生石高原の麓から

和歌山の歴史・文化・伝承などを気ままに書き連ねています

南紀熊野体験博ニュース第2号(1998.10)

 「南紀熊野体験博の記録」のカテゴリーでは、過去の個人サイトに掲載していた記事のうち、「JAPAN EXPO 南紀熊野体験博(1999.4月~9月)」に関するものを再掲していきます。

 

 今回の記事は、南紀熊野体験博実行委員会が発行する情報紙「南紀熊野体験博ニュース」第2号の紹介です。残念ながら、当時の個人サイトでは目次を掲載したのみで、その内容については掲載されていませんでしたので、ここでは目次のみの紹介となります。

 なお、後段ではこのニュースで紹介されている名誉顧問と写真家の方々について詳述します。

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南紀熊野体験博ニュース Vol.2 発行

 南紀熊野体験博を前に、準備の進み具合やキャンペーンの模様をお知らせする「南紀熊野体験博ニュース」の第2号が発行されました。

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 ここでは、その目次をご紹介します。

 南紀熊野体験博の心強いアドバイザー  名誉顧問に5氏
  梅原猛
  上田正昭
  上山春平氏
  木田宏氏
  神坂次郎氏
 南紀熊野体験博の「顔」を撮る  写真家
  エリオット・アーウィット 
 南紀熊野発!
 絵本作家ジョン・バーニンガムが描く
 体験博のテーマストーリー
  「地球というすてきな星」
 体験博実行委員会インフォメーション  キャンペーンレディが活動開始
 豊富な体験メニューは体験博ならでは   “体験”それがキーワード
   歴史の道は、自然&文化の宝庫   それは、熊野古道
   南紀の海は食べておいしい、
   遊んでもオイシイ!
  それは、黒潮の海
   自然に囲まれ、自然にいやされて   それは、森と清流と人の暮らし
 穴場情報は地元で聞こう  私たちの体験博
 体験博の玄関口  シンボルパークは情報の拠点
 祭り、スポーツ、味覚のシーズン
 9月から’99年1月の行事
 和歌山50市町村
 今から楽しめる紀州路ガイド
 体験博NOW  ニュース・ダイジェスト

 

※上記の記事は1998年10月に個人のWebサイトに掲載したものを再掲しました。

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 南紀熊野体験博の名誉顧問に就任した梅原猛氏(1925 - 2019)は我が国を代表する哲学者の一人で、氏が日本の文学、宗教に向けた独自の視線は「梅原日本学」と称されました。他にも「スーパー歌舞伎」や「スーパー能」の創作に携わるなど幅広い分野にわたって活動されており、これらの業績により平成4年(1992)文化功労者に選出され、また平成11年(1999)には文化勲章を受章しました。
梅原猛 - Wikipedia

 梅原氏は古くから熊野の歴史や文化に着目しており、昭和63年(1988)には氏が代表を努めていた非営利団体日本文化デザイン会議(後に「日本文化デザインフォーラム」)」の主催により、「日本文化デザイン会議'88熊野 『かいじん潮流-魁・開・界・海・怪・壊・快』」が開催されました。我が国を代表する碩学の面々が熊野に集まり、硬軟取り混ぜた様々な切り口から熊野の歴史や文化について議論するというこのイベントは、和歌山県における「熊野」のイメージを大きく変えるものとなりました。

日本文化デザイン会議
'88 熊野
テーマ「かいじん潮流-魁・開・界・海・怪・壊・快」

■会期    -    1988年10月20日(木)、21日(金)、22日(土)
■講師数    -    89名
■参加者数    -    約14,820名

シンボルマーク

議長    -    多田道太郎
副議長    -    馬場璋造/米山俊直
テーマ委員長    -    山本七平
事業委員長    -    福田繁雄
渉外委員長    -    合田周平/坂下清
広報委員長    -    草柳大蔵/末次攝子
制作委員長    -    田中一光

日本の文化・伝統の源流“熊野”を舞台に開かれた会議。県庁所在地ではない市町村が開催地となったのは初めてのことです。しかし全県からこの会議に参加するために集まった人々の数は、他の開催都市にまさるとも劣らないものでした。
会場の熱気と聖地・熊野の地霊に刺激されたせいか、分科会終了後もパネリスト同士あるいは参加者とパネリストが論議を続ける光景があちこちで見られました。
http://www.jidf.net/project/archives/kaigi/detail.html?id=009

 この「日本文化デザイン会議'88熊野」の開催が決定した際、梅原氏は和歌山県知事の仮谷志良(当時)と県広報紙「県民の友 昭和62年6月号」紙上で対談を行っています。その冒頭の一部を下記に紹介します。

知事
先生ようこそ、この熊野の地へおいでくださいましてどうもありがとうございます。
梅原
私は熊野が大好きでしてね。熊野について本を書こうと思いまして、もう原稿がほとんどできてるんですよ。
知事
先生はもう十回ほど熊野へ来られたということで、熊野についても非常に造詣がお深く、私たちも大変うれしく思っております。先生は今いろんなことをやっておられますが最も興味があるのは・・・。
梅原
私が今いちばん興味を持っていることと熊野とがつながりがあるんです。つまり、日本文化のいちばん深層にあってその後の日本文化を規定しているものは何かという関心をずっと持ってきた。日本というのは農耕以前の狩猟採集段階の文明が世界的に非常に発達してるんですよ。これを縄文文化というんですが、土器を持った精神的にも物質的にも高度な文化が栄えたんですね。それが最も残っている場所の一つがこの熊野だと私は思っているんですよ。
(以下 略)

広報紙 | 和歌山県

 上記対談において梅原氏が執筆中と語っていた書籍は、後に「日本の原郷 熊野(新潮社)」として平成2年(1990)に出版されました。

 梅原氏を中心としたこれらの動きが和歌山県内において「熊野」の再評価に繋がり、これが「南紀熊野体験博」の原動力となり、やがて「紀伊半島霊場と参詣道」として世界遺産登録に結びついていったということを考えると、和歌山県にとっていかに梅原氏が重要な役割を担ったかということが理解されるのではないでしょうか。

 

 同じく名誉顧問に就任した上田正昭氏(1927 - 2016)は、日本古代史研究の第一人者で京都大学名誉教授、従四位勲二等瑞宝章受章。神話学・民俗学などを視野に入れ、広く東アジア全体の視座から日本史を究明したことで知られ、大陸から日本列島に渡って来た人々を意味する「渡来人」という用語を定着させたことも同氏の研究の成果であるとされています。
 梅原猛氏とも親交があり、昭和48年(1973)には、上田氏と梅原氏に加え、林屋辰三郎氏、梅棹忠夫氏との共著により「新・国学文芸春秋 1967)」を出版しています。
上田正昭 - Wikipedia

 

 上山春平氏(1921 - 2012)は「新・京都学派」と呼ばれる研究者グループに属し、京都大学人文科学研究所を中心として独創的な国家論や文明論を展開したことで知られる哲学者です。京都大学名誉教授で、紫綬褒章文化功労者、勲二等授旭日重光章等を受章。父方の郷里が和歌山県と言われており、1948年には和歌山県立田辺高等学校教諭として勤務したこともあります。
 同氏が編者となって出版された「照葉樹林文化 日本文化の深層中央公論社 1969)」は、中国雲南省から長江流域・台湾を経て日本の南西部紀伊半島など)につづく照葉樹林(シイ、カシなどの常緑広葉樹が優勢な森林)地域には共通の文化要素があり、それは共通の起源地から伝播したものではないか、という仮説照葉樹林文化論)を踏まえたシンポジウムを取りまとめたものであり、これ以降の文化人類学研究に大きな影響を与えました。映画「もののけ姫」をはじめとする宮崎駿監督作品の多くは、この「照葉樹林文化論」の思想を色濃く反映していると言われています。
照葉樹林文化|新書|中央公論新社
もののけ姫 - 世界観 - Wikipedia

 

 木田宏氏(1922 - 2005)は文部省(当時)の元官僚。昭和51年(1976)から53年(1978)まで文部事務次官を務め、後に日本学術振興会理事長や新国立劇場運営財団理事長を歴任した人物です。
 氏が卒業した広島県福山誠之館高校のWebサイトには同氏の略歴と寄稿文が掲載されており、これによると和歌山県生まれとされていますが、一般的には広島県生まれとされているようです。
誠之館人物誌 「木田宏」 文部事務次官、新国立劇場運営財団理事長

 文部省では戦後の教育改革、教科書制度、教育委員会制度などに携わったそうで、「『木田宏オーラルヒストリー』と戦後の教育課日本教育情報学会「教育情報研究」2006 年 21 巻 4 号)」によれば、連合国総司令部(GHQ)の指示を受けて教科書の検定制度を導入する際に、その指針として用いられる「Courses of studies」を日本語で「学習指導要領」と翻訳したのは木田氏であったといいます。
木田宏 - Wikipedia
教育情報研究

 

 神坂次郎氏(1927 - )は和歌山市出身の小説家。1982年「黒潮の岸辺」にて第2回日本文芸大賞を受賞、1987年には「縛られた巨人 南方熊楠の生涯」で第1回大衆文学研究賞(評伝部門)を受賞しました。一般的には時代小説作家として知られますが、第二次世界大戦中には特攻隊員として鹿児島県知覧特攻基地で勤務していた経験から「特攻隊員たちへの鎮魂歌PHP研究所 2005)」など特攻隊をテーマとした著作もあります。

 また、「紀州歴史散歩 古熊野の道を往く創元社 1985)」、「熊野路をゆく(編集工房ミトラ 1988)」など熊野を舞台とした紀行文も手掛けており、熊野に関しても強い興味を示されています。これについて神坂氏は、和歌山県発行の情報誌「和(nagomi)VOl.9(2009.7)」における仁坂和歌山県知事との対談で次のように語っています。

仁坂知事
 長年にわたって紀州の文化を追求し、旺盛な執筆活動を続けて来られた神坂先生に、高野・熊野を題材として和歌山の特徴などをお伺いしたいと思います。まず熊野についてですが、熊野には多くの上皇や貴族が魂の救済を求めてやって来ましたね。その後は民衆化して蟻の熊野詣と言われる現象も起こりましたが、どうして熊野が巡礼の地になったのか。なぜ都の人々は熊野に神秘を感じたのでしょうか。

神坂次郎氏
 都の人々にとって、熊野は聖地と考えられてきました。例えば串本町潮岬の浜辺に静之窟(しずのいわや)という洞窟がありますが、小彦名命(すくなひこなのみこと)という神がそこから浄土に旅立たれたと日本書紀に記されています。中世にも補陀落渡海(ふだらくとかい)という風習がありましたが、延喜式の頃の地図では南限が紀州熊野。 つまり南の浄土に一番近い浜辺ということです。その思想をお坊さんが語り歩いた。中世では都が混乱し汚い世の中でしたから、人々は南の熊野で浄化されたいと願ったのでしょう。熊野へ行くことは敗者復活なんです。
【知事対談】荒野・高野に息づく「寛容の文化」

 

 なお、このとき名誉顧問に就任した5人の方々は、後に「南紀熊野体験博 公式ガイドブック」において下記のようにそれぞれメッセージを寄せられています。

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 「南紀熊野体験博の『顔』を撮る」と題して紹介されたエリオット・アーウィット氏(Elliott Erwitt 1928 - )はフランス生まれの写真家で、「世界最高の写真家集団」として知られる「マグナム・フォト」のメンバーです。

 マグナム・フォトは、ロバート・キャパアンリ・カルティエ=ブレッソンジョージ・ロジャーデヴィッド・シーモアという4人の写真家によって1947年に創立されました。東京支社は2019年に閉鎖されましたが、当時のWebサイトのコンテンツの一部は現在もアクセスできるようですから興味をお持ちの方はこちらをご覧ください。
マグナム・フォト東京支社〜ストックフォト、写真家・写真展情報のご案内〜

 南紀熊野体験博では、エリオット・アーウィット氏をはじめとするマグナム・フォトの外国人メンバーを招聘し、日本人とは異なる視点で熊野の情景を写真に収めてもらうこととしました。後に、この成果は「マグナム・フォト写真展 『熊野古道サンティアゴへの道』」として大阪、名古屋での巡回展を経て、南紀熊野体験博の期間中に中辺路町立美術館(現在は「田辺市立美術館分館 熊野古道なかへち美術館」)で公開されることとなりました。