生石高原の麓から

和歌山の歴史・文化・伝承などを気ままに書き連ねています

有機化学工業の先駆者・由良浅次郎(和歌山市)

 「和歌山あれやこれや」のカテゴリーでは、和歌山県内各地に伝わる歴史や伝承などを気ままに紹介していきます。

 

 今回は、和歌山市出身の実業家で、合成染料の国産化を通じて我が国に有機化学工業を根付かせた人物として知られる由良浅次郎(ゆら あさじろう)を紹介します。

日本最初のベンゾール精製装置説明板
(本州化学工業㈱和歌山工場)

 由良浅次郎は織物業を営む由良儀兵衛の三男として明治11年(1878)に和歌山市で生まれました。
由良 浅次郎 | 和歌山県文化情報アーカイブ

 

 由良家は1735年創業の紀州藩御用商人「日高屋」を代々営んでおり、紀州藩が奨励していた綿花栽培に関連する染色藍染に携わっていました。徳川家の治世が終わり明治時代になって間もない頃、和歌山県内で「綿フランネル(綿ネル)」と呼ばれる織物が開発されると、儀兵衛はいち早くこの綿ネル事業に参入します。
※綿織物に起毛加工を施した丈夫で軽く保温性のある生地で、毛糸を原料とする西洋のフランネル織を模したものであることから「綿フランネル」と呼ばれるようになった。また、紀州で開発されたことから「紀州ネル」と呼ばれることもある。
150年前のコア技術(綿ネルの創成)|和歌山県工業技術センター

 父・儀兵衛が興した綿ネル事業浅次郎を含む兄弟5人によって設立された「由良兄弟色染合名会社明治24年(1891)創立)」へと引き継がれ、同社では和歌山初となる自家発電、ボイラー等の設備を有する近代工場を建設して紀州ネルの生産や染色に取り組んだ結果、陸軍の大阪鎮台・熊本鎮台や海軍省などの大口需要家へも納入するに到りました。

 ところが、大正3年(1914)に欧州で第一次世界大戦が勃発すると、順調であった我が国の繊維産業は大打撃を被ることになります。
 当時、安価な合成染料ドイツが世界シェアの9割近くを有していたのですが、戦争によりドイツからの輸入が途絶えてしまったのです。この状況について、本州化学工業株式会社工場企画室長(当時)吉留勲氏は「日本初のベンゼン精留装置と合成染料の歴史(「化学と教育 66巻 1号」 公益社団法人日本化学会 2018)」において次のように記しています。

 1914 年 7 月に第一次世界大戦が勃発し,合成染料の原料であるアニリンソルトアニリン塩酸塩)アニリンオイルの入手が困難となり,価格は 20 倍にも跳ね上がった。衣服を染めようにも染料がなく,白衣を着るしかない状態に陥った。
日本初のベンゼン精留装置と合成染料の歴史

 この苦境を自らの力で打破しようと考えたのが浅次郎でした。和歌山の一介の民間事業者に過ぎなかった浅次郎ですが、当時はドイツ以外での製造は不可能と考えられていた染料原料のアニリンを自力で製造しようと研究を始めたのです。この経緯について、一般社団法人日本産業機械工業会発行の「産業機械 2020年9月号 No.839」の連載コラム「産業・機械遺産を巡る旅 ベンゼン精留装置」に次のような記述があります。

 そこに立ち上がったのが、和歌山で染色会社を営んでいた由良浅次郎である。由良はまず合成染料の主原料となるアニリンの製造に着手した。恩師や学友から「日本の技術力では不可能」「爆発の危険がある」と中止を諭されるも、不眠不休で試行錯誤を重ね、約1ヵ月でアニリン合成の実験に成功。事業化を図るべく、由良精工合資会社(現・本州化学工業株式会社)を設立した。
 アニリン製造には高純度のベンゼンが欠かせないが、国内で入手できるほとんどは粗製ベンゼンであった。そこで、由良ベンゼン精留装置の開発を決意。ベンゼンの精製には精留塔と呼ばれるタワー装置が必要であり、当時、それを製造できたのは高度な技術力を誇るドイツだけであった。しかし、由良は諦めることなく、設計資料もないなか、蒸留について著された一冊の洋書を訳しながら、独自に装置の設計を進めていった。由良にとって数少ない幸運は、地元の和歌山に鉄砲鍛冶で培った質の高い鋳物産業が根づいていたことである。由良は装置の製造を鋳物工場や製缶工場に依頼し、着手から約2ヵ月かけて、高さ5 mの精留塔、蒸留缶、分縮器、全縮器などから構成される、巨大なベンゼン精留装置を完成させた。そして、1914年11月、ベンゼン精留装置とアニリン合成装置により一日2トンのアニリンを製造し、工業化に成功した。
 持ち前のパイオニア精神と強固な信念で不可能を可能にした由良浅次郎は、わが国の合成染料工業を切り拓いただけでなく、有機化学工業の発展にも大きく貢献した。
(以下略)
機関誌「産業機械」 | 一般社団法人 日本産業機械工業会

 

 浅次郎が日本ではじめて精留(高純度化)に成功したベンゼン(ベンゾール)とは、しばしば「亀の甲」と呼ばれる構造式(下記参照)で表される化合物で、広義には「有機化合物(炭素を含む化合物)」、狭義には「芳香族化合物(ほうこうぞくかごうぶつ 強い臭気を持つものが多かったことからこの名が付けられた)」と呼ばれる分類に属しています。

ベンゼンの構造式 ベンゼン - Wikipedia

 ベンゼンは、上記の構造式で外側に位置する水素原子(H)を比較的簡単に他の原子と置き換える(置換)ことができるという点が大きな特徴となっており、この性質を利用してさまざまな化学物質へと変化させることが可能です。
 例えば、染料の原料となるアニリンは、ベンゼンの水素原子一つをアミノ基(NH2に置換したもので、次のような構造式で表されます。

アニリンの構造式

 これ以外にも、スチレン(プラスチック原料)フェノール(樹脂・接着剤原料)シクロヘキサン(ナイロン原料)などの化合物のほか、ゴム潤滑剤色素洗剤殺虫剤医薬品爆薬など様々な分野で現在もベンゼンが重要な原料として用いられています。それまでは全量を輸入に頼っていた高純度ベンゼン国産化した浅次郎の取り組みは、我が国に「有機合成化学」という産業分野を生み出した最初のステップであったと言っても過言ではありません。

 ちなみに、大学受験予備校「東進ハイスクール」などで知られる株式会社ナガセが運営するWebサイト「ぼくらの未来を広げるWEBマガジン SEKAI Powered by 東進」では各界で活躍する研究者のインタビューを掲載していますが、その第10回に登場する化学者・伊丹健一郎氏はこうしたベンゼンの特徴について次のように熱意をもって語っています。

(前略)
伊丹さんは、昔から化学が好きだったんですか?
伊丹
 いやいや、むちゃくちゃ嫌いでした。教科書を見ても、「塩化銀は白色固体」だとか、これは「酸性」「塩基性」など、なんの説明もなく書かれていて、なんでそうなるのか一切教えてくれない。教科書を眺めていても、意味がわからないなと思っていました。
 しかし高校3年生のときに、有機化学の授業で分子のひとつである「ベンゼン」を知って、あまりにベンゼンがすごいので、好きになっちゃったんですよ(笑)。何がすごいって、ベンゼンは6個の炭素原子がくっついた正六角形なのですが、化学反応でいろいろなものに変化するんですだったり、染料だったり、爆薬だったり。まさにレゴのように分子を組み合わせることでなんにでもなれる。「ベンゼンってすげ~!」と思いました。
 このとき初めて、化学って暗記ものじゃなくて新しいものを生み出す創造的な学問なんだと知りましたね。ベンゼンに出会わなかったら、多分化学を好きにならなかったと思います。
(以下略)
“究極のものづくり”で世界を変える! 分子が持つ無限大の可能性 | SEKAI 未来を広げるWEBマガジン by 東進


 ベンゼン及びアニリンを製造するために大正3年(1914)に浅次郎が設立した由良精工合資会社は後に本社を東京に移し、昭和30年(1955)に社名を本州化学工業株式会社とあらためました。令和3年(2021)に三井化学三井物産が同社の全株式を保有したことにより現在では三井グループの会社となっていますが、電子回路基板や自動車部品等に用いられる特殊樹脂の原料となるビフェノールという化合物では世界トップシェアを誇っており、和歌山工場内にはこれを製造する世界最大規模の製造プラントを有しているとのことです。
本州化学工業 - Wikipedia


 由良精工合資会社本州化学工業株式会社の成功を足がかりとして、同社の工場がある和歌山市小雑賀(こざいか)周辺では化学産業の集積が始まるようになりました。現在ここには本州化学の他にも多数の企業が立地しており、その多くが独自の研究開発能力を有していて特定の分野においては世界最高水準の製品を生み出しています。ボーイング社の旅客機「B787の機体構造に用いられている複合樹脂や、「世界初の宇宙ヨット」として知られる小型ソーラー電力セイル実証機「IKAROSイカロス)」のセイル(帆)に用いられた極薄樹脂フィルムなどは和歌山市に所在する企業の技術により実現されたものなのです。
わかやま新報 »  世界の翼は和歌山の翼 B787型機の生産に貢献
和歌山:先端技術支える魔法の粉:読売新聞オンライン

 和歌山市のWebサイトによれば、平成25年(2013)現在で和歌山市の化学産業は、市内の製造業全体のうち、従業者数にして16.6%付加価値額にして27.1%という非常に大きな比率を占めており、主要産業の重要な一角を占めています。この興隆を生み出したものが、由良浅次郎による一見無謀とも思えるアニリン製造への情熱であったことを考えると、同氏の果たした功績がいかに大きなものであったかが理解できると思います。
化学物語|和歌山市

 この功績を称えて、現在本州化学工業和歌山工場内に復元整備されているベンゼン精留装置は、経済産業省が認定する「近代化産業遺産群 続33(平成21年(2009)認定)」において「先人のベンチャー・スピリットが花開き多岐に発展した化学工業の歩みを物語る近代化産業遺産群」の重要な構成要素として選定されました。この認定資料において、浅次郎の功績は次のように記されています。

経済産業省:「近代化産業遺産群 続33」より
(前略)
 一方、染料医薬品等の高度な技術を要する製品や硫安・ソーダ等の工業基礎製品は、なかなか欧州の大企業に太刀打ちできなかったが、これらの国産化の進展は、第一次世界大戦(1914~18 年)に伴う欧米製品の輸入停止が大きな転換点となった。政府は、1915 年に「染料医薬品製造奨励法」を公布して民間企業への財政的支援を行うとともに、「工業所有権戦時法」を制定してドイツ人等の特許を消失させ、化学製品の国産化を促進した。染料については、我が国で初めて粗製のベンゼンを原料としたアニリン合成に成功した和歌山の由良浅次郎が、この工業化を図るためにベンゼン精製装置を建設し、由良精工合資会社(現:本州化学工業㈱)を設立した。以降はこの手法が主流となり多数の企業が生まれた。

近代化産業遺産(METI/経済産業省)

 

 

 さて、ここまで由良浅次郎が我が国の化学産業に果たした役割について書いてきましたが、実は、浅次郎が我が国において果たしたもう一つの役割がありました。それは「国防」に関する役割です。

 欧州で第一次世界大戦終結すると、再びドイツ製の安価な染料の輸入が始まりました。この当時、国内には12~13社の染料メーカーがあったものの、ドイツ製とは価格面で競争力が劣っていたことからこのままでは国内メーカーが全滅すると危機感を持った浅次郎は、国内メーカーの保護を求めて時の大蔵大臣・高橋是清に陳情を行います。この際、浅次郎が切り札として持ち出したのが「爆薬」の製造でした。

 ベンゼンの水素原子をヒドロキシル基(OH)に置換したフェノール (石炭酸)は、医薬品であるサリチル酸(消炎鎮痛剤や角質軟化薬(イボコロリ等)などに用いられる)の原料となるほか、爆薬に用いられるピクリン酸の主原料でもあります。このため、第一次世界大戦中にも浅次郎の会社では陸軍・海軍に大量のフェノールを納入した実績を持っていました。

フェノールとピクリン酸の構造式
フェノール - Wikipedia ピクリン酸 - Wikipedia

 明治時代後期、大日本帝国海軍では下瀬雅允が実用化に成功した「下瀬火薬(しもせ かやく)」という爆薬炸薬 推進薬ではなく爆発の威力によって敵に損害を与えるための火薬)が用いられていて、明治38年(1905)の日本海海戦連合艦隊がロシアのバルチック艦隊を撃破した理由の一つがこの強力な威力を持つ下瀬火薬の存在であったと言われています。この下瀬火薬の原料は純粋なピクリン酸であり、戦時下においてはピクリン酸製造に不可欠なフェノールはいくらでも必要であったのです。

 浅次郎は、国内染料産業育成のための関税措置を渋る大蔵大臣・高橋是清のもとへ赴き、次のようなやり取りを行います。

本日は最後の決心を持ってお願いに上がった。申す迄もなく、我が国染料工業は未だ双葉であり、これを育成するも、枯らすも為政者のお考え一つにかかって居ります。しかも今軍備拡充のため88艦隊の御計画が決定しましたが、未だ火薬爆薬においては、有時の際如何に対処するかの御計画はない様ですが、火薬爆薬の製造には、莫大な設備及資金が必要で平時これを遊休施設として放置することになります。真に国家的に考えるならば、揺藍期の染料工業を育て、平時は染料を造り、一朝有時の際は、直ちに火薬爆薬に転換できる様に、この工業を育成すれば、平時膨大な施設を遊ばす事なく、染料の自給をなし得、国家の安全と有利の面から最善の方法であると信じます。それについては閣下のご意見を承る事が出来ませんので、私としては残念ながらこの事業を断念放棄せねばなりません。つきましては、恐縮ながら、一度和歌山の由良染料(筆者注:大正3年に設立された由良精工合資会社の一部事業を承継した「由良染料株式会社」)工場を見ていただきたく存じますが、何日御来駕願えますか。
と申し上げた処、閣下
工場を見てどうするのか?
と言われたので、
この由良浅次郎は、染料工業が国家的に重要産業だと考え、微力ながら欧州大戦勃発後直ちに、大正3年染料製造を始め、それによって国民は白衣を着なくて済みましたが、大戦終了後、ドイツ品が大河のごとく輸入され、価格上対抗出来ません、そこで染料工業育成のため、関税を5割まで改正を願い続けて参りましたが、御高見を承まわれませんので、私としてはこの事業を断念する決意を致しました。是非和歌山へお越しいただき工場及び機械設備の全てを御覧いただき、閣下の御面前で機械設備の破壊に取りかかろうと存じます
と声涙共に下る最後の陳述をした。
そこで高橋大蔵大臣は暫し考えていたが、
5日後に大蔵省玄関へ来る様に。
との返事があった。5日後、大臣室に迎えられ、
来る国会に関税改正の政府案として提案する」と固く約束して下さった。
「ワイ・エス・ケー社史」会社沿革|発破用火工品・爆薬・特殊危険物の専門メーカー ワイ・エス・ケー株式会社(YSK)
※八八艦隊(はちはちかんたい)は、艦齢8年未満の戦艦8隻と巡洋戦艦8隻を中核戦力とする日本海軍の軍艦建造計画。ワシントン海軍軍縮条約(1922)により中止となった。

 つまり、国内染料産業を保護育成することは、一朝有事の際の爆薬製造設備を保持することに他ならないのであるから、国策として取り組むべき事柄であり、この願いが聞き届けられないのであればフェノール製造設備を含めた全ての設備を大臣の面前で打ち壊す、と啖呵を切ったのです。この志を受けて高橋大臣は、それまでの従量課税を従価課税に改めるとともに税率を35%とする議案を帝国議会に提出し、無事に我が国の染料産業は守られることとなりました。

 

 こうした経過を経て大正10年(1921)頃には海軍に直接ピクリン酸を納入する計画が立ち上がりましたが、浅次郎は当初海草郡紀三井寺村三葛(現在の和歌山市三葛)ピクリン酸製造工場を建設する予定であったところ、地元で猛烈な反対運動が起きたために同地での工場建設を断念し、紆余曲折の末に岡山県玉野市で由良染料株式会社の新工場を建設することとなりました。ここで生産されたピクリン酸由良精工小雑賀工場(現在の本州化学和歌山工場)で製造された爆薬中間体(ジニトロクロルベンゼン、ジニトロジフェニルアミン)等は第二次世界大戦終結まで軍に納入され続けます。
 ワイ・エス・ケー株式会社(平成元年(1989)に社名を「由良染料株式会社」から「ワイ・エス・ケー株式会社」へ変更)のWebサイトにある「会社沿革」の項に掲載されている「下瀬火薬の歴史(寄稿文)」には、この当時の同社と軍との関係について次のように記されています。

 日露戦役は 1904 年(明治 37 年)2月6日に勃発し 1905 年(明治 38 年)9月5日終了しましたが、下瀬火薬PAは随所にその威力を発揮し、下瀬火薬の名は世界に轟きました。下瀬火薬PAを有名にしたのはピクリン酸弾丸炸薬に使用しこれを腔発(筆者注:こうはつ 砲弾が発射される前に砲身内で爆発してしまうこと)させないようにしてその威力を発揮させた点にありました。
 下瀬火薬PAに対する海軍の信頼は、日露戦役後一層高まり、弾丸の外、魚雷機雷爆雷等当時の火工兵器の炸薬として殆ど全部に下瀬火薬PAを用いることになり、この状態で順次鈍感爆薬(筆者注:下瀬火薬が熱や衝撃に対して敏感に反応して爆発するのに対し、熱や衝撃を受けても簡単には爆発しない性質を持つ爆薬を指す)に替わられたこともありましたが、第2次大戦終了まで殊に空爆弾の主力として使用されました。

 

日中戦争全面化昭和12年8月中旬からの海軍航空部隊の中国中南部方面への進撃開始-それに伴う航空機用爆弾(陸爆)需要の激増により、当時の爆薬下瀬火薬PA九一式八八式※1のうち、空爆に適した同用爆薬(下瀬火薬:PA需要が激増しました。海軍航空本部陸用爆弾注文と炸薬薬量は、9月 15 日時点 60kg 陸用で 246,000 個、薬量 9,840t、250kg 陸用で 5,000t、薬量 745t、総計で 251,000 個、薬量10,585t にも及びました。そこで海軍は、下瀬火薬月産 1,000t 体制を目指す必要が生じました。下瀬火薬PA増産のみならず海軍用爆薬増産のためにこの需要を満たすために、先ず主席部員会議が8月 18 日に開催され「爆薬原料関係会社代表者」として、三井鉱山三池染料工業所帝国染料製造帝国火薬工業日本染料製造由良染料日本火薬製造の各社が招請され増産計画の提出がこの場に於いて要請されました。
 当社の下瀬火薬PAは当時の規格として、水分 0.1%以下、灰分 0.05%以下を純分満たし、実質当社と他社とで2社が主要下瀬火薬供給メーカーでした。火薬を製造するには原料の調達が重要です。下瀬火薬PAを製造するには、クロルベンゼン法とフェノール法がありますが、当社は親会社の由良精工より潤沢なフェノールの供給を受けフェノール法での供給を行いました
 1938 年(昭和 13 年)8月中国南昌事件をきっかけに海軍は、下瀬火薬PAに比して鈍感な TNA (筆者注:トリ・ニトロ・アニソール)(H 乙爆薬)を採用し始めましたが、陸軍トルエンを押さえていたため TNT 系爆薬の採用を断念したことと原料に猛毒性があり生産性も悪かったため、終戦まで下瀬火薬を鈍感化した一式爆薬を主に空爆として使用し続けました。
 それら艦爆陸攻隊用航空爆は、ハワイ作戦マレー沖海戦英国東洋艦隊攻撃作戦に威力を発揮しました。
 1943 年(昭和 18 年)頃に於いては一式爆薬と称した硝酸アンモニウムピクリン酸と混合したピクリン酸アンモニウム 81%、アルミ粉 16%を成分とした火工兵器用炸薬として供給致しました。

 この間海軍次官時代から連合艦隊司令長官山本五十六元帥は、創立者由良浅次郎への火薬事業への強力な理解と支援を行いました。弊社は、その感謝の印として零式艦上戦闘機登場前の型式 96 式艦上戦闘機※2合計21 機を海軍へ献納しました。海軍はその感謝の印としての海軍伊丹航空基地より 96 式艦上戦闘機数機を本社のある和歌山市上空まで飛ばし、本社工場上空を旋回飛行して頂いたエピソードも残されております。

会社沿革|発破用火工品・爆薬・特殊危険物の専門メーカー ワイ・エス・ケー株式会社(YSK)
※1 本稿に登場する爆薬の種類については下記リンク先も参照されたい
      大日本帝国軍爆薬一覧 - Wikipedia
※2 零戦の前段階に誕生した「もうひとつの傑作機」:96式艦上戦闘機(A5M) | 歴史人

 

 このように、爆薬の製造については上述した「由良精工合資会社本州化学工業株式会社」という流れではなく、途中で分社された「由良染料株式会社ワイ・エス・ケー株式会社」という流れをもって継承されていきます。
 軍用爆薬の製造を主力事業としていた由良染料株式会社は敗戦により大きな打撃を受けることとなりますが、昭和27年(1952)頃から爆薬の解撤(かいてつ 既存の爆薬を解体加工して別の用途に使えるようにすること)を始め、後に自社でも産業用爆薬(採鉱・砕石、トンネル掘削、構造物の解体などに用いられる爆薬)の製造を再開します。
 社名を「ワイ・エス・ケー株式会社」に改めた現在では、その主力を爆薬(主に「アンモン爆薬」「ANFO爆薬(硝安油剤爆薬)」「含水爆薬」)及び火工品(雷管、導爆線(導火線))に置きつつも、有機合成化学の技術力を生かした高品質な有機中間体(染料・顔料や合成樹脂等の原料となる有機化合物)の製造・販売・受託製造なども行っており、由良浅次郎の曾孫にあたる由良秀明氏が社長を務めています。

bplatz.sansokan.jp

 現在の本社は大阪府にあり、工場は岡山県にあるというワイ・エス・ケー株式会社ですが、その現在の社長は由良浅次郎の曾孫であり、先代社長も浅次郎の孫(由良禎造氏)であったということですから、同社には脈々と和歌山県人・由良浅次郎の志が受け継がれていると考えて間違いないのでしょう。
※本項の執筆にあたっては、ワイ・エス・ケー株式会社のWebサイト(会社沿革|ワイ・エス・ケー株式会社(YSK))に掲載されている「会社沿革」及び同サイトの「ワイ・エス・ケー社史」「由良浅次郎銘文」「下瀬火薬の歴史(寄稿文)」を参考にしました。)