生石高原の麓から

和歌山の歴史・文化・伝承などを気ままに書き連ねています

桃谷順天館創業者・桃谷政次郎(紀の川市粉河)

 「和歌山あれやこれや」のカテゴリーでは、和歌山県内各地に伝わる歴史や伝承などを気ままに紹介していきます。

 

 今回は、日本で始めて西洋医学の処方による化粧品を開発し、現在も続く大手化粧品メーカー株式会社桃谷順天館を創業した桃谷政次郎(ももたに まさじろう)を紹介します。

桃谷政次郎記念館

 JR和歌山線粉河駅から粉河寺に向かう参道(通称:とんまか通り)沿いに、「桃谷政次郎記念館」という看板が掲げられた一軒の日本家屋があります。
 この家は、大阪市に本社を置く「株式会社 桃谷順天館」の創業者・桃谷政次郎の自宅であった建物で、現在は記念館として保存されています。記念館とはいいながら、現時点では同社の社内行事(社員研修等)で用いられているのみで一般公開はされていないそうなので、これは残念というほかありません。

 

 さて、桃谷順天館は、日本の弱酸性化粧品の先駆けとなった「明色(めいしょく)アストリンゼン」や、我が国広告史に残る作品と言われる「美人は夜つくられる」というCMコピーなどで知られる老舗化粧品メーカーです。
明色シリーズ - おかげさまで5億本突破!愛され続ける明色シリーズ。|明色化粧品公式サイト


 創業者である桃谷政次郎の経歴について、同社が令和4年4月13日付けで発表したプレスリリース「大阪企業家ミュージアム 特別展示にて 創業者 桃谷政次郎が掲げた“信條” が採用に!」では次のように紹介されています。

桃谷政次郎が掲げた“信條”
一、すべて天に順(したが)う心・順天の教えを念頭において仕事をするべし。
一、時流に遅れないよう常に世界というものを見るべし。
一、科学的根拠のある中身のある製品を創るべし。

桃谷政次郎(1863~1930)
 紀伊国粉河(現・和歌山県紀の川市粉河で慶長時代から続く薬種商正木屋」の11代目として生まれ、近代薬学を学んだ後、紀州初の薬剤師となり創薬に励む。
 1885年、23歳の時に「ニキビに悩む妻を笑顔にしたい」という想いで業界に先駆けて西洋医学を用い創製した“にきびとり美顔水” をきっかけに桃谷順天館を創業。
 1922年、研究所・工場・営業所を大阪に移し、関西のみならず日本全国、そして世界へと販路を広げ、時宜に適した斬新で革新的な広告を展開し化粧品業界の市場を席捲した。
 65歳になり、合資会社として組織を変遷した際に、改めて“信條”を掲げた。
大阪企業家ミュージアム 特別展示にて 創業者 桃谷政次郎が掲げた“信條” が採用に!|株式会社桃谷順天館のプレスリリース

 

 また、「人事興信録』データベース(第8版 昭和3(1928)年7月)」によると、政次郎桃谷順天館のほか、地元の銀行であった伊那合同銀行※1の取締役も務めていたようです。
※1 大正13年(1924)に伊都銀行が那賀銀行を合併して「伊那合同銀行」と改称したもの。昭和11年(1936)に紀陽銀行に買収され、伊那合同銀行は業務廃止(企業自体は紀北商事株式会社に改称し存続)。
銀行変遷史データベース

『人事興信録』データベース(抄)
桃谷政次郞

職業
和歌山縣多額納税者
伊那合同銀行(株)取締役
伊那製絲、桃井商事各(株)監査役
桃谷順天館
藥種及化粧料商

生年月日
文久三年九月 (1863)

記述部分(略伝)
 桃谷家は往時より紀州粉河町に土着し其始祖より既に數十代を經過せる舊家にして代々藥種商を營み庄屋役を勤む
 君は先代增治郞の長男にして文久三年九月を以つて生れ 明治二十七年家督を相續す
 (筆者注:政次郎は20歳にして家督を継いだとされるため、明治十七年の誤りか)
 夙に和歌山縣立病院に入り藥學を研究し藥劑師となる
 爾來祖業を承けて藥種商を經營する傍ら美顏化粧料の製造販賣を創め美顏水本舖として斯界に覇をなすに至る
 現に和歌山縣多額納税者にして前記銀行會社の重役を兼ぬ
桃谷政次郞 (第8版) - 『人事興信録』データベース

 

 政次郎が開発した「にきびとり美顔水(びがんすい)」は「日本で初めての西洋医学処方による薬用化粧水」であるとされ、令和2年(2020)3月、公益社団法人日本化学会化学遺産委員会が認定する「化学遺産」の一つに選定されました(正式には「日本初の西洋医学処方による化粧品「美顔水」発売当時の容器3点」が遺産と認められた)。同会のWebサイトではその認定理由について次のように解説しています。

(前略)
 「美顔水」は、当初、医薬品として売り出され、現在でも医薬部外品の薬用化粧水として販売されている。医薬品は明治早々から規制が始まった。一方、化粧品の規制が始まるのは1900年売薬規制外製剤取締規則からである。それ以来、現在に至るまで化粧品は医薬品とともに安全性の面で厳しく規制されるとともに発展してきた。「美顔水」はそのような化粧品工業の方向に先んじた画期的な製品である。(株)桃谷順天館が所蔵する美顔水容器3点は、1885年発売当初の現存資料として貴重であり、化学遺産として認定する。

公益社団法人日本化学会 | 化学を知る・楽しむ | 第11回化学遺産認定

 

 また、上記のWebサイトには「化学と工業 Vol.73-7 July 2020(日本化学会)」に掲載された株式会社桃谷順天館専務取締役(当時)藤本謙介氏による特集記事のPDFファイルへのリンクがあり、政次郎が美顔水を開発した経緯等が詳細に紹介されていますので、ここではその一部を引用します。

認定化学遺産 第 054 号
日本初の西洋医学処方による化粧品「美顔水」
       藤本謙介 Kensuke FUJIMOTO
 桃谷順天館の前身は慶長の時代から続く薬種商であり,11代目として家督を継いだ創業者(筆者注:桃谷政次郎)創薬に挑んだことをきっかけに,「桃谷順天館」が誕生する。医学の権威である桜井郁二郎※2や陸軍軍医総監松本順※3などのもとで創薬に励み,「美顔水」「和春丸」「なまづとり薬※4」「解熱丸」「歯痛液」を創製。これらは『桃谷順天館の五方剤』として売薬界を雄飛したという記録に残されている。化粧品は,医薬品とともに安全性の面から医薬品医療機器法(旧薬事法で厳しく規制されるとともに,医薬品と並行して発展してきた歴史を持つ。「美顔水」は,そのような化粧品工業の方向を決めた最初の画期的な製品であり,日本で初めて西洋医学処方で創られた化粧水として今回化学遺産に認定された。

 

はじめに
 桃谷順天館は1885年(明治18年)創業し,135年の歴史を持つ化粧品メーカーで,前身は薬種商正木屋」である。桃谷家のはじまりは,織田信長の重鎮桃谷興次郎忠正で,その子が粉河(現 紀の川市粉河に居を構え,紀州徳川家の知遇を得て,郷土として代々村の名主を勤め,薬種商正木屋」を生業としていた。桃谷順天館の創業者である桃谷政次郎は,約 400 年前から続く「正木屋」を営む家系に生まれ,政次郎が 12歳のとき,祖父・半次郎が亡くなり,翌年には 5 歳の弟・幸之助,母・シゲと,最愛の人を立て続けに失った。
(中略)
 1881年和歌山県初の薬剤師の資格を取得し,20歳で「正木屋」11 代目として家督を継ぎ,一家の大黒柱となった政次郎は,創薬に挑戦するのである。

 

日本初 西洋医学処方の化粧水「美顔水」の誕生
 政次郎は,まず皮膚治療薬として「なまづとり薬」を創った。さらに,明治に入り,伝統医学である「本草」よりも西洋医学・薬学が重視されるようになったことから,西洋医学に基づく薬を創るため,医学の権威であった東京大学桜井郁二郎を訪ねた。紀州の片田舎から山を越えてようやく東京に辿り着いた政次郎は,東京大学第二医院に勤務中の学友・林元貞を訪ね,桜井郁二郎への面談を取り次いでもらえるように頼んだ。林の後押しもあり,面談がかなった政次郎は,桜井郁二郎の下で研鑽を積み,婦人薬和春丸」と「美顔水」を創製した。
 愛妻家であった政次郎は,苦労をかけ,支えてくれている妻に自分ができることは何かないかと考え,にきびに悩んでいた妻のため,にきびの発生の原理と病理を研究し,あらゆる苦心と研鑽を重ね西洋医学を取り入れた処方で創製した「美顔水」を,帰郷後,妻に贈った。
 「正木屋」の店頭に立つ妻のにきびが治り,綺麗な肌になっていく理由を知った人々が「美顔水」を求めて「正木屋」を訪れるようになり,妻の助言もあり広く発売するに至った。
 化粧水という概念がまだなかった時代,「美顔水」はサリチル酸処方で創られ,にきびとりを効能として宣伝したことから,当初は医薬品として売り出された薬用化粧品であった。
 この「美顔水」は,薬種商正木屋」が化粧品製造業「桃谷順天館」としての新たな道を開いた商品であり,政次郎の信念の象徴とも言える。
(中略)
 やがて「美顔水」は確かな効能が評判となり,全国にその名を馳せるほど大ヒットし,1914 年からは「美顔水」を含む美顔シリーズを皇族より御用命をいただくことも増え,謹呈室も設けられ,牧野侍従(まきのじじゅう)御差遣(ごさけん 筆者注:使いとして派遣すること)の光栄も賜ることとなった。
 また,その勢いは国内だけにはとどまらず,アジアをはじめ北米,南米等広く海外にまで販路を広げ,それに応じて業績も著しく進展した。
(以下略)

日本初の西洋医学処方による 化粧品「美顔水」(pdf)

※2 産婦人科学者、東京大学助教授。明治13年(1880)に郁次郎が開設した紅杏塾は私立助産婦育成・母性衛生向上教育の嚆矢とされる。
産科学 上・下(東京大学医学部櫻井郁二郎講述筆記録)

※3 幕末期に長崎で西洋医学を学び、西洋医学所頭取助、医学所頭取となる。維新後の明治6年(1873)大日本帝国陸軍初代軍医総監となった。明治4年(1871)に松本良順から順に改名。桃谷順天館が製造・販売した「解熱丸(かいねつぐわん)」は松本順の処方によるものと伝えられている。
松本良順 - Wikipedia
明治150年記念 日本を変えた千の技術博 on Twitter: r

※4 「なまず(なまづ)」は皮膚の色をつくる細胞が後天的に減少・消失する病気で、正式には「尋常性白斑」と呼ぶ。痛みなどはないが、発生箇所によっては外見に大きな影響を与えるので患者のQOL(生活の質)を著しく低下させる。現在も治療困難な病気とされる。
しろなまず(尋常性白斑)|時事通信の医療ニュースサイト

 

 ちなみに、この物語については同社のWebサイトにも「桃谷順天館物語 -美顔水編-」と題した漫画が掲載されています。こちらもたいへん興味深いものとなっていますので、ぜひご覧ください。
漫画(マンガ)桃谷順天館物語 ~美顔水編~

桃谷順天館物語 -美顔水編-

 

 政次郎が「にきびとり美顔水」に用いたサリチル酸という成分は、皮膚に浸透して角質を柔らかくしたり除去したりする作用を有しています。現代では大量に使用した際の副作用が指摘されているものの、適切に使用すればピーリング(皮膚表面の角質を除去して肌のターンオーバーを促進する)効果が期待されることから、現在でも桃谷順天館の「にきびとり美顔水(現在の商品名は「明色美顔水 薬用化粧水」)」のみならず他社の化粧水でも広く使い続けられています
サリチル酸 - Wikipedia

 

 桃谷政次郎昭和5年(1930)に亡くなりますが、その後も桃谷順天館は成長を続け、昭和7年(1932)には「明色(めいしょく)」というブランド名を初めて冠した「明色クリンシンクリーム」を発売します。そして、政次郎の次男・幹次郎(かんじろう)が開発し、昭和11年(1936)に発売した「収れん(皮脂の分泌をコントロールし、肌を引き締める)作用」を持つ化粧水「明色アストリンゼン(現在の商品名は「明色 奥さま用アストリンゼン」)」が大ヒットします。この商品もロングセラーとなり、発売から約20年を経た昭和30年(1955)には業界売上第1位を記録して当時の女性にとっては必須の存在であるとまで言われたそうです。
80年以上愛される「ロングセラー化粧品」の秘密を徹底調査!/発見隊(毎日が発見)

 

 また、同社は積極的なCM展開でも知られ、ミス・ユニバース日本代表の伊藤絹子や女優の香川京子浅丘ルリ子プロ野球巨人軍の長嶋茂雄、俳優の石原裕次郎、プロレスラーの力道山などを次々にイメージタレントとして起用し、話題を呼びました。ある年代の方々には、TV「明色ものまね歌合戦」の番組スポンサーとしてもお馴染みだと思います。
桃谷順天館#歴代CMキャラクター- Wikipedia
明色ものまね歌合戦 - Wikipedia

 

 株式会社美容経済新聞社が運営する美容経済新聞Webサイトに連載されていた「大手化粧品会社の研究」という記事によると、現在の桃谷順天館は「株式会社桃谷順天館」「株式会社明色化粧品」「株式会社コスメテックジャパン」という主要3社によるグループ体制となっており、「桃谷順天館」ではプレステージブランドである「RF28」の通販とエステサロン事業、「明色化粧品」では「明色」をはじめとする各種ブランドによる一般市場向け化粧品の製造・販売、そして「コスメティックジャパン」では化粧品のOEM事業(他社ブランド名義で販売される製品の開発・製造受託)にそれぞれ取り組んでおり、記事掲載時点(2018.10.9)において「130年の歴史の中で経営危機の時期もあったが、この10年で売り上げは、約4倍から5倍に伸長している」と近年の業績は非常に好調であることがうかがえます。

 株式会社桃谷順天館大阪府大阪市、未上場)は、1885年6月に家督を継ぎ、薬種商正木屋」から売薬製造業として桃谷順天館を創業したのが起源。創業133年を数える国内屈指の老舗化粧品メーカー
 現在、同社は、グループの中枢機能として研究開発、製造、財務、IT、広告宣伝、広報PR、 経営戦略などを担当。同時に、スキンケアブランド「RF28」の通販とRF28を使った顔、ボディなどの施術を行うエステサロン事業を行っている。
 エステサロン事業は、全国の百貨店内に開設した直営店約27店舗で顔や身体等の施術サービスを実施。また、関西を中心に全国の百貨店に期間限定ブースを出店し、RF28 のカウンセリング販売や肌解析機器を用いた肌測定を行うなどのカウンセリング販売を実施している。
 薬種商の時代から数えて約400年続く企業で、主要グループ企業の株式会社明色化粧品大阪府大阪市は、一般品市場向けに化粧品を販売。特に、2009年に市場に投入した「モイストラボ BBクリーム」は「保湿力が高く同クリーム一本でベースメイクを仕上げてくれる」ことが消費者から受けてヒット商品になった。これまで「ドラッグストア中心に販売し、累計で1000万個を突破した」という。
 同じグループ企業の株式会社コスメテックジャパン大阪府大阪市は、化粧品のOEM事業を行っている。
 ベーシックケアから高性能なスペシャルケアまで用途別に受注し、ユーザーのニーズに合わせた商品提供を強みとしている。
 スキンケアは、クレンジングクリーム・クレンジングミルク、ポイントメイク落とし、洗顔フォーム、マッサージクリームなどニーズに合わせて対応。また、口紅やチーク、アイブロウペンシル、リキッドアイライナーなどメイクアップ専用の化粧品OEMにも対応している。
 さらに、アジアを中心に商品やサービスを提供する海外事業は「上海桃谷順天館化粧品商貿有限公司」が担当。
 この4社を中心にグループを形成。130年の歴史の中で経営危機の時期もあったが、この10年で売り上げは、約4倍から5倍に伸長している
(以下略)

(54)桃谷順天館の会社研究 ~化粧品は明色化粧品、0EM事業はコスメテックが担当~(上) | 美容経済新聞

 

 ちなみに、第68・69代内閣総理大臣を務めた大平正芳(おおひら まさよし 1910 - 1980)氏は、高松商業高等学校(現在の香川大学経済学部)を卒業してから東京商科大学(現在の一橋大学に入学するまでの間、一時的に桃谷順天館で働いていたことがあったそうです。
 これについて、公益財団法人大平正芳記念財団のWebサイトに掲載されている「大平正芳 年譜」の昭和7年(1932)~昭和8年(1933)の項に次のような記述があります。

昭和6年(1931) 21歳
夏頃 エスの僕会の第5回浅間山麓修養会に参加し、桃谷勘三郎※5氏と初めて会う

 

昭和7年(1932) 22歳
3月 高松高等商業学校を卒業
4月以降 桃谷勘三郎氏の家に食客となり桃谷順天館で新化粧品の企業化を手伝うが、成功しないで悩む

 

昭和8年(1933) 23歳
4月 東京商科大学(現一橋大学経済学部)に入学。

※5 桃谷政次郎の三男。1899年生まれとされるため、この時点では42歳であったと思われる。閨閥学というWebサイトに掲載されている桃谷家の系図によれば、桃谷勘三郎は桃谷順天館専務を経て昭和37年(1962)同社会長に就任したとされるが、大平正芳と交流した時期における役職は不明。
桃谷家(桃谷順天館社長・桃谷政順・桃谷順一の家系図) | 閨閥学
 

 また、辻井喬(西武流通グループ(後の「セゾングループ」)代表・堤清二ペンネーム)氏の「茜色の空 哲人政治家・大平正芳の生涯文藝春秋 2013)」という書籍では大平正芳桃谷勘三郎とのかかわりについて次のように描かれています。これはあくまでも「小説」という形式であり、実際の関わりがどのようなものであったかは不明なのですが、ひとつの参考としては非常に興味深く読むことができると思います。

 その時、正芳の頭に“エスの僕会”で顔見知りになった大阪の桃谷勘三郎に相談してみようという考えが閃いた。
 桃谷は軽井沢での浅間山麓修養会にも佐藤定吉博士※6の後援者である若い実業家という立場で参加していた。もともと、霊響山と名付けられていた軽井沢の修養のための道場は、彼と、もう一人の神戸の実業家が協同出資をして出来たのであった。
 正芳帝塚山桃谷邸を訪れると、彼は大いに喜んだ。
いや、実は僕の方でも君に連絡を取ろうとしていたところだ
と言うのである。
 大阪で桃谷順天館という化粧品会社を経営していた彼はキリスト教徒で、ある時偶然のように識り合った佐藤定吉の思想に共鳴して二人の関係がはじまったのであった。
 その彼が、最近佐藤定吉が発明した薬品を企業化し、その収益をキリスト教の伝道に使う計画を立て、本業とは別にそうした事業計画に参加する若者を信者の中に見付けようと軽井沢の研修会に出掛けたのらしい。
(中略)
 正芳は三月に卒業証書を貰うとすぐ大阪へ行き、桃谷勘三郎の広い屋敷内に作られた仮事務所に寝泊りして仕事をすることになった。
 しかし、佐藤定吉が発明した方法で諸原料を結合させてみると、思ったような製品にならないことが分かった。触媒効果を期待した有機物が予想したような役割を発揮しないのが原因のようであった。その七、八倍の価格の化合物を使えばうまくいくのだが、それでは自然化粧品とは言えず、商品としても高いものになってしまう。そこで佐藤定吉は計画を変更し、アイデアはそのままにして別の原料を触媒に使って新製品を開発することになった。しかしそのために新商品の完成は早くてももう一年近くかかる形勢になった。
(中略)
 そんなところへ、郷里の母親が転んで脚の骨を折り、病院に入ったと叔母が報せてきた。考えてみると母親はいつの間にか五十歳を越しているのだった。
 その報せで正芳はその日のうちに桃谷勘三郎に帰郷の許可をもらった。瀬戸内海を渡る船のデッキに立って次第に穏やかになってくる海を見ながら、彼はこれも何かの報せだからこの機会に大阪での暮しを打切って、できれば学問の道に入り直そうと心に決めた。
(以下略)

books.bunshun.jp

※6 佐藤定吉(さとう ていきち)はキリスト教の独立伝道者で「イエスの僕会」主宰。同会解散後は「皇国基督会」を発足させる。東京帝国大学工科卒業、東北帝国大学教授。佐藤定吉氏について調べています| レファレンス協同データベース

 

 

 「桃谷政次郎記念館」がある紀の川市粉河の通称「とんまか通り」は、このブログでもかつて紹介した粉河の参道として栄えた場所で、通りの名称は毎年7月に行われる「粉河」で運行されるだんじりの太鼓の音に由来すると言われています。現在も風情ある家並みが続く通りとなっていますが、政次郎が活躍した幕末から明治にかけての時代には粉河寺の門前町として、また商人の町として今では想像もつかないほど賑わった場所であったようです。
 紀州から遠く東京に出て、我が国初の西洋医学処方の化粧品を開発した政次郎。この地域にはそれを支える経済力とともに、これを異端視しない進取の気性があったことは間違いないのでしょう。