「和歌山あれやこれや」のカテゴリーでは、和歌山県内各地に伝わる歴史や伝承などを気ままに紹介していきます。
7回にわたってNHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の登場人物のうち、紀州・和歌山と関わりのある人物を順次紹介しています。今回は後白河法皇と後鳥羽上皇についてです。
29歳で天皇に即位した後、二条天皇に譲位して上皇(後に法皇)となり、以後、六条・高倉・安徳・後鳥羽まで5代34年間にわたって院政を敷いて「治天の君」として朝廷に君臨した人物です。作中でも描かれたとおり、平清盛や源頼朝とも対等にわたりあい、頼朝からは「日本一の大天狗」と呼ばれたと伝えられています。
しかし、もともと後白河法皇は周囲から期待されて天皇になったわけではなく、ましてや法皇として長期間君臨するようになるとは誰も思っていませんでした。
後白河法皇は鳥羽天皇(後に上皇・法皇)の第4皇子で、天皇に即位する前は雅仁親王と呼ばれていました。
この当時、父である鳥羽上皇は雅仁親王の母である待賢門院に代わって美福門院を寵愛するようになり、崇徳天皇に譲位を迫って美福門院の子・躰仁親王を3歳で即位させて近衛天皇としました。ところが近衛天皇が17歳で夭逝したことから、その後継を巡って守仁親王(雅仁親王の子で美福門院の養子)を推す美福門院と、重仁親王(崇徳上皇の子)を推す崇徳上皇との間で対立が生じます。
結果的に美福門院側が勝利して守仁親王が皇位に就くことになったのですが、まだ年が若かったこと及びその父の雅仁がまだ親王のままであったことなどから、いったん「中継ぎ」として雅仁親王を皇位に就けて、その次に「本命」の守仁親王を天皇とするという段取りが定められました。
こうして誕生したのが後白河天皇(雅仁)であったのです。当初の段取りどおり、わずか3年後には二条天皇(守仁)に譲位しますが、上皇となった後白河は二条天皇を抑えて院政を始め、上述のとおり34年間にわたって権勢を振るいました。
このように、後白河天皇の即位にあたって関与していたのが美福門院です。
美福門院は、公卿・藤原長実の娘で、その美貌により鳥羽上皇に見初められ、その寵愛を一身に受けたとされます。鳥羽上皇は荒川荘(現在の紀の川市桃山町の一部)をその所領としていましたが、上皇崩御後は美福門院がこれを受け継ぎ、後に鳥羽上皇の菩提を弔うためとして高野山へ寄進しています。
これによって建立されたのが高野山の壇上伽藍にある六角経蔵とされ、ここには美福門院が自ら書写したとされる紺紙金泥一切経3575巻が納められました。
また、高野山不動院には美福門院の墓所があります。ここは正式には「鳥羽天皇皇后得子高野山陵(とばてんのう こうごう とくし/なりこ こうやさんの みささぎ)」といい、和歌山県内では唯一となる宮内庁管理の「陵(みささぎ 天皇・皇后・太皇太后及び皇太后の墓所)」です(竈山神社(和歌山市)にある「竈山墓(かまやまの はか)」は同じく宮内庁管理であるが、神武天皇の兄を祀るため「墓(はか)」と位置づけられており、「陵」ではない)。
美福門院が所領としていた荒川荘にも美福門院の墓とされる場所があります。伝承によれば、美福門院は鳥羽上皇の没後、荒川荘の尼岡に移り、ここに修禪尼寺を建立して日々高野山を遥拝したとされていますが、その詳細については別項「美福門院の墓」をご参照ください。
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後白河法皇はまた熊野を篤く信仰していたことでも知られ、歴代の上皇・法皇の中で最多となる34回(33回、35回との説もある)もの熊野詣を行ったとされています。そればかりか、遂には京都に熊野の神々を勧請して新熊野(いまくまの)神社まで創建しているのです。
後鳥羽上皇
高倉天皇の第四皇子。高倉天皇は後白河天皇の第七皇子であることから、後鳥羽上皇は後白河法皇の孫にあたります。
作中で描かれていたように木曽義仲が京に攻め入った際、時の安徳天皇は平家一門とともに都落ちしましたが、この際に皇位の証である三種の神器も天皇とともに持ち去られました。
京に残った後白河法皇は都に天皇が不在であってはならないとして、当時わずか4歳であった尊成(たかひら)親王を後鳥羽天皇として即位させます。その即位は、前任の安徳天皇が在位のままで事実上2人の天皇が存在することになってしまったこと、三種の神器なしに即位の儀式が執り行われたこと、など極めて異例のものでした。
三種の神器のうち、「八咫鏡(やたのかがみ)」と「八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)」は後に取り戻されますが、「天叢雲剣(あまのむらくものつるぎ)」は壇ノ浦の戦いで海中に沈んだまま遂に発見されることはなく※1、この「神剣なしで即位した天皇」という事実が後々まで後鳥羽上皇のコンプレックスとして残ったと考えられています※2。
※1 現在宮中に伝わる宝剣は、平家都落ちの前に伊勢神宮から後白河法皇に献上されていた剣であると言われている。本来の宝剣である「天叢雲剣(「草薙剣(くさなぎのつるぎ)」とも)」は熱田神宮(名古屋市)の御神体として祀られているものであり、壇ノ浦で失われた宝剣はもともと天叢雲剣の形代(かたしろ 神が依り憑くために作られた複製品)として作成されたものなので、たとえそれが失われても別の形代に神が依り憑けば「同じもの」と見なすことができるという考え方があることから、この「第二の宝剣」も実質的には「失われた宝剣」と同じものであるとされる。
※2 後鳥羽上皇は、自ら刀を制作したほか「御番鍛冶」という制度を設けて諸国の名工に次々と刀を作らせた。これは、上記のコンプレックスに由来する行動であるとも言われる。
作中では和歌と蹴鞠の達人で、文化・芸術・武芸いずれの分野でも一流の才能を発揮した人物として描かれていますが、上述のとおり天皇への即位にあたっては後白河法皇の意向によるところが大きく、また神器なしに即位したという引け目もあってか、後白河法皇と同様に熊野信仰に篤かったようです。
後白河法皇は院(上皇・法皇)として34年間在位していてその間に34回の熊野詣を行っていますが、後鳥羽上皇は24年の在院期間のうちになんと28回もの熊野詣を行っており、通算回数では及ばないものの、参詣のペースという点では祖父である後白河法皇を大きく上回っています。
後鳥羽上皇の熊野御幸:熊野の説話
建仁元年(1201)に行われた後鳥羽上皇の熊野詣の際には藤原定家(新古今和歌集の選者のひとり)が同行しており、定家はこの行程に関する詳細な記録を書き残しています。これが通称「熊野御幸記(くまの ごこうき)」と呼ばれるもので、その原本は国宝に指定されています。
この記録は当時の熊野詣の様子や熊野古道沿いの風物・景観などを知る第一級の資料であり、現在熊野古道に関連して実施されている各種のイベントの大半がこの「御幸記」の記述に沿って行われていると言っても過言ではないでしょう。こうした点では、熊野古道が世界遺産に選ばれた背景には、後鳥羽上皇が大きく貢献していたと考えても良いと思われます。
藤原定家『熊野道之間愚記(後鳥羽院熊野御幸記)』(現代語訳1):熊野参詣記
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ちなみに、後鳥羽上皇を演じた尾上松也は、10歳の時に大河ドラマ「八代将軍吉宗」に出演して吉宗の幼少期を演じています。ここでも和歌山との関わりがあったのですね。
次回は曽我兄弟と安達盛長について紹介します。