那賀町との境界あたり。紀の川の流れに立ちはだかるように、大きな島がひとつ。「舟岡山」という。
むかしむかし、紀の川のずっと上流にすむ二匹の鬼が、海に浮かんでいた小島を引っぱってきたものだとか。
「本当は、もっと上流へ持って行きたかったんやけど、もう重うなって、とうとうここであきらめたんや。ほいで、苦しいんと、くやしいんとで涙流した。その涙の跡が、ほれ、あそこの岩場やいうで」。
その岩は左岸側の大きな岩。近くに堅穴住居の跡が残る。
「人ならば 母の最愛子ぞあさもよし 紀の川辺の妹と背の山」
万葉にうたわれた妹山と背山が、川をはさんで南側(左岸側)と北側に、なだらかな姿をみせていた。
(メモ:国道24号線を走ると、すぐ目につく。国鉄和歌山線笠田駅からも近いが、左岸の県道海南九度山線の方が便利。)
- 「日本地名大辞典 30 和歌山県(角川書店 1985)」によると、永承3年(1048)、平安貴族の藤原頼通(ふじわら の よりみち 藤原道長の長男で、父と共に藤原氏の全盛時代を築き、平等院鳳凰堂を造営したことで知られる)が高野参詣の帰途にこの地で船遊びを楽しみ、紺碧の水に映える紅葉と風景を愛でたとされる。
永承3年10月、時の関白藤原頼通が高野参詣の際、この地で船遊びをしたことが「宇治関白高野山御参詣記」に見え、同書によれば、
「十七日壬午。天晴・・・爰解錦纜而漸擢。妹山嬂山之紅葉浮沈。巻珠簾、而閑望。斜岸遠岸之青苔展茵。或有碧潭之湛々。或有白沙漠々。奇巌怪石繞之参差、古松老杉 亦以雑挿、凡毎所、无不驚眼 毎物莫不発興 其西不経幾程、蹔之 止御船」
とある。
※改行は筆者による
- 「日本地名大辞典」では、上記引用文に続けて次のような記述があり、江戸時代後期に編纂された地誌「紀伊国名所図会」に基づき「船岡山」の名称は島の形状が船に似ていることに由来するものであろうとの説を紹介している。
また、「名所図会」には
「粉河八景の詞書に云く、陽(みなみ)は妹山、陰(きた)に背山、山は南北にわかれ、芳野(よしの)川は中を東西に流れ、千年の松老いて枝さしかわせり。又妹背の中島とて、川中にえならぬ岩山あり。其形船に似たれば、船岡山ともいへり・・・南北山聳えて娥眉に比しつべし。松風颯々として天晴れ、流水岩にせがれて川音高く、碧潭の藍よりも青きに、秋の夜の月さやかに影を涵ひせるあはれさ、いとゆかし」
とあり、まさに一幅の絵といえよう。紀ノ川では、当地一帯が唯一の峡谷的景観をなすところである。
- 本文が執筆された昭和50年代、河川改修事業に先立って行われた大規模な発掘調査で、船岡山の南側の緩傾斜地に縄文時代から中世にかけての遺跡が発見された。弥生時代後期の竪穴住居遺跡をはじめとする集落遺構が確認されたが、河川改修工事の実施によりこれらの遺構は現存しない。
船岡山遺跡 – 全国こども考古学教室
「かつらぎ町にあるへび島は、なぜこの名前で呼ばれているの?」。同町生涯学習課の和田大作学芸員によると「正式な記録は残っていませんが、昔、洪水で紀の川が増水した時に、大量の蛇が流れ着いたからとの説があります」とのこと。
また、かつらぎ町の民話を集めた『今昔話』には、船岡山の厳島神社にまつられた弁天様に会うため、隣の切腹山にすむ大蛇が訪れたとの伝説が残っています。やはり、へび島と呼ばれるだけあって、へびの話題には事欠かないようですね。
かつらぎ町 へび島の由来は? | ニュース和歌山
伝承 鬼の涙
大むかし、はるか川上の鬼が紀伊の国へ遊びにやってきました。
やがて広い海にうかぶ小さな島を見つけました。
「なーんて美しい松島だ。
そうだ、そうだ、おみやげに村へ持って帰ろう。」
鬼はみごとな島を長いつなでしばり、力いっぱい引っ張って紀の川を上っていきました。
「よーいさっ、どっこいしょ、
よーいさっ、どっこいしょ。」
力じまんの鬼はいっしょうけんめいです。
「よーいしょっ、どーっこいしょー、
どーっこいしょー、よーいしょっ・・・」
さすがの鬼も、あまりの重さにとうとう力がつきました。
大つぶの涙がぽろぽろと流れました。
美しい松島は、船岡山になり、くやし涙は今も、妹山のふもとをいわばしり落ちています。
- 飛鳥時代、中大兄皇子・中臣鎌足らが蘇我入鹿を宮中にて暗殺した乙巳の変(いっしのへん 645)の後、新たに即位した孝徳天皇は大化2年(646)正月1日に「改新の詔(かいしんのみことのり)」と呼ばれる新たな政治の方針を示した。この詔では、「公地公民制」「租庸調の税制」「班田収授法」などに加えて、政を行うため、「首都の設置」、「畿内・国・郡といった地方行政組織の整備とその境界画定」、「中央と地方を結ぶ駅伝制の確立」を実施することとした。この時定められた「畿内」とは、いわば朝廷の直轄地の範囲を指し示す言葉であり、その範囲は下記のとおり「東は名張の横河、南は紀伊の兄山、西は明石の櫛淵、北は近江の逢坂山」とされた。
其二曰 (略) 凡畿內東自名墾橫河以來。南自紀伊兄山以來。〈兄。此云制。〉西自赤石櫛淵以來。北自近江狹々波合坂山以來。爲畿內國。
およそ畿内(うちつくに)は、東は名墾(なばり)の橫川よりこなた。南は紀伊の国兄山(せのやま)よりこなた。西は赤石(あかし)の櫛淵(くしぶち)よりこなた。北は近江(おうみ)の狹々波(ささなみ)の合坂山(おうさかやま)よりこなたを、畿内國(うちつくに)とせよ。
※( )内は筆者による
改新の詔 - Wikisource
- 奈良から五條へ下り、紀の川沿いに和歌浦へと向かうルートは、紀伊国側から見れば「大和街道」、大和国側から見れば「紀州街道」と呼ばれる。この街道を往来する人々にとっては、船岡山とその両岸にある背山・妹山を通過することは都の勢力圏(畿内)と異国(紀伊国)との境界をまたぐことを意味し、非常に感慨深いものであったと考えられる。
- 船岡山をはさんで南北に背山・妹山が並び立つ風景は、見るものに夫婦や恋人、兄弟姉妹を想起させることから、この地を旅する都人がここで愛する者を思った歌を詠むことが多かった。このため、万葉集にはこの地(妹背山)を題材にした歌が15首も詠まれており、その多くが相聞歌(男女・親子・兄弟らの間の恋慕・親愛の情を詠んだ歌)である。ちなみに、かつらぎ町によれば、万葉集に収載された和歌のうち、一つの場所で詠まれた歌が15首というのは2番目の多さであるとされる(1位は筑波山(茨城県)の23首、3位が富士山の14首とされる)。
万葉の里|かつらぎ町
- 本文にある「人ならば 母の最愛子ぞあさもよし 紀の川辺の妹と背の山(人在者 母之最愛子曽 麻毛吉 木川邊之 妹与背山 巻7-1209)」は作者不詳であるが、妹山と背山を妹と兄に見立てて「人であったとしたら、どちらも母の愛しい子供であろう 紀の川の岸に向かい合う妹山と背山は」と詠んだもの。国道24号線の妹背山が向かい合うあたりにこの歌の石碑があるが、季節によっては雑草に覆われて発見することは難しいかもしれない。また、船岡山の南岸の擁壁にもこの歌を書いたパネルが掲示されているが、これも文字が薄くなってしまっている。
- かつらぎ町内には前掲の歌の他に次の4首の歌碑が建立されている。
これやこの 大和にしては 吾が恋いふる 紀路にありとふ 名に負ふ背の山
此也是能 倭尓四手者 我戀流 木路尓有云 名二負勢能山
巻1-35 背の山頂上
背の山に 直に向へる 妹の山 事許せやも 打橋渡す
勢能山尓 直向 妹之山 事聴屋毛 打橋渡
巻7-1193 船岡山 厳島神社
妹に恋ひ 我が越え行けば 背の山の 妹に恋ひずて あるがともしさ
妹尓戀 余越去者 勢能山之 妹尓不戀而 有之乏左
巻7-1208 道の駅「紀ノ川万葉の里」
勢能山に 黄葉常敷く 神岡の 山の黄葉は 今日か散るらむ
勢能山尓 黄葉常敷 神岳之 山黄葉者 今日散濫
巻9-1676 萩原 JR御前坂踏切南
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本ページの内容は、昭和57年に和歌山県が発行した「紀州 民話の旅」を復刻し、必要に応じ注釈(●印)を加えたものです。注釈のない場合でも、道路改修や施設整備等により記載内容が現状と大きく異なっている場合がありますので、ご注意ください。