生石高原の麓から

和歌山の歴史・文化・伝承などを気ままに書き連ねています

ノーベル賞物理学者・湯川秀樹(和歌山市・田辺市・日高町)

 「和歌山あれやこれや」のカテゴリーでは、和歌山県内各地に伝わる歴史や伝承などを気ままに紹介していきます。

 

 前回は和歌山県橋本市出身の天才数学者・岡潔(おか きよし)を紹介しましたが、今回はその岡潔から京都大学で数学を学んだ物理学者・湯川秀樹(ゆかわ ひでき)を紹介します。

湯川秀樹(Nobel Foundation archive - nobelprize.org)
湯川秀樹 - Wikipedia

 湯川秀樹明治40年(1907)東京に生まれ、昭和4年(1929)京都帝国大学理学部物理学科卒業。京都帝国大学講師を経て大阪帝国大学に移籍し、ここで未知の素粒子である「中間子(ちゅうかんし)」の存在を理論的に予言する論文を発表します。当初、この論文は多くの研究者から否定的に受け止められていましたが、昭和22年(1947)にイギリスの物理学者が新たな検出手法を開発して「パイ(Π)中間子」を発見したことによりその正しさが証明された(詳細は後述)ことから、昭和24年(1949)に湯川氏に対してノーベル物理学賞が贈られることとなりました。
 これは、日本人としては初めてのノーベル賞受賞であり、このニュースは第二次世界大戦に破れて連合国軍の占領下にあった日本国民に大きな力を与え、自信と希望を取り戻す大きなきっかけになったと伝えられています。

 

 そんな湯川氏は上述のとおり東京生まれの京都育ちであり、御本人は物心ついた時から京都で暮らしていたため「京都出身」とおっしゃっていたそうですが、メディア等ではしばしば「和歌山県出身」として紹介されることがあります。
 例えば、朝日新聞校閲センターのWebサイト「ことばマガジン」には湯川氏ノーベル賞を受賞した際の同社の新聞記事が掲載されていますが、ここで湯川氏は「和歌山県出身」と紹介されています。 

湯川博士ノーベル賞 日本人で最初の栄誉
ストックホルム三日発UP=共同】
 スウェーデン科学学士院は三日、一九四九年度のノーベル物理学賞を日本の湯川秀樹教授に授与した、日本人がノーベル賞を授与されたのは今回が最初である

 

世界に輝く『中間子論』 現に渡米中 兄弟そろって学者

 湯川秀樹博士中間子理論の研究で知られる世界的な理論物理学者で、明治四十年一月地理学の権威京都大学名誉教授小川琢治博士の三男として生れ、今年四十三歳、長兄は東大工学部教授小川芳樹博士次兄茂樹氏は元東方文化研究所長、令弟環樹氏東北大学教授、いわゆる湯川四兄弟の一人で、二人の姉もそれぞれ電気学の権威小川一清博士、京大工学部教授武居高四郎博士夫人という有名な科学の家系である
 湯川博士和歌山県出身、昭和四年京都大学理学部を卒業 同十三年阪大助教授のとき三十二歳で理学博士、同十四年京大教授となった、湯川粒子(今日〝中間子〟と呼ばれる原子核内の未知の新粒子)の存在を理論的に予言したのは昭和十年、同氏がまだ二十九歳のときだった、昭和十五年学士院恩賜賞を受け、同十八年三十七歳で文化勲章を授与され、同二十一年学士院会員
 昨二十三年九月米プリンストン高等学術研究所に招かれ澄子夫人とともに渡米、現在はコロンビア大学客員教授としてニューヨークにあるが、昨年もノーベル賞候補になったといわれる
(1949<昭和24>年11月4日付東京本社版朝刊1面)

湯川博士に日本初のノーベル賞 - ことばマガジン:朝日新聞デジタル

 また、上記サイトの記事の後段にある「解説」の項ではノーベル賞受賞決定後の続報についても紹介されており、この受賞が敗戦後の日本に自信と勇気を与えた旨が記されています。

 さて日本初の受賞とあって、さまざまな続報も載ります。翌日朝刊の1面トップは「その日の湯川博士 世界の注視を浴びて語る」。ニューヨーク滞在中の湯川氏に記者がインタビューしています。湯川氏は「これにより敗戦後とかく意気のあがらなかった日本の科学者また一般の人達が多少とも元気づいて日本の再興に努力されるという結果になればこれほど喜ばしいことはない」と語っています。また中面の記事でも「こう育った湯川博士 目立たぬ〝勉強家型〟」と、湯川氏の小学生時代からの生い立ちや、親戚の驚きと喜びの言葉を紹介しています。今の紙面でも変わらず登場する人物紹介ですね。
 戦後間もない時期の湯川氏の受賞は、自身も語ったとおり、日本の人々に自信と勇気を与えました。
(略)

 

 上記新聞記事において湯川氏が「和歌山県出身」とされているのは、記事にも登場する父の小川琢治(おがわ たくじ)氏が和歌山県田辺市の出身であることが大きな理由の一つですが、それ以外にも湯川氏をとりまく人物の多くが和歌山県の出身であり、その出自を考えると「湯川氏は和歌山県出身」という言辞がごく当然のように受け止められたのであろうと考えられます。

 

 湯川氏の父・小川琢治は、田辺藩(現:和歌山県田辺市儒学者であった浅井篤の次男として生まれ、和歌山中学校(現在の県立桐蔭高校)を中退して第一高等中学校東京大学教養学部の前身)から帝国大学理科大東京大学理学部の前身)に入学したという経歴の持ち主です。浅井家の家計が苦しかったため,琢治第一高等中学校予科第一級に在籍中の1891年に元紀州藩士の小川駒橘(おがわ こまきつ)の養子になってその支援のもとで勉学を続けましたが、後に駒橘の娘・小雪と結婚し、5男2女をもうけます。その3男が小川秀樹、後の湯川秀樹でした。
ふるさと教育読本「わかやま発見」 小川琢治と和歌山(PDFファイル)

 昭和7年(1932)、京都帝国大学講師を務めていた小川秀樹は、大阪で病院を開業していた医師・湯川玄洋(ゆかわ げんよう)の娘であるスミと結婚し、婿養子となって湯川の姓を名乗ることとなりました。「湯川秀樹」はこうして誕生したのです。

 関西大学博物館が発行する「阡陵(せんりょう)」という冊子のNo.60(2010.03.31)には和住香織氏の「医者の見た大阪 湯川玄洋「大阪の飲食物 祭礼の食物」より」というレポートが掲載されていますが、これによると湯川氏の養父となった湯川玄洋氏は紀州藩士・坂部家の出身で、教師として日高郡比井浦の比井小学校へ赴任した際に同地の医家である湯川家に見込まれて養子となり、家業を継いで御坊にて医院を開業した後ドイツへ留学し、帰国後に大阪で病院を開いたとのことです。
阡陵|関西大学博物館

 ちなみに、湯川玄洋が開いた病院は現在も「医療法人社団 湯川胃腸病院」として存続しており、同院のWebサイトによると夏目漱石の「行人」という小説の中に玄洋氏と思われる「院長」が登場しているそうです。
湯川胃腸病院|沿革と概要

 

 かなり複雑になったので、湯川氏の親族関係を図にしてまとめてみると以下のようになります(図の制作は筆者)

 この図を見ていただくとわかるように、ここに登場する浅井家小川家湯川家坂部家いずれも和歌山県在住、あるいは紀州藩士の家系であり、湯川氏は実親、養親のどちらをたどっても生粋の和歌山県人であるということができるのです。湯川氏ノーベル賞を受賞した昭和24年(1949)といえば、現在よりもはるかに「(家系)」というものが重要視されていた時代ですので、「湯川氏は紀州の人(≒和歌山県人)」と一般に認識されていたとしてもそれは無理からぬことであったのでしょう。

 とはいえ、湯川氏御本人は和歌山県出身と言われることにそれほど抵抗はなかったようで、和歌山市祢宜に建立されている松下幸之助松下電器産業(現在のPanasonic)創業者)の生誕地を記念する碑の文字は湯川氏が揮毫しており、これは松下氏のために同郷湯川氏が揮毫したものとされています。

湯川氏揮毫による「松下幸之助君生誕の地」石碑

 この碑は昭和39年(1964年)に「大阪 音無會」という団体により建立されましたが、この音無會とは大阪に在住する、あるいは大阪に関係が深い和歌山県人をメンバーとして設立された親睦団体であり、湯川氏はこの団体の求めに応じて松下氏のために揮毫の筆を取ったようです。


 そんな湯川氏京都帝国大学で学生生活を送りました。現在京都大学には「京都大学基礎物理学研究所 湯川記念館」があり、現在もここで湯川氏の研究の過程をつぶさに見学することができるようです。

www.thats.pr.kyoto-u.ac.jp

 上記の記事によれば、湯川氏は当初、物理学よりも文学によほど興味があったようですが、昭和4年(1929)にハイゼンベルク(ドイツの理論物理学者 「不確定原理」を提唱したことで知られる)ディラック(イギリスの理論物理学者 「ディラックの海」を提唱したことで知られる)といった当時の最先端研究を行っている科学者が京都帝国大学で行った講演を聞いたことに大きな刺激を受けたようで、徐々に理論物理学、特に「量子力学(りょうしりきがく)」と呼ばれる分野に傾注していくこととなります。
 冒頭で述べた岡潔氏から数学を学んだというのもこの時期のことで、湯川氏は同期生の朝永振一郎(ともなが しんいちろう 量子力学の計算に不可欠な「くりこみ理論」を完成させたことにより昭和40年(1965)に日本人二人目となるノーベル物理学賞を受賞)氏らとともに岡氏の講義を受講していたといいます。この時の様子について、和歌山県の広報誌「県民の友 平成25年(2013)5月号」の「わかやまの偉人たち 岡潔」に次のような文章が掲載されています。

湯川秀樹京都大学時代の数学の担任
 ノーベル賞博士 湯川秀樹京都大学時代、岡博士の授業を受け「岡先生の問題は難しく、私に一種のスリルを味あわせてくれた」と昭和35年発刊の自伝「旅人」に書き残しています。
県民の友5月号|和歌山県ホームページ

 また、出典は不明ですが、Wikipediaの湯川氏の項には岡氏の教えについて次のような紹介があります。

師匠・弟子・同僚および関係者
岡潔:多変数複素関数論の建設者で、圏論の基になる概念を示す。湯川や朝永は授業を聞き、非常に刺激的だったと述べる。難問は条件を付けず、一気に解かねば解けないと主張。
湯川秀樹 - Wikipedia

 


 さて、ここからは少し湯川氏の研究業績について紹介したいと思います。

 上述したように、湯川氏ノーベル賞を受賞した理由となる最大の研究業績は「中間子」の存在を予言したことにあります。「中間子」とは、原子核を構成する陽子中性子を結びつける「強い力」を媒介する粒子として湯川氏が理論的に導き出したものであり、前述のように後に実験によりその存在が確認されたことから素粒子に関する物理学が飛躍的な発展を遂げることとなりました。

 と書くだけでは到底理解が追いつかないと思いますので、以下でなんとか簡単な解説を試みたいと思います。とはいえ、原子核の内部構造という極めて微細な世界は、私達の想像が及ぶような自然界の法則とは全く別の法則が支配する世界であり、そこに存在する粒子は通常の常識とは全くかけ離れた振る舞いをするので非常に理解しづらいとは思いますが、興味があればしばらくお付き合いください。

 

 この世界のあらゆるものをどんどん細かく切り分けていったらそこには「これ以上分割できない最小の物質」があるのだろう、という考え方は古代から存在していました。19世紀中頃には「原子」が最小の単位であると考えられていましたが、19世紀末に「電子」が、20世紀はじめに「原子核」がそれぞれ確認されたことから、今度はこれが「最小の物質」とみなされるようになりました。
 ところが、1932年に「中性子」が発見されると、それまでは単一の存在であると思われていた「原子核」が、実は「陽子」と「中性子」の結合した存在であることがわかったのです。

 ここで新たな問題が生み出されました。
 「原子」は「原子核」のまわりを「電子」が回っているという模型で表されますが、これは原子核がプラスの電気を、そして電子がマイナスの電気をそれぞれ帯びていることから、電気のプラスとマイナスが引っ張り合う力である「電磁気力」が接着剤の役割をして原子核電子がバラバラにならないよう繋ぎ止めているのです。

 ところが、「原子核」が「陽子」と「中性子」によって構成されていると判ると困ったことが起きました。「陽子」はプラスの電気を帯びているのですが、「中性子」はその名のとおり電気を全く帯びていないので、この両者の間には電磁気力による引っ張り合う力が働かないのです。つまり、「陽子」と「中性子」がくっつきあった「原子核」というものの存在は電磁気力では説明ができないのです。

 それでは、この世界に存在するもうひとつの力「重力」はどうでしょう。重力はこの世界の全ての物質に作用し、その到達距離も無限に長いので宇宙全体の物理法則に非常に大きな影響を与えるのですが、原子核のようなミクロの世界では粒子に作用する力があまりに小さすぎて、陽子と中性子とを結びつけるほどの力を発揮することができないのでした。

 

 そこで当時の理論物理学者たちは、ミクロの世界では「電磁気力」「重力」とは異なる「別の力」が働いているのではないかと考え始めたのですが、なかなかその存在を突き止めることはできませんでした。
 こうした状況の中で1935年に発表されたのが湯川氏の「素粒子の相互作用について」という論文でした。
※Yukawa, Hideki:On the Interaction of Elementary Particles I ( Proceedings of the Physico-Mathematical Society of Japan.  Tokyo Sugaku-Buturigakkwai Kizi の改題 3rd Ser.  Vol.17, No.2  1935.2  pp.48-57) 
数物記事 vo.l7 ( 1935 ) p.48-57Hideki Yukawa,“On the... | レファレンス協同データベース

 

 この当時、「電磁気力」は「光子」、「重力」は「重力子」という粒子のはたらきにより媒介されるという理論が確立されつつあったのですが、湯川氏は「光子」や「重力子」がいずれも質量を持たない粒子であったことに着目し、この論文において「質量を持つ未知の粒子」が媒介する「新たな力」があるのではないかという仮説を立てて、その性質を理論的に導き出したのです。湯川氏はこの「未知の粒子」に「中間子」という名前を付けました。
 上述したように湯川氏がこの仮説を発表した当時は多くの科学者から否定的に受け止められていたのですが、それから12年後の1947年にイギリスの物理学者セシル・パウエルらが実験によって発見した粒子がほぼ湯川氏の仮説どおりの性質を有していることがわかり、湯川氏の理論が正しいことが確認されたのです。
 理論を用いて物質の存在を予測し、その予測に基づいて実験を行うことで理論の正しさを証明するという、現代の理論物理学の王道となる研究の進め方を体現したのがこの「中間子(現在は「パイ(Π)中間子」と名付けられている)」の発見だったのです。そして、これこそが湯川氏ノーベル賞受賞につながる歴史的な業績となりました。
パイ中間子 - Wikipedia

 

 こうした中間子発見の経緯と意義については、大阪大学大学院の「湯川記念室」のWebサイトで「湯川秀樹の物理学」としてまとめられていますので、該当部分の一部を引用しておきます。

 電磁気力万有引力質量を持たない粒子の交換によって働く。なぜ、相互作用を媒介する粒子は質量を持たないのでしょうか。質量を持つ粒子が媒介する相互作用があっても良いのではなかろうか。そして、陽子中性子の間に働く力は、まさにそのようなものなのではないか。これが湯川の着想でした。
 質量を持った粒子が作り出す相互作用を具体的に計算すると、相互作用の強さは一定の距離で急激に減衰し、長距離では事実上全く働かないことが分かります。また、力が減衰する距離は交換する粒子の質量に反比例し、質量が重いほど短くなります。このような性質を持つ相互作用は、現在では「湯川型相互作用」と呼ばれています。
 この湯川型相互作用の性質は、まさに陽子や中性子の間に働く力が満たすべきものでした。短い距離では電磁気力に打ち勝って陽子中性子原子核にとどめる強い引力を作り出しますが、遠方では力の強さが急激に減衰するため、この新しい力が我々の身近な自然現象では観測できないことをも同時に説明できます。そこで湯川は、この未知なる粒子の交換による相互作用こそが陽子中性子の間に働く力だと考えました。また、そのような力が存在するのであれば必然的に質量を持った粒子が存在するはずなので、湯川はこのような粒子の存在を予言し、この粒子を「中間子」と名付けました。
 この説明だけだと、湯川理論の衝撃が伝わりにくいかもしれません。しかし、1930年代というのは、相互作用が粒子の交換によって媒介されるという考え方すら登場したばかりで、理論的基礎が固まっていない時代です。また当時は電磁気力重力という、質量を持たない粒子による相互作用しか知られていない時代でした。このため、湯川の理論は極めて独創的で、また勇気ある提案だったのです。
湯川の時代の物理学と中間子論(5)湯川の中間子論 – 大阪大学 大学院理学研究科・理学部 湯川記念室

 

 中間子の発見以降も理論物理学の発展は止まりませんでした。

 当初「電磁気力」と「重力」だけだと思われていた自然界に存在する「」は、湯川氏が理論だてた「強い力強い相互作用」のほかにもエンリコ・フェルミ(イタリアの理論物理学者)が提唱した「弱い力弱い相互作用」があり、これらをあわせて「4つの力」と呼ばれるようになりました。

 また、湯川氏の論文発表時には物質の最小の単位であると思われていた「陽子」や「中間子」はさらに「クォーク」と呼ばれる複数の粒子から構成されていることが判り、「強い力」を媒介する「中間子」の働きの源泉は「グルーオン」という粒子の交換であることが判ってきました。
 さらには、「クォーク」には「アップ」「ダウン」「チャーム」「ストレンジ」「トップ」「ボトム」の6種類があることや、「クォーク」や「グルーオン」には 「(いろ color)」と呼ばれる3つの異なる特性(便宜上「」「」「」と表現される)があることなどがわかってきて、現在もなお精密な研究が世界各地で進められています。
キッズサイエンティスト【自然界の4つの力】

 

 現代の理論物理学者の究極の目標は、自然界に存在する「4つの力」のうち「重力」を除いた「電磁気力」「弱い力」「強い力」の3つを統合して説明できる「大統一理論(Grand Unified Theory)」の確立であり、その上のさらに果てしなく遠い夢として「重力」を含めた全ての力を統合する万物の理論(Theory of Everything 「超大統一理論」とも)」がある、ということなのですが、上述のクォークの説明なども含めて理論物理学の世界にはどうも「中二病厨二病」の香りがそこはかとなく漂っているように思われるのは、私の思い過ごしでしょうか(笑)
クォークの研究には、「色」だけではなく「香り・風味(フレーバー)」という概念も実際に存在しており、それぞれ「量子色力学(りょうし いろ りきがく)」「フレーバー物理学」と呼ばれています。
量子色力学 - Wikipedia
フレーバー物理学の新しい挑戦 | KEK