生石高原の麓から

和歌山の歴史・文化・伝承などを気ままに書き連ねています

木曜島最後の真珠貝ダイバー・藤井富太郎(オーストラリア木曜島・串本町・古座川町)

 「和歌山あれやこれや」のカテゴリーでは、和歌山県内各地に伝わる歴史や伝承などを気ままに紹介していきます。

 

 前回はオーストラリア・木曜島で「キング」の異名をとった佐藤虎次郎(さとう とらじろう)について紹介しましたが、今回は木曜島からほとんどの日本人が退去した後も同島で生活を続け、「最後の真珠貝ダイバー」と呼ばれた藤井富太郎(ふじい とみたろう)について紹介します。


 
 前項で紹介した佐藤虎次郎木曜島への出稼移民黎明期にあたる明治時代中期~後期に活躍した人物であるのに対して、藤井富太郎は大正末期に同島に渡り、太平洋戦争の開戦によって同島から多くの日本人が退去した後もこの地にとどまり続けて日豪の架け橋となった人物です。

 

 和歌山県が平成元年(1989)に発行した「和歌山県史 人物」では、同氏について次のように紹介しています。

藤井富太郎 ふじい とみたろう 1907~1986
オーストラリア移民
串本町出身有田尋常小学校卒業。
大正14年(1925)真珠貝採取漁夫としてオーストラリア・木曜島渡航し、ダイバーとなる。その後、潜水技術の改良と新漁場の発見により、チャーリー・シンクレア社から2度にわたり賞状を授与された。
太平洋戦争によって日本人が引き揚げた後も日本人墓地の維持管理を続け、戦後は現地人に潜水技術を指導した。
昭和35年(1960)から木曜島周辺の島で日豪合弁の真珠養殖業※1が開始されると、自宅を日本人の憩いの場として開放した。
53年、半世紀にわたり日本人の地位擁護と日豪友好親善に尽力した功績により、勲六等瑞宝章を授与された。
昭和61年12月11日没。
木曜島に胸像がある。
(久原脩司「アラフラ海へ出漁した日本漁民」)
和歌山県史 人物 - 国立国会図書館デジタルコレクション
国立国会図書館デジタルコレクションの閲覧には無料の利用者登録が必要。以下同様。)

※1 右記のWebサイトによると、オーストラリアで日本企業が真珠養殖事業に乗り出したのは昭和31年(1956)の日宝真珠(株)が最初とされ、昭和35年(1960)以降にはトラリアで真珠養殖事業を開始したのを皮切りに、真珠貝採取(株)、覺田真珠(株)、ユニオン真珠(株)、大洋漁業(株)等が相次いで事業開始したとされる。また、同サイトによれば日本のバブル崩壊に伴って現地企業化が進み、日本企業はすべて撤退したとのことである。 生物資源工学社 南洋真珠養殖の歴史

 

 伊井義人青木麻衣子両氏による「オーストラリア・木曜島に渡った日本人の足跡を追う : 藤井富太郎氏の生涯から考える(「藤女子大学紀要 第Ⅱ部 第49号」藤女子大学 2012)」にはもう少し詳しく同氏の経歴が紹介されていますので、こちらも該当部分を引用します。

3.藤井富太郎氏の生涯
 藤井富太郎(以下、富太郎氏と略)は1907年に和歌山県西牟婁郡有田村で生まれた。この地域は、先に示したとおり、和歌山県の中でも多くの木曜島移住者を輩出した地である。多くの青年がそうであったように、富太郎氏も、一足先に木曜島で働いていた兄の後を追って、18歳で木曜島へ移住した。また、しばらくして、実弟寿一氏も、彼を頼り木曜島へ渡っている。この点では、他のダイバーと同様に、富太郎氏も隣接刺激、隣接勧誘から木曜島への移住を決意したと推測できる。
 富太郎氏も多くの日本人移民と同様に、最初からダイバーとして雇われていたわけではない。炊事係として船に乗り始めたが、1983年に結婚するころには、すでに「正ダイバー」として働いていた。ダイバーを経験せずして帰国した若者も少なくなかったが、彼は名ダイバーとして活躍した。しかし、第二次世界大戦の勃発とともに、富太郎氏は、仲間とともに、本土ニューサウスウェールズ州内陸部のヘイ収容所に収監された。戦後、木曜島に戻り、1961年にはオーストラリア(英国)の国籍を取得した。
 富太郎氏の転機となるのは、1976年の司馬遼太郎氏による小説『木曜島の夜会』の発表であろう。これにより、藤井富三郎として登場した富太郎氏の名は、最後の真珠採取ダイバーとして一躍有名となる。これ以降、雑誌や週刊誌等にも木曜島の記事が掲載され、特に彼の死後、藤井家の歴史や状況がたびたび扱われることとなる。
 二年後の1978年には、受勲のため、1925年に木曜島に渡ってから、初めての帰国を果たす。この帰国は、故郷の串本にも錦を飾った。しかし、木曜島に戻った翌年には、妻ジェセフィンさんが亡くなり、その時期から日本人合祀慰霊塔建設に尽力した。富太郎氏は、1986年に79歳で、木曜島で亡くなった。現在、次女であるチヨミさんの自宅の敷地内には、富太郎氏の銅像が設置されているが、『木曜島の夜会』を手に時より訪れる日本人が、この銅像の前で足を止める姿も見られる。
藤女子大学機関リポジトリ

 

 上記引用文に登場する富太郎の銅像は、在オーストラリア日本国大使館が発行する「南半球便り その86 遥かなる木曜島」でも紹介されています。
 これは在オーストラリア日本国大使(当時)山上信吾氏が令和4年(2022)に木曜島を訪問した際に撮影されたものだそうですが、これによると山上大使富太郎のお孫さんとも対面されたとのことです。

南半球便り | 在オーストラリア日本国大使館

 木曜島では多くの人々に敬愛されていた富太郎でしたが、もともと日本国内ではそれほど知られた存在ではありませんでした。それが一転して多くの人々に知られるようになったのには、上記引用文にも登場する司馬遼太郎の「木曜島の夜会」という小説が果たした役割が非常に大きいと言われています。
 この小説は、「」が古座川に住む老人から木曜島の話を聞いたことをきっかけに同島を訪れ、そこで出会った一人の日本人老人の話からかつて多くの日本人がこの地でダイバーとして働いていた時代の物語を浮かび上がらせていく、という筋立てになっており、最初は「別冊文藝春秋 第137号(1976.9)」に掲載されて、その翌年に文藝春秋から単行本が発売されました(現在は文庫版及び電子書籍版が入手可能 文春文庫『木曜島の夜会』司馬遼太郎 | 文庫 - 文藝春秋BOOKS )。


 同書に登場する日本人の老人は「藤井富」と紹介されており、必ずしも実在の「藤井富」とは一致しないのかもしれませんが、同書に登場する「富三郎」氏について司馬遼太郎は次のように紹介しています。

 この島で、白人たちから「トミー」とよばれて、どういう理由ということなしに尊敬を受けている老熊野人がいて、それが狩野さんのいう藤井富三郎氏だった。かれは、もとダイヴァーであった。木曜島を生産的な島にしていたのはダイヴァーたちであったが、かれらの職業そのものが、島に数百の墓碑を遺したまま世間から消えてしまったこんにち、藤井老人の存在は、たしかに生きた記念碑というべきものであるかもしれず、島にいる濠州人たちも、
トミーは、昔、潜っていた
というだけで、一種、畏れを帯びた思いを持っていた。
(中略)
 藤井さんは、明治40年うまれである。
 18歳で、木曜島にきた。兄がすでにきていて、ダイヴァーになっていた。兄は、その後、帰った、というふうな話が、つづいた。が、すぐとぎれた。こんな話を人に聞かせても退屈させるだけだ、という配慮がいつも働いているようだった。
わしは、最近の日本を知っている
 話題を変えた。そういう話題のほうがいいと思ったのかもしれない。
 藤井さんは、もうやめてしまったが、何年か前まで、土地で事業所をもつ日本の真珠会社など三つほどの会社の重役をしていた。真珠会社にすれば藤井さんのこのあたりの海域についての知識や人望などを事業に借用するのは有益なことかもしれなかった。昭和45年、その社の費用で、その社の人も付き添ってくれて、日本に帰った。東京も見、新幹線にも乗り、有田にも帰った。有田だけは変っていなかった。
(中略)
 私は当時の話をするように藤井さんにせがんでみた。以下、かれが語ったところを、整理してみる。

 最初は船上でのめしたきだった。月給は10ポンドから20ポンドだった。
(中略)
 釜のことをヘルメットという。潜水服のことをデレス(dressのこと?)という。海底の深さは日本式に尋(ひろ)でいうが、ふつう現場では尋を略して六つ、七つという。浅いのは10尋から15尋。深いのは40から50尋※2。こういう深い底までは日本人でないともぐれない。35尋ぐらいになると潜水病になりやすい。潜水病ではすぐ死んだ。死ななくても、一生脚が動かなくなったりする。
(中略)
 自分は下積みが長かった。なかなかダイヴァーになれないために、契約をなんとか更新してもらった。自分で自分を奴隷にしているようなものだった。しかし途中で棒を折って日本に帰っても食ってゆけるような仕事がなかった。そういう世間の貧しさやきびしさは、19まで大阪で働いていた経験でよくわかっていた。尋常小学校は、ぜんぶは出なかった。途中で大阪に働きに行った。つらいことが多かったから、木曜島だけが辛いとは思わなかった
 30歳になって、やっとダイヴァーになれた。
 親方とダイヴァーとの関係というのは、契約です。ダイヴァーが親方から船を借りて、その船で採った貝を親方に売る、という形になっている。船の道具類はデレスもなにもみなダイヴァーの所有物で、日本に帰るときは、それを親方に売る。
(中略)

私の親方のドイツ人は、貧乏な親方で、年末になってもダイヴァーに金が払えないことが何度もあった。しかし人のいい人だったから、わしはついぞ催促がましいことをいった覚えがない
 なぜ日本人が一般に艱難辛苦してダイヴァーをめざすだけで、生命の安全な親方になろうとはしなかったのか、ということについては、藤井さんは明快な理由づけを持っていなかった。私が問うと、しばらく考えていたが、やがて、
日本人の性(しょう)やな
といった。さらに、いまの日本人は知らんけれども、あのころの日本人はそういう性やったのやろな、いや、性は癒(なお)るものではないからいまの日本人もそういう性かもしれんな、といった。親方は、なるほど陸(おか)の事務所でたばこをふかしていればよかった。しかし金の算段という苦労があった。欧州の買い手とも交渉せねばならず、買い叩かれを防がねばならず、市場の相場に目をくばらねばならず、銀行との交渉もしなければならない。どれ一つとっても、面倒なことであり、藤井さんの用語でいえば「働いている」という働きではなく、要するにいくら金が儲かっても、ああいうことはわしらに出来んし、する気もなく、つまりは面白味もあるまい、ということであった。
(以下略)
司馬遼太郎「木曜島の夜会」)

※2 「尋」は成人が両手を広げた長さを指す単位で、一般的には1尋=6尺=約1.818mとする。「10尋」は約18m、「50尋」は約90m。現在の主流であるスクーバダイビングの場合、初級のライセンスである「オープンウォーターダイバー」が潜れる最大深度が18m(約10尋)で、上級のライセンスを有している場合でも通常装備では水深56m(約30尋)が限界とされる。ダイビングで何メートルの深さまで潜れるの?コースと深さの関係 | 東京ダイビングスクールBeyond(ビヨンド)

 

 前項では、明治中期に木曜島で「キング」として権勢を誇った佐藤虎次郎が実権を失ったのはオーストラリアにおける「白豪主義」の台頭によるものであったと紹介しましたが、虎次郎木曜島を離れたのは明治34年(1901)のことであり、富太郎が同島に移住する四半世紀も前のことになりますので、富太郎がダイバーとして働いていた時代には既にこうした日本人経営者の活躍は遠い過去の物語となってしまっていたのでしょう。上記の物語では「富三郎」は日本人がダイバーに専念し、経営者への道を目指さなかったことについて「日本人の性」によるものなのであろうと応えています。
 こうした「富三郎」の見立てが正しいかどうかは別にしても、少なくとも木曜島における真珠貝採取という職業が日本人に非常に適していたということは間違いないようです。かつては他国人もこの島で真珠貝の採取に携わっていたのですが、やがて日本人がやってくると他国出身のダイバーはその働き場所を失い、遂には同島周辺のアラフラ海は日本人ダイバーの独占漁場となりました。その経緯について司馬遼太郎は同書で次のように記しており、オーストラリア国立大学シソンズ教授の著作をもとに日本人の「成功への強い衝動と高い賃金を得たいという熱望」が真珠貝ダイバーという職業に最適であったと評しています。

 英国商人が親方になって、当初、ニューギニアの原住民などをつれてきて潜らせたらしいが、失敗した。かれらは海底を好まず、それに海底は暗く、歩いていても、貝に似たような他の物との区別がつきにくく、結局は仕事にならなかった。欲望がすくないということもあった。それほど命がけで海底の貝をとり、貨幣を貰ったところで何になるかということが、原住民にあった。かれらにはまだ貨幣経済がなく、貨幣経済の普及によってできた人間のあたらしい文化性が成立していなかった。
 そのために、そのあとマライ人を雇った。マライ人はほぼ大半が自給自足経済の中にあるとはいえ、海岸地方に住む人々は中国人ヨーロッパ人がもたらした貨幣というものを数百年来知っていたから、欲得はあった。しかし命がけで貨幣を得たいと思うほどまでには欲得が達していなかったのか、この仕事をいやがったし、ダイヴァー船に乗っても、ふつうの水夫(クルー)になりたがった。まれにダイヴァーになる者がいても、技倆をみがくという情熱を持つまでには至らなかった。
(中略)
 木曜島には、日本国の鎖国が解けたばかりの明治6年に一人の英国人が日本人ひとりを連れてきて岩礁から海へ飛びこませ、白蝶貝を採らせた伝説がある。というより、神話にちかい。
(中略)
 この岩礁の日本人のこの特殊労働についての適性ぶりが英国人仲間にひろがったものか、
日本で(採取船の)乗組員を募集した最初の濠州の業者は、木曜島ミラー船長であった。1883年(明治16年)である
と、オーストラリア国立大学デイビッド.C.S.シソンズ教授が、『1871~1946年のオーストラリアの日本人※3に書いている。
(中略)
 シソンズ氏は、この特性については、人種論というような神秘がかった議論はもち出さず、人種とは何の関係もない、とする。むしろその民族の共通の性格というべく、やがて適格者として発見される日本人について、以下のようにのべている。

 

日本人を特徴づけるものは、彼等の精力と成功への強い衝動、および高い賃金を得たいという熱望であった。希望者が多いために、ダイヴァーとして選ばれた者は、もうそれだけで十分優秀であった。さらに、ダイヴァーの手当の率が、仕事のあがりにつれて高くなるということもあって、日本人ダイヴァーは、金銭への熱望のために太陽が出ているかぎり働くというほどに熱心であった。

 

この観察は、正確というほかない。
司馬遼太郎「木曜島の夜会」)
※3 「移住研究 No.10(海外移住事業団 業務資料 No.269 1974.03.25)」に掲載 TOOL-BOX:『移住研究』掲載論文一覧

 

 上記のようなシソンズ教授の観察は、司馬遼太郎紀州・古座川で出会った宮座鞍蔵吉川百次という二人の老人(元木曜島ダイバー)の話でもおおよそ正しかったであろうことが伺えます。司馬氏は二人から聞いた話を次のようにまとめています。

 中国人はどういうわけか、ああいう仕事に近づきたがらなかった。毛唐(筆者注:外国人、特に欧米人を指す言葉。差別的なニュアンスを含むため現代では使用を控えるべき言葉とされる。)も、だめ。その理由はわからないが、競争心がすくないのかもしれない。日本人異様とおもわれていたかもしれない。われわれは仲間同士の競争がはげしかった。これを欲得といえるのかどうかはわからない。誰それが一日何トンバイキャップ(袋をあげる)したときくと、それ以上水揚げせねばこけんにかかわるという競争だった宮座老人のころは、白人のダイヴァーはせいぜい日に1トン揚げれば上等だった。宮座老人がダイヴァーに昇格したころは、日に5トン揚げて「5トン・ダイヴァー」ということで大変な鼻息だったという。そのあと、日本人のあいだに「5トン・ダイヴァー」が幾人も出てきたので、宮座老人は平均、日に7トン揚げ「7トン・ダイヴァー」と呼ばれた。当時、日に7トン揚げるとほうびに金時計をくれるということになっていた。しかし、宮座老人がやがて8トンを揚げるようになってからは、そういう褒賞制がなくなってしまった。だから、褒賞がめあてというよりも記録がめあてだったように思う、と宮座老人はいう。そこへゆくと、一時代若くなった吉川百次おじの時期には、日本人8トン揚げるというのは古い記録で、たれもがその程度以上揚げた。吉川百次おじは、日に平均、11トン、12トンというふうに揚げた。ここまで記録をせりあげるためには、一日中、海底にいなければならなかった)
司馬遼太郎「木曜島の夜会」)

 このように他国人を圧倒して木曜島周辺での真珠貝採取を独占した日本人ダイバーですが、当時の貧弱な装備で深海に長時間潜ったままでの作業は著しい危険を伴うものでした。串本町が発行する「広報くしもと 2014年12月号」では同町から木曜島への墓参団の記事を掲載していますが、これによると木曜島では約700人の日本人が命を落としたと記されています。

世界一危険な職業
 白蝶貝の採取で使用された潜水服は、非常に重く活動しにくいもの(総重量が50㎏以上となるものもあった)で、それを身につけ、人によっては、水深40m~50mまで潜ることもありました。ダイバーは船の上にるテンダー(命綱を持ちダイバーを観察する人)と命綱を通じて連絡を取り合いながら作業を行いました。※4
 海中では命綱と空気管だけを頼りに作業が行われ、強靱な体力と精神力が必要とされました。
 当時、世界で最も過酷で危険な職業と言われ、重度の潜水病荒天による遭難などで多くの尊い命が犠牲となりました。
(中略)
 このような過酷な条件の中、木曜島では潜水病などの理由により、約700人の日本人が命を落とされました。このうち、162名が串本町の出身者であり、127基のお墓が日本人墓地にあることが確認されています。
広報くしもと 平成26年度|串本町

※4 この潜水方法は現代では「ヘルメット潜水」と呼ばれており、空気タンクを携行する「スクーバ」や簡易なマスクに水上からホースで空気を供給する「フーカー潜水」と区別されている。ヘルメット潜水はこの中では最も古い潜水方法であるが、現在も一部の地域で技術が継承されている。
0909 ダイビングの歴史14 ヘルメット式潜水機のすべて
「南部もぐり」で水中へ 被災地の高校生、恐怖乗り越え:朝日新聞デジタル

 

 こうした過酷な状況にも関わらず昭和初期までは多数の日本人が木曜島を生活の本拠としていたのですが、太平洋戦争の勃発とともに状況は一変します。このときのことを司馬遼太郎は次のように書いています。

 やがて日本海真珠湾を攻撃し、これに対し、もともと、外交方針の基本を英国への追随に置いていた濠州政府は、真珠湾攻撃の翌日に対日宣戦を布告した。このため、海上に浮遊するようにして暮らしていた白蝶貝採集の日本人たちも、敵国人であるということで、藻でも掻きあげられるようにして陸地に集められ、収容所に入れられ、次いで送還されることになった。隊伍をつくって収容所に連行されるとき、濠州人たちは大人も子供も石を投げてきた。
司馬遼太郎「木曜島の夜会」)

 

 これによりほとんどの日本人が日本へ送還されることになったのですが、富太郎は戦争が始まる前に現地の人と結婚していたことから、収容所を出た後に木曜島へ戻ることが許されました。このとき木曜島へ戻れたのはわずか10人程度であった※5とされます。
※5 「自由移民時代の渡航者の系譜を持つか、第2次大戦前にその地の人間と結婚していたわずか10人足らずの日本人が戦後木曜島に戻ることを許されたのであった。その中に藤井富太郎とい う和歌山県西牟婁郡串本町有田出身の人物がふくまれていた。」(松本博之・白谷勇「トレス海峡における真珠貝漁業補償-漁場図を中心に-(「奈良女子大学地理学・地域環境学研究報告 7号」奈良女子大学文学部地理学・地域環境学研究報告編集委員会 2010)」資料検索 - 奈良女子大学学術情報センター

 

 その後の富太郎の生涯について先述の伊井・青木両氏の論文では次のように紹介されています。

3)木曜島で生きる決意と日本への思い
 富太郎氏は、戦中から戦後にかけて、先述のとおり、ヘイ収容所での生活を強いられた。しかしながら、富太郎氏が収容されていた第六収容所の収容人数は503名であったが、そのうち約六割の299名が木曜島関係者であり、かつ木曜島関係者の中でも六割以上が和歌山県出身者であったため、和歌山出身者にとっては、木曜島での人間関係を、そのまま収容所に持ち込むことができたといえるかもしれない。終戦後は、一緒に収監されていた仲間たちが日本へ送還される中、妻子が豪州国籍を有している富太郎氏は、キャンプに残り、木曜島への「帰郷」を果たす。
 日本人としてひとり木曜島に戻った富太郎氏は、無数に残る日本人墓地の清掃を可能な限り継続していたようである。木曜島に唯ひとり生残った日本人移民として、使命感のようなものを日々胸に刻みつけていたのであろうか。そのように考えると、彼が自らのなかにある「日本人」を意識したのは、もしかすると戦後、ひとり島へ戻ってからのことだといえるのかもしれない。
 富太郎氏は、1978年に帰国した際には、すでに木曜島で生涯を全うすることを決意していたようである。この帰国は受勲のためのものであったため、もしかすると、この帰国こそが日本人としての自分自身を否応なく見つめ直すきっかけとなったのかもしれない。
(以下略)
藤女子大学機関リポジトリ

 こうして人生の大半を木曜島で過ごした富太郎は昭和61年(1986)にその生涯を終えますが、同島には現在も富太郎の子孫らが在住しています。「広報くしもと」の2016年7月号には、その子孫らが富太郎のふるさと・串本を訪れたという記事が掲載されています。

亡父の故郷を訪ねる
藤井富太郎氏の子孫ら
 戦前にオーストラリアの木曜島に渡り、真珠貝ダイバーとして活躍した藤井富太郎(有田出身)の子孫らが、6月9日、串本町を訪れました。
 一行は、藤井氏の生涯を描いた「最後の真珠貝ダイバー 藤井富太郎」(リンダ・マイリー著、時事通信社)の出版記念報告会へ出席したほか、藤井家のお墓や潮岬の高松寺にある慰霊碑※6を訪ね、潮岬望楼の芝にある休憩所での木曜島の展示※7を見学しました。

広報くしもと 平成28年度|串本町

※6 個人ブログ「高松寺 (和歌山県串本町) 潮岬: お寺の風景と陶芸」参照
※7 個人サイト「本州最南端の場所に眠る、白蝶貝に賭けた先人たちの物語とは!?」参照

 

 ちなみに、上記の記事に登場する「最後の真珠貝ダイバー 藤井富太郎(リンダ・マイリー著 青木麻衣子・松本博之・伊井義人訳 時事通信出版局 2016)」という書籍は、豪日交流基金を通じてオーストラリア政府の支援を受けて出版されたものだそうです。

最後の真珠貝ダイバー藤井富太郎 - 時事通信出版局

 なお、この書籍の筆者であるリンダ・マイリー氏については、Jin Nihei(仁平 宏)氏の個人ブログにおいて次のように紹介されています。

著者リンダ・マイリー(Linda Miley)
南オーストラリア州カンガルー島の就学前教育施設ディレクター、作家。小説における先住民の登場人物の扱いに関する論文で修士号を取得。オーストラリア先住民の歴史に関心を持つ。トレス海峡地域木曜島に滞在した8年間に、日本人真珠貝ダイバーの歴史に感銘を受け、藤井富太郎氏の人生を学び、彼の伝記をまとめる。
♯ オーストラリア - 木曜島|Jin Nihei(仁平 宏)

 

 司馬遼太郎の「木曜島の夜会」では、最後に富太郎(作中では富三郎)の妻が次のような言葉を語ったところで締めくくられています。
“Japanese is a Japanese”
 「結局のところ、日本人というものは、いつまでたっても、どこにいても、「日本人」であることをやめられないものなのね」というようなニュアンスでしょうか。国を長く離れていたからこそ、余計に日本人としてのアイデンティティを強く持ち続けた人物であったのかもしれません。