生石高原の麓から

和歌山の歴史・文化・伝承などを気ままに書き連ねています

最後の仇討ち ~九度山町河根~

 玉川の渓流は、四季折々に、すばらしい風景を描きだす。春から初夏にかけての若葉の青、夏の冷たい流れ、秋の紅葉、冬枯れの河原。そして奇岩怪石の蔭で鳴くカジカ。
 その渓流にかかる千石橋のすぐ北。いかつい総ケヤキ乳門を構えた中屋旅館が、ひっそりとたたずんでいた。

 

 最後の仇討ち~。父の仇を討つため、赤穂藩村上兄弟ら七人が、密議をこらしたのが、ここだという。明治4年2月29日のこと。江戸時代、高野山へ向う武士や公家たちの宿泊所だったという中屋旅館だが、コケむした庭石や梅の古木は、そんな時代の移り変わりを、静かにみつめ続けてきたのだろう。

 

(メモ:中屋旅館は、橋本から学文路を経て高野山へ入るルートのひとつ、東高野街道河根宿の旧本陣。南海高野線高野下駅から徒歩20分。高野口町国道24号線からは河根行きのバスも出ている。)

(出典:「紀州 民話の旅」 和歌山県 昭和57年)

中屋旅館跡
  • 一般に「高野の仇討ち」として知られるこの事件は、幕末期の赤穂藩において、藩主後継問題と藩政改革をめぐり、尊王攘夷を掲げた西川升吉邦治の兄弟ら下級武士13人が藩の家老・森主税、参政・村上真輔を暗殺したこと(文久赤穂事件)に端を発する。このとき、加害者である西川らは勤王の名のもとに賞賛を受け、被害者である森主税・村上真輔の遺族らは閉門の処分を受けた。
    赤穂民報

 

  • 後に村上真輔らの冤罪が確定し、名誉は回復されたが、その遺児である村上行蔵らは父の仇に対する仇討ちを決意し、明治4年(1871)2月30日ついに実行に及んだ。中屋旅館では、その前夜、村上らの一行が実行計画を話し合ったと伝えられる。

 

 

  • 中屋旅館は、河根宿に多数存在していたとされる宿泊施設の中でも特に格式が高く、高野山への参詣者のうち身分の高い者が宿泊する「本陣」であった。現在は旅館としての営業を行っていないが、建物前には次のような説明板が掲げられている。

元本陣 中屋旅館
 江戸時代に栄えた東高野街道河根宿の本陣で、身分ある人たちの宿泊、休憩所となり、今に残る乳門(筆者注:扉の釘隠しと装飾を兼ねて乳金物(ちちかなもの)と呼ばれる乳房状の金物を使用した門のこと)上段の間は、そのころの遺構として貴重な存在である。
上段の間(書院)は、明治4年2月29日、赤穂藩士村上兄弟一行7人が明日こそ父の仇を高野山のふもとで討ちとろうと、夜遅くまで密議をこらしたところで、昭和11年県の史跡に指定された。

 

  • 実際に仇討ちが行われたのは、河根の宿場から京・大阪道を高野山へ向かって約3キロメートルほど上ったところにある作水峠(さみずとうげ 高野町西郷)とされる。ここには「黒石」と呼ばれる大岩があり、村上兄弟らはこの石に隠れて西川らの一行を待ち伏せたとも伝えられる。
  • 直木賞」で知られる小説家の直木三十五(なおき さんじゅうご)大正13年(1924)に出版した「仇討十種」という短編集に、「黒石の乱闘」という一編がある。これによると、仇討ちの現場について次のような描写がなされている。

 今、新道が出来て道は楽であるが、この旧道から登る、河根から神谷までの道は実に険路である。河根の村から千石橋の上を見ると、真直に立てたかと思われるような急傾斜の山道が白く見えている。一寸(ちょっと)した平地に休茶屋があり、それを境にして胸を突く急阪がいくつもいくつもある。それを登り切った所にある茶屋が観音茶屋で、ここから二三町で桜茶屋--今忠臣茶屋と云っている--ここから一町余りで神谷の宿になる。この桜茶屋と観音茶屋の中間に、登り道から行くと左側に三四尺四方の岩が道脇に出ている。ここが黒石である。ここから観音茶屋の問で乱闘があったのである。
仇討十種 - 国立国会図書館デジタルコレクション

 

  • 現在、仇討ちがあったとされる場所には次のような内容の案内板が建てられている。また、この場所から500メートルほど神谷集落寄りに、討たれた7人を供養する「最後の仇討ち墓所(殉難七士の墓)」がある。

日本最後の「高野の仇討ち」
 明治4年(1871)2月30日のことである。
 話は文久2年(1862)播州赤穂にさかのぼる。
 師走の9日夜、藩の執政、森主税と参政、村上真輔が自称勤皇の足軽西川邦冶ら13人に暗殺された。この年、坂下門外の老中安藤正信襲撃、寺田屋騒動、将軍家茂と皇女和宮の婚儀など、くずれ行く幕藩体制をめぐって國中の動揺が続いた。二万石の小藩、赤穂の森家が時代の波に揺さぶられたのも当然。高野山道の死闘は、真輔の遺児が西川一味に復讐した「仇討ち」であった

 当時といえども私闘はお家のご法度。まして重臣殺しは大罪。ところが西川らは罪を許されたばかりか、村上一族が逆に閉門・追放の目にあった。藩内の勢力争いが絡んでいたのであろう。遺児らは、この時仇討ちの決心を固めたといわれる。村上家の再興が認められたのは、明治元年だった。

 今度は、西川一味の処置に困った藩が、彼らを藩の墓所高野山釈迦門院の守り役に任じた。明治4年2月14日出発と決まった。村上一族はこの機会を待っていた。
高野街道を詳細に調べ「報復の地」を捜し続け十分な手配りをしてから待ち伏せた。

 一行がやってくると村上方は通路をふさぎ名乗りをあげて抜刀した。ただちに敵味方入り乱れての激しい斬りあいとなった。宿願達した村上方は、ただちに直轄の五條県奈良県へ自首した。そしてこの事件が原因で、明治6年2月に「仇討ち禁止令」が出されたという。なお、村上方の処罰は、一審で全員死罪であったが、最終的には禁固10年などの判決を受けた。全員が自由の身になったのは明治9年であった。

  参考 結城辰夫著 史跡を訪ねて「高野の仇討ち」より

 

池田農夫也(三男)
村上四郎(四男)
村上行蔵(五男)
村上六郎(六男)
水谷嘉三郎(助太刀)
赤木俊三(助太刀)
津田勉(助太刀)

  • 同サイトによれば、討たれたのは次の7人。このうち田川岩吉は運六の弟で当時13歳。9年前の暗殺には参加していないが、一行に同行していたため斬られ、地元村民が介抱したものの落命したとされる。

高野山(作水峠)で討たれた者
西川邦治
八木源右衛門
吉田宗平
田川運六
山本隆也
山下鋭三郎
田川岩吉

暗殺に参加したが、仇討ちまでに死亡していた者
西川升吉
田豊
青木彦四郎
木村寅治
高村廣平
松本善治
松村茂平 

 

  • 赤穂藩が西川らを高野山釈迦門院の守り役に任じたのは、仇討ちが行われることを恐れた藩が、西川らを禁殺生の地である高野山へ送りこむことによって仇討ちを防止することが目的であったと言われる。これに対して、村上らは高野山の聖域に入る直前の作水峠を仇討ちの場所に定めたとされる。
  • 「高野の仇討ち」の詳細については、高野山霊宝館が発行している「霊宝館だより 第80号 平成18年7月10日発行」に、「二面の仇討ちの図」として詳細な解説が掲載されている。

    高野山霊宝館【霊宝館だより】

 

  • 明治6年(1873)2月7日付けで「復讐ヲ嚴禁ス」との布告(太政官布告第37号)が発出された。これは、欧米同様の法治国家を目指していた初代司法卿・江藤新平が「仇討ちでも殺人は殺人として厳罰に処すべき」としてこの事件の実行犯7人を全員死罪に処すとの判断を下したことを踏まえ、当時の政府の最高機関である太政官(だじょうかん)が、実行犯は全員死罪に処すべきだが今回は特命を以て禁固等に減刑することを決定し、同時に今後は一切の復讐を禁止する旨の布告を出したものとされる(詳細は不詳)。布告の内容は次のとおりであった。

復讐を厳禁す(太政官布告第三十七號 二月七日布告)

人を殺すは国家の大禁にして、
人を殺す者を罰するは政府の公権に候ところ
古来より父兄の為に讐(あだ)を復するを以て
子弟の義務となすの風習あり。
右は至情止むを得ざるに出(いづ)るといえども、
畢竟(ひっきょう)私憤を以て大禁を破り
私義を以て公権を犯す者にして
もとより擅殺(せんさつ)の罪を免れず。
しかのみならず、甚しきに至りては
其の事の故誤を問わず、其の理の当否を顧みず
復讐の名義を挾(さしはさ)
(みだ)りに相搆害(あい こうがい)するの弊(へい)
往々之れ有。
はなはだもって相済まざる事に候。
之れに依りて復讐厳禁仰せ出でされ候条
今後、不幸にして親を害せらるる者これ有るに於いては
事実を詳(つまびらか)にし
(すみやか)に其の筋へ訴え出ずべく候
若し其の儀なく復讐に泥(なず)み擅殺(せんさつ)するに於いては
相当の罪料に処すべく候条
心得違い之れ無きよう致すべきこと。

※筆者注:読みやすさを考慮して、漢字、かなづかい等を適宜現代のものにあらためた
復讐ヲ嚴禁ス - Wikisource

 

  • この「高野の仇討ち」は、この事件を直接のきっかけとして通称「敵討ち禁止令(又は「仇討ち禁止令」)」と呼ばれる上記の太政官布告が発出されたことから、「最後の仇討ち」と評されている。しかしながら、何をもって「最後の仇討ち」と呼ぶかということについては見解が分かれており、他にも「最後の仇討ち」と称される事件がある

境橋の仇討(1863)
 土佐藩棚橋三郎は酒に酔ったあげく、軽格(身分の低い武士)であった広井大六に絡んだうえ、大六を海に突き落として殺害した。これを知った遺児・磐之助は、親の仇をとるため棚橋を探して諸国をまわっていた。やがて加太和歌山市加太)に潜んでいた棚橋を発見し、紀州藩へ仇討ちを申し出たが、紀州藩は藩内での仇討ちを許可しなかった。その代わり、「棚橋を国ばらいとし、和泉の境橋で追放するので、仇討ちをしたければそこで実行すればよい」との指示があり、これに基づいて仇討ちを果たした。これは、正式な免状を受けて行われた最後の仇討ちとされる。ちなみに、当時、公式には仇討ちは禁止されていなかったものの、既に幕府は新たな「仇討ち免状」の交付は行っておらず、紀州藩が領内での仇討ちを認めなかったのも御三家としてこの方針に公に違反することはできなかったためであると言われている。このため、磐之助は同郷の坂本龍馬を頼り、龍馬を通じて勝海舟の助力を仰いでようやく免状の交付を受けたという。このほかにも棚橋の探索や紀州藩との折衝等に際して坂本龍馬勝海舟が積極的に支援したとされ、磐之助の生誕地である高知市にある「廣井磐之助墓」には「正三位勲一等伯爵勝安房君之書」とある。
学芸員エッセイ その30「龍馬・海舟・廣井磐之助」 | 龍馬の生まれたまち記念館

 

肥後の敵討(1871)
 熊本細川藩の江戸屋敷で、下田平八中津喜平が同僚の入江唯衛門に殺された。10年後、入江が捕らえられたことを知った下田の妻・田鶴と長男・恒平、中津の妻・寿のは、細川藩の役人に懇願して移送途中の入江を籠から引き出し、石貫うつろぎ谷熊本県玉名市という場所で仇討ちを行った。この仇討ちに対し、熊本藩では明治4年(1871)7月13日付けで下田恒平の跡目相続を許可した上で金子を下賜し、この行為を称賛する文書を高札に掲示した。これにより、この事件は藩から正式に称賛を受けた最後の仇討ちとされる。
日本最後の正式の仇討の地

 

加賀本多家の仇討ち(明治忠臣蔵 1871)
 金沢城二ノ丸において、加賀八家筆頭・本多政均が藩政に不満を持つ下級藩士に暗殺された。事件後、実行犯は切腹になったが他の共犯者は軽い処分に終わった。共犯者の処分が軽いことに不満を持った本多家の家臣12人は、明治4年(1871)11月23、24日、金沢と滋賀に分かれて主君の仇である岡野悌五郎菅野輔吉多賀賢三郎を討った。仇討ちを果たした後12人は切腹したが、主君の仇討ちを果たした事件であることから、赤穂義士の討ち入りになぞらえて彼らを「十二義士」、この事件を「明治忠臣蔵」と呼ぶこともある。高野の仇討ちの後で、仇討ち禁止令の前であったことから、この事件も最後の仇討ちと呼ばれる。
「明治忠臣蔵」「明治最後の仇討ち」と言われた、本多政均(ほんだまさちか)暗殺について載っている簡単な... | レファレンス協同データベース

 

臼井六郎の仇討ち(1880)
 明治元年(1868)秋月藩福岡藩支藩藩士臼井亘理明治新政府に近い考え方を持っていたため、藩内の親幕派組織によって殺害され、妻も道連れにされた。遺児・六郎は東京で山岡鉄舟内弟子となって親の仇を探していたが、ついに東京上等裁判所の判事である一瀬直久が暗殺隊の中心人物であったことを突き止めた。一瀬らが旧秋月藩主の黒田長徳邸に毎日のように集まっていることを知った六郎は、旧友と逢うことを口実に黒田邸へ赴き、一瀬を襲撃し仇討ちを果たした。六郎は裁判にかけられ終身禁固刑となったが、明治23年(1890)の大日本帝国憲法公布による大赦により仮出獄したという。一瀬襲撃は明治13年(1880)のことであり、記録に残る仇討ちとしてはこれが最後のものである。
臼井六郎 - Wikipedia

 

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