生石高原の麓から

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王丸谷の六地蔵 ~美山村(現日高川町)愛川李~

  清水町に近い村の北辺の(すもも)。そこの草深い道ばたに、六地蔵五輪塔がある。土地の人は、それを「王丸谷(おまんだに)の地蔵さん」という。

 

 紀州徳川家の初期に、牧野兵庫頭という藩士がいた。もともと越前福井の生まれだが、わけあって熊野本宮にかくれていたのを藩に見出され、後には執政という重い役にもついた。ところが慶安3年(1650)、なぜか兵庫頭は罪人として捕まり、その子・藤丸も、李の里にいた井原辰右衛門のもとへ逃れる途中、王丸谷で追手に斬られてしまったとか。


 赤い前垂れ姿のお地蔵さんは、李の里を目前にしながら、あえない最後をとげた少年をいたむ里人たちの手で建てられたものなのだろうか。そのお地蔵さんは、頭痛に霊験あらたかだともいう。

 

(出典:「紀州 民話の旅」 和歌山県 昭和57年)

 

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王丸谷の六地蔵
「あの町この村 ぶらり旅 Vol.3 日高川町特集(下記参照)」より

 

  • この物語は、中津芳太郎編著「日高地方の民話(御坊文化財研究会 1985)」の「美山村」の項で、同名の「王丸谷の六地蔵」という題名で紹介されている。文中に、井原芳信家に銅製の小鈴が伝えられているとの記述があるが、これが本文にある井原辰右衛門の後裔にあたる家であろうか。

王丸谷の六地蔵
 皆瀬から峠を越えて車で10分ほど行くと大字(すもも)がある。この小字王丸谷(おまんだん)は昭和28年の大水害以後一軒も家はないが田の垣代(かきしろ)6基の墓石五輪塔一基が立っていて六地蔵といっている。
 これが紀州藩牧野兵庫頭が藩主の不興を蒙って捕われた時、善蔵信蔵三太郎藤丸千代丸がそのと共に落ちのびてきた。これはこの人たちやお付きの者の墓だと言われている。こののち、善蔵、信蔵は川中(中津村)に行ったというが、藤丸は母とともに幽閉された。その藤丸はこの谷に閉ざされて50年。ある時牢番の無礼をとがめて殺し、脱走したが大津で捕えられ、この地に連れて来られて処刑されたという。
 李に住んだ井原芳信家に銅製の小鈴(長径5センチ、短周5.5センチほど)がある。これが藤丸が持っていた五鈴の一つだと伝える。
 同じく栗林孝好家の祖は牧野家中にいた時形見にもらったという木椀五組ある。定紋は丸に三つ柏。
   川原河 加門大安

 

  • 和歌山県町村会が制作した「おーじとしずくとたなっちの あの町この村 ぶらり旅 Vol.3 日高川町特集(P4)」では、「美山村 王丸谷の六地蔵」として下記のような紹介がなされている。

美山村 王丸谷(おまんだに)六地蔵
昔々、牧野兵庫頭という武士がいました。
六千石の大禄を賜るほどの立派な人間でしたが、罪人として捕らえられ、住んでいた場所を追放されてしまいました。
兵庫頭には千代丸藤丸という2人の息子がいます。
兵庫頭が捕らえられてしまったので、その乳母は、兵庫頭の兄が住んでいる美山村の李の里に隠れ住もうと、千代丸藤丸の2人を連れて山を越えて逃げてきました。
李の里がすぐ近くという所まで来たときです。
藤丸は持病の癪(しゃく)が起こって苦しみ始めました。
追っ手はすぐそこまで迫っています。
とうとう藤丸は追っ手に捕らえられ、斬られてしまいました。
王丸谷の六地蔵は、藤丸乳母をお祀りしたものだといわれています。
ここにお参りすると癪や頭痛が不思議と治ると、伝えられています。
きっと、藤丸は親想いの良い子どもだったのでしょうね。
※「癪(しゃく)」とは、胸や腹のあたりに起こる、激痛の総称である。胆石などを原因とする胃けいれんや、虫垂炎(盲腸)など、腹痛すべてを称した。
おーじとしずくとたなっちの あの町この村ぶらり旅
(「DOWNLOAD」ボタンをクリックしてPDFファイルをダウンロード)

 

  • 六地蔵とともに建立されている五輪塔について、合併前の旧美山村が編纂した「美山村史」には次のような記述があり、牧野兵庫頭の妻の墓としている。

李・王丸谷の五輪塔 愛川字724番地の2
 「天和二年三月二七日董覚寿生信女の霊位」と刻まれ、この地に幽閉され配流後30年に没した牧野兵庫頭の妻の墓。李の住民が懇に葬り五輪塔六地蔵を建てたと伝えられる。

 

  • 牧野兵庫頭長虎は初代紀州藩徳川頼宜の頃に家老を務めた重臣である。頼宜が新宮で見出して小姓としたが、非凡な能力を有していたため頼宜の寵愛を受け、遂に六千石の家老職にまで昇進したという異例の経歴を有するものの、後に藩を出奔(脱出)して「頼宣に陰謀の疑いあり」と幕府に訴えたとされる。この経緯について、Wikipediaの「加納直恒紀州藩家老)」の項に次のような記述がある。

 頼宣の寵臣の家老・牧野長虎が、対立する堀部佐左衛門を退けるため、大坂の陣の戦功の虚偽申告で磔にするよう訴えた際、直恒はこれに反論して口論となった。故に頼宣長虎の言を容れず、恨んだ長虎は出奔して、頼宣に陰謀の疑いありと幕府に訴える事件を起こした長虎は後に紀州藩の手で捕らえられ、田辺に幽閉された。(『加納五郎左衛門行状記』)
加納直恒 - Wikipedia

 

  • 和歌山大学教授(執筆当時)安藤精一氏は、その著作「和歌山県の歴史山川出版社 1970)」の中で、牧野長虎(兵庫頭)頼宜陰謀の嫌疑を幕府に訴え出た事件について次のように記している。

頼宣陰謀の嫌疑
 頼宣家康の子で、御三家の一つとして、幕府と密接な関係にあったが、とくに武備に力をそそぎ、諸国の浪人をあつめたり、城の拡張工事をしたことなどから、幕府に反意があると訴えられた。
 頼宣陰謀の嫌疑の一つに牧野長虎との話がある。すなわち、頼宣が熊野におもむいたとき、新宮の社人(筆者注:しゃにん 神社に仕えて社務に従事する者)方に住んでいた長虎というものの才知と容色を目にとめて、頼宣は小姓とした。長虎頼宣が病気のときにも昼夜をわかたず看病して、頼宣にかわいがられた。紀ノ川の堤防が切れたときにも、みずから名のりでて復旧に成功したりして、大番頭からさらに六千石にまでとりたてられた。しかし、まもなく堀部佐左衛門とあらそい、頼宣 に訴えたがとりあげられなかったため出奔(しゅっぽん)した。頼宣は、ゆくえを調査させたが発見できなかった。そこで、あるものを小間物や化粧品を売る商人(あきんど)にしたてて、京都のめぼしい家々に出入りさせた。たまたま長虎の妻の実家で女奉公人を求めていたので、長虎の特徴をよくいいきかせて少女を住みこませ、ついに所在を確認した。そんなときに老中松平伊豆守から頼宣にとどいた報吉は重大であった。すなわち、頼宣に陰謀ありと牧野兵庫頭長虎に訴えるものがあり、その真偽のほどは不明であるが、一応徳川将軍に進言したというのである。これは御三家の一つ、紀州家に弓をひくものとして、長虎をとらえて切腹させようという意見もあったが、頼宣はのちの証人とするために助命をゆるし、一万石をあたえるといつわって、田辺に流罪にした。3年後の承応3年(1654)、長虎は同地で死んだ。

 

  • 和歌山市出身の作家・神坂次郎氏は、牧野兵庫頭長虎を主人公とした短編小説兵庫頭の叛乱毎日新聞社 1993)」を発表している。この小説では、通説とは異なり紀州藩徳川頼宜が幕府転覆を企てる由井正雪を密かに支援していたとし、兵庫頭はその企てが失敗に終わることを見越して、あえて公儀に嫌疑を訴え出ることで頼宜に潔白を証明する機会を与えようとする忠臣であった、という筋立てになっている。
    兵庫頭の叛乱の著者・刊行日 Weblio辞書

 

 

 

  • 一般的に、六地蔵とは地蔵菩薩の像を6体並べて祀ったものを指す。これは、仏教の六道輪廻(ろくどう/りくどう りんね 衆生がその業の結果として6つの世界を輪廻転生するという考え方)の思想に基づき、六道のそれぞれで衆生の苦悩を救済するとされる6種の地蔵菩薩を祀ったものである。6体の地蔵菩薩の名称は一定ではないが、Wikipedaiには次のような名称が参考に掲載されている。

地獄道 - 檀陀(だんだ)地蔵 - 金剛願(こんごうがん)地蔵
餓鬼道 - 宝珠(ほうじゅ)地蔵 - 金剛宝(こんごうほう)地蔵
畜生道 - 宝印(ほういん)地蔵 - 金剛悲(こんごうひ)地蔵
修羅道 - 持地(じじ)地蔵 - 金剛幢(こんごうとう)地蔵
人道 - 除蓋障(じょがいしょう)地蔵 - 放光王(ほうこうおう)地蔵
天道 - 日光(にっこう)地蔵 - 預天賀(よてんが)地蔵

地蔵菩薩 - Wikipedia


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本ページの内容は、昭和57年に和歌山県が発行した「紀州 民話の旅」を復刻し、必要に応じ注釈(●印)を加えたものです。注釈のない場合でも、道路改修や施設整備等により記載内容が現状と大きく異なっている場合がありますので、ご注意ください。