「和歌山あれやこれや」のカテゴリーでは、和歌山県内各地に伝わる歴史や伝承などを気ままに紹介していきます。
今回は、江戸時代の元禄~享保年間に活躍した歌舞伎役者で、「女形(おんながた)」という芸の確立に多大な功績があったといわれる芳澤あやめ(よしざわ あやめ 1673-1729)を紹介します。あやめは現在の日高川町高津尾の生まれで、大阪に出て芸能の道に入り、やがて上方歌舞伎の女形としてめきめきと頭角を現して遂には「あらゆる役者中の最上位」と位置づけられるほどの地位にまで上り詰めた人物です。
あやめについて、和歌山県が管理するWebサイト「わかやま歴史物語100」では「歌舞伎の女形日本一! 芸に生きた芳澤あやめ」と題して次のように紹介しています。
元禄から享保にかけて大坂を中心に活躍した女形※1の歌舞伎役者、初代芳澤あやめ。本姓は斉藤、屋号は橘屋、通名は橘屋権七。5歳の時に父を亡くしたあやめは、芝居好きが高じて旅回りの一座に入ります。修業を始めたのは三味線からでしたが、やがて能の達人であった橘屋五郎左衛門の寵愛を受け、綾之助という名前をもらい、女形として修行を開始。若衆方(美少年役)として舞台を踏むようになった頃、幕府が風紀の取り締まりを名目に女歌舞伎を禁止します。これによって女役者を男が代わりに演じるようになると、あやめの女形にも脚光が集まりました。あやめは元禄5年(1692)に京に上り、同8年(1695)頃には太夫の号を取得、芳澤菊之丞と改名。元禄11年(1698)には、『傾城浅間獄※2』の傾城三浦役で大人気に。以来江戸や京都で数々の舞台を踏み大成功を収め、歌舞伎俳優全体の最高位である「三ヶ津惣芸頭※3」の位を与えられました。日高川町の中津地区は、芳澤あやめの出生地。希代の女形を生んだ日高の深山幽谷を散策してみましょう。もちろん湧き出る温泉や山の幸たっぷりの食事を楽しむことも忘れずに。
※1 「女形(おんながた)」は、歌舞伎において女性を演じる役者を指す言葉。もともと「おんながた」の「かた」とは、能における「シテ方」、「ワキ方」などと同じく役割を示す言葉としての「方」であり、本来の意味では「女方」と表記する方が適当。「おやま」と呼ぶ場合もあるが、歌舞伎では「立女形(たておやま)」、「若女形(わかおやま)」など特殊なケースを除き、一般的には「おんながた」と呼ぶ。歌舞伎用語案内※2 「傾城浅間獄(けいせい あさまがだけ)」は歌舞伎の演目の一つ。傾城(けいせい)とは特に美貌に優れた遊女のことを指し、信濃国諏訪家のお家騒動を題材にしたこの演目では、奥州、三浦という二人の傾城が重要な役割を果たしている。傾城浅間嶽とは - コトバンク
※3 「三ヶ津(さんがのつ 三箇の津)」とは、本来は中世の三大港であった「薩摩坊津(ぼうのつ)」、「筑前博多津(はかたのつ)」、「伊勢安濃津(あのつ)」の総称であったが、江戸時代になると「京」、「大坂」、「江戸」の三都を意味する言葉に転じるようになった。「三ケ津惣芸頭」は、字義どおり京・大坂・江戸の3大都市全体の中で最も優れた芸能者であるという意味を込めた位附(くらいづけ 詳細は後述)である。
あやめの出生地について明確な記録は残されていないようですが、近年では上述したように現在の日高川町高津尾の出身であるという説が定着しているようで、その根拠としては、上記に掲載した「紀伊国名所図会」にある「芳澤あやめ」の図に付された解説がもとになっていると思われます。この解説には次のように記されています(上記画像参照)。
芳澤あやめ
あやめは当郡小原長滝村の農夫 吉助といふ者の子にて
幼年より大坂に在しが
後俳優(やくしゃ)を以て名を三都にしらる
その技ことに旦(おんながた)に長じ惣芸頭(そうげいとう)となる
父吉助 其 賤業なるをはぢ
怒りて勘当すといへり
享保年中病て死
或書に大坂の人とあるは誤なり
今 其図をあらはして婦女子の消閑に備ふ
紀伊国名所図会は江戸時代後期に編纂された地誌で、文化庁の「文化遺産オンライン」によれば「日高郡」が含まれている「後編」は嘉永4年(1851)に刊行されました。
紀伊国名所図会 文化遺産オンライン
実際にあやめが活躍した時代から100年以上が経過しているとはいうものの、これほどの著名人の来歴について「名所図会」のような準公的な出版物(個人が出版したものであるが、広く一般大衆の目に触れることを想定したいわゆる「観光ガイドブック」であり、資料的価値の高い書籍であるとみなされている)が明確な誤りを記載することは通常考えられないため、この記述は一定の確度があるものと考えられるでしょう。
こうしたことを根拠に、日高川町高津尾にある日高川ふれあいドームの敷地内には芳澤あやめ像が建立されており、次のような解説が記載されています。
芳澤あやめ(1673~1729)
元禄から享保年間にかけて、歌舞伎女形の開祖として一世を風靡した芳澤あやめは、延宝元年(1673)ここ小原長滝で生まれた。幼名を千太良と言った。
当時この草深い山里でも旅回りの歌舞伎芝居がよく興業された。千太良は小さい頃から芸事に魅せられ、よく楽屋をのぞき見したと伝えられている。
太鼓や拍子木を打たせば役者も舌を巻く程であり、役者としての天性が親方の目にも止まり、所望されるまま一座の人となり、運命の役者修行に出てみごとな大輪の花を咲かせた。
その芸は三都(江戸、京、浪速)に聞こえ、享保2年(1717)45歳の時、当時の俳優としての最高位の総芸頭となり、その後日本無双と賞賛された。
ここに芳澤あやめ生誕の地にその業績を讃え踊るあやめのあで姿を偲び、建立するものである。平成9年4月吉日
あやめ踊り保存会
あやめの修行の経過や役者としての評価などについては、「朝日日本歴史人物事典(朝日新聞出版)」の「芳沢あやめ(初代)」の項で次のように詳述されています。なお、上記の引用文ではあやめが当地を訪れた旅回りの芝居(歌舞伎)一座に入ったことが芸能に携わるきっかけであったとされていますが、下記では父と死別したため大阪道頓堀の色子(男色を売った歌舞伎の少年俳優)として売られたことがきっかけであるとされており、両者の記述には食い違いが見られます。
芳沢あやめ(初代)
没年:享保14.7.15(1729.8.9)
生年:延宝1(1673)
初代坂田藤十郎と共に元禄期を代表する歌舞伎役者。本姓斎藤。前名橘屋権七,吉沢あやめ。俳名春水。屋号橘屋。
5歳で父と死別,道頓堀の色子に売られ綾之助と名乗る。丹波国亀山(姫路市)の郷士橘屋五郎左衛門に寵愛され,役者としての基礎訓練を受ける。のち水島四郎兵衛の食客(筆者注:家の主が才能を見込んだ人物を客としてもてなし、養うことを指す)となり初代嵐三右衛門に師事。その没後は山下半左衛門の門下となり,次第に人気を得た。
元禄10(1697)年の評判記で位付けが若女形上上吉となる。翌11年正月布袋屋座上演の傑作「傾城浅間岳」の傾城三浦が高く評価され,女形として確固たる地位を築いた。
宝永期(1704~11)に入り競争相手の荻野沢之丞の死亡,水木辰之助の隠退もあって女形の第一人者となり,三ケ津惣芸頭,三国無双などの称号を冠せられた。
49歳の享保6(1721)年に芳沢権七の名で立役※4に転じたが好評は得られず,翌年女形に戻った。
所作事(舞踊)よりも地芸(演技)にすぐれ,地味で着実な演技で没年まで若女形を勤め,日本女形の開山と尊敬された。歌舞伎を写実的な演劇として発達させた功績者のひとり。その芸談『あやめぐさ』は,写実に徹した女形演技論としてきわめてすぐれる。
57歳で没したのち,長男が2代目あやめを継ぎ,4男が3代目を継いだ。文化期まで5代を数えるが,5代目のみすぐれる。現在この名跡は絶えている。
<著作>『あやめぐさ』(今尾哲也『役者論語評註』)
<参考文献>高野辰之『日本演劇史』3巻,伊原敏郎『近世日本演劇史』
(松平進)
芳沢あやめ(初代)とは - コトバンク
※4 「立役(たちやく 「立方(たちかた)」とも)」は、「女形」に対して一般の男役を指す言葉であるが、より正確には女形・子役以外の男の役、あるいは敵役(かたきやく)・老役(ふけやく)以外の善人の男の役を意味する。
上記引用文において、「上上吉」「三ケ津惣芸頭」「三国無双」とあるのは、江戸時代に定期的に刊行されていた歌舞伎役者の評論書(評判記)において役者に冠されていた「位附(くらいづけ 「等級」にあたる)」で、鳥越文蔵著「元禄歌舞伎攷(八木書店 1991)」によれば当初は「上上吉」「上」「中」の3段階、あるいは「上上吉」「上上」「上」「中ノ上」「中」の5段階などで評価されていた(後にはこの中でもさらに細分化されていく)のに対し、特に優れた役者にはこの階層のさらに上にあたる特別な「位附」が随時与えられていたようです。
この当時、あやめは通常の基準では評価することができないほどの優れた役者であると評価されていたとされ、同書によれば新たな評判記が発刊されるたびに新たな「位附」が与えられてその地位がエスカレートしていったことが伺えます。
役者口三味線
元禄12年(1699)3月、歌舞伎の狂言本※5などの出版元として知られていた京都の八文字屋が初めて役者評判記の出版をした。書名を『役者口三味線」という。この書の形式がその後永く踏襲され、幕末まで八文字屋を中心に役者評判記の出版が行なわれることとなったのである。野郎評判記と役者評判記の分水嶺をなす書ともされているので細かく記録してみよう。
京・江戸・大坂三都を各一冊にまとめ、三冊で一部とした点が新機軸である。
(中略)
「惣芸頭」は役者無上の位で、一役柄に限らず、諸部門を総括してあらゆる役者中の最高位に付されるもので、初代芳沢あやめと中村富十郎※6両人だけが得た位附だとする。芳沢あやめが活躍した時代、元禄末から享保初年は、ちょうど位附が定着してくるころであったが、あやめは新しい位を一人占めというか、あやめのために新しい位附を考案しなければならなかったようなところがある。いかに位置づけられているかあたってみよう。
『口三味線』では前に記したように「上上吉」であり、その後もしばらく「上上吉」で、以下次のごとくである。
正徳4年 極上上吉
〃5年 極上上吉 三ヶ津名人(返魂香)
〃 〃 今上上吉 古今無双(懐世帯)
〃6年 三ヶ津惣芸頭
享保3年 大極上飛切
〃4年 大極上上吉 たとへやうなし(筆者注:例えよう無し)
〃5年 極上上吉 無類の名人(三蓋笠)
〃 〃 日本第一飛切たけ長(惣箭数)
〃6年 三ヶ津極無類
あやめには評者も苦労したであろう。
元禄歌舞伎攷 - 鳥越文蔵 - Google ブックス※5 「狂言」はもともと平安時代から室町時代にかけて成立した滑稽味を帯びた芸能「猿楽(さるがく 「申楽」とも)をルーツとし、後に「能」と「狂言」に分化したものであるが、江戸時代中期になると歌舞伎や文楽などの演劇を含む芸能全般を意味する言葉としても用いられるようになり、特に歌舞伎を指して「狂言」、「狂言芝居」と呼ぶことが一般化した。狂言師が演じる笑劇としての「狂言」と同じ文言であるが、意味は異なるので注意が必要。狂言(きょうげん)の意味 - goo国語辞書
※6 芳澤あやめ(初代)の三男。兄は2代目芳澤あやめ、弟は3代目芳澤あやめ。中村富十郎の系譜については後述する。
よく知られているように、歌舞伎は「出雲阿国(いずもの おくに)」という女性が始めた「かぶき踊」をルーツとし、当初は女性を中心とする舞踊芸能であったものが、後に男性のみで演じる演劇的な舞台芸能へと変化していきました。日本固有の演劇の代表的なもののひとつであり、平成17年(2005)にユネスコの「第1回 人類の口承及び無形遺産に関する傑作の宣言」において傑作宣言を受け、平成20年(2008)には「人類の無形文化遺産の代表的な一覧表(ユネスコ無形文化遺産)」に登録されています。
外務省: ユネスコ「人類の口承及び無形遺産に関する傑作の宣言」の概要
無形文化遺産 | 文化庁
阿国の「かぶき踊」が現在のような「歌舞伎」に移行した経緯について、東京にある江東区深川江戸資料館が発行する広報紙「資料館ノート 第115号(2016)」では「歌舞伎と深川① 歌舞伎の誕生」と題して次のように解説しています。
歌舞伎と深川① 歌舞伎の誕生
(略)
(2)歌舞伎とは
歌舞伎は、それ以前の下剋上の時代といわれた戦国時代が終わり、平和な時代が到来した狭間の時期に発生した「傾(かぶ)く」という思想を語源としています。それを体現したのが「かぶき者」です。かぶき者は、それまでの常識に反抗し、異端児として群れをなして行動し、女性のような華やかな柄の着物に、十字架の首飾り、長い太刀などの異形の姿で町中を練り歩き、当時の不安定な社会にエネルギーを持て余したあらくれ者たちで時代の象徴でもありました。
(3)歌舞伎踊り
そのかぶき者を男装して舞台で演じた「歌舞伎踊り」の創始者が、出雲阿国です。阿国は出雲大社の巫女ともいわれ、当時流行した子どもたちによる「ややこ踊り」の踊り手として、京の盛り場であった五条河原や北野天満宮の境内、貴族の館などで披露し、一世を風靡しました。「ややこ踊り」は中世に誕生した能にみられる単独芸である「舞」と異なり、室町時代末期に大流行した「風流(ふりゅう)」と呼ばれた複数で華やかに自由で躍動感あふれる「踊り」の流れを組む新しい芸能の一つでした。
このように当初歌舞伎は、踊りとしてはじまりましたが、後に狂言師との交流などから演劇性の高い芸能へと発展していきます。
(4)野郎歌舞伎
阿国歌舞伎とほぼ同時期に、その影響を受けて誕生したのが「女歌舞伎」と「若衆歌舞伎」です。女歌舞伎は遊女、そして若衆歌舞伎は男色の色子(いろこ 男娼)を華やかな群衆踊りの中で披露し、顧客を呼び込むための目的がありました。
幕府は開幕当初のこの時期に、風紀の乱れを正す※7ために歌舞伎の統制を図り、度々禁令を出します。寛永6年(1629)幕府は江戸で女歌舞伎の禁止令を出し、翌年には女性が舞台に出ることを禁じました。このことは女形の誕生につながります。さらに若衆歌舞伎の象徴である少年の前髪を切る※8ことを命じ、前髪のない「野郎歌舞伎」が承応2年(1653)、三都(京、大坂、江戸)での興行が許されました。この野郎歌舞伎は役者の表現力、さらに狂言作者による演目の広がりなど時代と共に進化を遂げ、現在の歌舞伎の実質的な原点となりました。
(以下略)広報紙 | 深川江戸資料館 | 2016年 No.115
※7 前段で述べられているとおり、女歌舞伎・若衆歌舞伎はいずれも売春を目的とした遊女・男娼の「顔見せ」としての役割を果たしていたものであり、これが風紀の乱れに繋がるとして規制の対象となったものである。
※8 当時、男性は元服(げんぷく 成人となる儀式で概ね15歳~17歳で行われる)を迎えると前頭部から頭頂部にかけての頭髪を剃りあげて髷を結うのが通例で、この剃り上げた部分(実際には毛を抜くことが多い)を「月代(さかやき)」と呼ぶ。これに対して元服前の若者は、月代部分に髪を残した「若衆髷(わかしゅうまげ)」という髪型をしていたため、この部分に髪を残していることは成人前の少年であることの証であると考えられていた。歌舞伎用語案内 若衆
上記の解説にあるように、旧来の「女歌舞伎」や「若衆歌舞伎」は遊女や男娼の性的な魅力をアピールするという性格が強かったために幕府の規制対象となりましたが、後に、「野郎頭(やろうあたま 月代を剃り上げて髷を結った髪型)の男性のみで行う物真似狂言(写実的な演劇)」に限って舞台での上演が認められることになりました。これが「野郎歌舞伎」と呼ばれるものです。
野郎歌舞伎の上演が認められるようになったのは承応2年(1653)のことでしたが、これ以後、歌舞伎は本格的な演劇へと進化していきます。そして、いわゆる「元禄文化※9」が花開いた元禄時代(1688~1704)になると現在上演されている歌舞伎の形式がほぼ出揃うこととなり、これを一般的に「元禄歌舞伎」と称しています。
辞書・辞典等の横断検索を提供しているウェブサイト「コトバンク」では、野郎歌舞伎及び元禄歌舞伎について次のような解説を見ることができます。
※9 元禄文化 - Wikipedia
野郎歌舞伎 やろうかぶき
初期歌舞伎における一時期の名称。
1652年(承応1)に、風俗が乱れるとの理由で若衆(わかしゅ)歌舞伎が禁止されるが、役者の前髪を剃(そ)り落として野郎頭にすることと、「物真似(ものまね)狂言尽し」を演ずることを条件として、翌年再開を許された。これ以後、元禄(げんろく)時代(1688~1704)に入る前までを野郎歌舞伎(時代)とよぶ。
すなわち、容色を売る若衆の扇情的な舞や踊ではなく、野郎が演ずる物真似芝居だという意味の命名であった。1661~87年(寛文1~貞享4)のころを全盛期とする。
この時期は、歌舞伎が本格的な演劇としての道を歩き始める重要なときにあたり、内容は飛躍的な進歩を示した。女方(おんながた)の基礎がつくられたほか、各種の役柄が形成され、「傾城買事(けいせいかいごと)」「やつし事」「荒事(あらごと)」「意見事」というように「事」とよんだ多くの演技パターンがつくりだされ、演技術が著しく進歩した。
(以下略)
出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)
野郎歌舞伎とは - コトバンク
元禄歌舞伎 げんろくかぶき
元禄年間 (1688~1704) を中心として,貞享から享保頃の歌舞伎をさす。
それまでの歌舞伎が容色本位の歌舞中心であったのに対し,写実的なせりふ劇が確立して歌舞伎史上に一時期を画した。江戸では荒事,神霊事を中心としてロマン的傾向が強く,上方では傾城買狂言が盛んで,より写実的であった。作者に近松門左衛門,役者では江戸の市川団十郎,中村七三郎,上方の坂田藤十郎,芳沢あやめなどの名優が出た。
(以下略)
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
元禄歌舞伎とは - コトバンク
あやめが活躍したのはまさにこの元禄歌舞伎の爛熟期である元禄~享保の間であり、男性のみで演じる歌舞伎の舞台をより写実的にするために女形の重要性が高まっていった時代でした。
金智慧氏は「Shinko Engeki Jisshu by Onoe Kikugorō V and the History of Onnagata /五代目菊五郎の新古演劇十種と女方の歴史(「ハーバード大学大学院生研究交流会報告書」大阪大学文学研究科 2020)」においてあやめの女形への取り組みについて次のように記しています。
(略)
ここに至って、生来の美貌と官能的な舞踊で観客を魅了した遊女・若衆の役者に比し、性的魅力を持ち合わせていない成人男性の役者、とりわけ女方の場合は女性を演じるためにさらなる工夫が求められた。それゆえ鬘を利用して男気を隠し、世の中で最も妖艶な女性と認識される遊女を模倣した。しかしこのような基礎的な段階を超え、やがて女方の眼目は如何にして女性よりもさらに美しい女性を演じるかに焦点が置かれた。
以上のように、女方の役割が基盤を整え、自らの演技論を確立しはじめたのは元禄期あたりであるが、この時期になると女方芸術のために日常生活から徹底的に女性の生活様式を模倣し、真の女性を演じることを目指す写実的傾向が見られる。しかも身体的魅力でアピールする舞踊劇よりも、物語性がある狂言が重視されるようになり、女方の役者は理想的な女性を演ずるためにさらに苦心した。この時期の代表的な女方役者として、初代芳沢あやめ(延宝元年〈1673〉~享保14年〈1729〉)と初代瀬川菊之丞(元禄6年〈1693〉~寛延2年〈1749〉)が挙げられる。以下、彼らが残した芸論から女方の理想的な在り方を確認するが、先に芳沢あやめの女方の心得に関する芸談を記録した『あやめ草』(明和8年〈1771〉)から取り上げたい。
女形は色がもとなり。元より生れ付てうつくしき女形にても、取廻しをりつぱにせんとすれば、色がさむべし。又心を付て品やかにせんとせばいやみつくべし。それゆへ平生ををなごにてくらさねば、上手の女形とはいはれがたし。ぶたいへ出て爰はをなごのかなめの所と思ふ心がつくほど男になる物なり。常が大事と存るよし、さい々申されしなり。
『あやめ草』女形はがく屋にても女形といふ心を持べし。弁当なども人の見ぬかたへむきて用意すべし。色事師の立役とならびてむさ々と物をくひ、扨やがてぶたいへ出て色事をする時、その立役しんじつから思ひつく心おこらぬゆへ、たがいに不出来なるべし。〔…〕女形は女房ある事をかくし、もしお内儀様がと人のいふ時は、顔をあかむる心なくてはつとまらず、立身もせぬなり。子はいくたり有ても我も子供心なるは、上手の自然といふものなりとぞ。
『あやめ草』
以上の引用をみると、あやめは作意的でない自然な女性美を表出することを強調しており、相手役者にもそのような気持ちにさせるため、普段の生活や行いから女性として生きることを強く薦めていることが見受けられる。なお、次の引用文では、女方は脇目を振らず女性役に精進すべきであることを述べている。
女形にてゐながら、もしこれでゆかずば、立役へ直らんと思ふこゝろつくがいなや、芸は砂になる物なり。ほんのをなごが、おとこにはならぬにてがてんすべし。ほんの女、もはやこれではすまぬとて、男にならるべきや。その心にては、女の情にうときはづなりと、申されしも尤ぞかし。
『あやめ草』
実際、芳沢あやめは立役に道草をして失敗したことがあったようだが(「あやめ立役になられて、はたしてわるかりしなり。女にも男にもならるゝ身は、もとになき事故とかんじ侍りぬ」『あやめ草』)、そのような経験があったからこそ、真の女方になるためには女方以外の役で気を紛らわせることを禁じたと見受けられる。また、当時の観客がそのような役割の越境を芳しく思わなかったことも想像に難くない。このように芳沢あやめは理想的な女方を勤めるため、舞台内外を問わず女性として生きること、そしてひたすら女方役に精進することを説き伏せたことが引用文から読み取れる。
(以下略)
『ハーバード大学大学院生研究交流会報告書』 - 大阪大学文学部
上記引用文中にある「あやめ草」は、狂言作者の福岡弥五四郎が晩年のあやめから聞き取った芸談を書き起こしたもので、安永5年(1776)に発行された歌舞伎役者の芸談集「役者論語(やくしゃばなし)」に収められています。役者論語は、国立国会デジタルコレクションにおいてその原本を見ることができるほか、活字化されたものが収録された「随筆文学選集. 第四(楠瀬恂 編 書斎社 1927)」も公開されています。
前述の「朝日日本歴史人物事典」の記述にあるように、「芳澤あやめ」の名跡は、その後あやめの長男(2代目 芳澤あやめ)、四男(3代目 芳澤あやめ)へと受け継がれ、5代目(Wikipediaには6代目との記述もあるが詳細は不明)まで継承されていきますが、その後は残念ながら途絶えてしまったようです。
芳澤あやめ - Wikipedia
しかし、中村富十郎(初代)を名乗ったあやめの三男は、やはり「三ヶ津巻首 歌舞伎一道惣芸頭」に位附されるほどの名優として高く評価されて、その系譜が現代にまで受け継がれています。
中村富十郎 (初代) - Wikipedia
5代目中村富十郎(1929 - 2011)は、随一の立方、踊りの名手として知られ平成6年(1994年)に「人間国宝(重要無形文化財保持者(芸能の部 歌舞伎立役「五世 中村富十郎」)保持者)」として認定されるほどの名優でしたが、平成23年(2011)に惜しまれながら亡くなってしまいました。しかし、その長男である中村鷹之資(なかむら たかのすけ 1999 - )はまだ23歳と若く、将来を嘱望されている若手のようですから、いずれは鷹之資が6代目中村富十郎を襲名することになるのでしょう。
中村鷹之資 1 | 歌舞伎俳優名鑑 現在の俳優篇
中村富十郎の名跡襲名にあたっては、かつては血縁関係が重視されてこなかったようで4代目までは親子や師弟とは関係なく襲名されてきたことから、5代目中村富十郎や中村鷹之資に初代芳澤あやめの血統が受け継がれているわけではありません。しかしながら、5代目以外の富十郎はみな優れた女形であったと伝えられており、歌舞伎の代表的な演目の一つで「女方舞踊の最高峰」とも言われる「京鹿子娘道成寺(きょうがのこ むすめどうじょうじ)」は、初代中村富十郎が初演したものであり現在も中村富十郎家の「お家芸」とされていることを考えると、やはりあやめが確立した歌舞伎女形の精神は同家に脈々と引き継がれていると考えても良いのではないでしょうか。
5代目中村富十郎を悼む - 日高新報