生石高原の麓から

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根来寺の五右衛門 ~岩出町(現岩出市)根来~

 あの大盗賊、石川五右衛門が、根来寺にいたという。

 

  天正13年(1585)、秀吉が根来を攻めたときのこと。

 最後まで秀吉に抗した五右衛門は、追われ追われて、ついに大塔へ逃げ込んだ。回りをアリのはい出るスキ間もないほどに取り囲まれ、いまにも大塔ごと焼き殺そうと、タイマツの火が走る。


 と見るや、五右街門は地上30メートルもあろうという上の屋根へ馳け上がり、ちょうど垂れていた九輪の大鎖をつかむと、ターザンよろしく森の中へ消えた……と。


 五右衛門の母が住んでいたという屋敷跡には、ハッサクの木が茂り、五右衛門が隠れたという山内の洞穴はふさがれて、もう土地の人でさえ、めったに知らない。

(出典:「紀州 民話の旅」 和歌山県 昭和57年)

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根来寺 大塔
  • 根来寺(ねごろじ)は、和歌山県岩出市にある新義真言宗総本山の寺院。平安時代後期の高野山の僧・覚鑁(かくばん 1095 - 1144)が大治5年(1130)に高野山で建立した伝法院が始まりとなる。覚鑁は当時の高野山真言宗が腐敗衰退していることに奮起し、急進的な立て直しを図ったことから従来の指導者らとの間に対立が生じ、反対派の僧徒から命を狙われる事態が発生した(錐もみの乱)。このため覚鑁高野山を離れ、弘田荘(現在の岩出市)にあった豊福寺(ぶふくじ)に拠点を移した。これが拡大発展したものが現在の根来寺である。
  • 室町時代末期には根来寺の権勢は最盛期に達し、坊舎450(一説には2,700とも)を数える一大宗教都市を形成した。また、根来衆とよばれる1万余の僧兵集団を擁し、津田算長(つだ かずなが(さんちょう))が種子島から持ち帰った火縄銃を大量生産することにより、強力な鉄砲隊も有した。織田信長による天正5年(1577)の紀州征伐(第一次)の際には織田方に協力して雑賀衆と戦ったが、信長没後に豊臣秀吉とは敵対関係となり、天正13年(1585)の紀州征伐(第二次)に際しては雑賀衆粉河宗徒とともに豊臣方と戦った。この戦いにおいて根来寺は炎上し、本堂、多宝塔(大塔)や南大門など一部を残してほぼ完全に焼失した。炎上の原因については、根来側による自焼説、秀吉による焼き討ち説、兵士による失火説などがあるがいずれも確定的な証拠はない。
  • 石川五右衛門(いしかわ ごえもん 生年不詳 - 1594)は、安土桃山時代盗賊の首領。一般的には、浜松(静岡県)の生まれで、初め真田八郎といい、文禄3年(1594)37歳のとき捕らえられ、京都・三条河原で子どもとともに釜茹(かまゆで)の刑に処せられたとされる。
  • 盗賊という罪状に対して釜茹でという刑罰が非常に重かったことから、江戸時代には「伝説の大泥棒」として浄瑠璃や歌舞伎などの演題として広く取り上げられるようになってきた。この過程を通じて、「義賊」としてのイメージや、「時の権力者である秀吉の命を狙った」などの脚色が加えられてきたものと考えられている。
  • 巷間伝えられるイメージの大半が創作であるため、石川五右衛門の実在自体が疑われることもある。しかしながら、江戸時代初期の貿易商ベルナルディーノ・デ・アビラ・ヒロンが記した「日本王国記」に「都を荒らしまわる集団の頭目ら15人が捕らえられ三条河原で生きたまま油で煮られた」との記述があり、ここにイエズス会の宣教師ペドロ・モレホンが「この事件は1594年の夏で、油で煮られたのは Ixicava goyemon である」との注釈をつけており、盗賊団の頭目である石川五右衛門という人物が釜茹でにされたという出来事は事実であろうと考えられている。(Wikipedia石川五右衛門」の項目より)
  • 本文中にある「五右衛門の母の屋敷跡」や「五右衛門が隠れたという洞穴」については不詳。明治44年(1911)に南方熊楠が東大植物学教授の松村任三に宛てて発した長文の手紙(二通あり、後に柳田国男によって「南方二書」という小冊子にまとめられた)の中で、熊楠は「白井権八の死んだ目黒も古跡である。村井長庵が処刑された小塚原も古跡である。上州には巨盗国定忠次の古跡がある。当国根来には石川五右衛門の古跡がある。(人物名はいずれも歌舞伎などの主人公)」として歌舞伎の主人公らに所縁のある場所がみな「古跡」とされていることにやや批判的な意見を述べており、少なくともこの時点で根来に石川五右衛門の古跡とされる場所があったことは間違いないと思われる。
  • 天正年間(1573~1592)、根来寺の行人(修行者)で鉄砲隊の指揮などに優れた能力を発揮したとされる小密茶(こみっちゃ)という人物がいる。小蜜茶とも、奥小密茶、奥右京、根来小密茶、根来小三とも伝えられるが、実在の人物で、第二次紀州征伐の際に豊臣軍を相手に奮戦し、江戸時代には紀州浅野家に仕えたとされる。市制施行前の岩出町が編纂した「岩出町誌」には、小密茶が石川五右衛門とともに秀吉の軍勢と戦ったという話が伝説として紹介されている。

石川五右衛門と根来大塔
昔、石川五右衛門という怪賊のあったことはよく知られている。五右衛門嘗て根来山の大塔の中に住んでいたとの伝説である。根来小密茶という怪僧と共に秀吉の軍に抵抗し、大いに相手を悩ませたという。戦に敗れて、五右衛門、大塔の鎖を引き切りて、一直線に飛び降り習い覚えた忍術で雲を霞と逃げ失せたという。今、塔の鎖の一隅が細いのはこの時断たれたもので、後に修理されたものであると言い伝えられている。

  • 岩出町誌にあるように、石川五右衛門が超人的な能力を持つ人物として描かれるようになったのは、寛文年間(1661 - 1673)に書かれたとされる読本(よみほん 通俗小説)「石川五右衛門実録 賊禁秘誠談」による影響が大きいとされる。この書では、五右衛門は伊賀の百地三太夫(ももち さんだゆう)から忍術を学んだとされており、これにより忍術使いのイメージが定着した。ちなみに、百地三太夫は明治~大正期に人気を博した立川(たつかわ)文庫の「忍者もの」において「伊賀忍術の祖」と位置付けられており、実在の人物である百地丹波(ももち たんば)と同一視されることも多いが、あくまでも百地三太夫は架空の人物でありこの両者は別人である。
  • 現在につながる石川五右衛門のイメージを決定づけたのは、江戸時代中期に書かれた読本「絵本太閤記」である。これは武内確斎が文を著し、岡田玉山が挿絵を入れた豊臣秀吉の一代記であるが、その第七編巻之二から巻之三に石川五右衛門の物語が含まれている。このうち、根来寺に関しては巻之二の最期に「根來寺寶塔住盗賊」として次のような物語が描かれている。末尾において「この塔上に住みし盗賊は別人なりや」とも書かれているところを見ると、この物語は既に当地に存在していた伝承に基づいて書かれたもののように思われるが、事実関係は不明である。(書き下しは筆者)

根来寺宝塔に盗賊住む

去程に大盗石川五右衛門岩村にて大金をかすめ 
山中に寄集り相議して申けるは 
水口 大垣 岩村にてもはや余程の得付あり 
あこぎの浦にあらねども
度(たび)かさなれば京都及び名護屋の討手の軍兵も来るべし

まづ金もうけも一両年は相休み 
此金子配分して名々榮花をたのしみ候へ

多人数にては人目もいぶせし
我は一人国々を遊周し来年秋の始より紀伊の国根来寺にて会合すべし
いざいざ人の咎めぬうち分散せよと下知しければ筑紫権六問いて曰く

魁首(おかしら)紀州根来寺には何れの宿坊に逗留し給ふや
我々が会せん便りに名を認(したた)めて相別ん

五右衛門答て
我若年の時より根来寺の大塔五重目に住べき所を構え置きたり 
我を見んと思ふ者は巽角(たつみすみ)の柱を手を以叩くべし 
よく通じて上に聞ゆ

属手(てした)の者共是を聞て大いに驚き 
真に魁首は凡人にあらずとて
互ひにいとまを告て思ひ思ひに立さりける

其明年 文禄癸己(みずのと み)の年(文禄2年 1593) 
紀州根来寺五重の宝塔に盗賊住んで近村近郷を犯し騒がすよし
紀州一国その沙汰のみいひはやらせければ 

根来寺の傍は往来の旅人も絶へて白昼といへどもものすごく 

是ぞ稀代の珍事かなと国守中納言秀俊卿より
物馴(ものなれ)たる武士三四人を
密(ひそか)に根来寺へ遣し事の実否を見せしめ給ふに

一人の男身のたけ六尺ばかりなるが
彼(かの)大塔を去事十余間にして羽根桿(はねつるべ)の有

その柱にさらさらと登り其所より大塔五重の屋根に
ひらひらと飛び越す形勢(ありさま)何様人間業にはあらず
天狗などの住むにこそと舌を巻いて言上せり

中納言殿安からぬことに思し召し 
我知る国の内に係るゑせ者の住まんに
知らず顔して有なんは権勢なきに似たり 
塔の下より火を放ちても召捕では叶ふまじと

すぐに300人の兵を集め根来寺の宗徒と申合せ
同時に彼塔のめぐりに押寄
一同に鯨波(とき)を作り 
柴薪を積み上げ
一時に焼き崩さんと計(はかり)ける

然れども五重の屋根は中空に有て地を去る遥なれば
彼盗賊は有りやなしや

若し他行して在なんには 
いたづらに此塔を焼すてなんも勿体なし

去る年秀吉公此根来寺に軍勢をさし向給ひ合戦に及びしに
堂宇ことごとく灰塵と成りし時だにも焼残りしめでたき宝塔なるを

盗賊の為に焼失はんとも口惜き次第なり
とて塔のめぐりを打囲みさまざま評議なしける折から

五重めの縁側にかの盗賊あらわれ出
高欄に肘を持せ遥に下を見下し莞爾(にっこ)と打笑

鐘をつくばかりの大音にて
あな便なき蠢(うじむし)めらがふるまいかな
我は日本盗賊の天子たり 
今日此(ここ)を去るともまた明日は玆(ここ)に来らん

ある時は不ニ(ふじ)の山上に眠り 
また時として松島 象潟(さきがた)の風景を見て酒宴の興をもよほし

金銀は天下皆我ものなり 
美女は大下ことごとく我妾なり 

ただ我が手の内に入らざるものは豊太閤一人のみ

しかるをいわんや 
汝等匹夫の身をして我を捕へんなどとは片腹痛きことならずや

試みに我が手なみを見て末代の語り草になせよとて 
飛上って垂木に手をかけ 
はねかへると見べしが忽ち屋根の上に仁王立ちし

左の手に塔の鎖を取りて引きちぎり 
右の手に大太刀を抜いてさしかざし

数十丈の塔の上より飛鳥のごとくとびおりしは
めざましかりける行跡(ふるまい)なり

数多(あまた)の軍兵 
塔のめぐりを取り巻きてこの形勢(ありさま)に肝を冷やし

これ人間にてはよもあらじと早逃げ出す者もあり 
上を下へと騒ぐ所を

くだんの盗賊太刀をかいふり
またたく内に十四・五人切り倒し 
北の方へ走りしが

深山に入りて行方を知らず 

 
これを世に石川五右衛門が籠りし塔也といひ伝ふれど
五右衛門が誅せらるる時
わが運つたなく刑罪にあふて死するといへども
なお根来の大塔に籠りし天下無双の盗賊あり
げに盗人は国の鼠なり
あに取り尽くすときこれ有んやと言いて刑につきたり
これをもって見ればこの塔上に住みし盗賊は別人なりや
または石川が世をくらますの言葉なりや

その実は知るべからず

 

筆者注:文中「中納言秀俊」は大和郡山城主で大和と紀伊の2か国を治めた大和中納言豊臣秀保秀吉の甥秀長の養子)を指すものと思われる。元文5年(1740)に書かれた「武徳編年集成」では秀保のことを誤って「秀俊」と記述しており、混乱があった可能性がある(「絵本太閤記」が出版されたのは寛政9年(1797)から享和2年(1802)にかけての時期であり、執筆にあたって武徳編年集成を参考にしたことが考えられる。)ちなみに、本来の豊臣秀俊は、小早川秀明(秀吉の正室の甥で後に秀吉の養子、その後小早川隆景の養子)の元服時の名前である。

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本ページの内容は、昭和57年に和歌山県が発行した「紀州 民話の旅」を復刻し、必要に応じ注釈(●印)を加えたものです。注釈のない場合でも、道路改修や施設整備等により記載内容が現状と大きく異なっている場合がありますので、ご注意ください。