生石高原の麓から

和歌山の歴史・文化・伝承などを気ままに書き連ねています

陵山(みささぎやま)古墳(橋本市古佐田)

 「和歌山あれやこれや」のカテゴリーでは、和歌山県内各地に伝わる歴史や伝承などを気ままに紹介していきます。

 前回までは紀の川河口部に築造された古墳を中心とする遺跡を順次紹介してきましたが、今回は紀の川上流の橋本市にある古墳「陵山(みささぎやま)古墳」を紹介します。
 以前紹介した「天王塚古墳」は和歌山県最大の前方後円墳でしたが、この陵山古墳和歌山県最大の円墳であると言われています。

 陵山古墳は、県立橋本高校・県立古佐田丘中学校正門に隣接する丸山公園の敷地内にあります。この公園はJR・南海の橋本駅からもほど近く、橋本市の市街地を一望できる高台の上にあり、春には数百本の桜が一斉に花を咲かせて多くの花見客で賑わいます。

www.city.hashimoto.lg.jp

 

 この古墳について、橋本市のWebサイトでは次のように解説されています。

陵山古墳(みささぎやまこふん)
 陵山古墳橋本市古佐田の橋本駅北側丘陵上に築造された円墳で、直径は約45メートルにも及ぶ和歌山県下最大の円墳です。墳丘は3段に築成され、周囲には周濠(しゅごう)がめぐらされています。石室は石材を小口にして持ち送りに積み上げられたもので、南東方向に開口しています。入口から羨道部(せんどうぶ)を通り玄門(げんもん)とみられる狭まった空間を経て遺体を葬った玄室(げんしつ)に至ります。石材表面には赤色顔料が施され、石室内部は下の写真のように赤く仕上げられています。玄室は昭和27年発掘の際、一緒に埋め戻されたため内部のようすは明らかになっていません。出土品は明治36年と昭和27年の発掘でその多くが散逸してしまっていますが、記録には勾玉(まがたま)、管玉(くだたま)、ガラス玉、鉄刀(てっとう)、鉄剣(てっけん)、鉄槍(てっそう)、鉄鏃(てつぞく)、鉄斧(てっぷ)、鉄製頚甲(けいこう)、鉄製小札(こざね)、須恵器(すえき)、土師器(はじき)などが記されています。これらの出土遺物などからこの古墳の築造年代は5世紀末から6世紀初め頃と推定されています。近年、開口している石室羨道部の壁が噴き出し、崩壊の危険が高まったため石室内に砂を充填する措置がとられました。
陵山古墳/橋本市

 

 また、「角川日本地名大辞典 30 和歌山県角川書店 1085)」には、主に発掘調査時の状況について次のような記述があります。

陵山古墳 みささぎやまこふん〈橋本市
 後期の古墳。橋本市古佐田4丁目字宮ノ前384番地に所在。県史跡(昭和43年指定)。
 和泉山脈から南に突出する丘陵の先端に位置する県下最大規模の円墳明治36年と昭和27・48年の3回にわたり発掘調査が行われた。
 墳丘の径46m・高さ6mを測り、墳丘の周囲に周濠(幅6m)、その外側に外堤(幅4m)を巡らす。外堤を含めた直径は66mで、墳丘は3段に築成されており、2段目と3段目(墳頂部)との間には葺石が残る。各段の外側端および外堤上に円筒埴輪列が巡らされ、2段目の埴輪列には朝顔形埴輪鰭付円筒埴輪が所々にたてられている。埴輪列の内側には、衣笠や楯などの形象埴輪が配されて、赤色顔料が塗布されていたという。内部主体は、東に開口する横穴式石室で、羨道部を残し、そのほかは埋め戻されている。
 明治36年の発掘記録「陵山制摘要」によれば、羨道部副室玄室がある模様。現在の羨道部は長さ5m、基底部の幅1.5mで、現存する副葬品には、硬玉製勾玉(1)・碧玉製勾玉(1)・同管玉(6)・ガラス製丸玉(2)・同小玉(2)・鉄刀・鉄剣・鉄槍・鉄鏃・鉄斧(1)・鉄製頸甲(1)・鉄製小札(2)・鉄地金銅張小札(1)、須恵器製の壺(3)・𤭯(筆者注:はそう 液体を入れ、それを注ぎ出すための穴があいた須恵器)(1)・蓋坏・器台(2)、土師器製の壺(2)・高坏(2)などがある。「陵山制摘要」には、神獣鏡1面が出土したとあるが、現存しない
 この古墳は、紀ノ川河口平野一帯の古墳とは異なる点が多く、奈良県下の古墳との関連が強いものと考えられる。

 

 このように、陵山古墳が築造されたのは古墳時代後期にあたる5世紀末から6世紀初頭と考えられていますが、これを以前紹介した紀の川河口部の古墳群と比較すると、概ね大谷古墳と同時期であり、車駕之古址(しゃかのこし)古墳よりはやや後の時代、岩橋千塚古墳群の大型前方後円墳(大日山35号墳、天王塚古墳など)よりは前の時代、に築造された古墳であることがわかります。
 そうすると、紀の川河口部では北岸を拠点とする紀氏(紀朝臣から南岸を拠点とする紀氏(紀直)へと勢力の移行が始まった時期に築造された古墳ということになるのですが、上記引用文にあるようにこの古墳の形式は紀の川河口部の古墳の形式(岩橋型横穴式石室など)とは異なり、むしろ奈良県下の古墳との関連が強いとされていることから、被葬者は紀氏の一族ではなく、また別の勢力の首長クラスの人物であったのでしょう。

 

 ところで、この古墳の被葬者については、平安時代の公卿で征夷大将軍に任ぜられたことで知られる坂上田村麻呂(さかのうえ の たむらまろ)である、との伝承が伝えられています。田村麻呂が誕生したのは天平宝字2年(758)、没したのは弘仁2年(811)とされており、時代的には全く合致しませんが、ここからほど近い橋本市野という地区にあったとされる銭坂城坂上田村麻呂の子孫である生地(おいじ)氏が築城したものと伝えられていることから、生地氏がこの墳丘を先祖の墓とみなしていたのかもしれません。
銭坂城跡


 ちなみに、この伝承については「隅田八幡鏡:日本国家の起源をもとめて(林順治著 彩流社 2009)」に次のような記述があり、江戸時代後期に編纂された地誌「紀伊国名所図会」に紀古佐美の墓とする説、坂上田村麻呂の墓とする説、がそれぞれ紹介されていると書かれています。
紀古佐美(きの こさみ)紀氏の一党で、奈良時代後期~平安時代初期の公卿。征東大将軍に任ぜられ蝦夷(えみし 現在の東北地方に土着していた人々)の征討に赴くが、阿弖流為アテルイの反撃に遭って大敗し、桓武天皇の叱責を受けた。その後を受けて征東大将軍に任ぜられたのが坂上田村麻呂であり、田村麻呂蝦夷を従属させることに成功した。

紀伊国最大の円墳陵山古墳
 引用文(筆者注:本引用では省略)中の「陵山古墳」は、JR橋本駅の北側の高台にある全長約70メートルの県内最大の円墳だが、隅田八幡神社から西方3キロのところにある。生地亀三郎金谷克己の「紀伊の古墳 1」 にも次のように紹介されている。「庚申山もしくは丸山と呼ばれている。標高約100メートルの丘陵上に築造された古墳で、前面が紀ノ川にそって狭長な河岸平地にのぞんでいるため、その丘端にある古墳の全形は、遠方からも容易に認めることができる。丘上から周囲を眺望すると、西側には谷内側を隔てて丘陵と対峙して閉ざされ、視界は西南方の高野口・九度山両町付近まで、河川の曲折により形成された、平地にそって展開する
 私が訪れた時はあいにく朝から小雨がぱらつく天気だったので、高野山のほうは濃い霧が立ちこめていた。この古墳の所在地は「橋本市古佐田」だが、妻古墳のあったとは隣合わせの地である。「橋本市」には「田村将軍塚、紀古佐美墓などとも昔から語り伝えられてきた」と記され、「紀伊国名所図会」には「あるさがし人は、紀古佐美朝臣の墓ならんむといふ。そは紀伊国紀氏の拠とし、此地を古佐田村といえば、古佐美田の美を略けるにやという説なり。いと諾(うべな)ひがたし。又ある人は、田村麻呂大宿禰の墓といへり。そは中昔の頃、このあたりに坂上多ければ思いよせたるなりけり」とある。

国立国会デジタルコレクションより(一部加工)
 「橋本 東家 陵山」(中央右奥が陵山)
紀伊國名所圖會 [初]・2編6巻, 3編6巻. 三編(二之巻) 

国立国会図書館デジタルコレクション

 以前、「復刻&解説 紀州 民話の旅」カテゴリー中の「鬼の涙」の項において、大化2年(646)の「改新の詔(かいしんのみことのり)」によって「畿内」の範囲が「東は名張の横河、南は紀伊の兄山、西は明石の櫛淵、北は近江の逢坂山」と定められたことを紹介しました。
鬼の涙 ~かつらぎ町西渋田~ - 生石高原の麓から

 これはつまり、7世紀半ばには大和から「紀伊の兄山(せのやま 現在のかつらぎ町背ノ山)」までが朝廷の直轄地であったということを意味するわけで、御陵山古墳が築造されたのはこれよりも100年以上前であったとはいえ、この古墳が奈良県内の他の古墳との共通点が多いということは、やはりこの地は紀の川河口部よりはむしろ大和朝廷との結びつきが強かったということを表すものなのでしょう。