生石高原の麓から

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(番外編)「南紀」と「紀南」

 「南紀熊野体験博の記録」のカテゴリーでは、過去の個人サイトに掲載していた記事の再掲を中心として、平成11年(1999)に和歌山県南部地域全域を会場として開催された「JAPAN EXPO 南紀熊野体験博」について適宜補足を加えつつ紹介してきました。


 「和歌山県南部地域」を会場とするイベントに「南紀」の名称を付けること。これは、観光地としての「南紀白浜」や「南紀勝浦」という名称があることを考えるとごく普通のことのように思われるのですが、実はこの名称を決定するまでには関係者の相当な葛藤があったので、今回はそのあたりを「番外編」として紹介していきます。

 

 各地の地名の由来等を調べる際に重要な参考資料となるのが、角川書店が出版した「角川日本地名大辞典」という辞典です。この和歌山県版は昭和60年(1985)に「和歌山県地名大辞典角川日本地名大辞典 30 和歌山県」として出版されました。
 この辞典を見ると、見出し語には「南紀」という項目はないものの、「紀南」という項目の説明の一部に「南紀」に関する解説が含まれています。

紀南(きなん)
 和歌山県内の地域区分用語。県南部を指し、紀州南部の略。紀北紀南と二分する場合と、紀北紀中紀南と三分する場合があるが、どちらの区分の場合でも、紀南西牟婁郡田辺市を含む)東牟婁郡新宮市を含む)に限ることもあるが、二分する場合の紀南日高郡以南とする考え方もある。なお南紀という呼称が、紀南と混同されやすいが、南紀は地域区分用語ではなく、南海道紀伊国の略で、紀伊全域を指し、紀南とは異なる

 説明文の書き方がややわかりにくいのですが、これによれば「南紀」という言葉は「紀州の南の方」という意味ではなく、古代日本の律令制のもとで定められた「五畿七道(ごきしちどう)」という地域区分に基づき、海道(現在の和歌山県全域及び三重県の熊野地方、淡路島、四国全域)」に含まれる地域のうち「伊国」に該当する地域という意味であるということになります。

 これについて、和歌山大学名誉教授を務められた故小池洋一氏が編者となって昭和61年(1986)に出版された「和歌山県の地理(地人書房)」では次のように解説されています。

(略)
 その前に,地域区分とまぎらわしく使われている「南紀」という呼称について取り上げてみる。南紀というと,和歌山県の南部,つまり紀州の南部という意味に受取られがちである。そうすれば南紀紀南も同じことになるが,南紀に対して北紀とはいわない。南紀の呼称は,「南紀徳川史」(明治31)紀州南部の名称に見られるように,むしろ紀州全域を表す名称として古くから使われていたもので,おそらく紀伊国南海道筆頭の国であることから、南海道紀伊国を略して南紀と呼び始めたものであろう。和歌山県は旧牟婁郡東部を除いて紀伊一国を占めるので、置県後も南紀和歌山県全域を指す呼称として使われてきたものと思われる。したがって南紀紀州南部を意味する紀南とは異なり,地域区分の名称とはならない

 

 このように、本来「南紀」は和歌山県全域(語源的には「紀伊国」全域となり、現在の三重県熊野地域も含む)を指す名称であることから、南紀熊野体験博の名称検討段階では「和歌山県南部地域を対象とするイベントに『南紀』の言葉を用いるのは不適当ではないか」との意見もありました。 しかしながら、このイベントは広く一般集客を期待するものであり、現在では観光ガイドブックやパンフレット等において、「南紀」という言葉が和歌山県南部地域を表す一般的な用語としてほぼ定着してしまっていることを考慮すると、語源的には正しいと言えないものであるとしても「南紀」という名称を用いるメリットが大きいものと判断されたのです。和歌山県では、この際、「南紀」という言葉の持つ地域イメージや、「体験博」という言葉がイベントの内容を正確に伝えられるか、などを調査するためのアンケート調査を実施しています。)
 ちなみに、学術的な側面から「不正確ではないか」との批判が生じたときのために、南紀熊野体験博」という言葉は「『南紀 =(イコール) 熊野』で行われる体験型博覧会」という意味ではなく、「南海道紀伊国和歌山県全域)』の中にある『熊野地方』で行われる『体験型』の『博覧会』」という意味の言葉なのです、という模範回答を用していたと聞きます。(実際にこうした説明が行われたかどうかは不明です)

 

 さて、「南紀」という言葉については概ね以上のとおりなのですが、これと混同されがちな「紀南」という言葉にも非常にややこしい問題がつきまといます。それは「紀南の範囲」についてです。
 前述の小池洋一編「和歌山県の地理」では、「紀南」という言葉について次のように記載されており、おそらく大正5年(1916)頃に用いられ始めた比較的新しい言葉だとしています。

 領国意識の強い封建体制下では,地域区分の意識は容易に育ち難い。紀北紀南といった地域呼称は,1913(大正2)年刊の和歌山県にもまだ用いられていない。紀南の用語例は児玉荘左衛門紀南郷導記(元禄年間、1688~1703),坂本天山紀南遊嚢(寛政11,1799)などがあるが、内容が紀州北中部に触れる所もあり,この時点で意識的地域用語が成立したとは認め難い。またこの頃に紀北の用語例は見あたらない。
 紀北紀南等が地域名として頻出してくる上限について,和歌山県地方史研究目録(三尾功,昭42)所収の論題から拾って見た限りでは,田中敬南行幸記念碑」(紀伊史談8,大正5),田口克敏紀北沿岸地形の変遷」(紀伊郷土研究3,大正15),森彦太郎中紀の著姓」(紀伊史料3,大正15)がそれぞれ上限として求められる。このうち中紀は,南紀紀伊南部と解して対応させたと考えられるもので,後の紀中への移行期のものとすることができよう。そうすると紀北紀中紀南の用語は,そのうち1つだけ先行することとは考えられないから、前記3項のうち最も早い紀北の呼称の現れた大正5年をとれば、これらの呼称は和歌山県誌刊行の翌年から大正5年の間,つまり大正初年と見てよいであろう。ただおそらく初めは口六郡両熊野(筆者注:「口六郡」は当時の伊都郡・那賀郡・名草郡・海部郡・有田郡・日高郡を指し、「両熊野」は「口熊野」「奥熊野」を意味して現在の西牟婁郡東牟婁郡全域に相当する)の慣習もあって,紀北紀南の2区分が先行し,紀中を入れた3区分はやや遅れたかと思われる

 このように和歌山県における「紀北」「紀南(3区分法では「紀中」を含む)という地域区分は大正時代頃に成立したものと思われますが、話をややこしくしているのは、これとは別に三重県にも「紀北」「紀南」という地域区分があるということなのです。
 三重県では、県内の大きな地域区分として「北勢」、「伊賀」、「中勢」、「南勢(伊勢志摩)」、「紀州」という5つの区分を用いていますが、このうち「紀州」地域はさらに「紀北尾鷲市北牟婁郡)」、「紀南(熊野市、南牟婁郡」に分けられており、三重県で「紀北」「紀南」と言えば普通にこれらの地域を指す言葉になります。

 実にややこしい話なのですが、幸いにもWikipediaの「紀南」の項にはこれらの用語の関係を一覧表に表したものがありますので、下記のとおりこれを引用させていただくこととします。
紀南 - Wikipedia

区分 旧郡 現在の市町村
3分 2分 古代 近世 明治 町村数
和歌山県 紀北 紀北 紀北 海部郡 海草郡
和歌山市
和歌山市海南市 1町
名草郡
那賀郡 岩出市 0
伊都郡 橋本市 3町
紀中 有田郡 有田市 3町
紀南 日高郡 御坊市 6町
紀南 紀南 牟婁 牟婁 西牟婁郡 田辺市 3町
東牟婁郡 新宮市 4町1村
三重県 紀南 南牟婁郡 熊野市 3町
紀北 英虞郡 北牟婁郡 尾鷲市 1町

 

 これを見ると、さすがに地理的に大きく離れている和歌山県の「紀北」と三重県の「紀北」とを一体的に考えることができないというのは直感的に理解できるのですが、県境をはさんで隣接している和歌山県の「紀南」と三重県の「紀南」についても同様にひとくくりに「紀南」として呼ばれることがない、ということには注意が必要です。この両地域は地理的に隣接していること、かつてはともに紀州藩に属していたこと、などの歴史的経緯を考えると余計にこれは奇妙に感じられるところです。

 上記の一覧表に見られるように、近世(おおむね江戸時代)には「三重県の紀北・紀南」地域は「牟婁(むろ ごおり)」として「和歌山県の紀南」地域とほぼ一体のものとして扱われてきたわけですが、この時代には「紀北紀南」という名称は影も形もありませんでした。「紀北紀南」という名称は、上記で延べられていたように明治以降に成立した和歌山県三重県という県の区分がすっかり定着してしまった後の大正年間になって用いられはじめたものであり、この時点ではかつての「牟婁郡」の一体性は失われてしまっていたと考えられます。このため、これまでの歴史において和歌山県三重県にまたがる地域をまとめて「紀南」と呼んだ時代は無かったのであり、「三重県の紀北・紀南」と「和歌山県の紀北・紀南」とは、大正時代以降にそれぞれの地域で独立して生まれた呼び名がたまたま同じものになったに過ぎない、と言うことができるのです。

 

 つまり、「南紀」という言葉は奈良時代にまで遡る律令制に基づく歴史的な名称であり、「紀南」という言葉は大正年間に和歌山県三重県でそれぞれ独自に命名されたものである、ということを考えると、この両者は確かに本来明確に区別されるべきものなのでしょうが、冒頭で延べたように、現実問題として「南紀」という言葉が「南紀白浜」や「南紀勝浦」という呼称と相まって「観光資源の豊富な和歌山県南部地域」というイメージを纏ってしまった以上、「語源に基づいた厳格な言葉の用い方に戻すべきだ」という主張をするのはすっかり野暮というものなのでしょうね。