生石高原の麓から

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養叟庵 ~橋本市矢倉脇~

 曲がりくねった、急坂の細い市道をたどると、コケむしたカヤぶきの庵があった。一休和尚の法兄、大徳寺(京都)五世住職をつとめた養叟和尚隠棲の跡。

 

 養叟(ようそう、天授2年~1376~生)がこの地にきたのは、もう晩年。地元の豪族の援助で「徳禅院」を建て、長禄2年(1458)、83歳で遷化したという。その後、たび重なる兵乱ですっかり荒廃したが、天保10年(1839)、当時の庄屋、上垣伊平次の手で新たに養叟庵が建てられた~と。

 

 間口三間、奥行き五間半の庵の中の間には、黒漆塗りの須弥壇が設けられ、小づくりの観音像も。だがいまは、年に数回、法要が営まれるだけ。庵の主は、老人クラブ員たちにとって代わられた。そして、ま新しい冷蔵庫、ストーブ、華やかな柄のフトンをかけたコタツが、庵には似つかわしくない“現代の風情”をかもしだしていた。

 

(メモ:南海高野線紀見峠駅から徒歩5分。慶賀野の国道170号線から西へ約1キロ。近くには国民宿舎紀伊見荘」がある。)

(出典:「紀州 民話の旅」 和歌山県 昭和57年)

  • 養叟宗頤(ようそう そうい 1376 - 1458)は、室町時代前期の臨済宗の僧。京都の出身で、東福寺正覚庵、建仁寺天潤庵(いずれも京都市東山区)での修業を経て、近江(滋賀県)禅興庵の華叟宗曇(かそう そうどん)に師事する。
  • 華叟宗曇は、臨済宗大徳寺派大本山 大徳寺7世言外宗忠(ごんがい そうちゅう)に師事した高僧であるが、性格は高潔で、大徳寺22世となった後も華美を嫌って大徳寺には住まいせず、質素な生活の中で本物の禅を追求しようといくつかの小庵を渡り歩いた後、禅興庵に住していた。
  • 一休さん」で知られる一休宗純(いっきゅう そうじゅん)も後に華叟の門弟となったため、養叟と一休は兄弟弟子(養叟が兄、一休が弟)の関係となる。華叟は養叟、一休の両者に対して左券(仏法の免許皆伝の証 印可とも)を与えようとしたが、養叟はこれを受け取り一休は「左券など、まるでロバを棒杭に繋いで身動きできなくするようなものだ(=精神の自由を奪う邪魔者でしかない)」と言って、袖で払い捨てたという。
  • 正長元年(1428)に師である華叟宗曇が逝去。養叟はその翌年の正長2年(1429)に大徳寺第26世に就任(本文に5世とあるが、正しくは26世)すると、足利政権との関係悪化により凋落傾向にあった大徳寺の運営を大きく見直し、旧来の五山十刹(上位から 五山 → 十刹 → 諸山 という臨済宗寺院の格付)の制度から離脱して独自路線を歩むこととした。これにより足利幕府からの経済的支援は絶たれることとなったが、養叟は見事な経営的手腕を発揮し、堺の商人などの財力ある有力者や貴族らから多くの信者を獲得して、以降大徳寺はおおいに発展を遂げることとなった。
  • 豪商や貴族らの支援を受けて寺院を拡張し、老若男女を問わず広く信者を獲得していくという兄弟子・養叟の方針に対して、弟弟子の一休清貧・枯淡にして厳しい修業を積むことこそが師・華叟の教えであるとして養叟を猛烈に批判した。一休とその弟子の作品集「自戒集(じかいしゅう)」は養叟一門への批判を中心とした詩文集であるが、そこには、次のような記述がみられる。

今より後は養叟をば大胆厚面禅師と言うべし
養叟が門に入る者は道俗男女やがて推参になる
五日十日の内にやがて得法面(えほうづら)を仕(つかまつ)り候
面皮厚して牛の皮七八枚貼り付けたるが如し
紫野の仏法始まってよりこのかた、
養叟ほどの異高(いたか)の盗人(ぬすびと)はいまだ聞かず
比丘尼(尼僧)に法門を教ゆる事も比丘尼の得法だても、
養叟より前は総じてなし

 

(意味)
今から後は養叟のことを大胆厚面禅師というべきである
養叟に入門する者は 僧・俗・男・女誰でも
5日か10日のうちに 悟りを得た顔をして出てくるだろう
面(つら)の皮厚く、牛の皮を7・8枚貼り付けたようなものだ
紫野(大徳寺の所在地)で仏法がはじまって以来
養叟ほどの金儲けの盗人はいまだかつて聞いたこともない
尼僧に法門(仏法の教え)を教える事も、尼僧が悟りを得ることも、
養叟より前には総じてなかったことだ

  • 一休と対立し、一休より先に逝去したことによって養叟は一方的に批判を浴びた印象が強いものの、一休が批判したような女性や新興商人らに信仰を広げていく活動は、時代の変革期にあって宗教に求められていたものであり、むしろ養叟の方が広い視野を有していたと考えるべきであろう。後に一休が大徳寺47世に就任した際、応仁の乱で焼失した伽藍の再建に堺の豪商らの協力を得たことは皮肉である。
  • 伝によれば、享徳3年(1454)頃、平将門の子孫である牲川次郎左衛門将房(にえかわ じろうざえもん まさふさ)が紀伊見峠の地に宝形山徳禅寺を建立し、その第一祖として養叟を迎え、養叟はこの地で晩年を過ごして83歳で入寂したとされる。しかしながら、「堺市」によれば、養叟が徳禅寺に入ったのはそれより前のことで、後に細川勝元の招きにより再び大徳寺に戻り、享徳3年(1454)には堺の陽春庵に住まいしてこの地で入寂したとする(堺市史 第七巻 第一編人物誌 第二章全盛期(足利時代より豐臣時代迄) (22)養叟宗頥)。また、牲川氏について、江戸時代後期に編纂された地誌「紀伊国名所図会」では、源頼朝に仕え伊豆国江川庄の領主であった多々良五良義春を祖とし、楠木正成の麾下で活躍した家柄であるとしている。
  • 徳禅寺は後に兵火で焼失し、場所もわからなくなっていたが、天保8年(1837)に、紀伊藩と大徳寺が合同で調査した結果、跡地が確認され、嘉永元年(1848)に徳禅寺再建を発願し養叟庵が建立された。元は少し離れた髙山にあったが、明治32年に現在地に移築されたのが現在の養叟庵である。
  • 江戸時代後期に編纂された地誌「紀伊風土記」の「養叟和尚墓跡」の項には、旧跡確認にあたっては養叟和尚の石像がきっかけとなったと次のように記している。(紀伊風土記が完成したのは天保10年(1839)のことであり、遺構調査が行われたのが天保8年(1837)とのこととされているため、まさに遺構発見の直後に記事が書かれたものと考えられる。)

村の北 葛城山の半腹にあり
養叟は洛北紫野大徳寺の第五世にて、
後花園天皇より特に宗恵大照禪師の号を給ふ
退隠して当村徳禪院に住す 
一休和尚の法兄なり

もと藤原氏にて洛の東山霊山の麓に居る
八歳にて東福寺九峰和尚を師として僧となり 
法名宗願といふ

養叟は字(あざな)なり
後年大徳寺に入り大用庵を草創して住す
後権貴を避くる所ありて葛城山紀伊見峠の風景を愛してここを居とす
牲川氏徳禪院を建てて住せしむ
石工に命じて自像を刻ましめて山の半腹に残し
長禄二年六月二十七日八十三歳にて遷化す
徳禪院兵乱に廃しし
石像もまた先年の山荒に倒れ散りしを 後また当地に安せしに
其の像の首缺(か)けて無し
近来大徳寺より其の跡を捜索せしに及びて
叢間を開き小路を作るに至りて不慮に石首を得たり
是を缺像に継ぐに符号して全体を得たり
また一奇事なり 

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本ページの内容は、昭和57年に和歌山県が発行した「紀州 民話の旅」を復刻し、必要に応じ注釈(●印)を加えたものです。注釈のない場合でも、道路改修や施設整備等により記載内容が現状と大きく異なっている場合がありますので、ご注意ください。