生石高原の麓から

和歌山の歴史・文化・伝承などを気ままに書き連ねています

実業家、政治家・松山常次郎と日本画家・平山郁夫(九度山町)

 「和歌山あれやこれや」のカテゴリーでは、和歌山県内各地に伝わる歴史や伝承などを気ままに紹介していきます。

 

 前回は九度山町にある「大石順教尼記念館」をご紹介しましたが、同じまちなかにもう一つの記念館があります。それが、「松山常次郎記念館」です。
 松山常次郎(まつやま つねじろう 1884 - 1961)九度山町の出身で、朝鮮半島の開拓事業で大成功を収めた後、国会議員となって国の要職を歴任しました。また、常次郎の長女・美知子が日本を代表する画家・平山郁夫(ひらやま いくお 1930 - 2009)と結婚したことから、平山画伯とも深い関係にあります。

松山常次郎記念館

 松山常次郎は、明治17年1884年)、和歌山県伊都郡九度山(現在の九度山町に生まれました。旧制第三高等学校を経て東京帝国大学を卒業し、アメリカへ渡った後、朝鮮半島の開拓事業に携わって大成功を収めます。その後は衆議院議員に転身して外務参与官、海軍政務次官などの要職を歴任しました。阪上義和著「紀の国百年人物誌(紀の国文化社 1966 非売品)」では、常次郎の経歴について次のように紹介されています。

松山常次郎
 明治17年(1884)3月、伊都郡九度山(現在九度山町常治の長男として生まれた。松山家この地方の地士として、隠然たる勢力をもった家柄である。
 奈良県五条中学校から第三高等学校にまなび、東京帝国大学土木工学科を卒業、明治41年渡米した。東大工学部の教授をしていたワデルの経営するワデル工務所(ミズリー州キアンサス市)に入り、水利、橋梁などの土木工学を専攻して43年5月に帰朝、翌年千葉鉄道連隊に入営した。除隊後は東京土木技師主任となったが、大正4年(1915)に朝鮮へ渡り、新潟県出身の川上佐太郎の経営する川佐農場技師長に迎えられた。この牧場は二千ヘクタールの大干拓を進める大企業であったが、常次郎は怪腕を縦横にふるい、成功裡に事業を完遂したのである。続いて七千ヘクタールにおよぶ灌漑工事大正水利組合の事業として完成し、ますます信望をあつめた。
 大正7年竜山(筆者注:現在のソウル市中心部にある龍山地区のことと思われる)株式会社黄海を資本金百万円で創立し、自ら社長となり、各方面から委託をうけて開墾、干拓、水利などの土木事業を全鮮で推進した。のち黄海京城府商工会頭渡辺定一郎にゆずり、朝鮮土地改良株式会社専務取締役となったが、更に朝鮮開拓社長黄海道沿海水利組合長京畿道水利組合長第二咸平水利組合長などに推され、また当時東洋で最大の事業と称された仁川潮流電気事業を完成するなど、朝鮮半島の開発に貢献し、全鮮で常次郎の名を知らぬ者がない程であった
 一方では政治家としても活躍し、大正9年兵庫県から初めて衆議院議員に当選、その後は本県から立候補して大正13年昭和5年、同7年、同11年、同12年、同17年と前後7回国会に議席をもち、外務参与官海軍次官などに就任した。彼がもっとも力を入れたのは廃娼問題普通選挙婦人参政権などで、きわめて進歩的な政治家であった。然し終戦後は海軍次官の経歴がたたって公職追放となり、宮城県で経営していた四百ヘクタールの農場も農地解放に先立って大部分を小作人に譲り、一部の土地で農園を経営したり、随筆などを書いて過した。
 昭和36年(1961)6月、77歳で死去。

松山常次郎(同書より)

 

 また、長女・美知子の尽力により常次郎の死後に出版された「雨の森の人々(松山常次郎著 松籟社 1987)」には常次郎の経歴が年表形式で掲載されており、次のように記されています。

明治17年 3月22日 父松山常治、母さわの家庭に長男として誕生、姉きょう (花岡)、弟敬三、妹きぬ(小沢)の家族あり。
24  九度山尋常高等小学校入学、31年同校高等2学年終了。
31  奈良県立五条中学校2学年に編入学、35年卒業。
35  京都第三高等学校理科へ入学、38年卒業。
38  東京帝国大学土木工学科入学、41年卒業。
41  渡米 ミズリー州カンサス市「ワデル・ハーリントン工務所」 へ入所  「橋梁設計及監督の研究」に従事、43年帰国。
45  野口己之助妻ちえ) 次女 於静と結婚。
大正 4年 産米増殖の目標のもとに渡鮮。川佐農場の技師長を振出しに開墾干拓事業に従事す。
7  開墾会社 「黄海」 を創立、次いで「南海拓殖」「鮮満開拓」等の会社を設立。通計24,000町歩に亘る水田を造成す。 (朝鮮に於て個人としては最も広く開拓した者といわれた。)
9  兵庫県・城崎地区 (第5区) より衆議院議員選挙に立候補し、当選。
13  郷里和歌山県より同選挙に立候補し、当選。自来21年追放(筆者注:いわゆる「公職追放」のこと。昭和21年(1946)、連合国最高司令官総司令部GHQ)の命により、戦争犯罪人、陸海軍の職業軍人らは「公職に適せざる者」として政府や企業の要職に就くことを禁じられた。)にかかる迄、郷里より選出さる。
15  宮城県・米山村に於て原野 「短台谷地」の開墾に着手、1,200町歩の水田を造成。日高見農場(筆者注:「日高見(ひたかみ)」は古代、大和から東方の地域を美化して呼んだ名称で、「北上川(きたかみがわ)」の語源とも言われる)を設立経営したるも 終戦後、 国策による農地開放により土地を手離す。
昭和11年 広田内閣・外務参与官就任。
15  米内内閣・海軍政務次官に就任。
16  キリスト教平和使節を組織し渡米 (一行8名) 日米開戦防止に努力す。時に野村吉三郎氏 (海軍大将)は駐米大使であった。
21  追放により政界より引退。当選7回、 約24年間の議員生活に終止符をうつ。家庭には、 (戦病死) の3男と、美知子昭子の2女あり。
36  6月15日、召天。77才。特旨をもつて正四位、勲二等 (2級特進) を贈らる。

 

 上記年表に登場する「短台谷地(たんだい やち)」は、現在の宮城県登米市米山町周辺の地形を指す言葉です。「谷地(やち)」とは、関東地方で「低湿地」を意味する言葉で、その名のとおりかつてこの周辺は低湿地が広がり、たびたび洪水に見舞われる耕作不適地でした。
 この土地を開墾し、耕作地へと変貌させようと動きだしたのが常次郎でした。あまりに困難な事業のため一時は資金繰りに行き詰まりますが、貴族院議員・高鳥順作の資金提供を受けて事業は継続され、ついに昭和11年(1936)事業完成を迎えることができました。
 こうした経緯について、加藤徹氏は「北上川水系旧迫川地域における圃場整備事業と地域農業の展開(「水利科学 27巻2号」一般社団法人日本治山治水協会 1983)」において次のように記しています。

 ここで,明治末期から戦前にかけて,迫川(筆者注:はさまがわ 宮城県栗原市及び登米市を流れる北上川の支流)流域の広大な遊水地帯において逐次展開された干拓事業のなかから代表的な事例として,かつ本圃場整備事業地区の一部である米山短台地区をとりあげ,その事業概要を『短台開墾史』によって眺めてみよう。
 米山短台地区は,大正12年11月8日 940haを9万2,590円で米山村宮内省より御料地を不要存地払下げ(筆者注:この時期、国有地を開拓のために自治体や民間人に譲渡することがしばしば行われた)を受け,大正15年1月26日東京府松山常次郎氏に売却し,松山氏は個人有地と合わせて1,509haの事業地の測量および設計に着手,翌昭和2年松山,星島,野田,渡辺の4氏が発起人となって短台耕地整理組合の設立願書を提出し,同年12月10日に認可された。
 本地区は登米郡米山村中津山,吉田村桜岡(いずれも現・米山町,豊里村赤生津(現・豊里町,遠田郡箆岳村小里(現・涌谷町)の2郡4ヵ村にまたがる地域で,標高K.P.(筆者注:北上川基準水面)3.0~5.5mのおおむね平坦な荒蕪地(筆者注:こうぶち 荒れて雑草の茂った土地、未開墾地)であった。
 本事業は北上川改修工事2ヵ年の繰延等に際会し,支障を蒙ることも少なくなかったが,昭和4年8月12日に工事着手のはこびとなった。
 しかし,松山氏はまもなく資金に貧窮するようになった。これは次の理由による。
 開墾しようとしている短台谷地は,元来遊水地として利用されてきた原野であり,たびたびの洪水を受けていた。このため,このような危険な地帯に出資するものがいなかった。また当時は不況であったため政府は財政の緊縮を断行していた。したがって,銀行または個人に起債を求めることは不可能となり,松山氏の資金繰りは行きづまった
 ところがこのとき,貴族院議員であった新潟県高鳥順作氏を連帯責任という形で同氏の出資を受けることができるようになり,米山村,松山氏,高鳥氏との三者間で新たな開墾協定が成立し,事業の継続が可能となった。
 工事は高鳥氏の政治的手腕と北陸一という財力を背景に昭和5年10月より順調に進み,また昭和7年より新迫川開削事業が着手され,さらに開墾に拍車をかけ,昭和11年8月3日ついにこの大事業を完成せしめた。
(以下略)
水利科学/27 巻 (1983-1984) 2号

 

 現在、宮城県登米市は農業産出額300億円以上を誇る東北を代表する農産物供給地帯となっていますが、この基盤を築いた人物こそが松山常次郎だったのです。
登米市/登米市の農業

 こうした常次郎の功績は現在も語り継がれており、Youtubeで公開されている「登米市視聴覚ライブラリ」の「短台谷地の開墾」という動画では開墾当時の写真などとともに常次郎のことも紹介されています。

www.youtube.com

 

 

 冒頭で紹介した「松山常次郎記念館」はこうした常次郎の功績を称えるために開設された建物で、下記の個人ブログによればもともとは常次郎の生家であり、かつては「たねや」という屋号で雑貨店として使用されていたものを改装して平成19年(2007)にオープンしたということです。
松山常次郎記念館 | 癒しの和歌山

 同館の入口には次のような内容の案内板が掲示されています。

松山常次郎記念館
 この記念館は、郷土が生んだ政治家・松山常次郎氏に関する遺品や資料を展示し、九度山町の観光の拠点としての役割を担っています。
 常次郎氏の実業家としての業績、また政治家としての業績を紹介しています。
 長女美知子さんは絵画界の巨匠・平山郁夫画伯の夫人であり、「九度山町文化・観光大使」として九度山町の文化や観光、物産等の魅力について、全国の方々に紹介していただいています。
 また、この建物は、藤岡龍介建築士の手により平成15年5月に再生したものです。伝統的な木造建築物として、地域の歴史や風土・町並みに調和のとれた建物へと生まれ変わりました。ご覧のように、丹念に創り上げた当時の職人の心と技術が集積された民家として、魅力を感じさせてくれます。
Google マップ 松山常次郎記念館案内板 


 上記案内板にもあるように、常次郎の長女・美知子は我が国を代表する日本画家・平山郁夫の妻となった人物です。
 平山郁夫広島県出身の日本画家で、シルクロードをテーマにした数々の作品で知られます。その卓越した活躍は文化功労者文化勲章を授与されるなど我が国における栄誉のみにとどまらず、「アジアのノーベル賞」と呼ばれるマグサイサイ賞(フィリピン)※1レジオンドヌール勲章(フランス)※2など海外でも高く評価されました。
 平成21年(2009)、同氏の出身地・広島県を拠点とする地方紙・中国新聞では同氏の訃報にあわせて次のように氏の功績を紹介しています。
※1 マグサイサイ賞 - Wikipedia
※2 レジオンドヌール勲章 - Wikipedia

(略)
 東京芸術大学で、日本美術院理事長。仏教伝来や東西文化の交流、シルクロードをテーマに、悠久の歴史をたたえた画風で知られる、日本美術界の重鎮国連教育科学文化機関ユネスコ親善大使として世界の文化遺産保護にも尽力してきた。
 旧制修道中の生徒だった1945年、学徒動員先の広島市内で被爆九死に一生を得た。大伯父の彫金家、清水南山の勧めで、東京美術学校(現東京芸術大)に進み、前田青邨らの指導を受けて1952年に卒業。翌年、「家路」で院展に初入選して以後、入選を重ねた。被爆の後遺症に苦しみながら、1959年、玄奘三蔵をテーマに「仏教伝来」を制作。玄奘の苦難と自らの人生を重ねるように、仏教の道を取材し続け、連作を発表した。
 東京芸大の遺跡調査団として1966年にトルコを訪れたのを機に、シルクロードをテーマに制作を展開した。
 法隆寺金堂や高松塚古墳の壁画を模写するなど、仏教文化文化財の保存修復に尽くす。海外の文化財にも目を向け、敦煌(中国)高句麗壁画北朝鮮の保存など文化外交にも貢献した。文化財赤十字」活動を提唱し、仏教遺跡バーミヤンアフガニスタン)など不安定な情勢で危機にある文化遺産の保護を訴えた。
 原爆を描いた「広島生変(しょうへん)」のほか「月華厳島」「平成洛中洛外図」など、幅広い画題の作品を発表した。96年から日本美術院理事長を務め、1998年に文化勲章を受章した。東京芸大学長は1989年から2001年からの、計10年間にわたって務めた。広島県名誉県民、広島市名誉市民など。
(以下略)
平山郁夫氏が死去 文化勲章 日本画の重鎮 79歳 シルクロード主題 | 中国新聞ヒロシマ平和メディアセンター

 美知子もまた東京美術学校平山郁夫とともに学んだ画家であり、現在は山梨県北杜市にある「平山郁夫シルクロード美術館」の名誉館長を務めています。同館が令和2年(2020)10月~12月に開催した「平山美知子展」の解説では、その経歴が次のように紹介されています。

 当館名誉館長である平山美知子(1926年~)は、平山郁夫の妻であり、長年、夫を献身的に支えながら共にシルクロードを駆け巡った同士でもあります。1947年に東京美術学校(現・東京藝術大学に入学し、同級生である平山郁夫と共に日本画の研鑽を深めました。同校卒業後は東京藝術大学の副手となり、1955年に平山郁夫との結婚を機に筆を折り、夫のサポートに回ります。これにより平山の画題も明確となり、シルクロードに関する数々の作品を発表し、画家として大きく飛躍しました。こうした平山の画家としての活躍の裏には、妻の存在は欠かせず、特にシルクロードでの準備や記録の多くは美知子によるもので、その傍らでは創作も行い、日本画をはじめ版画などの多彩な芸術活動を行っていました。
平山美知子展開催! | 平山郁夫シルクロード美術館

 

 和歌山県が発行する総合情報誌「和 -nagomi- Vol.3(平成19年9月25日発行)」には仁坂吉伸和歌山県知事が平山郁夫美知子夫妻と対談した記事が掲載されていますが、これが対談の内容をある程度編集したものであるのに対して同じく県のWebサイトにある「ようこそ知事室へ」という頁にはかなり原文に近いと思われるより詳細な対談録が掲載されています。長文の対談録ですが、この中からお二人の出会い、常次郎の人となり、郁夫和歌山県に対する思い、などに関する部分を少しピックアップして引用したいと思います。

(略)
美知子夫人:戦後になってパージ公職追放になり、収入が途絶えたのに、家にはいつも居候が五人ぐらいいました。私が東京美術学校、今の芸大に入って、最後のクラス会を代々木にあった家でやったんです。それから何となく平山が家に来て夕ご飯を食べたりするようになったんです。そんなふうに皆を受け入れる家は当時もなかったですね。特に今は核家族で、とてもそんなことはやってられないですね。

(中略)

仁坂知事:奥様が書かれたご本「或る家族の軌跡」を見ますと、「平山さんはお客じゃない、家族だ」と書いてありますね。

美知子夫人:三番目の兄が戦死していたので、母が兄の代わりと平山を頼りにしてくれて、何となく結婚することになったんです。初めはそんなつもりは全然なかったんですけど。松山家というものがあったから、結婚できたと思うんです。

(中略)

仁坂知事:お父様は橋梁を勉強されたのに開拓事業もされた。これはどうしてだったんでしょうね。

美知子夫人:アメリカのカンサス州の工務所に入って、図書館に行って勉強することが多かったらしく、本を読んで日本の将来を考えたら「きっと人口が増え、食糧難になる」と、橋を作るよりまず土地改良をしないといけないと思ったらしく、朝鮮半島に渡って二万四千町歩も開墾しているんですね。 
でも民間でいくら頑張ってもダメで、政治家になって幅広く働きかけないといけないという思いで選挙に出たようです。選挙にお金がいるので土地は全部処分して、代議士の選挙に出たようです。

仁坂知事:代議士になられて立派だったと思うのは、政友会の中でいろんなことをやられていますが、廃娼運動をやられ、命を狙いに来た人が逆に心を打たれてボランティアでボディガードになったとか。

美知子夫人:戦争が激しくなり、キリスト教が弾圧されたんですね。それで牧師さんを一生懸命応援したようです。韓国で、日本人で尊敬できるのは民芸運動柳宗悦松山常次郎と言ってくれたらしいですね。

仁坂知事:正しいことは時代にかかわらずおやりになるということで、太平洋戦争の開戦前キリスト教の方々でアメリカにも行かれましたね。

美知子夫人:何とか戦争を阻止したくて、アメリカのクリスチャンに呼びかけて戦争をやめさせようと、賀川豊彦※3さんら七、八人で、うちの兄が秘書役で。でも流れは止められないんですね。とうとう戦争になってしまいました。 
父がキリスト教の牧師を助けたり、開戦阻止しようとアメリカに行ったりしたことは、アメリカも知っていらして、戦後最初にうちに(援助)物資が来たんです。アメリカに少しは通じたと思うんですね。

仁坂知事:自戒を込めて言うんですが、時代の流れに沿って旗を振るのは楽なんですね。でも大事なことを「千万人と雖(いえど)も吾往かん」と主張するのは簡単なことではない。

美知子夫人:本当に大変だと思うんです。高野山の麓に生まれ真言宗ですから、京都に行ってクリスチャンになり、親戚に反対されたようですが貫き通した人ですね。

(略)

平山画伯:和歌山県を見ますとね、まずは熊野詣で、平安朝から鎌倉時代にかけて、上皇、貴族が何回も行かれていますね。三重、奈良、和歌山とつながってます。近世になったら、徳川御三家の一つですね。吉宗も出ていますから。日本列島の中で日本を分母とすると、分子の和歌山は非常に比重が重いですね。高野山もありますしね。精神的に非常に強いと思いますね。和歌山は京都、大和と並んでも遜色のない重みがありますからね。

仁坂知事:高野、熊野は世界遺産になって、昔はそれこそ一種の極楽ですからね。先生の絵にも、高野、那智を描いていただいています。

美知子夫人:私、天野和歌山県かつらぎ町に行くと、天孫降臨はここではないかと思うほどで。だって丹生津比売(ニウツヒメ)が稲作を教えてるんでしょ※4。本当に良い土地なんじゃないかと思いますね。

仁坂知事:そういう古き良きものは大変な財産ですね。失わないようにしないといけませんね。

平山画伯:大変な財産です。熊野詣では祈りの道です。環境保護でもあるし、歴史もある。高野山もありますしね。今年三月、フランスに行きました。ルルドというところは、未だにヨーロッパ全土からぞろぞろ人が来ています。私も絵を描きに行き、これはすごいと思いましたが、高野山も祈りの道ですよね。環境保護を行いながら、自然の美しさを感心させる大変な財産が和歌山にはありますから。
(以下略)

日本を代表する画家・(故)平山郁夫画伯夫妻 | 和歌山県

シルクロードから世界遺産「高野・熊野」へ  
日本画家 平山郁夫画伯夫妻

和 -nagomi- 3号

※3 大正・昭和期のキリスト教社会運動家・社会改良家。日本における生活協同組合運動において大きな役割を果たし、日本協同組合同盟(日本生協連の前身)、日本生協連初代会長に就任した。「生協の父」とも呼ばれる。
※4 丹生都比売神社(かつらぎ町上天野) - 生石高原の麓から

 

 松山常次郎記念館では、平山画伯の絵や直筆の看板などもほぼ常時展示(他所の展示会等へ貸し出している場合あり)されていますので、こうした背景も踏まえて見学されるとより興味が増すのではないでしょうか。
松山常次郎記念館|九度山町の観光