生石高原の麓から

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義人・戸谷新右衛門 ~橋本市南馬場~

 その碑は、ブドウ畑の中にあった。約80平方メートルの広場の奥に、高さ3メートル、幅1.5メートルほどの大きな石碑。表に「義人 戸谷新右衛門之碑」。かたわらの数基の墓石は、県史跡。

 

 話は享保6年(1721)にさかのぼる。当時、高野寺領のこのあたり、年貢の取り立てはことのほか厳しかった。年貢の計量は「京桝」よりも、ひと回り大きい「讃岐桝」。その上、桝のフチを松ヤ二で固めて盛り上げた「特大桝」。


 村人たちの難儀をみかねた新右衛門は、その桝を手に、幕府へ直訴した。お蔭で、村人を苦しめた特大讃岐桝の使用は禁止された。しかし、村へ帰った新右衛門を待っていたのは、高野山の僧たちによる石子詰めの極刑だった~。

 

 土地の人たちは、いまも新右衛門を、佐倉宗五郎と並びたたえる。そこに、厳しい搾取にあえいだ農民たちの悲劇が語られる。
 世にいう、高野桝一揆

 

(メモ:新右衛門の墓地は「かむろ大師」の北東、南海高野線紀伊清水駅から歩いて15分。車のときは国道24号線から橋本橋を渡り、紀の川を左岸ぞいに西へ2キロ。)

 

 

  • 俗に「高野桝(こうやます)一揆」と呼ばれる戸谷新右衛門(とや しんえもん)の事績は、明治以降の自由民権運動の高まりとともにいわゆる「義民(民衆のために自らの生命や財産を賭して活躍した人物)」伝承の代表的なものとして広く知られるようになった。和歌山大学教授(当時)の安藤精一氏が記した「和歌山県の歴史 山川出版社 1970」には次のように紹介されてている。

高野山領における最初の一揆は元禄5年(1692)であるが、その内容は明らかではない。

そのつぎは享保6年(1721)の戸谷新右衛門高野桝(こうやます)一揆である。高野山の桝はいろいろあり、学侶(がくりょ 学問や祈祷に専念する僧)と行人(ぎょうにん 管理運営や雑事に従事する僧)とのあいだでもちがいがあった。

紀伊風土記」によると、学侶方は年貢の収納には讃岐桝(さぬきます)を用い、方五寸、深さ二寸六分半(筆者注:約1843cc)で、俗に青巌寺桝(せいがんじます)ともよばれた。学侶方にはこれとは別に寺から下行(げぎょう 米で各種費用を支払うこと)するときには下桝というのがあり、本桝より六勺(しゃく)すくない。

行人方若山桝(わかやまます)といって方四寸八分、深さ二寸八分(筆者注:約1795cc)のものを用いた。つまり讃岐桝あるいは青巌寺桝とよばれる年貢用の桝京桝よりも一升につき二勺多く(筆者注:2%多い)下桝よりも六勺多くはいる(筆者注:6%多い)ところに問題があった。

伊都郡清水組島野村の戸谷新右衛門は、高野16地士の1人で夫役を先除されていた。かれは、高野山が一般に使用されている京桝よりも大きい桝で年貢を収納し、農民が困っているうえに大飢饉でいっそう苦しみが多くなったので、享保4年(1719)訴えでた。その結果は要求がいれられず、かえって新右衛門の格式を奪って、これをはずかしめておいかえした

そこで新右衛門は享保6年正月、江戸寺社奉行に「高野寺領清水組以下九箇組七五箇村百姓共」の代表として訴えでるにおよんだ。

新右衛門から寺社奉行への越訴(おっそ 順序を飛び越えて直接上位の者に訴えること)の内容はつぎのようであった。

七五村の農民が涙をながしてお願いするのは、高野山興山寺の年貢米収納について、年貢米は京桝で収めるべきを大きいほうの讃岐桝ではかり、そのうえ讚岐桝にいろいろと不正な手を加えて、さらに多くはいるようにしている。

また付加税として、年貢米一石につき二升ずつの差口米と、見米と称して米一荷三斗につき二合または三合ずつ荷ごとにとりあげる。このような事情のために毎年農民の苦しみははなはだしかったが、領主の権力をおそれてさしひかえていた。ところが近年になっていよいよはげしくなり、一荷について五合から六合ずつもとりあげるようになったので、領内は年々疲弊し、みるにしのびない状態となった。

そこで一昨年の享保四年冬に興山寺へ嘆願し、いろいろと言葉をつくしたが、とがをうけて要求はとりあげられなかった。そのために仕方なくこのような方法で寺社奉行の駕篭(かご)にすがりお願いする。

どうかあわれみのとりあつかいをもって、讃岐桝から京桝に改め、かくれた付加税を廃止するように、寺社奉行の威光で高野山をさとしてくれるように嘆願する。そのようになるならば、七五村の農民は多年にわたるひじょうな苦しみをまぬがれ、これから先も渇命(かつめい)におよぶこともないと考える。

ききいれられるならば農民総代の新右衛門はどのような処刑を仰せつけられても苦しくない。獄中で罪を待つ、

というものであった。

右の嘆願書が越訴の形式をとって江戸寺社奉行にさしだされた。
寺社奉行はただちにこれをとりあげ調査をさせたところ、新右衛門の訴えが正しかったので、同年4月に使者2人を高野山に送り、讃岐桝の使用を禁止して京桝とし、差口米や見米を廃止するように命じたという。

しかし、新右衛門は江戸から高野山領におくりかえされ、高野山興山寺の僧にとらえられ、石篭詰(いしこづめ)の惨刑をうけ、家財は没収され、妻子は領内から追放されるという結果におわった。

  • 高野山霊宝館のWebページにかつて掲載されていた「高野山よもやま記」のうち、「戸谷新右衛門という人」の項には、明治期に戸谷新右衛門が注目され始めた経緯について次のような説明があった。(現在このWebページは削除されているため、インターネットアーカイブ"Way Back Machine"に保存されているページ内容を参照した。)

明治16年(1883)3月、南馬場地区に戸谷新右衛門記念碑社殿を建設する機運が地元で興り、寄付金が集められることとなりました。

その発端ともなったのが、明治16年1月13日、新聞記者で漢詩人でもあった土居香國(通豫)と大阪日報社の小室信介による自由民権運動の講演が橋本(現、橋本市)において行われたことによりました。その時の懇親会において地元の有識者より郷土の義民、戸谷新右衛門に関する詳細な話を知ることとなり、両人がこれを高く評価したことによりました。

そして、時を経ず戸谷新右衛門のことが明治16年1月23日付「日本立憲政党新聞紙上にて土居香國が記した「紀伊の記」として紹介され、また明治16年9月、小室信介の著した『東洋民権百家伝』の「戸谷新右衛門君を祭るの詞」などで一躍有名となりました。

(中略)

新右衛門の記念碑銘文を土居香國が記しているのですが、その文頭に義民の代表として佐倉木内(佐倉惣五郎の名前を挙げています。佐倉惣五郎(?- 1653)とは江戸期の義民として、「東山桜荘子」と題して歌舞伎で頻繁に上演され、さらに明治になると「佐倉義民伝」として知られるようになります。こうした農民の窮状を救った先駆者として佐倉惣五郎をはじめとする義民が脚光を浴びた時期でもありました。

各地の義民に対する人気は高まり、このことが高野山麓にも義民、新右衛門が居たことを再発見する要因ともなり、それにともない自由民権活動とも重なって、新右衛門の記念碑と社殿造営計画の推進力が一気に高まりをみせました。

記念碑建設活動を伝える資料に、明治17年4月5日公刊の「義人戸谷新右エ門君記念碑社殿等建築場之略図」があります。この略図は、「記念碑を建てる会」の代表幹事で、『小伝』の筆者でもあった大西徳という人が発行したもので、定価二銭五厘で高野参詣者を目当てに売られていたようです。略図には戸谷氏の記念場として石垣を設けて高さ十七尺の石碑を建てることが計画され、さらに高野山の蛇柳には、義人戸谷新右衛門の事蹟が表されることとなっていました。

(中略)

こうして一旦は本格的に進んでいた記念碑建設計画でしたが、ついには実現することはありませんでした。時代は降って昭和11年(1936)、新右衛門の頌徳会が設立され、墓から北東にある成就寺の境内の角に、方一間半ほどの小さな新右衛門堂が建てられ、さらに昭和34年(1959)になって新右衛門の墓の横には大きな石の顕彰碑が北面して建てられ、現在でも新右衛門祭が執り行われているそうです。

  • 前述の「高野山よもやま記」には、地元の大庄屋であった菅野家で発見された「万留帳」という記録及び「新右衛門新九郎一乱、村方出入ニ付返答書写(延享3年 1746)」という資料によれば、二代目新右衛門享保~延享年間1716 - 1747)という人物が大師堂(成就寺)の支配権をめぐって村との争いを起こし、興山寺高野山行人方の中心寺で、青巌寺と合併して金剛峯寺となる)が新右衛門・新九郎親子を生きながら土に埋める罰を下したことが判明したと記されている。同記の筆者は、人名や刑罰の内容などから、この記録が戸谷新右衛門の伝承に影響を与えている可能性が高いことを指摘している。
  • 高野山よもやま記」にあるように、はじめ、戸谷新右衛門の事蹟は自由民権運動家である土居香國小室信介によって全国的に紹介された。その後、向副(むかそい)村(現橋本氏向副)の大西徳(おおにし いさお)氏が明治16年(1883)12月に「伊都義民戸谷新右衛門小伝」という詳細な伝記を刊行した。また、作家の中里介山は、明治43年(1910)に「都新」紙上に戸谷新右衛門を主人公にした作品「高野の義人」を連載するとともに、単行本を同人社から出版した。これは、介山が我が国の大衆小説史上に燦然と輝く一大巨編時代小説(作者死亡のため未完)「大菩薩峠」の執筆を開始する3年前のことであった。
  • 現在「戸谷新右衛門の墓地」とされる場所は昭和35年(1960)に和歌山県の史跡として指定されており、新右衛門が江戸に直訴に行く前に自分で作ったものとされる塔が残されている。また、前述の「高野山よもやま記」にあるように、昭和34年(1959)に墓の横に顕彰碑が建立された。しかしながら、戸谷新右衛門の事蹟については創作が多く含まれているものと考えられており和歌山県教育委員会が開設しているWebサイト「ふるさと教育読本 わかやま発見」では下記のとおり明確に「歴史的事実ではなく、伝説にすぎない」と指摘している。

紀伊国では,文政の百姓一揆のほかにもいくつかの一揆や打ちこわしがありました。しかし,高野山寺領内に住む戸谷新右衛門(以下,新右衛門と言う)が起こしたと伝えられる越訴は歴史的事実ではなく,伝説にすぎません。
(中略)
しかし,新右衛門が住んでいたと伝える島野村という地名が見当たらず,訴え出たという文章には明治時代にしか使っていない語句があります。ちょうど新右衛門の越訴があったとするころ,高野山寺領内の丁田村で,村のお堂をめぐって村内で争いが起こっており,これがもとになって明治時代初めごろに出来上がった物語ではないかと考えられています。

  • 佐倉惣五郎(さくら そうごろう)は講談・歌舞伎の人気演目である「佐倉義民伝」の主人公。下総国佐倉城下(現在の千葉県佐倉市)に生まれ、本名を木内惣五郎という。時の佐倉藩堀田正信が領民に重税を課したため、困窮した農民らは名主などを通じて郡奉行や国家老に税の軽減を求めたがことごとく拒絶された。このため、惣五郎が1人で将軍(三代将軍家光とも四代将軍家綱ともいう)に直訴を行った結果、訴えは聞き届けられて佐倉藩の領民は救われたが、惣五郎夫妻は磔(はりつけ)となり、男子4人も死罪となったというのが概ね共通のストーリーとなっている。後の研究によれば、同地に「惣五郎」という人物がいて刑死したとは確認できるものの、伝承にあるような直訴を行ったかどうかは不明であるとされる。(Wikipedia佐倉惣五郎」の項より)
  • かむろ大師」は本文執筆後の昭和63年(1988)に移転。跡地は平成22年に「尽誠堂」となっている。詳細については次項「物狂い岩 ~橋本市学文路~」参照のこと。

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本ページの内容は、昭和57年に和歌山県が発行した「紀州 民話の旅」を復刻し、必要に応じ注釈(●印)を加えたものです。注釈のない場合でも、道路改修や施設整備等により記載内容が現状と大きく異なっている場合がありますので、ご注意ください。