生石高原の麓から

和歌山の歴史・文化・伝承などを気ままに書き連ねています

笠石

 「旧小川村の伝承」のカテゴリーでは、過去の個人サイトに掲載していた記事のうち、旧小川村(現在の紀美野町小川地区)に伝わる故事や行事に関わるものを再掲するとともに、必要に応じて注釈などを追加していきます。

 

 今回は「笠石」を紹介します。

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笠石


 生石山の山頂近くにあり、生石高原のシンボル的存在の大岩。弘法大師空海護摩修行を行った場所であると伝えられており、その名の由来は、弘法大師がここに置いたが見る間に大きくなったからであるとも伝えられている。真偽のほどは別にして、この岩の上に昇って見下ろす下界の眺めはまさに絶景。

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 笠石について、江戸時代後期に編纂された地誌「紀伊風土記」の「那賀郡 小川荘 中田村(現在は海草郡ですが、当時は那賀郡に属していました)」の項に次のような記述があり、ここが那賀郡と在田(有田)との境界であったことが記されています。

笠石

村の南登ること二十町(約2キロメートル)にあり
石の大さ 東西十八間(約33メートル)南北十六間(約29メートル)
白石にして所々黒を帯たり
此石 那賀 在田 両郡の界とす
石の上に小堂あり 弘法大師の像を安す
北所より南に下る道あり
これを下れは在田郡石垣莊冬村に至る

 

 空海の置き忘れた石が巨大化して現在の笠石になったという伝承については、別項「生石山の弘法水」で詳細に紹介していますが、同項で引用している「金屋町誌」の記述をここに再掲しておきます。

生石山の弘法水

 弘法大師は奥村で元高野を開いたが、自分の描いていた理想郷には程遠いので、新しい聖地を求めて生石山に来た。山頂から眺める景色の美しさは、恰も極楽浄土の姿である。徐に腰の矢立てをとって一筆記そうとした時、矢立に一滴の水もなかった。
 そこで足許の石を指先で掘ってみると、清水が滲み出て来た。この水は今でもどんな日照りになってもきれなく、「硯の水」と呼んでいる。草原の頂上には不思議な泉である。この時、はるかかなたに高野の峯を見つけ出すことができた。これを見た空海は小踊して「これこそ我が求め来った聖地である」と勇みに勇んで高野を開く出発点になったといわれる。あまりのうれしさに笠を忘れて出発、忘れた笠が石になり、笠石と呼ばれ、今も生石の頂上にある
 上人が自分で求めていた聖地が見つかり、これこそ「神がこたえてくれた山」応神山と名づけたともいわれている。

 

 上記の引用文では空海がここで護摩修行を行ったという話は記されていませんが、「紀伊風土記」の「在田(有田)郡 冬村」の項にある「生石嶺」の注釈に次のような記述があり、中田村の項に記されていた笠石の小堂に空海護摩修行伝承が伝えられていたことがわかります。

生石嶺

村の北の高嶽をいう
東草集に生岩峯とある是なり
山の羊腹山保田荘楠本村領に大石あり
生石社という
生石の名此より
起れり
此嶺那賀郡の境にして嶺まで坂道二十五町
海部名草郡那賀在田日高の諸村眼下にあり
嶺に笠石と云う石あり
諸方よりみて目印となすべし
詳に那賀郡小川荘中田村の條に出たり

空海護摩修行ありし地なりとて大師の小堂あり

 

 この地域には、この他にも空海にまつわる伝承がいくつか残されています。次項ではもう一つの空海伝承である「押上げ岩」を紹介します。