生石高原の麓から

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石童丸哀話 ~高野町高野山~

 底冷えのする薄暗い堂内。30人ばかりのグループが、年とった堂守の絵説きに耳を傾けていた。天井に近い高い壁には、極彩色の絵が30枚。

 
 「やがて石童丸(いしどうまる)は、ここ御廟(ごびょう)の橋で一人の僧と出会いました。その人こそ、まぶたに描き続けた父ではありましたが、父とは名乗れぬ苅萱童心(かるかやどうしん)。お前の父は、すでにこの世を去った~と、涙ながらに説き聞かせたのです」……。


 聖と俗。高野山はいま、その二つが混然とした、一種独特の風情をみせる。しかし、山内に残る史跡や、多くの説話は、その聖と俗の“からみ合い”がもたらしたものではないのだろうか。世俗を逃れながらも、なお煩悩(ぼんのう)を断ち切ることのできない修業僧。ともすれば、肉親の情に、修業の身であることを忘れることもある一介の男。そうした、多くの生身の人間が描いた「相剋の図」が、ときには教訓として語られ、あるいは昇華して残る。

 

 高野の悲話の象徴的なものとして語られる苅萱道心と石童丸の哀話は、その典型なのでは。その親子対面の場とされる、奥の院参道御廟の橋のあたりを歩くとき、ふと、そんな思いにとらわれる。

 

 いまから800年余り前というから、平安末期のころ。筑紫の国(現・福岡県)苅萱の庄。この地の頭領として、何不自由なく暮らしていた加藤佐衛門繁氏は、ある春の一日、ふと、人の世のはかなさに思いをはせ、武士を捨てる。

 

 咲き誇る桜の下で、美酒をくみ交していた繁氏。花びらにまじって、盃に落ちこぼれたつぼみを、じっとみつめた。
 「人の世も、これと同じか。若いといっても、いつ死ぬかわからぬのが人の身」
 繁氏の姿は、その夜、館から消えていた。

 

 やがて京都へ出た繁氏は、浄土宗の開祖、法然に弟子入りする。名も苅萱と改めて。 古くから謡曲にうたわれ、その後、説経節浄瑠璃、さらには琵琶にも作られた「苅萱」はいずれも、このあとから佳境に入る。

 

 苅萱の出家直後に生まれた石童丸も、はや13歳。母・千里から父の話を聞くと、矢もタテもたまらず、姉の千代鶴を里に残し、千里とともに京へ向う。しかしそこには、すでに父の姿はなかった。


 苅宣が高野へ登ったことを聞いた二人は、ようやく学文路(橋本市までくるのだが、ここではじめて、高野が女人禁制の地であることを知る。やむなく一人で高野へ登った石童丸は、やがて御廟の橋で一人の僧と出合う。

 

 その僧こそ、探し求めた父だった。だが、苅萱は、いま修業の身。 心を鬼にして、偽りの「父の死」を告げる。泣き崩れる石童丸。なすすべもなく、立ちつくす苅萱道心……。

 人の世のはかなさ、仏の道の厳しさを説くこの説話は、終始一貫して涙とともに語られる。

 

 その二人が修業に励んだ場というのが、いま「苅萱堂」の名で山内に残る。
 「本尊さんは、お大師さんがつくられた、お地蔵さんで…。あゝ、いまは学生さんが多いですなあ。」
 そういえば、堂を入ったすぐ左手の壁に、びっしりと掛けられた絵馬の多くは「希望校入学祈願」「合格析願」「交通事故にあいませんように」。ぎこちない字が並んでいた。
 「御廟の橋対面の場」を刷り込んだこの絵馬は、古くから「請願成就の絵馬」という。
 回廊ふうにつくられた堂内を、ぐるっとひと回りしたところに「親子地蔵」があった。その前に「祈願ずみ 志納ずみ」の札がついた「安産御腹帯」が、積み上げられていた。

 

 「苅萱堂は、学文路のが本物ですわ。千里さんをまつってあるとか…」
 高野山を訪ねる途中、そんなことを間いた。そういえば、やはり隣りの九度山町椎出長坂にも「苅萱堂」があるという。こちらは大正十五年、不動坂を整備して県道としたあとに建てたものとか。
 だが、もうひとつ本物の苅萱堂が、長野市にあるという。善光寺に近いこの苅萱堂こそ、苅萱道心遷化の地という。

(出典:「紀州 民話の旅」 和歌山県 昭和57年)

  • 苅萱道心(かるかや どうしん)と石童丸」あるいは「苅萱」としても知られるこの物語は、我が国の中世から近世にかけて流行した「説経節(せっきょうぶし)」と呼ばれる「語りもの芸能」の代表的な作品として知られる。「苅萱」に「山椒大夫安寿と厨子王)」「小栗判官スーパー歌舞伎「オグリ」の原典)」「俊徳丸この作品をモチーフにした蜷川幸雄演出の舞台劇「身毒丸」は藤原竜也のデビュー作として知られる)」などの有名作品を加えて俗に「五説経」と呼ばれるが、どの演目を五説教とするかについては各種の説があり、時代によっても異なる。
  • 説教節「苅萱」を全国に広めたのは、「高野聖(こうや ひじり)」と呼ばれる半僧半俗の者たちであった。「(ひじり)」とは、本来は神秘的な力を有する呪術者・霊能力者などを指す言葉であったが、仏教の伝来後は、徳の高い僧山岳修行を行う者(「山の聖」とも呼ばれる)を指すようになった。平安中期になって末法思想の広まりと共に浄土宗が普及すると、諸国を行脚しながら踊念仏(おどりねんぶつ 太鼓や鉦(かね)を打ち鳴らし踊りながら念仏・和讃を唱えること)を行いつつ庶民の救済と教化に務めた空也(くうや 903 - 972)が注目されるようになり、空也を指して「市聖(いちひじり)」あるいは「阿弥陀(あみだひじり)」と呼ぶようになった。これが、いわゆる「里の聖」のはじまりである。高野聖は、この「里の聖」の系譜に属する者である。
  • 「里の聖」は、踊念仏などを通じて教義の普及に努めるのみならず、広く庶民から本山への勧進(かんじん 寄付)を募る活動も行っていた。これと相前後して、正暦5年(994)、高野山では大塔への落雷により大半の建物を焼失するという甚大な被害を被ったことから、その復興のために祈親上人(きしんしょうにん 定誉)が全国に復興のための勧進を呼びかけるため、聖の組織化を図ったとされる。これがいわゆる「高野聖」である。高野聖の活動については、愛媛県生涯学習センターによる「データベース えひめの記憶」にある「四国遍路のあゆみ(平成12年度)」に次のような記述がある。

    データベース『えひめの記憶』|生涯学習情報提供システム

高野聖の主な活動は、勧進であった。
かつて古代寺院は、律令国家の保護のもとに、広大な寺領と荘園によって維持されていた。
しかし平安中期以後の律令体制の崩壊と荘園の変質に直面した寺院は、伽藍(がらん)や法会(ほうえ)の維持、僧供料の獲得のために、聖の勧進による貴賤の喜捨(お寺や僧侶にあげる金品)と奉加物の集積を必要とするようになった。
こうしたなかで聖は勧進にかかわり、仏教教団の上部構造である学問僧に奉仕する働き蜂のような役割を、日本仏教の歴史のなかで果たしたのである。
 また高野聖は、各地の唱導(宗教的説話の説教)によって納骨参詣を誘引し、回国しては野辺の白骨や、委託された遺骨を笈(おい)にいれて高野山に運んだ。
さらに納骨と供養のために高野詣をする人や、霊場の景観とその霊気をあじわう人のために、宿坊を提供した。
このように高野聖は、高野山で宗教よりは生活をつかさどる役割を主に担い、信仰をすすめて金品を集める勧化(かんげ)や唱導、宿坊、納骨等によって高野山の台所を支える階級となっていった。

  • 高野聖はまたいくつかの集団に分かれており、中でも有力なものとして萱堂(かやどう)聖蓮花谷聖千手院谷聖などがあったとされる。このうち、萱堂聖は新義真言宗の開祖である覚鑁上人(かくばんしょうにん 興教大師)が建立した念仏堂(後に「萱堂」が建立された)を拠点とした一団で、特に唱導を得意としていた。唱導とは、身近な比喩や劇的な因縁話を題材にして仏教の教えを独特の抑揚やメロディにのせて語り聞かせるもので、中でも石童丸の物語が最も広く知られている。そのあらすじは概ね次のとおりである。(Wikipediaより)

    苅萱 - Wikipedia

筑前国の武将、加藤左衛門尉繁氏(かとう さえもんのじょう しげうじ)は、の醜い嫉妬心(上辺は親し気に振る舞いながら髪の毛が蛇と化して絡み合う様子)を見て世の無常を感じ、領地と家族を捨てて出家し、寂昭坊等阿法師 苅萱道心(かるかやどうしん)と号して、源空上人法然)のもとで修行し、高野山に登った。
その息子である石童丸は、母とともに父親探しの旅にでる。
旅の途中に出会った僧侶から父親らしい僧が高野山に居ると聞く。
高野山女人禁制、母を麓の宿において一人で山に登り、偶然父親である等阿法師に出会うが、父親である等阿法師ははるばる尋ねてきた息子に、棄恩入無為の誓のために、自分があなたの父親ですと名乗ることはせずに、あなたが尋ねる人はすでに死んだのですと偽りを言い、実の父親に会いながらそれと知らずに戻った。
石童丸が高野山から戻ると母親は長旅の疲れが原因ですでに他界していた
頼る身内を失った石童丸はふたたび高野山に登り、父親である等阿法師の弟子となり、互いに親子の名乗りをすることなく仏に仕えたという哀話。

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紀伊国名所図会 三編四之巻下
石童麿 父重氏を訪ねて登山するところ
国立国会図書館デジタルコレクション)
  • 久野俊彦著「絵解きと縁起のフォークロア森話社 2009)」によれば、苅萱道心が出家するくだりは「御伽草子」などで取り上げられる「西行物語」や、「平家物語」の斎藤時頼出家の逸話などの遁世説話が原型にあるとされる。また、同書では、高野聖による唱導から語りもの芸能としての説教節が生まれた後、江戸時代中期に浄瑠璃石童丸」、「苅萱道心物語」が作られ、歌舞伎苅萱桑門筑紫いえづと(1735)」へと発展するとともに、日本各地の苅萱伝説を集成した勧化(仏教を広めるための通俗的な教導用の書物)「苅萱道心行状記(1749)」が作られ、以来、妻と妾の争いなど従来にないエピソードの追加や、二人の出家後の房号法名など新たな設定が盛り込まれるなど、物語が整えられていったとしている。(Wikipedia

    苅萱 - Wikipedia

  • 石童丸の物語に関連する「苅萱堂(かるかやどう)」とこれに類する施設は4か所ある。

高野山 苅萱堂(高野町高野山
密厳院の境内にある仏堂で、苅萱道心と石童丸(信照坊道念)が親子の名乗りを上げぬまま30年以上にわたってここで修業したとされる。堂内には苅萱道心と石童丸の物語を描いた30枚の額絵が飾られている。

 

学文路(かむろ) 苅萱堂(橋本市 学文路)
正式には如意珠山能満院仁徳寺という真言宗の寺院であるが、昭和の終わり頃に廃寺となりかけたため、学文路苅萱堂保存会により平成4年(1992)に再建された。現在は隣接する西光寺が管理を行っているため、西光寺の一部であると紹介されることもある。
江戸時代になると学文路を登山口とする不動坂が高野参詣の表参道となったため、女人禁制により高野山へ参拝できなかった女性の多くがこの地に留まって夫や息子らの帰りを待っていた。石童丸の物語は、こうした女性を対象とした一種のエンターテインメントとしてこの苅萱堂などで語られていたものである。
またここには石童丸の母千里ノ前(ちさとのまえ)が日頃から崇拝していたと伝えられる「人魚のミイラ」のほか、石童丸の守刀、苅萱道心の父が授かった夜光の玉、千里ノ前の墓標とした銘竹などが伝えられているが、これらは絵物語などを聞かせる際のいわば「小道具」として用いられたものと考えられており、「苅萱道心・石童丸関係関係信仰資料」として和歌山県の有形民俗文化財に指定されている。
指定時には「人魚のミイラが文化財に指定された」として全国的な話題になったが、「人魚のミイラ」として指定されたのではなく、いわば「信仰心を高めるための小道具一式」としての指定であり、県が「人魚のミイラ」であると認めたものではない

 

椎出道(しいでみち) 苅萱堂跡(九度山町椎出)
本文にあるとおり大正年間に建てられたもの。
大正14年(1925)に、南海鉄道高野下駅まで延長されたことにより、高野山参詣のメインルート高野下駅のある椎出地区を起点とする椎出道高野街道長坂街道とも)となった。
この際、当時は高野参詣には苅萱堂の存在が不可欠であると考えられていたことから、学文路にあった苅萱堂を椎出道に移したものである。
しかしながら、昭和3年(1928)に高野山電気鉄道(高野下-高野山間の鉄道事業会社として大正14年(1925)に設立)が高野下-紀伊神谷間の営業を開始し、翌年には極楽橋駅まで延長されたため、椎出道の利用者は激減し、現在は荒廃状態にある。

 

長野県 苅萱山西光寺
苅萱道心が晩年を過ごした草庵が寺院となったものと伝えられる。
寺伝によれば、石童丸とともに高野山で修行していた苅萱道心は、ある日、善光寺如来に導かれて信濃の地に移って草庵を営み、日々善光寺に参籠すること14年、一刀三礼(ひと彫りごとに三度礼拝する)により地蔵尊を刻み、83歳で大往生を遂げたとする。
また、石童丸信照坊道念)は父が往生したことを悟り、信濃に移り住んで父の菩提を弔うために苅萱塚を建立し、自身も一刀三礼地蔵尊を刻んで、苅萱道心入寂の2年後に63歳で亡くなったとされる。
二人が刻んだとされる地蔵尊は、「苅萱親子地蔵」と称されて現在も西光寺に伝えられている。

  • 石童丸の帰りを学文路で待っていた千里ノ前は、玉屋旅館で滞在していたとされる。この際のことについて、江戸時代後期に編纂された地誌「紀伊国名所図会」には次のように記載されている。

昔筑紫にて玉田與藤次といへる浪人の、今は此里にて、玉屋與次といへる者の宿にて、病の床に伏し、終に永萬元年酉三月二十四日の朝の露と消失せられしを、健泰妙尊大姉と戒名を授けて葬るとなむ

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紀伊国名所図会 三編四之巻下 玉屋
国立国会図書館デジタルコレクション)

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本ページの内容は、昭和57年に和歌山県が発行した「紀州 民話の旅」を復刻し、必要に応じ注釈(●印)を加えたものです。注釈のない場合でも、道路改修や施設整備等により記載内容が現状と大きく異なっている場合がありますので、ご注意ください。