生石高原の麓から

和歌山の歴史・文化・伝承などを気ままに書き連ねています

日本のヘレン・ケラー 大石順教尼(九度山町)

 「和歌山あれやこれや」のカテゴリーでは、和歌山県内各地に伝わる歴史や伝承などを気ままに紹介していきます。

 

 今回は、凄惨な事件によって両腕を失ったものの、口で筆を執って絵画・書に励んで「日展」に入選し、また出家して尼僧となり京都に佛光院という寺院を建立して身体障害者の救済に生涯をささげた女性・大石順教(おおいし じゅんきょう 1888 - 1968)を紹介します。

 九度山町の町なかに、ひっそりと「旧萱野家(大石順教尼の記念館)」という建物があります。
 この建物は、「旧萱野家(きゅう かやのけ)」として九度山町文化財に指定されており、建物入口には次のような説明が掲示されています。

九度山町指定文化財
旧萱野家
         主屋・門・倉の三棟(建造物)
 旧萱野家はもと不動院と称した寺で、元禄16年(1703)遍照寺祐尊が建てた。四代眞盛の時、高野山眞蔵院の住職を兼ねたので、以後同院の里坊(筆者注:山上の寺院の僧が人里に降りた際に滞在する住まい)になったと推測される。
 現在は民家となっているが、全体的に江戸時代中期の建築様式が残されている。
  平成8年6月28日指定
      九度山町教育委員会
 右記建造物は、九度山町所有となったため萱野家旧萱野家と改称した。
  平成21年12月25日

Google マップ 文化財説明板

 この建物の内部は現在「大石順教尼の記念館」として一般公開されており、門を入ると次のような解説板が掲示されています。

大石順教尼の館
 尼僧大石順教は、もと大阪堀江の名妓で本名を大石よねと言ったが明治38年(1905)、舞踊の修行を指導していた養父中川萬次郎の狂刃により6人斬り事件の巻き添えを受け、若い17歳の身で不幸にして両腕を切り落とされた。
 だが苦難の道を乗り越え、忍の一字に徹しカナリヤがくちばし一つで雛を育てているさまを見て、両手のないまま口に筆をくわえる事を開眼し、精進を重ねた。
 今兼好と称された藤村叡雲僧正に師事し、寸暇を惜しんで国文学と和歌を学び、また、若林松溪画伯の下で、日本画を修行する。
 昭和8年(1933)萱野正之助タツ夫妻が菩提親※1となり高野山天徳院金山大僧正を師として得度し、法名順教と改める。爾来、昭和21年(1946)に萱野正之助が没するまで、しばしば九度山萱野邸に寄留し、数多くの書画を書き残す
 やがて求道者の道を選び6人斬りの犠牲者、並びに養父の中川萬次郎共々追善供養の為、京都佛光院を建立し、身体障害婦女子の心の依り所と自立厚生に献身する。
 昭和37年(1962)には世界身体障害者芸術家協会会員として、東洋初の認証を受け昭和43年(1968)80歳にて遷化(筆者注:せんげ 高僧が逝去すること)す。
Google マップ 大石順教尼の館 解説

※1 檀家(特定の寺院に所属し、その寺院に葬儀・法要などの行事を営んでもらう対価としてお布施などの形で寺院運営の費用を負担する家のこと)の出身者でない者が得度(とくど 出家して僧・尼僧になること)する場合に、形式的にいったん既存の檀家の「子」となることを求められることがある。この場合に「親」となる檀家の主を「菩提親」と呼ぶ。いわば後見人や保証人に該当するものと言える。

 

 大石順教尼は、解説板の記述にもあるとおり本名を「大石よね(「米子」とも)」といい、出家して尼僧となって「順教」を名乗りました。また一時期は芸妓となっていたため「妻吉(つまきち)」という芸妓名もあり、正確を期そうとすれば時期によって名前を書き分ける必要があり、またその表記もまちまちなのですが、一般的には敬意を込めて「順教尼(じゅんきょうに)」と呼ばれることが多いため、本稿では原則として「順教尼」と表記することとします。

大石順教尼( Wikipediaより)

 順教尼は、明治21年1888年)大阪道頓堀で生まれましたが、生後すぐに養子に出されたといいます。そこからさらに堀江の遊郭山梅楼」の主人・中川萬次郎の養女となりますが、明治38年(1905)、萬次郎が内縁の妻・座古谷アイの浮気失踪に腹を立ててアイの親族らに刀で斬りかかり、アイの母従妹及び芸妓梅吉の5人を死に至らしめるという凄惨な事件が発生しました。このとき順教尼(当時の名は河内ヨネ、芸妓名は妻吉(「津満吉」という表記もある))萬次郎に斬りつけられ、両腕を切断するという大怪我を負いましたが、なんとか一命は取り止めることができました。
 この事件の詳細についてはWikipediaの該当記事をご覧いただければと思いますが、長谷寺第66代住職を務めた小林正盛氏が記した「生かしあふ道(大同出版社 1937)」という書籍には、同氏が順教尼の自伝「堀江物語」を参考に経緯をまとめた記述がありますので、その一部を引用しておきます。
堀江六人斬り - Wikipedia

観音妙智力に生きた芸妓妻吉
(略)
一 妻吉氏は何故山梅楼の主人に殺されようとしたか
 妻吉氏の本名は大石米子というて、明治維新前後伏見で二葉亭という料理店をしておった御方の娘で、家柄としては相当知られた家であったが、伏見戦争のときに大阪道頓堀にきて、それから生れて間もなく、里子にやられたといいます。そしてその生れたのが明治22年と察せられます(筆者注:正しくは明治21年とされる)。それですから本年(昭和6年)が43歳になられると思います。踊りが上手なので12歳頃から既に踊りの師匠をして、17人のお弟子があったといいました。
 それから、おきみさんという踊りの名手に見込まれて、14のときに堀江遊廓の山梅楼の主人中川萬次郎という人に世話されて、そこで明治38年6月20日の深更に、この山梅楼の二階で主人萬次郎六人斬りをしたことによって、両腕を切り落されたのである。丁度17歳のときということです。
 この大惨劇は一体どうしてであろうか。恋か、遺恨か、はた、その他の災難かと思うと、実に妻吉氏なる大石米子さんにとっては、全くの一大災難であった。それは、その主人なる人はこの大石さんなる妻吉に怨恨があったのでもなく、恋愛問題などのあったのでは更になく、主人萬次郎の家庭の問題が自ら主人を半狂乱にさせて、遂にはこの惨事を行わせたのである。妻吉氏は、山梅楼に養女にきてからは主人夫妻にも非常に愛せられた。そこの先妻の人は、お八重さんというのでした。この人は大変に神経の強い人で、発狂の気味があるというので隠居して、その跡に来たのが、おすゑさんというのであつた。その人も殊に妻吉氏を愛したが、後に妖婦お愛というのが出来て、主人萬次郎をくらまし、遂にその妖婦のために主人が狂暴な惨劇を行うに至ったということです。
 そのお愛さんなるものは、萬次郎の母の姪とかにあたるという血縁の人で、彼女は、萬次郎に終りまで未練をもっておった愛妾だったということです、それから葛藤が起った。お愛が後におすゑさんを追い出して、山梅楼の後妻に直った。しかるに、このお愛というのが或る時家出をした。それは明治郎という、主人萬次郎の弟の枠で、つまり萬次郎の甥なる人と、お愛は関係して遂に何れかへ出奔したのである。愛妾お愛27歳、明治郎29歳、この一つの出来事が、遂に主人萬次郎をして、明治38年6月に堀江遊廓に六人斬りが演じられ、そのとばっちりがこの妻吉の身に及びて、両腕を切り落されたという顛末なのであります。
(以下略)
生かしあふ道 - 国立国会図書館デジタルコレクション
※筆者注:読みやすさを考慮して漢字、かなづかい等を適宜現代のものにあらためた

 

 両腕を失った順教尼は、生活のために寄席に出て地歌(ぢうた 三味線を用いる「歌いもの」音楽で、上方を中心に広まった)長唄(ながうた 地歌をベースに歌舞伎の伴奏音楽として発展した「歌いもの」で、江戸を中心に広まった)などを披露するようになりますが、「全国を震撼させた大事件「堀江の六人斬り」の生き残りで両腕を失った若い女」をひとめ見ようと寄席には連日大勢の人が押しかけたと言われます。穿った見方をすれば、体の良い「見世物」扱いであったと言うことができるかもしれません。
紙芝居:「大石順教尼ものがたり」(その5) - 住職のつぼやき - お寺の出前!紙芝居屋亭 -

 その後は旅芸人の一座などに入って全国を巡業してまわりますが、これもやはり「客寄せ」の効果を期待されたものであったのではないかと思われます。しかし、その旅先で順教尼の人生を一変させる出来事が起こります。それが鳥かごの中のカナリヤを見ていた際に受けた「啓示」でした。
 公益財団法人日本障害者リハビリテーション協会が発行する雑誌「ノーマライゼーション 障害者の福祉 2010年11月号」に、中野惠美子氏が「自伝に見る障害女性の生き方 大石順教・中村久子」と題してこの時のことを下記のように紹介しています。

画家、書道家、宗教家として活躍した大石順教(じゅんきょう)(1887年~1968年)
 大石よね(後の順教)は、明治21年大阪道頓堀に生まれ、13歳で堀江の遊郭山海楼」の養女となった。日露戦争のさなか、座敷に呼ばれて舞妓として芸を披露するという華やかな生活を送っていたが、17歳の時に養父が起こした殺傷事件に巻き込まれて両腕を失う。一家の稼ぎ手であったよねは、その後、「6人斬り生き残りの女」として寄席の高座に上がり、受傷した経験を語り、一座のスター的存在となる。
 19歳のある日、巡業先でカナリヤが餌をついばむ様子に啓示を受け、口に筆をくわえて文字を書くことを思い立つ。「両手をなくしても泣かなかった」が、「幼い時から遊芸ばかりを仕込まれて、思いを表す一つの文字も知らない」ことに気づいた時、「初めて心の底から泣いた」という。近くの小学校に飛び込んで教えを乞い、「障害者だから学んで世の中に何かを残さねばならない。障害者こそ学んでひとり立ちのできるように学問が必要です」、「このような思いでいるのは私一人ではないはず、障害の子供たちの入学を許してやってください」と訴えたという。熱意に押された校長が投宿先に先生を派遣してくれて、よねは、文字を獲得する。この時のことは「その日以前の私と、その日以後の私とは、全然違った者となっていた」と、感動的に語られている。
文学にみる障害者像-自伝に見る障害女性の生き方 大石順教・中村久子
※筆者注:筆者の判断により一部の表現を変更した

 

 これをきっかけとして、順教尼筆を口にくわえて文字や絵を書く練習を始め、遂には書道で日展※2に入選するまでに至ります。PHP研究所が管理するWebサイト「Web歴史街道」では、その後の大石順教尼の活動について次のように記しています。
※2 明治40年(1907)に第1回が開催された「文部省美術展覧会(文展)」の流れを汲む日本最大の総合美術展覧会。「日展」の正式名称は「日本美術展覧会」で、この名称になったのは昭和21年(1946)から(以後、何度か内容や開催機関の見直しが行われているため、名称・回数カウントなどは連続していない)。順教尼が入選した昭和30年(1955)の時点では、主催者は日本芸術院(文部省(当時)の下部機関)日展運営会日本芸術院会員有志を構成員とする団体)の2団体であった。

 それから順教は、筆を口にくわえて文字を書くことができるように、励んでいきました。やがて芸能界から身を引いた順教は古典などを学び、明治45年(1912)に日本画家の山口艸平と結婚。2児に恵まれます。しかし夫の不倫により昭和2年(1927)に離婚し、順教は2人の子供を連れて東京に出ると、渋谷で帯地に更紗絵を描いて生計を立てました。
 昭和6年(1931)、大阪の高安に庵を建てて尼僧を志し、堀江事件の犠牲者を弔うとともに、女性のための収容施設を開いて、教育に取り組むようになります。2年後、高野山金剛峰寺で得度し、名を順教と改めました。昭和11年(1936)、順教は京都の勧修寺に移住し、身障者の相談所「自在会」を設立、女性を収容し、自分と同じ立場である身障者の自立のための教育を行なっていきます。
 やがて、そんな順教の口筆が認められ、昭和30年(1955)、口を使って書いた般若心経が日展の書道部に入選しました。また身障者のために全国で活動し、昭和33年(1958)には日本人で初めて、世界身体障害者芸術協会の会員に選ばれます。
(中略)
 身障者の母として多くの人々から慕われた順教は、昭和43年(1968)に他界します。享年80。亡くなる直前まで、身障者の社会復帰のために尽くした生涯でした。
大石順教の生涯~口筆の書画、身障者の母 | WEB歴史街道

 

 上記引用文のように、それまで「堀江の六人斬りの生き残り」と呼ばれてきた大石よねは、高野山で得度して尼僧となり、順教を名乗るようになります。しかし、この当時、高野山の檀家でない者が得度を受けることは簡単ではなかったようで、知人を介して知り合った九度山萱野正之助タツ夫妻の尽力によってようやく実現されることになりました。出家後も順教はしばしば萱野家を訪れて逗留していたということであり、その縁で同家には順教尼の書画が多数残されたということです。
大石順教萱野正己大石晶教(雅美)入江富美子による特集記事 大石順教尼の歩いた道|致知出版社

 

 出家した順教尼は、昭和11年(1936)京都市山科の勧修寺に移住し、寺内に身体障害者のための相談所「自在会」を開設して自分と同じ立場の身体障害者の自立を支援する福祉活動に取り組みました。昭和26年(1951)には勧修寺の塔頭(たっちゅう 大寺院の境内に設けられた独立寺院・末寺)として佛光院を建立し、以後はここを拠点として障害者福祉に生涯取り組むこととなります。
京都・佛光院に残る、思いもつかない方法で書かれた般若心経


 ちなみに、順教尼はしばしば「日本のヘレン・ケラー※3」と称されますが、実際に順教尼昭和12年(1937)に来日したヘレン・ケラーと会見しています。茶道の武者小路千家卜深庵(ぼくしんあん 武者小路千家の本家にあたる官休庵と並び、木津家において伝承される系譜)家元である木津宗詮氏のブログには「無手の法悦(むてのしあわせ)」という記事(「無手の法悦」は順教尼の自伝の題名)があり、勧修寺内の可笑庵(大石順教尼居宅趾)を訪問したとして、同庵に展示されている写真等が多数掲載されていますが、その中にはヘレン・ケラーと会見を果たした順教尼の新聞記事も含まれています。
無手の法悦(むてのしあわせ)
※3 1880年生まれのアメリカ人女性。小児の頃に原因不明の高熱と腹痛におそわれて、一命はとりとめたが視力と聴力を失い、これにより当初は言葉を学べずに話すこともできなかった。家庭教師のアン・サリヴァンと出会ったことでやがてこれらの障害を克服し、後に本の執筆や世界各地での講演活動などを通じて身体障害者の教育・福祉向上に大きな功績を残した。
ヘレンケラー物語|社会福祉法人 日本ヘレンケラー財団(公式ホームページ)


 九度山町にある「旧萱野家(大石順教尼の記念館)」は、こうした順教尼の生涯を追体験する貴重な施設であるととともに、数々の書画を通じて障害者芸術の可能性に気づかせてくれる極めて重要な場所だと思います。実は、平成27年(2015)に近隣で発生した火災の被害がこの建物にも及び、かつて順教尼が逗留していたという離れ座敷が全焼してしまったのですが、幸いにも母屋と書画、遺影、道具類は延焼を免れたため、まもなく展示は再開されました
高野山麓 橋本新聞 » 「順教尼の記念館」再開~僧侶ら書画作品の無事喜ぶ

 地元でもそれほど知名度が高い施設とは言えませんが、実際に現地を訪れて順教尼の足跡をたどれば大きな感動に包まれることは間違いありません。機会があればぜひご訪問ください。
旧萱野家(大石順教尼の記念館)|九度山町の観光

 


 なお、こうした順教尼の劇的な生涯については、自伝である「妻吉自叙伝 堀江物語」や先述の「無手の法悦」をはじめとして、様々な書籍で紹介されています。
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 また、順教尼の孫・大石晶教(しょうきょう 雅美)氏が代表を務める「大石順教尼かなりや会」では、晶教氏の視点から見た順教尼の生涯を描いた漫画「祖母(ばば)さまのお手々はだるまのお手々」を制作しているとのことです。
高野山麓 橋本新聞 » 順教尼の生涯がマンガ本に~京都で完成発表会

 このほか、テレビドラマとして下記の2作品が放映されたことも確認できます。

 さらに、両腕を失った日本画家・南正文(みなみまさのり)氏と、同氏の師匠であった順教尼を取り上げたドキュメンタリー映画天から見れば(監督:入江富美子)」も制作されています。この映画は、2012年にニューヨーク国連本部において「世界障害者デー」のイベントの一環として上映されたとのことです。

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