生石高原の麓から

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将棋史に残る逆転劇「高野山の決戦」 升田幸三・大山康晴(高野町)

 「和歌山あれやこれや」のカテゴリーでは、和歌山県内各地に伝わる歴史や伝承などを気ままに紹介していきます。

 

 今回は「将棋界でもっとも有名な逆転劇」と言われる「高野山の決戦」について紹介します。
 「高野山の決戦」とは、本来は昭和23年(1948)に升田幸三(ますだ こうぞう/こうそう)大山康晴(おおやま  やすはる)が当時の名人塚田正夫への挑戦権をかけて高野山で対局した「名人挑戦者決定戦三番勝負」の全体を示す言葉ですが、狭義には「両者一勝一敗で迎えた第三局(会場 普門院)において、優勢だった升田が単純な見落としによって大逆転負けを喫した」という勝負を指し、多くの場合はこちらの意味で用いられています。

 現在弱冠二十歳にして将棋界の各種記録を次々と塗り替えている藤井聡太五冠竜王・王位・叡王・王将・棋聖が実質的なプロデビューを果たした平成29年(2017 藤井五冠のプロデビュー戦は平成28年12月24日の対加藤一二三戦だが、平成28年の対局はこの一局のみ)加古川清流戦という棋戦で都成竜馬四段(当時)と対戦した際に、その衝撃的な勝ち方を見た解説者が
これ、本当に14歳? チャック開けたら大山先生が入ってるんじゃない?
と叫んだというのが将棋関係者の間では大きな話題となりました。
将棋・藤井聡太四段が劣勢から「気が付けば勝ってた」対局に解説者がついていけず「マジか…」と語彙力をなくす - Togetter

 ここで「大山先生」と呼ばれていたのが上記「高野山の決戦」の一方の当事者である大山康晴十五世名人(1923 - 1992)です。
 戦前からプロ棋士として活躍していた大山は、昭和25年(1950)に新設された九段戦(後に「十段戦」、昭和63年(1988)からはこれを発展的改組して「竜王戦」となる)で優勝して初タイトルとなる「九段」を獲得しました。
 その後、昭和27年(1952)には第11期名人戦木村義雄名人を破って名人位を獲得しますが、このとき大山は29歳で、「史上初の20代名人」として大きな話題になりました。大山はその後も名人戦を5連覇して永世名人(十五世名人)の資格を獲得したほか、次々と他のタイトルも獲得し、平成4年(1992)に69歳で亡くなるまで棋界トップランクの「A級」に在籍を続けて、公式タイトル獲得80期一般棋戦優勝44回通算1433勝等の実績を残しました。実は、これらの記録はいずれも羽生善治九段・永世七冠資格保持者(タイトル獲得99期、一般棋戦優勝回数45回、通算勝利1500勝(2022年6月16日時点))に続く歴代2位に甘んじているのですが、大山が活躍した時代にはタイトル戦は3~5戦(現在は8戦)しかなく、一般棋戦の数も少なかったため同一の基準で比較できるものではありません
 しかも、大山が凄いのはこうした通算記録だけではなく、その時に存在していたタイトルを全て独占するという圧倒的な強さにありました。これについて大山の出身地である倉敷市のWebサイト中の「倉敷市大山名人記念館」の項では次のように紹介されています。

五冠王時代
 昭和34年(1959年)に当時存在した3つのタイトル戦の三冠王となった大山氏は、昭和35年(1960年)創設の王位戦王位を獲得して初の四冠独占をし、さらに昭和37年(1962年)創設の棋聖戦棋聖位を獲得して初の五冠独占(名人・十段・王将・王位・棋聖を果たします。
 特に、昭和34年(1959年)から昭和45年(1970年)の頃はタイトル棋戦でほぼ無敵の存在であり、4度、五冠王になりました。特に、昭和38年(1963年)から昭和41年(1966年)にかけてはタイトル戦に19連続で登場し、その間、他の棋士達にタイトルを一つも渡しませんでした
倉敷市大山名人記念館|魅どころを探す|くらしき地域資源ミュージアム

 また、昭和32年(1957)7月から昭和42年(1967)12月にかけての10年以上にわたって全てのタイトル戦に出場したという「タイトル連続登場50回」の記録は、2位の羽生(23回)をダブルスコアで上回っており、この記録はおそらく不滅のものであろうと言われています。


 このように他を圧する強さを誇り「昭和の大名人」とも称される大山にとって、「終生のライバル」となったのが升田幸三実力制第四代名人※1(1918 - 1991)でした。
※1 「名人」は、大橋宗桂が慶長17年(1612年)に初代を名乗って以来、大橋家の本家、分家及び伊藤家のうちで最強とされる者が終世にわたって名乗る称号となり、一世から十世まではこの「将棋家元名人制」に基づき襲位された。明治以後は将棋界の年功ある実力者が推挙されて名乗る終身制の名誉称号(十一世~十三世)となったが、後に将棋界振興のために名人の位を終身制から実力制(棋戦優勝者に与える称号とする)に変更することとなり、昭和10年(1935年)に「名人戦」が発足した。これに優勝し名人位を獲得した者は、その獲得順に「実力制第○代名人(後述の「称号としての実力制名人」と区別するため、通常は「第○代名人」とのみ称される)」と呼ばれるが、このうち名人位を通算5期以上保持した棋士は引退後に「○世名人永世名人」を名乗る資格が与えられ、大山はこの規定に基づき「十五世名人」を名乗った(本来は引退後に名乗る称号であるが、大山はその卓越した成績を理由に53歳で現役のまま永世名人を名乗った。大山以外に引退前に永世名人を名乗ったのは中原誠十六世名人と谷川浩司十七世名人で、いずれも60歳を迎えたタイミングでの襲位であった。)。 これに対して「称号としての実力制名人」は70歳以上で3期(もしくは抜群の成績で2期)以上名人位にあった引退者に対して日本将棋連盟が贈る称号で、現在この称号を冠されているのは升田幸三実力制第四代名人塚田正夫実力制第二代名人(平成元年(1989)に追贈)の2名のみである。名人 (将棋) - Wikipedia

 升田広島県三良坂町(現在の三次市の農家の四男として誕生しましたが、13歳の時にプロ棋士になることを志して実家を飛び出します。そのとき、家にあった物差しの裏に「この幸三、名人に香車を引いて勝ったら大阪に行く」と書き残して行ったのですが、この「名人に香車を引いて勝つ(棋界の最上位者である名人に対して、自分の駒の中から香車を一枚減らすというハンデ(自分が不利となる 「香落ち」ともいう)を与えた上で勝利をおさめる)※2」という言葉は、当時の升田の強い決意を表すものとして今も語り継がれています。
※2 後に、昭和27年(1952)に行われた第1期王将戦において実際に時の名人・木村義雄に対して香落ちで対戦することが決定したことによりこのエピソードが一躍有名になった。しかし、不可解な理由で升田が対局を拒否したため実際にはこの対戦は行われていない(陣屋事件--升田の夢が現実になったとき【升田幸三特集 第3回】|将棋コラム|日本将棋連盟)。その後、昭和31年(1956)の第5期王将戦で升田は当時名人位にあった大山を香落ちで破っているが、これについては後述する。

 家を出た升田は一旦広島で働いていたようですが、昭和7年(1932)に大阪で木見金治郎八段の門下生となり、プロへの第一歩を踏み出しました。木見八段は日本将棋連盟の創立に関わった人物で、特に同連盟関西本部設立に多大な尽力をしたことで知られていますが、多数のプロ棋士を育てた名伯楽としても高く評価されています。
木見金治郎 - Wikipedia

 その木見門下升田から3年遅れて入門してきたのが当時12歳の大山でした。下記の個人ブログによれば、升田大山より5歳年上でこの時既に二段になっていたことから二人の初対局は升田が角落ちで大山に三連勝という結果に終わり、この時点では実力的に大きな差があったようです。しかし、この後二人は生涯にわたって壮絶な名勝負を繰り広げることになるのです。
大山康晴(1923-1992)

 第二次世界大戦が始まると升田は軍に召集されて南方に送られましたが、昭和20年(1945)に無事復員し将棋を再開します(南方戦線で従軍中に体を壊したとされ、これが後々升田に大きな影響を与えることになります)。その頃既に升田の強さは新聞(この当時、新聞社にとって将棋の対戦記事は重要な読者獲得のコンテンツだった)などで良く知られるようになっており、昭和21年(1946)にはわざわざ升田のために当時の木村名人との五番勝負が企画されました。驚くべきことに、この勝負で升田は名人相手に三連勝(初戦のみ名人が香落ち)という強烈な結果を残したことから人気が沸騰することになりました。「将棋棋士の食事とおやつ出張所」という個人ブログでは、当時の「将棋世界」誌に掲載された次のような記事が紹介されています。

将棋世界1947年2月号
將棋放談 中島富治
升田参加の問題
 最近大阪新夕刊の木村升田の平香五番勝負で 升田が、香、平、平と三番連勝して、折角の催うしも一方的に終つた。しかも壓倒的な勝ち振りで、流石の木村も顔を上げることも出来なかつたと、眞僞は知らぬが、對局を見た人の話である。なるほど棋譜を見れば、第一、二局の如きは段違いの感さえ起こるほどの將棋であつた。流石に棋界最大の通人黒崎貞次郎君の企畫丈けあつて、文字通り圖星を刺したのである。ために大阪棋界、否全關西では鼎の湧くような大人氣を巻き起こした。
(以下略)
第2期順位戦・将棋の神様に愛された大山康晴七段|将棋棋士の食事とおやつ出張所


 また、升田はその特異な風貌や派手な言動でも世間の注目を集めました。これについて日本将棋連盟のWebサイトでは「「観る将」を魅了した昭和のスター棋士升田幸三をご存知ですか」という題名で次のようなコラムが掲載されています。

 升田といえば袴姿の和装に、無造作に伸びた長髪、貫禄たっぷりのヒゲ、というスタイルがおなじみです。伝説の将棋マンガ『月下の棋士小学館能條純一には刈田升三というほとんどそのままのキャラクターが同じスタイルで登場しています。
 このスタイルは若いころからのものではなく、40代になってからでしょうか。30代までは洋装で短髪、ヒゲもあまりない写真が多く残っています。
 まだ和装の男性が多かった時期とはいえ、当時でもあのファッションは印象的でした。愛読していた剣豪小説の影響だとすれば、今でいうコスプレです。「将棋の升田」というイメージ作りを、けっこう楽しんでいたのかもしれません。「ヒゲの九段」=升田として定着していたのですから、イメージ戦略は大成功です。大酒のみのヘビースモーカーというのも、いかにも昭和の無頼派スターらしいところです。
 しかも、講演上手で対談上手。文明論から下ネタまで、話題の範囲はたいへんに広く、物事の本質を分かりやすく表現することに長けていたようです。自慢話も自虐ネタもおもしろく、毒のあるユーモアが人気でした。本人が「放言癖」とか「大ぼら吹き」などと言っているくらいですから、今なら大炎上の常連でしょうね。
 豪放無頼な外見とは裏腹に、とても繊細な面もあったようです。人への配慮にはたいへん神経を使っていたらしく、それは師匠(木見金治郎九段)宅で内弟子だった少年期に培われたものかもしれません。
 愛妻家でもありました。セクハラの権化のような顔をしていながら、式典などでは堂々と「女房のおかげです」と語ります。女性に関するスキャンダルは伝わっていません。
 昭和に「観る将」という言葉はありませんが、そういう将棋ファンも少なくありませんでした。このように多様な魅力で、升田ほど当時の「観る将」を楽しませた棋士はいなかったでしょう。「観て楽しんでもらうことで成り立つ」というプロ意識がとても高かった棋士なのです。

下記コラムより(左:升田 右:大山)

www.shogi.or.jp

 

 大山升田、この両者は同じ木見門下でありながら随分と異なる性格であったようで、いわば「記録の大山、記憶の升田」といった関係にあると言えるでしょうか。


 そして、この二人のライバル関係を決定づけたのが「高野山の決戦」でした。この勝負は冒頭でも記したように当時の名人塚田正夫への挑戦権をかけて行われた「名人挑戦者決定戦三番勝負」の最終戦として行われた対局なのですが、まずはこの三番勝負の性格について説明しておきたいと思います。
 前述の※1の項で触れているように、もともとは終身制であった「名人」の称号を実力制に改めるにあたり、昭和10年(1935年)から「名人戦」という棋戦が発足しました。発足当初「名人」の在位期間は2年とされており、2年間かけて挑戦者を決定するためのリーグ戦を開催して、その勝者と現役名人が名人位をかけて七番勝負を行うという方式でした。
 戦後になるとこの制度が改められて、名人の在位期間を1年にするとともに、名人への挑戦権を争うために「順位戦」という新たな制度が導入されることとなりました。
 現在の「順位戦では、棋士A級B級1組B級2組C級1組C級2組の5クラスに分けてリーグ戦を戦い、最上位のA級で優勝した棋士が名人位をかけて現役の名人と七番勝負を行う、という仕組みになっています。A級C級2組の各クラス内では成績に応じてそれぞれの棋士に順位が付けられており、年間成績で上位となった棋士は翌年ひとつ上のクラスへ昇格し、下位に沈んだ棋士は下のクラスへ降格となります。最下位クラスのC級2組から陥落した場合には「フリークラス」所属となり、順位戦以外の棋戦には参加できるものの、10年以内に所定の成績を挙げないと棋士資格を失ってしまうことになります(年齢等による資格喪失の場合もある)。こうした仕組みは、本来は「名人戦」の挑戦者を決めることに限定した棋士の順位付けのルールなのですが、この順位戦でどのクラスに所属しているかということがその棋士の実力を示す重要な指標と考えられていることから、棋士にとっては一般的に最も重要な棋戦であると考えられています(その意味で、大山が69歳で逝去するまでA級に在籍していたことは空前絶後の記録であるとされる)
順位戦 - Wikipedia

 しかし、「高野山の決戦」が行われたのは昭和22年(1947)の第2期順位戦のときのことであり、この時点ではまだこうした順位戦の規定は流動的なものでした。この年の順位戦A級B級C級東組C級西組の4クラスで争われたのですが、名人への挑戦権順位戦での勝敗をもとにした「持ち点」制度による上位4者による変則トーナメント(パラマス式 まず下位2者が対戦し、勝者が2位と対戦し、その勝者が1位と決勝戦を行う)で決定することになったのです。
 この制度は、当時名人戦を主催していた毎日新聞が、自社の棋戦においてスターとなった升田をなんとしても名人に挑戦させたいという思いで導入させたと伝えられていますが、結果的にこの年升田順位戦A級で12勝2敗という圧倒的な成績を残して優勝しており、毎日新聞の配慮は無用であったことになります。
 ところが、升田を優遇しようとしたこの制度で逆に優遇された棋士がいます。それが大山でした。大山はこの年はB級に在籍しており、本来は名人への挑戦権を獲得できる位置にいませんでした。ところが、上述のように「持ち点」制度が導入された結果、B級で11勝1敗という好成績を挙げた大山総得点でA級4位の棋士を上回り、挑戦者決定トーナメントに進出することができたのです。結果的に、順位戦制度が発足してから現在に至るまで、B級在籍の棋士が名人への挑戦権を獲得したのは大山ただ一人です(現在では制度的に不可能なので、この制度が大きく変わらない限り今後も出現することはあり得ません)
第2期順位戦・将棋の神様に愛された大山康晴七段|将棋棋士の食事とおやつ出張所

 

 こうして開催された挑戦者決定トーナメント。初戦ではB級1位の大山がA級3位の花田長太郎八段と対戦する予定でしたが、この時点で花田八段は病気療養中(トーナメント期間中に死去)であったため大山の不戦勝となり、大山は続く大野源一八段(A級2位 大山・升田と同じく木見八段門下の先輩棋士にも2勝1敗で勝利して遂に升田(A級1位)との勝戦に進出しました。

 こうして迎えた勝戦、舞台は高野山と決定しました。ところが、大山を迎え撃つ形になった升田は、どうもこの対局に対してあまり良い状態で臨むことはできなかったようです。「はんどろやノート」という個人ブログには、「名人に香車を引いた男 升田幸三自伝中央公論新社 2003)」をもとにしたと思われる次のような記述があります。

 升田A級でも突っ走り、12勝2敗で2位以下を引き離して優勝A級では前名人の木村も下した。升田とすれば予定通りのことである。さあそれでは次は名人戦、といきたいところだがそうはいかなかったのだ。
 どういうわけか制度がこの年のみ変更され、A級の上位3名とB級の優勝者とでもう一度この4名で挑戦権を争う、ということになっていた。現在でいえばプロ野球プレーオフ制度のようなものである。「こんなの理不尽だろ!」と升田は怒ったが、どうにもならない。
 結果この中で升田幸三と、B級の優勝者である大山康晴が勝ち残り、この二人があらためて三番勝負を行って名人挑戦権を争うことになったのである。

 この三番勝負が「高野山の決戦」である。それは1948年2月下旬に始まった。

 寒さの苦手な升田は、主催者毎日新聞社に、「せめて暖かい場所での対局を」と希望していた。ところが結局、対局場は、雪の舞う高地、高野山と決まった。高野山和歌山県なんですね。僕は奈良だと思っていました。) しかも升田の言い分によると、対局通知が届いたのは対局の前日で、しかも対局場までへの案内人も用意せず「自分でなんとかせよ」という。それでもなんとか、升田は急遽案内してくれる人を探し出して、雪深い山を歩いて登り、対局場高野山金剛峰寺にたどり着いた。

 そうしたモヤモヤした気持ちの中、対局は始まり、升田幸三は第一局を敗れたのである。

高野山の決戦は「横歩取り」だった - はんどろやノート

 上述のように、この年の順位戦持ち点制度による変則トーナメント方式になったのは、主催する新聞社が「圧倒的な実力を有する升田になんとしてでも名人位挑戦者になって欲しい」と考えた上での制度変更であったとされるのですが、結果的に順位戦をトップで終えた升田にとってはまさに「余計なお世話」になってしまったわけです。
 また、升田は第二次大戦中に南方に出征したことにより内臓を痛めており、体力に不安があったことからできるだけ暖かい場所での対局を希望していたとされますが、その意に反して極寒の高野山が舞台となったこともまた升田にとっておおいに不利に働いたと言われています。
 こうしたことから、当初のいきさつはともかくとして、この挑戦者決定トーナメント開催時点では主催者である毎日新聞社があからさまに升田よりも大山を優遇するようになっていたのではないかと考える人が多いようです。

 

 こうした状況のもとで行われた三番勝負第一局は137手で大山の勝ちとなりました。
 しかし、戦前の予想では、同じ木見門下の先輩である升田の実力が大山を上回っているという見方が大半で、これは実際に対局していた両者も同じ考えであったようです。YAHOO!ニュースに掲載されている将棋ライター・松本博文氏の「【将棋クロニクル】1948年「高野山の決戦」升田幸三八段、錯覚の大頓死! 大山康晴七段、劇的勝利」という記事では、両者の自伝をもとに次のように記されています。

 高野山の決戦の時点では、技量の上では升田大山に優っていた。それがこれまでの一般的な見方で、対局者自身もその旨を述べています。

 

(前略)この頃は私はまだ大山君には絶対の自信を持っていた。めきめき力をつけて好成績をあげている大山君ではあったが、まだまだ私の敵ではない、と見ていた。それは、この当時の二人の将棋を比べて見ればハッキリとおわかりになるだろう。私が大山君に負ける材料などどこにも見当たらないはずである。
升田幸三『升田将棋選集』第2巻24p)

 

大野源一八段との三番勝負は)結果は私が二対一で勝ち、いよいよ升田さんと戦う羽目になったが、とても勝てるとは考えても見なかったのである。だから「負かしてやろう」などの気持ちもあまり強くは持っていなかった。
大山康晴『勝負五十年』132p)

【将棋クロニクル】1948年「高野山の決戦」升田幸三八段、錯覚の大頓死! 大山康晴七段、劇的勝利(松本博文) - 個人 - Yahoo!ニュース

 こうした実力差を反映してか、続く第二局では升田が141手で快勝し、両者の決着は最終の第三局へと持ち越されることになりました。決戦の会場は冒頭に画像を掲載している別格本山・普門院です。
 ちなみに上述の松本博文氏のTwitterによると、高野山の決戦にあたり宿舎となっていた普門院で升田を出迎えたのが、毎日新聞学芸部次長であった井上靖だったとのことです。井上は当時将棋には全く興味がなかったため対局中は待合室で「闘牛」という小説を執筆していたそうで、この作品が後に第22回芥川賞を受賞したことをきっかけに作家(後に日本ペンクラブ会長、文化功労者文化勲章受章)として世に出ていくこととなります。
mtmt on Twitter: "井上靖と高野山の決戦。" / Twitter

 

 こうして始まった勝戦第三局、先手の升田は「雁木・横歩取り」という戦法で大山に襲いかかります。一見先手有利に思えますが、上述の「高野山の決戦は「横歩取り」だった」というWebサイトによればこれは大山横歩取りに誘導したものとも考えられ、一概にどちらが有利であったかは判断できない状況であったようです。
 そして迎えた終盤、升田は局面が自分に大きく有利に傾いたと確信しました。
 それでも大山は怒涛の攻め手を繰り出して升田の王を追い込みます。最後に飛車が升田陣に成り込んで龍となり、升田の王を側面から狙ったのですが、これに対して升田が王の横に桂馬を打てば大山の攻めもこれまで、万事休すかと思われたそのとき、なんと升田は桂馬を打たず王を上部に逃したのです。この瞬間、升田の王に詰みが発生して一気に勝負が決してしまいました。前述のYAHOO!ニュース記事では、この時の様子を次のように記しています。

 持ち時間は各7時間。終盤は深夜の戦いとなりました。ほぼ互角のまま長い押し引きが続いた果てに、まずは升田が勝勢を築きます。しかし大山の寄せに対応を誤って逆転。さらに大山もまた明快な決め手を逃し、いよいよ升田の勝ちになったかと思いました。
 しかし最後、升田は龍の王手に対応を誤ります。桂を打って合駒をしておけばほぼそれまでだったところ、升田は玉を上に逃げて、劇的な大頓死をくらいます。

 

 積み重なった疲労が、私の思考力を奪い、まだ一時間近くも残しながら、ノータイムで敗着を指してしまった。終局は午前2時30分。観戦しとった人の話だと、じっと盤上を見つめとった私は、
ああ、これまで。錯覚いけない、よく見るよろし
 不意におどけた顔でこういい、そのあと、急に顔色が蒼白になったという。
升田幸三『名人に香車を引いた男』)

【将棋クロニクル】1948年「高野山の決戦」升田幸三八段、錯覚の大頓死! 大山康晴七段、劇的勝利(松本博文) - 個人 - Yahoo!ニュース

 ちなみに、このときの盤面については、youtubeの「石田九段一門将棋チャネル」というサイトで石田和雄九段が詳細な解説をされていますので、将棋がお好きな方はこちらを参照されるとよりよく理解できると思います。

www.youtube.com

 

 さて、このとき升田が発したとされる「錯覚いけない、よく見るよろし」という言葉は、将棋界で最も有名な言葉のひとつと言えるくらい良く知られた言葉となりました。勝負を優勢に進めながら、最終盤で勘違いや見落としをして一気に大逆転負けを喫することを将棋の世界では「頓死(とんし)」「一手ばったり」などと言いますが、こうした対局があるたびに必ずといって良いほど「錯覚いけない、よく見るよろし」という言葉が交わされるのです。
 厳密にいえばこの言葉は升田のオリジナルではなく、戦後の混乱期に闇市などで怪しい商売をしていた露天商らが「おかしな商品を騙して売りつけられた」と怒る客に対して、「騙された方が悪い」というニュアンスをこめて「錯覚いけない、よく見るよろし(当時このような商売をしていた人物に朝鮮半島や中国大陸の出身者が多かったことから、外国語なまりの日本語との印象も含まれている)」と揶揄する言葉を升田が真似たものと言われます。また、上記のYAHOO!ニュース記事にあるように、そもそも両対局者はこの言葉を覚えていないとされており、もしかしたら記者の勘違いか、あるいは創作ではなかったか、という説も出ているとのことです。


 この勝負に勝った大山は勢いに乗って塚田名人との七番勝負に臨みましたが、このときには残念ながら2勝4敗(1千日手)で敗退し、タイトル獲得には至りませんでした。しかし、その後上述のように27歳で初タイトル「九段」を獲得すると、昭和27年(1952)には木村名人を破って当時の史上最年少名人となり、以後69歳で現役のまま逝去するまで将棋界の圧倒的王者として君臨し続けました。

 

 こうして将棋界のトップに立った大山に人生最大の屈辱を与えたのはやはり升田でした。
 昭和31年(1956)、第5期王将戦七番勝負升田王将のタイトルを持つ大山に挑戦することになりました。当時の王将戦には「三番手直りの指し込み制」というルールがあり、七番勝負の中で3勝差がつくとその時点で勝負が決まり、次の一局は勝者が香落ちで敗者と対戦することが義務付けられていた※3のです。このとき大山は名人のタイトルも保持していたため、まさに「名人に香を引いて勝つ」チャンスが生まれたのです。
※3 「指し込み」とは、番勝負においてそれまでの勝敗に応じて対戦者に一定のハンデを与えた上で対局を行うことをいう。現在の王将戦の規則では「指し込み四番手直りとし、第1局から4連勝して指し込んだ場合も当分香落ちは指さずに終了する」とされており、先に4勝した方が勝利となり、4勝0敗となった場合でも香落ち戦は行わずに対局は終了となる。しかし、香落ち戦は行わないものの、「指し込み」の状態が発生したことは記録に残される。令和4年(2022)10月現在、指し込み四番手直り制度導入(1965)以降に「指し込み」を記録した棋士は羽生九段(対佐藤康光、対森内俊之)、藤井五冠(対渡辺明)の二人だけである。王将戦#過去の制度 - Wikipedia


 その模様について、BS-TBSで2014年5月2日に放送された「THE 歴史列伝 #04 伝説の棋士 名人に香車を引いて勝った男 升田幸三」では次のように紹介しています。

名人に香車を引いて勝った伝説の大一番
 休養中(筆者注:升田は高野山の決戦の後、体調を崩して約1年間休養した)、打倒大山の一念を燃やした升田は、翌年、大山名人相手に王将のタイトルをかけた大一番に挑んだ。当時には現在のルールにはない厳しい制度があり、 3勝差を付ければタイトル確定し、その次の対局では勝者は香車を落として戦う。圧倒的な強さを世間に周知することができた。一方負ければ、耐えがたい屈辱を味わうことになる。升田はこの日のために研究していた新手で第一局をものにし、第二局では途中体調悪化で倒れながらも執念で勝利をもぎとり、第三局まで3連勝。怒濤の復活を成し遂げた。そして翌年1月、第五期王将戦七番勝負第四局、ついに名人香車を引いて戦うことになった。升田高野山での屈辱を闘志とすり替え、深く手を読むエネルギーに変えるよう心がけた。そして79分の長考から放った一手が、勝利を確定した。将棋史400年唯一の大記録を達成した瞬間だった。
THE 歴史列伝〜そして傑作が生まれた〜|BS-TBS

 当時の王将戦のルールでは、この後に「平手駒落ちなし)」「香落ち」「平手」とさらに3局の対局を行い、必ず第七局まで対戦を行うこととなっていましたが、升田は第五局(平手)にも勝利して大山から5連勝を挙げた後、第六局、第七局については升田の体調不良によりやむを得ず対局中止ということになってしまいました。
第5期王将戦

 これはあくまでも私の憶測ですが、この対局中止については確かに升田の体調不良という理由もあったのでしょうが、既に大山との実力差が明らかになってしまった以上、更に対局を重ねることは大山を辱めることになってしまうとの升田の配慮もあったのではないでしょうか。そう考えれば、先に「不可解な理由」と書いた第1期王将戦木村名人との香落ち対局を升田が拒否したこと(「陣屋事件」と呼ばれる)についても、升田が木村名人の面子を保つためにあえて自分が悪役になったのではないか、と見ることもできるように思います。
陣屋事件 - Wikipedia

 

 このように、「高野山の決戦」は単なる将棋のいち対局にとどまらず、その背後に、将棋界に燦然と輝く二人のレジェンドによる大いなる人間ドラマが包含された「伝説」となったのです。


 これ以後、高野山では平成21年(2009)に第67期名人戦七番勝負第4局「羽生善治名人 対 郷田真隆九段」、平成27年(2015)に第28期竜王戦七番勝負第3局「糸谷哲郎竜王 対 渡辺明棋王」という2度のタイトル戦が開催されています。高野山での対局といえば、どの棋士も「高野山の決戦」が念頭に浮かぶようで、竜王戦中継サイトのブログによれば、対戦前日に開催された夕食会では糸谷竜王渡辺棋王ともにこの決戦についてコメントをしていたそうです。

糸谷哲郎竜王
(略)
 高野山は、升田先生大山先生の間で指された「高野山の決戦」や、羽生先生郷田先生名人戦など、大勝負が行われた場所でもあり、そのような場所で対局できることを嬉しく思うとともに、負けないような棋譜を残せるよう頑張りたいと思います。
(略)

 

渡辺明棋王
(略)
 高野山は将棋界にとてもゆかりのある地で、約70年前に、「高野山の決戦」が行われた場所でもあります。将棋の内容も有名な熱戦で、将棋ファンなら一度は目にしたことがあるのではないかと思います。そのような場所で今回竜王戦の対局者として指せることは、棋士冥利に尽きますが、升田先生が残された名セリフ(「錯覚いけないよく見るよろし」)は、できれば言わないですむように気をつけたいと思います

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 実は和歌山県からは比較的多くのプロ棋士が誕生しており、現在は4人が日本将棋連盟所属の棋士となっています。中でも大橋貴洸六段は藤井聡太五冠(くしくもプロデビューは大橋六段と同期です)との対戦で4勝2敗と勝ち越しており、しかも直近の対戦4局で4連勝していることから「藤井キラー」として大きく注目されています(2022年10月現在、藤井五冠と2回以上対戦して勝ち越している棋士は大橋六段と深浦康市九段(3勝1敗)のみ)。また、「勝負服」として独特なスーツで対局に挑むことでも知られており、人気と実力を兼ね備えた次代のスターとして期待されているところです。(くしくも2021年4月発表の「第48回将棋大賞」において、大橋六段が考案した「耀龍四間飛車(ようりゅう しけんびしゃ)」という戦法が、新手・新定石を数多く編み出した升田幸三の功績を記念して設けられた「升田幸三賞」を受賞しました。 耀龍四間飛車 長すぎたタイトルと大橋先生の先見の明|将棋情報局 

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 望むらくは、「現代の絶対王者」として君臨する藤井聡太と、「藤井キラー」の異名を持つ同期生・大橋貴洸による、名人戦七番勝負の決着局としての「令和の高野山の決戦」が見たいところであります。

大橋貴洸六段 

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宮本広志五段 

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牧野光則六段 

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神崎健二八段

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