生石高原の麓から

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三鈷の松 ~高野町高野山~

 標高900メートルを越える高地。八葉の蓮華にたとえられる峯々に囲まれた高野山は、真言密教の聖地であると同時に、迷える人をも救う「現世浄土」の地ともいう。

 
 いま、高野山を訪れる老若男女は、年間125万人。多くは物見遊山ではあっても、山上の冷気にふれるとき、身の引きしまる思いにとらわれる。そこには、奈良や京都の古寺でさえ味わうことのできない、雰囲気がある。それが現世浄土なのだろうか。
 そんな中で、「三鈷(さんこ)の松」の話を聞いた。

 

 お大師さんがな、中国から日本ヘ帰られるとき、海岸で三鈷いうもんを、日本へ向かって投げられたんやして。ほいたらその三鈷いうのが、高野山の松の枝にひっかかったんや。ほいで日本へ帰ってきたお大師さんが、その松のあったとこに、お寺を建てられたいうんや~。

 

 空海が、真言密教の聖地として開いた高野山には、当然のことに、空海弘法大師にまつわる説話が、きわめて多い。中でも、この三鈷の松の話は、密教の象徴的な法具である金剛杵(こんごうしょ~三鈷杵)高野山の中心的な金堂大塔のそばの松ということで、代表的な伝説といえるだろう。


 三鈷の松が立つ金堂の広い境内は、雪におおわれていた。金堂に向かって、右に桧皮ぶきの御影堂、左手に朱色の大塔と、その奥に国宝の不動堂。御影堂のすぐ前の、赤く塗った、がん丈なコンクリートのサクの中の二本の松が、それだった。

 

 「大塔を背にして、右が三鈷の松です。左は赤松です」
 町役場の職員が、教えてくれたその松の幹は、ともに直径50センチもあろうか。 だが、その三鈷の松は、すでに枯れていた。
 「注射したり、いろいろ手当てしたんですがね…。やっぱり寿命だったんですかねえ、ダメでした」
 職員は、そういって高く突っ立つ幹を仰いだ。

 もう、葉がほとんどなくなってしまった松は、いかにも寒々としていた。

 

 空海が唐へ渡ったのは、延暦23年(804)の末。長安青竜真言密教七世、恵果阿閑梨(けいかあじゃり)から大日経の秘義を授けられて帰国。諸国をめぐって布教したあと、弘仁7年(816)、高野山真言密教の聖地と決めて堂宇の建立をはじめたとされるのだが、空海が帰朝した大同元年(806)にさかのぼるこの伝説の、幅は広い。

 

 空海が、その杵をみつけたのは、恵果から与えられた、一本のホウキの中だった。金色に輝やく杵を手にした空海は、いまは亡き恵果に感謝した。
 「この杵こそ、わたしの行く道を教えてくれるものだ。杵よ、わたしの落ち着くべき地を教えてくれ」
 波打ちぎわに立った空海が、夜空にそれを投げると、杵は金色の尾を引きながら、闇の中へ消えて行った。

 

 それから何年かたったある日。杵を探し求めて山野をさまよい歩いた空海は、二匹の犬を連れた狩場という男に会った。
 「この向うに、夜になると光を放つ、ふしぎな山がある」
 狩場からそう教えられた空海は、二匹の犬の先導で高野山へ入る。そしてそこで、また一人の老婆に会う。丹生都比売(にゅうつひめ)と名乗ったその老婆は、近くの松の枝を指さすと、いつの間にか姿を消していた。
 空海が仰ぎ見た一本の松の枝に、金色に輝やく、あの杵があった。
 やがて高野山を開いた空海は、金堂を建てると、丹生明神狩場明神をまつり、諸堂の建立をはじめた……と。

 

 どこかの参拝団だろうか。散らつく雪に、肩をすぼめながら詣でた一行が去ったあとの境内に、再び静寂が戻った。
 どんよりとした空に向かって、仲よく立った二本の松。その一方の赤松が、対照的に緑濃い葉を繁らせていた。

 

(メモ:高野山へは南海高野線で直行できるほか、九度山町から高野山道路、日高郡龍神村から高野龍神スカイラインなどがある。また山内には、金剛峯寺、霊宝館、奥の院、大門、苅萱堂などもある。)

(出典:「紀州 民話の旅」 和歌山県 昭和57年)

  • 一般的に「高野山」とは、高野町の中心部にあたる地域で、周囲を1,000メートル級の峰々に囲まれた標高約800メートル前後の平坦地を指す。八つの峰今来峰宝珠峰鉢伏山弁天岳姑射山転軸山楊柳山摩尼山)に囲まれたこの地形が、「胎蔵曼荼羅密教の根本経典のひとつである「大日経」に基づく曼荼羅)」の中央に描かれている「中台八葉院(ちゅうだい はちよういん 大日如来のまわりを如来宝幢如来開敷華王如来無量寿如来天鼓雷音如来)と四菩薩普賢菩薩文殊菩薩観自在菩薩弥勒菩薩)が取り囲む)」を表しているとして、真言宗の開祖である空海嵯峨天皇からこの地を下賜されて密教の道場を開いた。後にこの道場が「高野山金剛峯寺(こうやさん こんごうぶじ)」と名付けられたことから、この山号(さんごう 寺院名の前に付ける称号)をもって地域全体を「高野山」と呼ぶようになったもので、「高野山」という名称の山は存在しない。
  • 現在「高野山金剛峯寺」と呼ばれている寺院は、明治2年(1869)に「学侶(学問・祈祷などを担当する僧)」の中核寺院であった「青巌寺」と、「行人(施設管理・年貢徴収などを担当する僧)」の中核寺院であった「興山寺」が合併してできた寺院(施設は青巌寺を使用)であり、江戸時代以前の「金剛峯寺」とは、高野山にある寺院全体の総称であった
  • 空海は、宝亀5年(774)、讃岐国多度郡屏風浦(現在の香川県善通寺市)生まれとされ、幼名は佐伯真魚(さえき まお)。14歳で平城京(現在の奈良市)に出て、18歳で京の大学寮(官僚育成機関)に入ったが、「虚空蔵求聞持法(こくうぞう ぐもんじほう、一定の作法に則って真言を百日間かけて百万回唱える修業)」と出会ったことから大学を退去して私渡僧(しどそう 正式の手続きを踏まずに出家した僧)となり、各地の山野で山岳修業に励んだ。
  • 私渡僧となった後の空海の足跡は不詳であるが、延暦23年(804)、藤原葛野麻呂が率いる遣唐使で20年間の長期留学生として唐に派遣された。この時の船団には最澄も乗り込んでいたが、最澄は既に実力を認められていた僧(請益僧)となっていたため、最澄の留学期間は当初から短期の予定であった。
  • 唐に渡った空海は、当時、唐における密教(唐密)の最高指導者であった恵果(けいか/えか 恵果阿闍梨とも)から直接指導を受けた。恵果は空海の実力を見抜き、ただちに密教の奥義伝授を開始して、正式に灌頂(かんじょう 種々の戒律や資格を授けて正統な継承者とするための儀式)を授けた。指導を受け始めてから約半年後に恵果は60歳で入寂(死亡)したが、この際、空海は全ての弟子を代表して恵果を顕彰する碑文を起草している。
  • 唐に渡ってから2年後の大同元年(806)、空海は滞在費が無くなったことを理由に20年の留学予定をわずか2年に短縮することとして唐朝から帰国の許可を得た。多額の滞在費の大半は、後に空海が日本へ持ち帰ることになる多数の経典の書写や曼荼羅密教法具の製作などに費やされたものと考えられている。
  • 20年の留学期間を2年で切り上げて帰国した空海に対して、朝廷は約3年間にわたって京に入ることを許可しなかった。大同4年(809)、嵯峨天皇が即位すると空海和泉国槇尾山寺を経由してようやく入京することができたが、この際には往きと同様に同じ船団で帰国した最澄の支援があったとされる。
  • やがて空海弘仁7年(816)、嵯峨天皇から高野山を下賜され道場を開創し、弘仁14年(823)には京で東寺を賜った。
  • 承和2年(835)3月21日に空海享年62歳で逝去したとされるが、伝によれば空海衆生救済のために現在も高野山奥之院の弘法大師御廟で永遠の瞑想に入っている入定)とも言われている。
  • 空海没後の840年、唐の武宗皇帝道教に傾斜し、仏教や景教などの外来宗教に対して徹底的な弾圧(会昌の廃仏)を行った。これにより唐における密教(唐密)は急速に衰退したため、正当な唐密は恵果の後継者である空海を通じて中国ではなく日本において承継され続けていると言える。
  • 現在では空海のことを弘法大師(こうぼうだいし)と呼ぶことが多いが、これは空海が没してから86年後にあたる延喜21年(921)に醍醐天皇から贈られた諡号(しごう おくりな)であり、生前の空海が「弘法大師」と呼ばれたことはない。我が国で初めて「大師」号が贈られたのは貞観8年(866)のことで、最澄に「伝教大師」、円仁に「慈覚大師」の諡号が贈られた。「弘法大師」の諡号が贈られたのはこれに続く三番目となるが、先の二人から55年後のことであった。その後も多くの高僧に「大師」号が贈られているが、俗に「大師は弘法に取られ、太閤は秀吉に取られる」という言葉が存在するほど、現在では「大師」と云えば一般的に弘法大師を指すという認識が定着している。
  • 空海の伝記については、鎌倉時代以降、「絵巻物」の形態で数多くの作品が制作されている。これらの作品は、「弘法大師行状絵」「高野大師行状図画」「高祖大師秘密縁起」など様々な名称で呼ばれており、巻数や絵の描き方などもそれぞれ少しずつ異なっているが、全体の構成にはそれほど大きな差異はない。ここでは、国立国会図書館デジタルコレクションに収録されている「高野大師行状図絵」から三鈷の松に関係する部分を紹介する。最初は、「投擲三鈷事」と題されたもので、空海が帰国の途中で明州の津(現在の中国浙江省寧波市)の港から三鈷杵を日本へ向けて投げる場面である。

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    高野大師行状図絵 10巻[2]投擲三鈷事
    (国立国会デジタルコレクション)

元和元年、日本の大同元年に当たる
八月に大師明州の津という所にて船を浮かべつつ
帰朝せんとし給いし時
深く請願を発し祈念してのたまわく
我が習う処の密教流布相応の勝地あらば
此の三鈷先に至りて伝すべしと云いて
日本の方に向かいて三鈷を投げ上ぐるに
はるかに飛びて雲中に入りぬ
至らん所は知らざれども
願力の空しからざる事を顕(あらわ)せり
まのあたり是を見る人 感ぜざるは無し
昔、淮南(わいなん)の犬
忽(たちまち)に天に登りし一且の仙術
何の益かある
今、金剛の杵はるかに雲に飛び
三密の加持、仰ぐべし
信ずべし 

  • 次いで、空海が寺院建立のために高野山へ上ったところ、松の木に三鈷がかかっていることを発見し、この地こそが聖地とするにふさわしい場所であることを確信する場面である。

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    高野大師行状図絵 10巻[4]三鈷寶劔事
    (国立国会デジタルコレクション)

大師是によりて彼の山に赴きて
寺院を建てんがために樹を多く伐り払い給うに、
緑の松の木の間より光明の輝きけるを怪しと御覧あるに
元和元年に大唐明州の津にて投げしところの三鈷
松の枝にかかれり
是を見るに密教有縁の地と云う事明らけし
請願朽ちずして重ねて相見る事をぞ深く感じ給いける
明神の示し給いし奇雲霊光のしるしも此の事を告げ給いけるにや

  • 空海狩場明神から高野山の所在を教えられたという物語は、平安中期の成立とされる「金剛峯寺建立修行縁起」に次のように記載されている。ただし、ここでは狩場明神が連れていたのは「大小二匹の黒犬」とされているが、後の書物等では「黒白二匹の犬」に変化して伝わっている。これについて、平安時代末期に編纂された「今昔物語集」にある「弘法大師始建高野山(巻11第25話)」では依然として「大小二匹の黒犬」となっており、鎌倉時代に制作された各種絵巻物では「黒白二匹の犬」となっていることから、この時期に変化が生じたものと考えられる。

(原文)
弘仁七年孟夏之此 出城外経暦矣 
大和国宇知郡 遇一人ノ猟者
其形深赤 長八尺許 
着小袖青衣 骨高筋太 
以弓箭帯身 大小二黒犬随従之
則見和尚遇通問不審
和尚踟蹰問訊子細
猟者云
我是南山犬飼 所知山地万許町
於其中有幽平原 霊瑞至多
和尚来住 自以助成
追放犬令走之間 即失

(読み下し)
弘仁7年(816)、孟夏(もうか)の此を以て
城外に出て経暦(きょうれき)すなり
大和国宇知郡にて、一人の猟者に遇う
其の形、深赤く、長八尺(2m40cm)ばかり
小き袖の青き衣を着たり、骨高く、筋太くして
弓箭を以て身に帯す、大小二つの黒犬これに随従す
則ち和尚が通るをあい見て不審に問う
和尚は踟蹰(ちちゅう 躊躇)しつつ子細を問いて訊ぬ
猟者の云く
我は南山の犬飼なり 山地万許(ばんきょ)町を知る所なり
其の中に於て幽平の原あり 霊瑞(れいずい 聖なる兆し)至って多し
和尚来住したまへ 自を以て助成せん
犬を追放(おいはなち)て走らせるの間 すなわち失せぬ

  • 丹生都比売神(丹生明神)は狩場明神(高野御子神)の母神で、高野山一帯の地主神とされる。空海高野山を開創する際、丹生都比売神からこの地を譲り受けた(借り受けたとも)と伝えられており、山上には高野山の守護神として丹生明神と高野明神を祀る「御社(みやしろ)」が建立されているほか、高野山で僧侶になった者は丹生都比売神かつらぎ町天野)へ御札を納めに行くなど、現在も神仏習合の行事が続けられている。
  • 三鈷(さんこ 三鈷杵(さんこしょ)とも)」とは、密教の儀式などに用いられる法具で、短い棒の両端に三本の尖った爪状の突起を有するもの。突起が一つのもの(独鈷)、五つのもの(五鈷)などもある。もともとは、インドで武器として用いられていた金剛杵(こんごうしょ ヴァジュラ)をモデルにしたもので、あらゆるものを打ち破るところから、「煩悩を破る悟りの智慧」の象徴として密教に取り入れられたものとされる。
  • 空海が中国から日本に向けて投げたとされる三鈷は、「飛行三鈷杵(ひぎょう さんこしょ)」と名付けられて現在も金剛峯寺に保管されており、明治30年(1897)、国の重要文化財に指定された。
  • 本文にあるように、当時の「三鈷の松」は昭和57年に枯死した。現在の「三鈷の松」は7代目で、平成期に植え替えられたとされるが、高野山麓橋本新聞によれば、これは中国原産の白松(はくしょう)と呼ばれる種類の松であるとされる。通常の松葉は二葉が一対となっているが、三鈷の松は三葉が一対となっているものがあり、これを拾ったものには幸運が訪れると言われている。

    松の三つ葉拾った!高野山・三鈷の松〜親子で大喜び | 高野山麓 橋本新聞

  • 高野山の観光客数は、高野山開創1200年記念行事が行われた平成27年(2015)年に199万人を記録し、昭和34年(1959)の統計開始以来最高となった。外国人観光客が年々増加しているのも大きな特徴で、平成30年(2018)の外国人観光客数は約9万3000人に達した。

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本ページの内容は、昭和57年に和歌山県が発行した「紀州 民話の旅」を復刻し、必要に応じ注釈(●印)を加えたものです。注釈のない場合でも、道路改修や施設整備等により記載内容が現状と大きく異なっている場合がありますので、ご注意ください。