生石高原の麓から

和歌山の歴史・文化・伝承などを気ままに書き連ねています

水車建設で灘の銘酒づくりの基盤を構築・田林宇兵衛(紀美野町)

 「和歌山あれやこれや」のカテゴリーでは、和歌山県内各地に伝わる歴史や伝承などを気ままに紹介していきます。

 

 今回は、江戸時代中期に現在の神戸市周辺で水車による搾油工業団地を開発したとされる紀美野町出身の田林宇兵衛を紹介します。
 この水車は当初は菜種油を絞るために導入されたものですが、やがて日本酒の原料である米を精白するためにも用いられるようになり、「灘の生一本(なだの きいっぽん)」という言葉でよく知られている銘酒の産地・灘五郷(なだ ごごう 兵庫県の灘地域5つの酒造地の総称で、「西郷」「御影郷」「魚崎郷」(以上神戸市)、「西宮郷」「今津郷」(以上西宮市)を指す)を生み出す大きな原動力となりました。

 平成25年(2013)紀美野町小川地区に一基の水車が設置されました。これは、ここから登山道が始まる生石高原への登山者用駐車場に設けられた観光用の水車なのですが、ここに水車が設置された理由の一つが、同町出身で「水車動力の父」とも呼ばれる田林宇兵衛を顕彰することであったといいます。

生石高原駐車場に水車設置 過疎対策事業で
 紀美野町小川地区で過疎対策に取り組む小川寄合会(日浦英二会長)は、福井の生石高原登山者駐車場に水車を設置した。国の過疎集落等自立再生緊急対策事業の交付先として進めている「生石山で健康になろうプロジェクト」の一つ。
 江戸時代に活躍し、「水車動力の父」といわれる地元出身の田林宇兵衛をしのび、計画した。
 長野県安曇野から取り寄せた直径2.4メートルの水車。
 日浦会長らメンバー50人が集まり、力を合わせて土台を固定、組み立て、コーティング塗装し仕上げた。小型発電装置を取り付け、試運転。谷川の水で実際に水車を回した。
 電気は水車のライトアップ、周辺でのイルミネーション、防犯灯に使っていく。
(以下略)

わかやま新報 » Blog Archive » 生石高原駐車場に水車設置 過疎対策事業で
13年12月13日18時30分配信

 

 一般的に「水車」とは、川などの水の流れを利用して羽根車を回転させ、この力を用いて水を低いところから高いところへ汲み上げたり、各種機械装置の動力源とするなどの役割を果たすものを言います。
 海外では既に紀元前から穀物を粉に挽くための動力として水車が使われていたという記録があるようですが、日本では農地の灌漑用以外の目的ではあまり普及していなかったようで、大規模に動力として水車が用いられたのは江戸時代中期に酒造用の米の精米に用いられたのが初めてだと考えられています。
 これについて、日本大百科全書(ニッポニカ 小学館)には次のような解説が掲載されています。

水車
(略)
 日本に水車が伝わったのは、610年(推古天皇18)のころといわれている。『日本書紀』には、高句麗(こうくり)の僧曇徴(どんちょう)碾磑(てんがい)(みずうす)をつくったという記録がある※1。しかし、これがどのような姿・形をしていたかはさだかでない。
 日本では、灌漑(かんがい)のための揚水用の水車が奨励され普及した。たとえば絵巻『石山寺縁起』にも、水車を使って水田に水を入れるシステムが描かれている※2。水車が本格的に精米用に使われるようになったのは、江戸時代中期になってからである。伊丹(いたみ)の酒造業の精米は、18世紀初頭は人力が中心であったが、すぐに水車が使われ始めた
(中略)
 江戸時代後期には、日本でも菜種(なたね)や綿実の油絞りにも水車が使用されるようになった。さらに、薬種粉末胡粉(ごふん)などの絵の具線香の粉末などの製造に水車が利用される。そして桐生(きりゅう)地方では、水力(水車)を利用する撚糸(ねんし)が発明され、佐賀藩水戸藩では洋式の反射炉技術をヨーロッパから導入し、その反射炉への送風に水車を利用したり、砲身を削るための機械の動力源を水車に求めるようになった。『佐渡金山絵巻』のなかには、金鉱石の粉砕に水車を利用している描写があり、また鹿児島藩ではヨーロッパから導入した紡績機械の動力源に水車を利用した。
 明治時代になって、ようやく機械工業のなかでも本格的に動力源として水車が使われるようになった。明治初年に広島綿糸紡績所の動力として水車が設置されたのをはじめ、その後の富国強兵・殖産興業政策の下で近代日本を築くためとして、相次いで技術導入が行われ、それとともに水車を動力源として使用する事業所が増大していった。
(略)

kotobank.jp

※1 Wikipediaの「曇徴」の項には次のようにある。

日本書紀』には、高句麗王は、彩色・紙墨の技術者である僧曇徴を貢上したとある(貢上=「貢物を差し上げる」)。『日本書紀』には、次のような記述がある。

十八年春三月,高麗王貢上僧曇徴・法定曇徴知五經。且能作彩色及紙墨,并造碾磑。蓋造碾磑,始于是時歟。

推古天皇十八年(西暦610年)春三月に、高麗王は僧の曇徴と法定(ほうじょう、ほうてい)を貢いだ。曇徴は五経に通じていた。絵の具や紙墨をよく作り、さらには碾磑[2]も作った。思うに、碾磑を作ることは、この時より始まったのだろうか。
— 日本書紀、巻第二十二、推古紀

[2] 碾磑(みずうす、てんがい)とは、穀物を挽くための、水力を利用した臼のこと。その後の日本では、殆ど普及することはなかった。
曇徴 - Wikipedia
※2 「石山寺縁起」は国立国会デジタルコレクションで閲覧することができる。

石山寺縁起(一部を拡大)
石山寺縁起. [5] - 国立国会図書館デジタルコレクション

 

 このように、幕末から明治にかけて日本の産業発展に水車は不可欠のエネルギー源として大きな役割を果たすのですが、その嚆矢となったのが(上記引用文では伊丹となっているが、大規模な活用の記録が残されているのは灘である)の酒造業と、その前身となる同地での搾油業でした。
 そのため、この地には現在も「水車新田」という地名(現在の兵庫県神戸市灘区にある大字名)が残されているのですが、ここには今も「紀州郷士・田林宇兵衛が菜種油を搾る水車を建設し、そこに五毛村庄屋・大利五郎右衛門らが新田を拓いた」という歴史が語り伝えられています。
水車新田 - Wikipedia

 

 ところが、残念なことにその出身地である紀美野町では田林宇兵衛についてほとんど知られていなかったようで、紀美野町が発行する広報紙「広報きみの 第68号(2011.8)」及び「同 第69号(2011.9)」に次のような解説が掲載されていました。時系列でいうと上記の水車設置の約2年前にあたりますので、おそらくこの記事がきっかけとなって水車設置事業が進められることになったのでしょう。

紀美野町の歴史と文化 その六十四
知らなかった偉人(一)
           町誌編纂室 森下誠
 灘の生一本といえば、今では日本酒の代表ブランドですね。といっても、灘が有名になるのは江戸時代後半からで、それまではひっそりと地産地消するただの地酒だったようです。これが一躍全国ブランドとして脚光をあびるようになった陰には、ひとりの人物がいた、しかもそれがなんと美里(筆者注:旧美里町のこと 平成18年(2006)に旧野上町と合併して紀美野町となる)出身の人だったというのが今回のお話。さて事の次第というのは…。
 天明5年(1785)、幕府の造酒量規制緩和が始まると、なぜか灘の生産量が急増し、それまで主役だった大阪の酒を圧倒して急成長します。もともと灘は以前から、六甲の宮水播州平野酒米丹波杜氏という強力なトリオを抱えてはいました。ところがここで隠れた四番バッターが登場することになったのです。それは酒米の精白能力つまり「米搗き力」でした。酒米の精白は、玄米がほとんど芯だけになるほど搗きに搗くという、たいへんな人手と重労働が要求されます。それを解決したのが灘の「水車」でした。史料によれば、灘の水車は、コットンコットンとのんびりしたものではなく、水力がたいそう強いので、構造も万事頑丈で、吉野杉の良材を用いた高性能なものであったとのことです。
 当時灘では、既に50年ほど前から、六甲の南腹を流下する何本かの激流を利用した「水車工業団地」が稼働していました。目的は油搾りです。菜種、えごま、綿實などから油を搾り取る工程に豊富な自然の動力を利用し、低コスト、大量生産という当時としては先進的なシステムを作り上げ、製油業界をリードしていました。そこへ、酒造の規制緩和というビジネスチャンスが訪れます。水車動力のノウハウを生かし、酒作り工程のネックになっていた精米作業を効率化することは簡単でした。搾油用の水車も容易に精米用に転用でき、灘の水車産業は、製油から酒造へ大きくシフトされます。なんといっても大量かつ低コストの作業能力と技術が確立されていたのが決め手となって、灘はまもなく酒造界でも質量共に他を圧倒していきました。灘酒のブランドを確立した立役者は、実は水車だったのです
(あとは次回へ)

 

紀美野町の歴史と文化 その六十五
知らなかった偉人(二)
           町誌編纂室 森下誠
(先月号の続き)
 ところで去る五月の末、昔の水車に興味をもっているという人物から一本のメールが編纂室に送られてきました。文面は、その昔、灘の水車搾油装置を考案したのが、紀美野町野中出身の田林宇兵衛という人らしいが、そのことについて知りたいというのです。恥ずかしながら私は全く初耳でした。そこで当編纂室で調べたところ、次のようなことがわかったのです。
 昭和13年(1938)京都帝大の発行した研究誌に、紀州那賀郡高野領神野庄野中村の郷士田林宇兵衛が、享保8年(1723)代官宛に、現在の神戸市灘区大石川の上流に新田の開発を申請し、翌年には、水車6、7輛の新設を願い出たという古文書が紹介されていること。当編纂室で今まで見た史料には、野中村の「田林宇兵衛」という人物は出てこないが、延享元年(1774)の津川村の文書に、「田林村」という石高37石余の村名と、「田林金太夫」という人名が出ていること。天保10年(1839)発行の詳細な地誌「紀伊風土記」には田林村という村は存在しないこと、かりにあったとすれば、その位置は野中と南畑の間くらいで、現在の小字門田となんらかの関連があるのではないか等々。
 さて、田林宇兵衛が開発した水車工業団地は、いろいろな人に受け継がれ発展しました。最盛期の寛政年間には水車30輛が稼働し、年間菜種油1万5千石、綿実油140万石を産出したといわれます。その後酒造りに力を移し、灘ブランドを確立するわけですが、その水車団地あとは、現在も灘区水車新田という地名で残っています。近辺には複製された水車もあるそうで、神戸の郷土史では、紀州郷士田林字兵衛の名は有名のようです。
 前述のメールの主は、田林宇兵衛の業績について、「文献は残ってないけれど、日本の産業革命の発端につながるすごいことで、日本の歴史やシステムを大きく変えた人物だ」と評価しています。水車そのものを考案したという史料はまだ出てきませんが、水車を利用した企業団地を作ったことは明らかで、前記の京大の研究論文でも、この水車新田の企業形態を「工場制手工業」と定義しているところを見ると、まさに日本の産業革命の先駆者と言ってもいいのではないかと思います。
 思わぬ所から現れた郷土の偉人田林宇兵衛、水車の考案と灘、消えた伝承と田林村、大きな宿題になりました。
2011年広報きみの/紀美野町

 

 上記引用文でも「神戸の郷土史では、紀州郷士田林字兵衛の名は有名のようです」と書かれているとおり、「神戸のタウン誌 月刊神戸っ子」のWebサイトでは、この地区の歴史について次のように記しています。

 江戸時代、この一帯の基幹産業は農業で、経営規模こそ大きくはなかったようだが、米や麦などの穀物のほか、大豆、菜種、綿、野菜などを栽培した。干鰯や油かすなどの金肥(購入した肥料)を使って土地を肥沃にするだけでなく、扇状地ゆえに土地の水持ちが悪かったため、芝草などの有機物を入れて土壌の改良をはかった。さらに治水や用水の面でも水路やため池などを整備するなど、より生産性の高い農地へと努力を重ねた先人たちの辛苦には頭が下がる。
 急流を利用した水車産業は江戸時代初期から発展、享保の頃に六甲川の上流にはその名もズバリ水車新田という地名まで生まれ、現在も大字名として地図に残る。ここで新田を開発し水車場を設けたのは、紀州の田林宇兵衛という人物。六甲川は篠原村や八幡村の大切な水源だったため、水の使用の交渉は難航したが、1727年にさまざまな制限が課せられつつも協定が成立、天明年間には25両、寛政年間には30両の水車が稼働し、主に搾油に使用されていたようだ。その後は米搗き用と用途が移り変わり、灘の酒造りを支えた。水車は近代になっても活躍したが、大正末期頃から電力に取って代わられ、昭和13年(1938)の阪神大水害で被害を受けて姿を消した。
関西屈指の文教地区 六甲界隈について【下】 | 神戸っ子

 

 水車の導入によって搾油及び精米の作業がどれほど効率化されたか、またそれによって他産地との競争力がどれほど強化されたか、ということについては南亮進氏が「前近代日本の水車と工業生産(「経済研究 第32巻第1号」 一橋大学経済研究所 1981)」において次のように記しており、上記で紀美野町町誌編纂室の森下氏が述べているように「まさに日本の産業革命の先駆者と言ってもいい」というレベルの技術革新であったようです。

酒造業
 水車の製造業における利用は,だいたい18世紀から始まったと言える。しかしその利用は徳川末期以前では,ごく簡単な製造活動に限られていた。
 酒造業は明治以前からマニュファクチュアー型経営(工場制手工業)が行なわれた例外的な産業の1つである。これが通常マニュファクチュアーとみなされるのは,多数の労働者を一ヵ所に集め,分業にもとずく生産が行なわれたためである。労働は2つに大別される。酒造労働米踏労働がそれである。酒造労働は,特殊な経験と技術を要する熟練労働者である。これは醸造の特異性のために機械化は困難であった。米踏労働は,玄米の精白を担当する労働者である。わが国の酒造業は18世紀初めまで,これらの労働力による精白が行なわれていた。米踏は酒造労働とほぼ同一量の労働力を要し,しかも比較的単純な労働過程で構成されているため,酒造業の経営努力は精米の機械化による米踏労働の節約に向けられたのである。この技術革新に成功したのがほかならぬ灘五郎(筆者注:原文のまま 「灘五郷」の誤りか),とりわけ灘目(筆者注:なだめ 灘地方の旧称で、「下灘(現在の神戸市 中央区兵庫区付近)」「上灘(現在の神戸市灘区、東灘区、及び芦屋市付近)」の総称)の酒造業であった。灘目は,六甲断層から急傾斜して海に入るいわゆる瀑布線に位置しており,水車の利用には絶好の条件にあった。灘目の水車は享保3(1718)年少なくとも4台,1788(天明8)年40台,1810(文化7)年には66台の水車の存在が記録されている。水車の利用の効果は絶大であった。労働費用が節減され,酒の生産量が増加したばかりではない。酒の質が飛躍的に向上したのである。酒質の改善に一時期を画したのは魚崎の山邑太郎左衛門※3であった。彼は酒米を三昼三夜水車にかけ,精白をきわめて,はじめて灘の銘酒をつくったのである。このような高度の精白は一定の速度と強さとをもって72時間連続する水車精米によってはじめて可能であり,米踏労働の限界をこえている。速度と強さの点で,足踏精米はある程度以上の精白は不可能である。杵の上下数1分間50-60回の水車(1臼の米量は約1斗)によると,酛米※4最上白は50時間以上,掛米※5は40時間内外を要したという※6。酒質の向上によって灘の酒は江戸で名声を博し,他産地の酒を圧倒するのである。
※3 現在、神戸市東灘区に本社を置く酒蔵「櫻正宗」の6代目当主。明治43年に発行された『灘酒史』には「山邑太郎左衛門」とあるが、他の専門書や歴史書ではほとんど「山邑太左衛門」と表記されているとのこと。現在の櫻正宗の社長は11代目山邑太左衛門を名乗る。
『灘酒史』から読み解く。灘の銘酒「櫻正宗」が江戸で高い評価を得た理由とは? | 日本酒専門WEBメディア「SAKETIMES」

酒蔵の軌跡 – sakuramasamune
※4 酛(もと)は、別名を「酒母(しゅぼ)」ともいい、糖分をアルコール発酵させるための酵母を培養したものを指す。この酵母を培養するために用いる米が酛米(もとごめ 「酒母米(しゅぼまい)」とも)である。
麹米・掛米(味米)・酒母米 | 灘の酒用語集
※5 掛米(かけまい)は日本酒づくりで最も大量に用いられる米で、酛に掛米を加えて発酵させる(正確には麹菌によるデンプンからブドウ糖への分解と、酵母によるブドウ糖のアルコール発酵が同時に進行する)ことで日本酒のもととなる「醪(もろみ)」が完成する。
※6 広常正人氏の「続・生物工学基礎講座-バイオよもやま話- 変わり行く日本酒(「生物工学会誌 第92巻第4号」日本生物工学会 2014)」によれば、足踏み精米では精白度は8分づき(精米歩合92%)に過ぎなかったが、水車精米は1割5分づきから2割5分づき(精米歩合85~75%)へと飛躍的に高まったとされる。
生物工学会誌 –『続・生物工学基礎講座-バイオよもやま話-』第91巻 第3号(2013年4月号)~第98巻 第12号(2020年) | 公益社団法人 日本生物工学会

 

製油・製糖・製陶
 油しぼりにも水車の利用がみられる。江戸時代の製油は摂津・河内・和泉などで行なわれ,大阪はその中心であった。水車は,菜種や棉実の粉末化(炒った種を粉にする)の過程に導入された。これは「水車しぼり」または灘地区で行なわれたので「灘油」と呼ばれた。とくに有名なのは摂津の灘目両組で,1つは享保年間(1716-1735年)に起こった摂津菟原郡水車新田(現在神戸市灘区大土平町)で,1782(天明2)年以後は25台の水車が存在し,もう1つは武庫・菟原・八部の3郡で,1770(明和7)年には56台が設置された。これら両者が灘目両組と称せられたものである。とくに水車新田の方は,マニュファクチュアー生産の形態を示していたとされている。水車の能率は人力の約2倍であった大蔵永常の『製油録』によると,搾り手1人,添槌1人,親司1人,下働き2人計5人で種子3石6斗をしぼったが,人力では2石であったという。
(以下略)
HERMES-IR : 一橋大学機関リポジトリ

 

 灘の酒造りは、水車の導入という技術革新に加えて「宮水(みやみず)※7」と呼ばれる六甲山の伏流水が酒造に非常に適していることが発見されたことにより、全国最高水準の品質を誇るようになりました。あわせて、この灘の地が海上運送に極めて便利な立地であったことから、「灘の酒」は江戸で大変な評判を呼ぶことになります。
 国税庁が令和3年(2021)に作成した「「日本の伝統的なこうじ菌を使った酒造り」調査報告」では江戸時代後期の灘の酒について次のように記されています。
※7 現在の兵庫県西宮市の西宮神社の南東側一帯から湧出する水で、硬度が高く、日本酒つくりに適しているとされる。水車精米と同様に6代目山邑太左衛門が発見したと伝えられる。 宮水 - Wikipedia

 酒造りが大きく発達するのは、江戸時代になってからであり、いわゆる「三段仕込※8」が広まり、杜氏制度※9からなる酒造業が企業化していく。
 それは、海運を伴っての発達であった。とくに、摂津地方兵庫県大阪府で、それがいち早く発達した。
 江戸時代に摂津を中心に醸造されて江戸に運ばれた酒のことを「下り酒」と呼ぶ。江戸は酒の一大消費地であり、江戸時代を通じて、下り酒が大量に送られていた。初期の頃は池田伊丹鴻池などが江戸向け酒の代表的な生産地だったが、18世紀後半あたりからは灘酒が急激に台頭している(小泉 2000)
(中略)
 江戸では、下り酒と地廻りの双方が消費されていたが、圧倒的に評価が高く人気があったのは下り酒で、下り酒は常時、江戸での酒の全消費量の7割以上を占めていた。樽廻船の全盛時には、江戸に運び込まれた伊丹西宮などの下り酒は、年間 100 万樽(四斗樽)にも及んだとされている(小泉 2000)
(中略)
 は、ミネラルを多く含む宮水に恵まれたことにより、江戸時代より酒どころとして発展した。灘の酒は西宮から樽廻船で江戸へ輸送されたが、輸送の間に樽の中で熟成された日本酒は、樽の香りと芳香な風味が加わることから、江戸で重宝された。なお、吉野杉で作られた酒樽は、中身を含めて 80㎏程度で、船積みまではこれを人力で荷役していた(港と社会研究会)
 江戸時代の前半は、伊丹池田の酒が優勢であったが、後半は港に近い立地を活かし灘が市場を圧倒していった(港と社会研究会)
日本の伝統的なこうじ菌を使った酒造り技術について|国税庁

※8 酒母から醪を造る際に、蒸米(掛米)・麹米・水・酒母を3回に分けて段階的に桶(タンク)に加えていく手法。徐々に量を増やしていくことで腐敗を避けて均一な発酵を進めることができる。
日本酒の「三段仕込み」とは?【専門用語を知って日本酒をもっと楽しく!】 | 日本酒専門WEBメディア「SAKETIMES」
※9 「杜氏(とうじ)」は日本酒造りの現場を取り仕切る最高責任者を指す。江戸時代、酒造を冬場にのみ行うという「寒造り」が定着すると、農閑期を迎えた農村の働き手が蔵元から招聘されて杜氏としての腕を振るうという「季節労働杜氏」のスタイルが確立された。杜氏の技術は、その杜氏が春から秋にかけて居住する地域において伝承されるようになり、杜氏の出身地域ごとに異なる個性を持った杜氏集団が形成された。有名な杜氏集団には「丹波杜氏兵庫県丹波篠山市周辺)」、「越後杜氏新潟県中南部)」、「南部(なんぶ)杜氏岩手県花巻市周辺)」などがある。
杜氏とは?多様なスタイルがある酒造りの総責任者 | 日本酒専門WEBメディア「SAKETIMES」


 現在の神戸周辺ではもう水車を利用した産業の姿を見ることができないものの、この地域の発展に水車が果たした大きな役割を語り継ごうとする努力は続けられているようで、各地で水車のモニュメントなどを見ることができます。
 中でも有名なのが、「山田太郎車・次郎車」と名付けられた二基の水車で、これは平成14年(2002)に神戸市建設局がかつての水車を復元したものだそうです。他にも、JR住吉駅や同駅近くの「水車の広場」、菊正宗酒造記念館など、各所で水車の姿を見ることができます。
【※動画あり】神戸・住吉山手にある「灘目の水車」の動く姿をとらえたよ! | 東灘ジャーナル 
Google マップ JR住吉駅
Google マップ 水車の広場
Google マップ 菊正宗酒造記念館

 

 田林宇兵衛が進めた事業が現在も「水車新田」という地名として残り、その成果が「灘の生一本」として知られる灘の銘酒を産み出した、というのは大変誇らしいことです。
 かつては和歌山県内にも百近い蔵元があったのですが、近年では随分少なくなり、県酒造組合連合会のWebサイトではわずかに15の蔵元が掲載されているのみになってしまいました。しかしながら、個別の銘柄で言えば「羅生門」「黒牛」「紀土-KID-」「龍神丸」など、全国的に高く評価されている銘酒もありますので、なんとか灘五郷に負けず劣らず頑張ってほしいものです。
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