生石高原の麓から

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上人穴 ~美浜町三尾~

 全国を念仏行脚した徳本上人。横暴をきわめた紀州八代藩主・重倫(しげのり)でさえ、上人の念仏を聞いて反省したと伝えられるほど、その威徳は大きかったという。

 

 美浜町三尾の岬の上に広がる「日の岬パーク」。国民宿舎もあって、年中にぎわっているが、岬の近くの突起部が「上人穴」と呼ばれていることを知っている人は少ない。


 岬の前を通って紀伊水道へ入る船は、一日300隻を超えたが、古くからの難所で、サメに襲われる漁師も多かった。そこで上人は21日間、休むことなく念仏を唱えた。その後は、遭難する船はなくなり、船頭を悩ました竜魚(サメの一種)も出なくなったという。

 (出典:「紀州 民話の旅」 和歌山県 昭和57年)

現在の紀伊日ノ御埼灯台(3代目)から紀伊水道を望む

 

  • 徳本上人(とくほん しょうにん 1758 - 1818)は、江戸時代後期の浄土宗の僧。現在の日高町の出身で、全国を巡って修行を行いながら念仏を通じて民衆に浄土宗の教義を広めた。鉦(かね)や木魚を激しく打ち鳴らす独特の念仏(徳本念仏)は全国で人気を博し、「流行神(はやりがみ)」と称されるほどに熱狂的な支持を集めた。徳本上人が用いた独特の字体(徳本文字)で「南無阿弥陀」の文字(六字名号)を刻んだ石塔や石碑は全国に1600基以上あるとされる。詳細は「徳本上人」の項を参照のこと。
    徳本上人 ~川辺町(現日高川町)千津川~ - 生石高原の麓から

 

  • 徳川重倫(とくがわ しげのり)は、紀州藩の第8代藩主。明和2年(1765)、20歳のときに紀州藩主に就任したが、安永4年(1775)、30歳にして隠居し、叔父であった支藩伊予西条藩主・松平頼淳(改め徳川治貞養子にして藩主の座を譲った。Wikipedia徳川重倫」の項によれば、次のようなエピソードが伝えられている。
  1. 性格は徳川御三家の当主とは到底思えない傍若無人ぶりで、家人などに対して刃を振り回したりすることも少なくなく、そのために幕府から登城停止を命じられることも少なくなかったという。
  2. 半日閑話」によると、江戸屋敷で隣家の松平邸(松江藩)の婦女を銃撃したこともある。理由は、夕涼みをしていたその婦女が自分の屋敷を見下しているかのように見えたことが、重倫の逆鱗にふれたとされているほか、幕府から素行の悪さを咎められて登城停止を命じられていたため、その腹いせでやったといわれる。後日に幕府から使者が派遣されて詰問されると、「あれは鉄砲を撃ったのではなく、花火を打ち上げただけだ。なのに天下のご直参(旗本)が花火の音にうろたえるとは何事か」と言い返して笑ったという。30歳で隠居した理由は、あまりの素行の悪さから幕府に強制的に隠居を命じられたためともいわれる。
    徳川重倫 - Wikipedia

 

  • 徳川重倫が徳本上人の導きによって改心したという話については、和歌山県町村会が制作したパンフレット「おーじとしずくとたなっちの『あの町この村ぶらり旅』 Vol.15 日高町特集」において次のように紹介されている。

 紀州藩の第8代藩主である徳川重備(しげのり)は、当主とは到底思えないほどの傍若無人ぶりで、何人もの人間を殺めたため、29歳という若さで隠居させられたという人物。重倫が50歳を過ぎたある日、熱病にかかり「私が病気にかかって辛いのは徳本のせいだ! 捕らえてこい、もし逃げるようなら鉄砲で撃ち殺してしまえ!」と無茶を言い出し、家来を派遣しました。
 城に引き立てられた上人は重倫の顔を見て「あなたは今まで何人もの人を殺めてきましたね。私の着物の袂を見てごらんなさい、中で斬り殺した人たちが血の池地獄で苦しんでいる姿が見えるでしよう」と諭したそうです。重倫は驚き反省し、上人の弟子となって出家しました。誰が何を言っても聞かなかった重倫を改心させたのです。

 そして重倫公の息子、紀州藩10代藩主である徳川治宝(はるとみ)は、父とは違い学問好きの名君で、紀州藩士の子弟の教育を義務化し、医学館を開設するなど、文化・芸術面での功績が非常に大きい人物。治宝が藩主になった際、今まで傍若無人な行いをしてきた父、重倫を真人間にしてくれた上人を讃え、日高町に誕生院を建立治宝直筆の書が贈られ、額面となっています。

 さらに、徳本上人の噂は江戸にまで広がっていきます。
 幕府の第11代征夷大将車である徳川家斉(いえなり)が病気になり、先が長くないため臨終行(引導を与える儀式)をする際、当時”日本で1番有名な僧”ということで上人が選ばれました。上人が家斉の毋のもとにやってきて、枕元で念仏を授けると、何と、死の淵を彷徨っていたはずの家斉の母が元気になったといいます。自分の母を生き返らせてくれたことに大層喜んだ家斉徳本上人の弟子となり、上人のために江戸に「一行院(いちぎょういん)」という寺を建立しました。
 多くの人々に強い影響を与えた上人。誕生院には、今でも多くの人が訪れるそうです。

おーじとしずくとたなっちの あの町この村ぶらり旅
(ページ内のボタンよりPDFをダウンロード) 

  • 上記で引用したパンフレットには、群馬県の「志賀高原」について、徳本上人がこの地を訪れた際に「自分が生まれ育った日高の志賀の山並みに似ている」と言ったことが地名の由来であると記載されている。しかしながら、これについては他によるべき典拠がなく、真偽のほどは定かでない

 

  • 徳本上人が日の岬で海難を鎮めるために念仏を唱えたという物語は、中津芳太郎編著「日高地方の民話(御坊文化財研究会 1985)」において次のように紹介されている。

日の岬の話

 日御岬とも書く、ここは潮岬と並称される海の難所で、灯台建設は日清戦役中の明治28年1月で、北緯33度53分、東経135度3分30秒の地点にあり、水面から79メートル、基礎からの高さ11メートルである。太平洋戦争後位置を少し移動した。かつては灯台へ行くのに細い急な峠道しかなく、灯台守の哀話も残っている。
 岬の北200メートルほどの処の大倉碆(おおくらばえ 日高町は本郡の最西端である。岬の南にある(かがみ)は高さ29メートル。人が屈んで拝む形をしている。この岩を一名鏡岩というのは朝日がこの岩に反射して鏡のようであるからという。鏡岩の前に高さ2メートル、周り4メートルぐらいの烏帽子(えぼし)がある。御崎明神がこの岩上で遊ばれるので触れると罰が当たると伝えている。
 鏡岩の東方300メートルほどに上人穴念仏窟という洞穴がある。昔、この辺に大蛇が住み人を悩まし、また、海には大さめがいて海人(あま)たちがたびたび災難を受けたので、徳本上人が、3・7、21日間ここにこもって祈念し大蛇大さめを退散させたと伝えている。
  田舎なれども三尾浦は
  前に弁天 御崎山
  手ぐり巻き出す 見事じゃないか
 これは幕末から明治にかけて志摩、東海、関東へ手ぐり船(筆者注:手繰り網漁(手作業で網を引き揚げる底引網漁)を行う船のこと)で行く人びとが出漁に歌った唄の一つである。
             同 前(筆者注:三尾 吉田富武)

筆者注:上記で詳述されている灯台紀伊日ノ御埼灯台)は昭和27年竣工の2代目灯台であったが、同灯台は地滑りによる倒壊のおそれがあることから、平成29年(2017)に約120m西へ移転して建て替えられた。3代目灯台の概要は下記のとおりである。ちなみに、「領海及び接続水域に関する法律」等によれば、この灯台と蒲生田岬灯台徳島県阿南市)とを結んだラインまでが瀬戸内海定義されている。
  位置 北緯33度52分55秒
     東経135度03分40秒
  灯質 群閃白光 毎12秒に3閃光
  光達距離 21.5海里(約40km)
  塔高 約17m (地上 - 塔頂)
  灯火標高 約128m(平均海面 - 灯火)
紀伊日ノ御埼灯台 - Wikipedia 

 

  • 上記灯台の近くに、「徳本上人遺跡碑」がある。これは上人の没後、その弟子の徳因が上人の威徳を偲んで建立したものとされ、美浜町が編纂した「美浜町」には次のように紹介されている。

徳本上人遺跡碑

 日の岬パークに近い日の山中腹から灯台へ下る道の右側、海上自衛隊紀伊警備所手前の石垣の上に、花崗岩製高さ1.26メートル、幅26センチ、厚さ25センチのこの歌碑が建っている。
 碑は東面して正面に
此三崎 
 南無阿弥陀仏を唱れば
  弥陀の誓ひに碍る物那し

     吾師徳本行者寛政中こ路此所にて
     三七日夜念仏して大鮫及異類済度
     の地也此時の詠斯なん

 右側面に
文政五午年(1822)春建焉
 左側面に
遺弟徳因龔識
とある。
 徳本上人(1758 - 1818)は日高町久志に生れ、念仏行者として有名であるが、福田行誠著『徳本行者伝』によると、寛政8年(1796)秋、上人は日の岬沖で難破した船員の亡霊を鎮めるため三七日夜の別時念仏(筆者注:日時を定めてもっぱら念仏にはげむ法要)を修したと記されている。この碑はその時上人が念仏を修した「徳本上人念仏窟」の上方にあたり、上人没後四年の文政5年、上人の弟子徳因が上人の事蹟とその時の歌を刻んで建碑したものである。 

 

  • この歌碑について、徳本上人の出身地である日高町が編纂した「日高町」では次のように記述している。

上人くつ(隣接地)
          (美浜町指定文化財
 日ノ御埼の突端より東へ約500メートル歩いた地点に高さ3メートル、奥行き3メートル、間口4メートルくらいのどうくつがある。ここは寛政8年秋行者がここにこもられて三七、21日間の別時念仏を修された遺跡である。
 このどうくつを上人くつと呼び、この位置を明示するため直上100メートルの位置に高弟徳因の筆になる歌碑が建てられた。しかし戦後になって観光地と化した日ノ御埼は心ない人たちによって荒らされ、碑は倒され山中に放置されたままになっていた。それを海上自衛隊紀伊警備所が建設工事(昭和50年、約30メートル西の元御崎神社社地に移設した。) ここに現在、御崎神社跡地(鳥井の柱を利用した標柱)と並べて建てられているのが次の歌碑である。(以下略)

 

 

  • 上記の歌碑とは別に、灯台近くには「徳本上人座仏」がある。これは平成16年(2004)3月26日に開眼供養が行われたものである。

 

 

  • 日の岬パーク跡地には、現在もヨハネス・クヌッセン機関長顕彰碑胸像がある。クヌッセン(Johannes Knudsen 1917 - 1957)デンマーク出身の船員で、日の岬沖において発生した海難事故の救助活動中に殉難した。その勇敢な行動が人々の感動を呼び、小学校の教科書でも取り上げられるなど日本-デンマーク間の友好と交流の象徴となった。美浜町のWebサイトでは、「優しさをありがとう ~海の勇者 クヌッセン機関長~」としてクヌッセンの遺徳を次のように紹介している。
    ※吉武信彦「日本・北欧政治関係の史的展開 -日本からみた北欧-(高崎経済大学地域政策学会「地域政策研究」 第3巻 第1号 2000)」によれば、光村図書出版株式会社「小学新国語 五年下(1964年文部省検定済、1967年検定済)」に「クヌッセン機関長」というタイトルで掲載されたとのこと。『地域政策研究』3-1

1957年2月10日
 神戸港へ向けて航海中だったデンマークエレンマースク号は日ノ御埼灯台西の沖合で火災を起こしている船を発見しました。
 火災を起こしていたのは、徳島県の機帆船「高砂」で、炎に包まれた船の中では乗組員が火のついた板切れなどを振り回して、助けを求めながら船上を逃げまどっていました。
 その日は、風速20メートルを越す風が吹く大荒れの天気で、マースク号から下ろされた救命艇が救助に向かいましたが思うようにいかず、そればかりか強い風のためマースク号さえも暗礁の多い方向へと吹き流され、非常に危険な状態になっていました。
 そこでマースク号は救命艇を回収し、自船の危険を避けるのと救助をしやすくするため、高砂丸の風上に寄って救助に向かうことになりました。
 すでに、高砂丸で確認できるのは船長らしき一人だけとなっており、近づいたマースク号から投下された綱を頼りに海に入り、なんとかマースク号から下ろされていた綱ハシゴにたどり着くことができました。
 疲れきった体で必死になってはしごを登っていった彼は、あと少しというところで力尽き海へ転落してしまいました。
 船上から一斉に「ワッ!」という悲鳴が沸き上がったその瞬間、そばで見守っていたクヌッセン機関長が、救命ベルトを締め付け海に飛び込んでいきました。
 その後、クヌッセン機関長は救命ブイを渡そうとしましたが、荒れ狂う波の中うまくいかず、ついには2人の姿が波間に消え、見えなくなってしまいました。
 マースク号は再び救命艇を出動させましたが、強い波がボートを襲ってエンジンが壊れてしまいその救命艇も沈んでしまいました。
 当時の乗組員は、そのときの様子を
救助をもっとも近いところで見ていたクヌッセンさんは、何もためらうことなく『助けなければ!』と、とっさの行動に出たのだと思う。我々はただ、祈るばかりだったが、なにぶん大荒れの海面。クヌッセンさんの必死の苦闘もかなわなかった…。
と語っています。

 

悪夢の夜が明けた次の日の朝
 クヌッセン機関長の遺体とマースク号の救命ボート日高町田杭港周辺で発見されました。
 昨夜の苦闘を物語る機関長のライフジャケットや胴体に大きな裂け目のあるボートに人々が大騒ぎしているところへ、当時の御坊警察署長が到着し、昨夜のマースク号とクヌッセン機関長の話が説明されました。
 それを聞いた地元の人たちは一同に驚き「あの嵐の中で、日本の船員さんを助けるために海に飛び込んだ方なのか。そんなこと人間のできることではない。この人は神様だ!」と流れる涙をこぶしでぬぐいながらひざまづき、その手はいつのまにか合掌に変わっていったと今でも伝説のように伝えられています。

 

その後
 遺体の漂着した日高町田杭地区では、あまりにも勇敢なクヌッセン機関長の行為に感動を受け、せめて彼の魂を弔いたいと、その地に供養塔を建て住民が交互に清掃し、常に新鮮な花を供えて絶やすことなく慰霊の気持ちを捧げ続けています。
 また、美浜町日ノ岬の高台には、彼の勇気と愛にあふれた行動をたたえた顕彰碑胸像が建てられ、「クヌッセンの丘」として今も末永くその冥福と航海の安全が祈り続けられています。
クヌッセン機関長遺徳紹介 | 美浜町


筆者注:

  1. ヨハネス・クヌッセン機関長の行動に対し、日本政府は勲五等双光旭日章を贈った。
  2. 日高町阿尾には、「クヌッセン機関長救命艇保管庫(2013年に現在地へ移転・新築)」があり、実際の救命活動に使われた木製救命艇保存されている。また、敷地内には上記にあるクヌッセン氏と犠牲者の供養碑も移設されている。
    クヌッセン機関長救命艇保管庫 - 日高町 博物館・美術館・記念館|和歌山情報サイト - ぐるわか 

 

 

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本ページの内容は、昭和57年に和歌山県が発行した「紀州 民話の旅」を復刻し、必要に応じ注釈(●印)を加えたものです。注釈のない場合でも、道路改修や施設整備等により記載内容が現状と大きく異なっている場合がありますので、ご注意ください。