生石高原の麓から

和歌山の歴史・文化・伝承などを気ままに書き連ねています

(番外編)熊野古道が脚光を浴びるまで

 「南紀熊野体験博の記録」のカテゴリーでは、過去の個人サイトに掲載していた記事のうち、「JAPAN EXPO 南紀熊野体験博(1999.4月~9月)」に関するものを再掲していきます。

 

 今回は「番外編」として、一旦は忘れ去られた道となっていた「熊野古道」が再び脚光を浴びるようになるまでの経緯についてご紹介したいと思います。なお、この記事は過去記事の再掲ではなく、今回新たに書き下ろしたものとなります。

わかやま観光|世界遺産 熊野・熊野古道 | 和歌山県公式観光サイト

 

 かつて「蟻の熊野詣」と呼ばれるほど多くの人々が行き交った熊野古道ですが、昭和の時代になり自動車が交通の主役になるとこの道を利用する人の数は激減し、1970年代には多くのルートが事実上忘れ去られた道となってしまっていました。

 こうした状況は全国各地で生じており、これを憂慮した国の文化庁は、歴史的に意義のあるかつての街道で、現在は街道としての機能を失った「古道」に着目し、古道沿いの文化財の一体的な保全を目指した「歴史の道」 事業を実施することとなりました。
 この事業は昭和53年(1978)度から本格的に開始され、その際に対象の古道として「奥の細道宮城県」、「 中山道(長野県)」、「熊野古道和歌山県」の3本が選定されたのです。結果的に、これが後に熊野古道世界遺産に登録される大きなきっかけとなっていくわけですが、西川亮西村幸夫窪田亜矢共著「文化庁「歴史の道」事業による地域への影響に関する研究 1970 年代~1980 年代前半の事業策定初期の動向に注目して(日本建築学会「日本建築学会計画系論文集」第80巻 第710号 2015)」では、この経緯について下記のように記しており、地元の熱意が選定に大きな影響を与えたとしています。

 これら 3 本の道が対象に選ばれた理由は、「地元の県や市町村で、先行する保存活動があった」からであり、国としての歴史の道の優先順位は、その道が有する歴史的意義やその当時の道の状況(歴史的空間の残存性)ではなく、地域におけるその道に対する熱意であった。
日本建築学会計画系論文集

 また、上記論文では熊野古道が「歴史の道」に選定されたことによる影響についても次のように記しています。

 6.1 和歌山県熊野古道における歴史の道事業の展開
(1) 事業実施に対する地域の反応と期待
 当地域における熊野古道に対する意識は、地元紙である紀伊民報が1965年に国道42号線の完成を記念して熊野地方の道路の歴史的変遷をまとめるため、地元の古老や地方史家を集めた座談会を開催したことが1つの契機となった。当時は文化財として保存しようと言った議論はなく、その歴史的価値を確認することに重きが置かれていた。その後は1968年に郷土史家である杉中浩一郎、1971年 に元四村町議会議員の西律がそれぞれ熊野古道沿いの寺社に関する調査を実施していたほか、1972年より中辺路町が県補助を用いて九十九王子の1つである滝尻王子修復や石段階段の造成、近露王子社境内内の整備や案内板の設置、観光客向けの案内小冊子の作成などに取組んでいた。また、調査や整備のみではなく、1969年に熊野那智大社宮司篠原によって「熊野古道を歩く会」が結成され、市民を中心に熊野古道に対する意識が高まっていった。
 こうした活動が熊野古道の選定に貢献したのだが、文化庁歴史の道事業構想熊野古道が選定されたことは県や関係市町村にも想定外であった。歴史の道に関する最初の報道では国の施策対象に選ばれたことが「タナボタのご指名」と表現され、その後も「文化庁がわが国を代表する「歴史の道」として「御墨付」を与えた」 あるいは「熊野古道が国の歴史の道に決まった」と報道されており、それに対する期待の大きさを伺わせると同時に、「歴史の道」が 新たな文化財の範疇として捉えられていたことも注目に値する。

(略)

(2) 事業の実施とそれによる地域への影響
 1942年の和歌山県による「和歌山県聖蹟」の調査以来、前述の通り熊野古道沿いに点在する神社に関しては1960年代後半から少しずつ調査がなされていた。しかし、道に注目した調査は実施されておらず、1978年に実施された調査事業で初めて熊野古道全体の経路と道沿いの文化財が関連づけられることとなった。これらの資源リストは本調査によって初めて熊野古道という文脈の中で位置づけられることとなった。
(略)
 熊野古道のほとんどの区間は木や枯れ葉に覆われていたが、整備事業により人々が通行できる空間へと変容した。また、いずれの町でも3年程度は道の整備に費やしており、その後付帯整備を行っていることが特徴であり、文化財としての再生に重点が置かれていたと言える。しかし、「短期間の間に慌ただしく施行され」た「小型な土木事業のような性格」と評価されたり文化財としての再生に相応しくない整備がなされたと指摘されており課題を残した。
 最初に整備の対象となった中辺路町・本宮町の観光客数を見ると歴史の道事業後それぞれ1980年と1978年に観光客数が急増した。和歌山県観光客動態調査によると、その要因として「歴史の道” 熊野古道”が全国的に注目されてきたこともあって、熊野本宮大社への参詣、ハイキング客が大幅に増加」や「熊野古道ブームによるハイキングの増加」が指摘されている。歴史の道事業開始の1978年と終了した1982年の観光客数を比較すると、中辺路町では3.3倍の伸び、本宮町では1.3倍の伸びとなった。それほどのインパク トが歴史の道事業対象となったことで齎(もたら)された。その後も観光客数は落ち込むことなく一定の水準を保ったことから、歴史の道への選定による一時的なブームによる観光客の増加ではない。
日本建築学会計画系論文集

 

 このように、当初は「歴史の道」事業に基づく文化財としての調査・整備事業から始まった熊野古道への取り組みですが、上述のようにやがてこれが観光資源としても注目されるようになり、熊野古道をアピールするためのイベントが開催されるようになります。その嚆矢となったのが、平成2年(1990)に開催された「古道ピア」でした。
 これについて、山本恭正氏は「世界遺産熊野古道」における「文化」概念の再検討 : 文化的景観「信仰の山」をめぐる理念と実践(白山人類学研究会 「白山人類学」13号 2010)」において次のように記しています。

 ところで,行政が主体となって熊野古道に対して取り組んだ最も古い時期のイベン
トとして,1990(平成2)年に和歌山・三重・奈良の三県で行われた「古道ピア」が
ある。このイベントの開催をきっかけとして,後に三県では同時期に長期間,広域にわたり,熊野古道を用いた大規模な体験型参加イベント(和歌山県南紀熊野体験博
奈良県吉野魅惑体験フェスティバル三重県紀州体験フェスタ)が催された
※ブログ主注:関係者から聞いたところによると、南紀熊野体験博の企画段階で奈良県三重県から同博を三県で共同開催してはどうかとの打診があったが、和歌山県では「もともと知事の公約であった「熊野博」「しらら博」を根幹とする企画であり、奈良・三重まで対象範囲を広げるとあまりにも焦点がぼやけてしまう」という懸念があったこと、及び当時は三重県において東紀州地域を活性化したいというかなり強い要望があったのに対して奈良県は県南部に大量の人的・金銭的資源を投入するのに躊躇していたことから「三県の対応に温度差があり、これが将来的に足かせとなる可能性がある」と考えられたこと、などから三県で協力しつつも、それぞれ独自の取り組みを行うこととなったという。

東洋大学学術情報リポジトリ

 実は、この「古道ピア」の源流には昭和63年(1988)に開催された「日本文化デザイン会議」があるのですが、これについては以前このブログでも紹介していますので今回は解説を省略しておきます。
南紀熊野体験博ニュース第2号(1998.10) - 生石高原の麓から

 さて、「古道ピア」とは「熊野古道」と「ユートピア」を組み合わせた造語で、当時和歌山県が展開していた「ふれ愛紀州路キャンペーン(分割・民営化されたばかりのJR各社と和歌山県が共同で実施した大型観光誘客事業)」の一環として実施されたイベントでした。このイベントについて、仮谷志良和歌山県知事(当時)は平成2年2月県議会での浜本収議員の質問に対して次のように答えています。

 熊野古道古道ピアと今後の方策についてでございます。
 ことしは、ふれ愛紀州路・歴史の道キャンペーンの仕上げの年ということで、全国展開のキャンペーンを古道ピアで実施しているわけでございます。
 お話ございましたように、実施について、地域の特性をどう生かすか、地域の皆さんにいかに参加していただくか、このことが私は大きな成功の要因だと思うわけでございます。古道ピアにおいて、そのように努めてまいりたいと考えております。
 また、このキャンペーンの特色は、王子社の復元、モニュメントの建設といった将来に残る観光施設やソフトの充実でございまして、観光に対する新たな取り組みの契機にしていきたいと思っております。地元においても、このキャンペーンを機にいたしまして新たな機運が盛り上がっておりますし、私も大いにそれを期待するわけでございます。
 現在、本宮町、大塔村、美山村に建設された観光情報物産センターの「紀の国新王子」における地元産品の販売が好調と承っておるわけでございます。土産品の開発などを含め、このような形で今後いかに地元の活性化のために結びつけていくかという点についても、相ともども検討し、研究を進め、一過性に終わらせることなしに進めてまいりたいと思っておる次第でございます。

平成2年2月 和歌山県議会定例会会議録 第7号(浜本 収議員の質疑及び一般質問) | 和歌山県議会

 こうして「古道ピア」は、平成2年(1990)8月から10月にかけて当時の中辺路町、本宮町、熊野川町、那智勝浦町新宮市を会場として開催されました。内容は下記の「県民の友 平成2年8月号」の記事にあるように「古道フェスティバル」、「熊野古道パビリオン(本宮町 熊野本宮大社前)」、「平安村中辺路町 高原地区・野中地区)」を中心としたものであり、ある意味で南紀熊野体験博の試行版とも呼べるようなものでした。

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和歌山県「県民の友」 平成2年(1990)8月号

「古道ピア」の2年後、熊野古道はもうひとつ大きな転機を迎えます。それが当時皇太子であった徳仁親王(なるひと しんのう 現在の天皇陛下のご訪問(行啓)でした。
 陛下は学習院大学に在学中、文学部史学科において主に中世の交通史・流通史を専攻されましたが、Wikipediaによるとそのきっかけは赤坂御用地内にある道の一部がかつての鎌倉時代の古道であったことを知ったことによるとのことです。
徳仁 - Wikipedia

 中世において熊野古道は多くの皇族が熊野詣を行った重要な道であったことから、平成4年(1992)5月、その研究を目的として徳仁親王が3日間にわたって熊野古道を実際に歩かれました。公式訪問ではなく、あくまでもご自身の研究のためのご訪問ではありましたが、一説には皇族が熊野古道を歩かれたのは1281年の亀山上皇以来711年ぶりであったとも言われています。
 紀南地方をエリアとする地方紙、紀伊民報では、徳仁親王天皇に即位された際に当時のことに関して次のような記事を掲載しています。

「皇太子時代の来県」
(2019年05月04日 16時00分 更新) 水鉄砲
  1日に即位された天皇陛下は、皇太子時代の1992年5月、ライフワークでもある歴史的な陸上交通の研究で、3日に分けて熊野古道を歩かれた。皇族の熊野御幸は1281年の亀山上皇以来711年ぶりだったという▼その頃の古道は歴史の道に指定されていたものの、全国的には無名だった。当時の広畑一夫中辺路町長は「皇太子さまをお迎えした機会に古道を全国の皆さんに知ってもらえれば」と話した▼初日は田辺市中辺路町の滝尻王子から高原までの約2・5キロ、2日目は小広峠から三越峠までの約10キロ、3日目は小雲取越の一部約3・2キロを歩かれた。登山を趣味にされる陛下は案内役から説明を聞きながら終始軽やかな足取りだった。「地図や文献では分からない実際の距離感を体験した」と話された▼常に愛用のカメラを右肩に下げ、関心のあるものを撮影されていた。2015年7月に来県された際にもカメラにまつわるエピソードがある▼水の研究のために訪れたかつらぎ町の宝来山神社で、県指定文化財の農業用水路、文覚井(もんがくゆ)を視察されていたときのこと。随行員の一人が手にしたコンパクトカメラで陛下を写し始めた。異例の出来事に驚く報道陣。その後、陛下は笑顔でそのカメラを受け取られた▼陛下がご自身のカメラを預けて写真を撮らせていたというのが真相のようだ。きさくなお人柄を知る場面として記憶に残っている。(長)
「皇太子時代の来県」:紀伊民報AGARA

 この当時、徳仁親王は32歳で、メディアでは「お妃候補」を巡る報道が過熱している状態でした。親王熊野古道を訪問された際にはどこからか「訪問先でお妃候補と会う計画がある」との情報(結果的には根も葉もない誤情報であった)が流れたらしく、通常の皇室担当記者のみならず一般紙や週刊誌、テレビなどの記者が多数同行し、一種のメデイアスクラム(集団的過熱取材)状況となっていました。このため、親王の動向は余すところなく日本全国で報道されることとなり、これにあわせて「熊野古道」の存在も全国に広く知られるようになったのです。
 上記の徳仁親王Wikipediaによれば、熊野古道ご訪問から約3か月後の平成4年(1992)8月に徳仁親王が現在の皇后陛下である小和田雅子さまと5年ぶりに再会したことによってご成婚への動きが始まった(発表は平成5年(1993)1月6日)とされていますので、徳仁親王のご訪問が翌年になっていれば、熊野古道知名度がこれほど高くなることはなかったのかもしれません。

 いずれにせよ、「古道ピア」の開催によって観光客を受け入れるための基盤となる施設やサービスの整備が進められ、皇太子の行啓によって全国的な知名度を獲得した熊野古道。その後、地方博覧会としては抜群の成功事例となった「JAPAN EXPO 世界リゾート博」の開催を経ていよいよ「南紀熊野体験博」の開催へとつながるのですが、ここでは仮谷知事から西口知事への県政のバトンタッチ、という出来事が大きなきっかけとなっています。これについては本カテゴリの最初の記事をご覧ください。
南紀熊野体験博パンフレット(1997.6) - 生石高原の麓から