生石高原の麓から

和歌山の歴史・文化・伝承などを気ままに書き連ねています

「鎌倉殿の13人」と和歌山(5) 平清盛・平維盛

 「和歌山あれやこれや」のカテゴリーでは、和歌山県内各地に伝わる歴史や伝承などを気ままに紹介していきます。

 

 7回にわたってNHK大河ドラマ鎌倉殿の13人」の登場人物のうち、紀州・和歌山と関わりのある人物を順次紹介しています。今回は平清盛平維盛についてです。

 

 

平清盛松平健
NHK大河ドラマガイド「鎌倉殿の13人 前編」NHK出版

平清盛
 我が国で初めての武家政権を確立した人物。しかし平氏独裁による専横があまりにも目に余ったため他の武士や公家、寺社などの反発を招き、清盛の死後に弱体化した平氏源氏によって滅亡へと追い詰められていきます。

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 清盛平氏政権を確立するきっかけとなったのが「平治の乱」でした。
 これは「保元の乱」での恩賞に不満を持った源義朝藤原信頼と手を組み、清盛熊野参詣で京を離れた隙に兵を挙げて後白河法皇を幽閉し、一気に政権を掌握しようとしたものです。愚管抄によれば清盛がこの乱の発生を知ったのは田辺付近に居た時であるとされますが、この時、湯浅荘を拠点とする豪族・湯浅宗重が37騎の兵を引き連れて現れてすぐに帰京するよう進言し、熊野別当湛快も鎧や弓矢を提供してこれを支援しました。
 清盛がこれほど早く帰京することを想定していなかった義朝らはこれに驚き、乱は一気に鎮圧されてしまいました。これにより源氏の勢力は一気に衰退し、朝廷における平氏の影響力が非常に大きくなったことから、ここに平氏による実質的な武家政権が確立されることとなったのです。
 平治の乱での湯浅宗重らの行動については別項「夜泣き松」で詳述していますので、こちらもご参照ください。

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 このように、清盛が政権を握ることができたのは、平治の乱の際の湯浅宗重の働きによるものが大変大きかったとされ、これ以後、湯浅氏は中央政権の中で大きな力を持っていくことになります。湯浅氏平氏滅亡後も鎌倉幕府の有力御家人として勢力を維持しますが、南北朝時代になると家中で南朝方と北朝方にわかれて対立し、これをきっかけとして衰退してしまいました。

 

 

平維盛濱正悟
NHK大河ドラマガイド「鎌倉殿の13人 前編」NHK出版

平維盛
 平重盛平清盛の嫡男)の嫡男、つまり平清盛の「嫡孫」にあたる人物。
 美貌の貴公子として知られていましたが、大将として参戦した富士川の戦いでは水鳥の羽音に驚いて戦わずに逃げ帰ったとされ、また倶利伽羅峠の戦いでは木曽義仲に大敗を喫して平氏都落ちするきっかけを作るなど、軍事面では芳しい成果を挙げることができませんでした。

 

 平家物語によれば、平氏一の谷の戦いに敗れて屋島に逃れた際、維盛は陣を抜け出して紀伊へ行き、高野山で剃髪して出家します。ここで維盛は旧知の滝口入道(斎藤時頼)と出会うのですが、滝口入道には横笛という女性との悲恋の物語があり、この物語が「平家物語 巻第十 横笛」として独立した項に描かれています。

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 平家物語によれば、維盛はこの後、熊野三山への参詣を経て、船で那智の沖に漕ぎだして入水したと記されているのですが、これには異説も多く、維盛が逃げ延びて隠れ住んだという伝承が全国各地に伝えられています。
 和歌山県では、有田川町維盛の末裔と伝えられる家系があり、また田辺市龍神村日高川町には維盛、またはその係累の者であろう平家の落人に関する伝承が伝えられています。別項「清井之上の話」においてこうした伝承をまとめていますので、こちらもご覧ください。

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 次回は後白河法王後鳥羽上皇を紹介します。