ、1619年頃には「御留山」として伐採が禁じられ、保護されていました。その後、土地の人々のたゆまぬ努力の結果、現在も見事な松林として景観を保ち、また美浜町周辺を潮害や風害から守り続けています。
 「煙樹ヶ浜」という名は、大正末年、この地を訪れた近藤浩一路画伯が美浜の松林を描き、「烟樹ヵ浜」と書いたことが新聞記事になったのが始まりといわれています。この地にふさわしい、美しい呼び名です。

 

百選の松林となって

 日本の松の緑を守る会が昭和58年、「21世紀に引き継ぎたい日本の名松百選」を発表しました。これは、国、都道府県、市町村指定の天然記念物、または貴重木、由緒ある単木、庭木、公園樹、そして公益的機能の高い松林を対象とし、全国各地の名松266ヵ所の中から、選定委員会での協議のうえ決定されたものです。
 県内では三ヵ所が選ばれ、そのうちの一つに「煙樹海岸の松林」が入りました。
 また、4年後の昭和62年に同会が決定した「21世紀に引き継ぎたい日本の白砂青松百選」にも、県内で唯一「煙樹海岸」が選ばれています。
 全国的にも認められたこの松林を守るため、そして次代に受け継ぐために、今後とも地域をあげて守り続けます。

 

筆者注:

  1. 煙樹ヶ浜の命名のきっかけになったとされる近藤浩一路(こんどう こういちろ 1884 - 1962)山梨県出身の水墨画家・漫画家。大正4年(1915)に読売新聞社に入社して漫画記者となり、政治漫画や挿絵を担当した後、日本画家に転向した。フランスのド・ゴール政権で長く文化相を務めた作家・美術批評家のアンドレ・マルロー (1901 - 1976)と親交があり、彼の小説「人間の条件」に登場する(かま)画伯は浩一路がモデルであるとされている。
  2. 21世紀に引き継ぎたい日本の名松百選」のうち、和歌山県内では他に次の2ヵ所が選定されている。
    〇満屋の姫小松(和歌山市満屋)
      ヒメコマツの名木 | 和歌山市の文化財

    光明寺の黒松(紀の川市名手市場)
      光明寺の松 

 

  • 徳本上人(とくほん しょうにん 1758 - 1818)は、江戸時代後期の浄土宗の僧。現在の日高町の出身で、全国を巡って修行を行いながら念仏を通じて民衆に浄土宗の教義を広めた。鉦(かね)や木魚を激しく打ち鳴らす独特の念仏徳本念仏は全国で人気を博し、「流行神(はやりがみ)」と称されるほどに熱狂的な支持を集めた。徳本上人が用いた独特の字体(徳本文字)で「南無阿弥陀」の文字(六字名号)を刻んだ石塔や石碑は全国に1600基以上あるとされる。詳細は「徳本上人」の項を参照のこと。
    徳本上人 ~川辺町(現日高川町)千津川~ - 生石高原の麓から

 

  • 念仏松は、海岸沿いにある「王子遊園地」の西側にあったが、マツクイムシの被害により、昭和53年(1978)に伐採された。煙樹ヶ浜の松林は、昭和30年(1955)頃からマツクイムシの被害が目立つようになり、薬剤散布などの対策が継続して行われている。和歌山工業高専児玉恵理助教によれば、次のような対策が講じられてきたとされる。

 1946年に松くい虫の被害が発生し、1961年に第二室戸台風により、マツの木が約3,000本倒れ、その後枯れ木が増加した。1968年から松くい虫の被害対策として、年2回の地上散布が行われ、1974年になると、空中散布と地上散布が実施された。そして、1996年まで空中散布が実施されたが、美浜町の住民たちから空中散布を行うことに対して強い反発があったという。2018年時点では、地上散布を毎年3回実施し、地上散布の実施日を町内放送等で事前に美浜町の住民へ連絡している。他にも、樹幹注入特別伐採駆除を行い、松くい虫の被害対策が講じられている。
2019年度日本地理学会秋季学術大会 発表要旨
和歌山県美浜町における煙樹ヶ浜松林の保全 

 

  • 狐とりの話」について、中津芳太郎編著「日高地方の民話(御坊文化財研究会 1985)」では「八っあんの狐釣り」という題名で次のように紹介している。

八っあんの狐釣り

 吉原に(はつ)っあんという釣の名人がいた。そのころ吉原に人を化かす狐がいたがそれを釣るという。「八っあん、どないして釣るんや」て聞いたら「ねずみをテンプラにして釣針につけ、松の枝につらくっといてね(つっておいてね)。飛びついたら引かかるようにするんや。
 今晩狐を釣ることになった。松の枝へ用意した。ところがはそれをはや知ったらしい。巡査に化けて出て来て「こらッ八。今ごろ何してんなー、夜の夜中に」と怒った。「はい、悪うございます」と言うたものの、こいつめ、化けているに違いないと思い、帰るふうをして物蔭に隠れた。巡査八っあんが去ったのを見て餌に飛びつき、ギャッと啼いて正体を見せた。八っあんはしめたと狐の両肢をしばり、帰って家の土間に吊るした。
 しばらくすると「起きてくれ、起きてくれ」と雨戸を叩く者がある。開けてみると隣のおっさんで「宵からさあ、おか(妻)が産気づいてよ、看(み)てたらんなんし、産婆呼びに行かんなんし、困ったんのじょよ(じゃよ)」 「ほんなら産婆呼びに行たらよ」と走って呼んで来て隣へ行った。戸を叩いて起こし「産婆さん来たぞ」と言うと「ええッ、わいとこ子など出来るかよ」とけろっとしている。だまされたと思い家へ帰って見ると吊り下げた狐がなかった。釣った狐の相捧、おすかめすか知らぬが取り返しに来たのである。そのころ吉原は松林が深かった。そういう話。
    吉原 兼平行海 大・11

 

  • メモ欄中「南海白浜急行バス日の岬パーク行き」は現在「熊野御坊南海バス 日の岬パーク線」となっている。「念仏松跡」へは「吉原」停留所が近い。

 

  • メモ欄中、「アメリカ村」というのは、日高郡美浜町三尾地区の通称名明治21年(1888)に三尾村(当時)出身の工野儀兵衛(くの ぎへえ)カナダ・バンクーバーに渡り、同地でフレザー河を上る鮭の大群を見てこの地での漁業の将来性を感じ、故郷の村人を呼び寄せたことに端を発し、同村から多くの若者がカナダへ移民した。和歌山社会経済研究所の機関誌「21世紀わかやま Vol.56(H20.12.2)」に掲載された谷奈々氏の「和歌山の「アメリカ村」とカナダ移民」によれば、同誌執筆時点で三尾村にゆかりのある日系人は、ブリティシュ・コロンビア(BC)州に約2300人、東部トロントに約2700人が在住し、その職種は、実業界、公務員、教師、医師、弁護士等、様々な分野に広がっているとのことであった。こうした移民者の多くが故郷に多額の仕送りを行い、後には故郷へ帰る者もいたため、三尾村には当時(明治後期~昭和初期)としては非常に珍しい北米流の生活習慣(洋館に住み、パン・バター・コーヒーの食事をし、レコードを聴き、ベッドで寝る、等)が定着していったため、この地域はやがて「アメリカ村」と呼ばれるようになったのである。

    和歌山社会経済研究所 | レポート

 

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本ページの内容は、昭和57年に和歌山県が発行した「紀州 民話の旅」を復刻し、必要に応じ注釈(●印)を加えたものです。注釈のない場合でも、道路改修や施設整備等により記載内容が現状と大きく異なっている場合がありますので、ご注意ください。