生石高原の麓から

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’98 F1日本グランプリ(1998.10.30~11.1)

 「モータースポーツ回顧録」のカテゴリーでは、過去の個人サイトに掲載していたモータースポーツ関連の記事を再掲していきます。

 今回の記事は1998年10月(決勝は11月1日)鈴鹿サーキットで開催された「F1日本グランプリ」の話題です。

 

 鈴鹿サーキットで開催された1998年のF1日本グランプリ。前年のこのレースはシリーズ第16戦として開催され、ミハエル・シューマッハフェラーリが完勝。後日の裁定でライバルのジャック・ビルニューブ(ウィリアムズ)が失格扱いとなったため、この時点でシューマッハがチャンピオン争いでビルニューブを1ポイント上回る結果となりました。しかし、次戦の最終戦ヨーロッパ・グランプリ(スペイン ヘレス・サーキット)では激しいトップ争いを繰り広げていたシューマッハビルニューブ接触し、シューマッハがリタイアした結果、ペースを落として3位表彰台を確保したビルニューブが初のワールドチャンピオンに輝きましたシューマッハはこの接触事故に深刻な過失があったとしてこの年のドライバーズランキングから除外されるというペナルティを受けました)
1997年ヨーロッパグランプリ - Wikipedia

 

 そして迎えた1998年シーズン。この年は開幕戦からマクラーレンメルセデスの速さが話題となりました。前年最終戦ヨーロッパGPで初優勝を飾ったミカ・ハッキネンは、マクラーレンのエースドライバーとして1998年開幕戦のオーストラリアGPを制すると、第2戦ブラジルGP、第5戦スペインGP、第6戦モナコGP、第10戦オーストリアGP、第11戦ドイツGP、第15戦ルクセンブルグGPを制してチャンピオンシップポイント90ポイントを獲得し、年間王者争いの首位で鈴鹿にやってきました。
 これに対抗するのが、前年のチャンピオンシップポイント2位(前述の経緯によりランキングからは除外)ミハエル・シューマッハフェラーリ。第3戦アルゼンチンGP、第7戦カナダGP、第8戦フランスGP、第9戦イギリスGP、第12戦ハンガリーGP、第14戦イタリアGPを制して86ポイントでハッキネンを猛追しています。
 そして迎えた最終戦日本GPシューマッハがチャンピオンを獲得するためにはなんとしても自身が優勝し、ハッキネンを3位以下に封じ込めたい、逆にハッキネンシューマッハの順位に関係なく2位に入れば初のワールドチャンピオン獲得、ということで両者の思惑が激突する決勝レースに大注目が集まったのです。

 

 この年F1に参戦した日本人ドライバーは2人。1997年にプロスト・グランプリでF1にデビューした中野信治フォンドメタル・ミナルディ・フォードからの参戦となりました。1997年にティレルチームのテストドライバーを務めていた高木虎之介は、日本人6人目のF1レギュラードライバーとしてティレル・フォードからこの年デビューしました。ティレルチームはこの年をもってB.A.R(ブリティッシュアメリカン・レーシング F1ドライバーであるジャック・ビルニューブを中心として設立されたチーム)に買収されたため、結果としてティレルの最後のドライバーの一人が高木虎之介(もう一人は高木のチームメイトのリカルド・ロセット)であったということになります。

 

 また、前年の1997年からF1に本格的に進出したブリヂストンタイヤは、前年の4チーム(アロウズプロストミナルディスチュワート)に加えてマクラーレンベネトンというトップチームにも供給を拡大。この年でグッドイヤーがF1からの撤退を表明していたため、ブリヂストンとしては「グッドイヤーに勝ち逃げをさせない」という強い思いからライバルを打ち破ってのチャンピオン獲得に意欲を見せていました。この時点でチャンピオン争いのトップを走るミカ・ハッキネンマクラーレンブリヂストンユーザー、ライバルのミハエル・シューマッハフェラーリグッドイヤーユーザーであることから、この二人の争いはそのままタイヤ戦争の勝者争いでもあったわけです。
テクノロジー&レギュレーション 1998 | 資料室 | スペシャルコンテンツ | ブリヂストンモータースポーツ

 

 このような背景を踏まえて以下の記事を御覧いただくとより一層面白いのではないかと思います。

 

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Fuji Television Japanese Grand Prix 1998
1998 F1 日本グランプリ

 

 

 今年も鈴鹿サーキットに「エフワン」がやってきました。今回は、F1世界選手権シリーズの第16戦、つまり最終戦として開催されることになりました。

 今シーズンのF1は、開幕戦のオーストラリアGPマクラーレンメルセデスを駆るミカ・ハッキネンデビッド・クルサードの2人が3位以下を全車周回遅れにしてしまうという衝撃的なスタートとなりましたが、その陰では、今年からマクラーレンチームが採用したブリヂストンタイヤの驚異的な性能が大きな役割を果たしたと言われています。

 昨年からF1への挑戦を開始したブリヂストン夕イヤは、今シーズンを前に、秘密兵器「幅広フロントタイヤ」の投入を決定しました。前輪の幅が広くなることで空気抵抗は若干大きくなるものの、今ーズンから新たに導入されたシャシーの狭小化と溝付きタイヤという規制を補って余りある優れたグリップ力をレース後半まで持続できるブリヂストンタイヤは、今年でF1からの撤退を表明しているグッドイヤーにとって大きな脅威となりました。
 この開幕戦の勢いをみたレースファンの多くは、今シーズンはマクラーレンメルセデスが圧到的な強さを誇り、夏頃には早々にチャンピオンが確定してしまうつまらない展開になるのではないかということを真剣に危惧していたのです。

 しかし、そんな状況に敢然と立ち向かったのがF1タ一ミネーター、サイボーグとも呼ばれるミハエル・シューマッハです。昨年の1年間で「シューマッハの言うとおりやれば、間違いなく勝てる」というイメージをチームメンバーに与えて、「内粉が絶えない、マシンが壊れやすい」と言われ続けてきたフェラーリチームを完全に自分の掌握下に置き、見事に「勝てるチーム」へと変身させたその手腕は、かのアラン・プロストをも上回るものではないかと思われます。そのシューマッハが、フェラーリグッドイヤーの全ての能カを結集させてマクラーレンを追撃した結果、今年のチャンピオン争いはこの最終戦までもつれこむことになったのです。

 最終戦を控えてハッキネンシューマッハのポイント差はわずかに4点。たとえ自分が優勝してもハッキネンが2位に入ればチャンピオンにはなれないことから、シューマッハにとっては非常に厳しい状況ではありますが、そこは超人シューマッハ、きっと何かどえらいことをやってくれるのではないかと日本のファンの期待はいやが上にも高まったのです。

 そして迎えた10月30日の土曜日、いよいよ公式予選がスタートしました。「抜きにくい」と評判の鈴鹿サーキットが舞台とあって、各チーム、ドライバーとも、一つでも前のス夕一ト位置を確保しようと懸命の努力を行います。この予選を終始リードしたのはやはりシューマッハ。最終的に記録した1分36秒293という夕イムは昨年のポールポジションタイムにも匹敵するもので、今年のマシンに与えられた各種の制限を考えればまさに驚異的なものでした。しかしながら、ハッキネンもただ手をこまねいていた訳ではありません。僅差でシューマッハの後を追い、最後のタイムアタックでは、コース終盤までシューマッハを上回るタイムを記録してきます。しかし、最後の最後、シケインへの進入でミスを犯し、コースアウトを喫したため、この瞬間にシューマッハポールポジションが確定したのです。予選3位はマクラーレンクルサード、4位はフェラーリアーバインと、2強がそれぞれ第一列、第二列を分け合いました。しかし、昨年は見事なチームプレイを見せたフェラーリのNo.2ドライバーであるアーバインが、ここでトップから約2秒遅れの4位に沈んだことが、結果として今回のレースを占うものであったと言えるかもしれません。

 そして、決勝。緊張が極限まで高まったスタートの直前、プロストGPトゥルーリが突然エンジンをストップさせてしまい、スタートのやり直しとなりました。結果としてこのスタートやり直しが今年のチャンピオンシップを左右する大きなポイントとなったのです。2回目となったスタートの直前、今度はポールの位置にあったシューマッハがエンジンストップ、スタートが再度のやり直しとなるとともに、その原因を作ったシューマッハは最後尾からのスタートとなってしまいました。

 3回目のスタートはスムーズに行われ、シューマッハは前走車をごぼう抜きにしてハッキネンを追いかけますが、結局その差を縮めることはかなわず、30周目にはタイヤがバースト(破裂)して残念ながらリタイアという結果になってしまいました。昨年であれば、チームメイトのアーバインが「特攻」でハッキネンの前に出て、シューマッハが追いつくまでハッキネンの速度を抑え続けるという戦略をとったところですが、今年は燃料をギリギリまで軽くしたアーバインですらハッキネンを脅かすところまでも接近できなかったことが結果として敗因となってしまったのです。

 30周目にシューマッハがリタイアしてからは、ハッキネンは悠々としたペースでレースを終始リードします。2位のアーバインとの間合いを計りながら、十分に余裕をもって栄光のゴールイン。今回のレースで優勝を手にするとともに、生涯初めての「F1世界チャンピオン」の座を射止めたのです。

 また、これでブリヂストンタイヤもF1参戦2年目にして初のチャンピオンタイヤとしての栄冠を手にすることとなりました。来年からはグッドイヤーが撤退してしまうため、なんとしてでも「グッドイヤーを破って世界チャンピオンの座を手にしたタイヤ」という名誉を手にしたかったというブリヂストンの願いもここに見事に成就したのです。

 

1998 F1世界選手権第16戦
F1日本グランプリ レース結果
 順位  ドライバー チーム
マシン
 1位   ミカ・ハッキネン   ウェスト・マクラーレンメルセデス 
 マクラーレンMP4/13
 2位   エディ・アーバイン   スクーデリア・フェラーリ 
 フェラーリF300
 3位   デビッド・クルサード    ウェスト・マクラーレンメルセデス 
 マクラーレンMP4/13 

 

 レースのスタート前に行われたフラッグセレモニー。出場選手それぞれの国籍を示す国旗がスターティンググリッドの位置に運ばれます。
 現在のF1マシンはタバコや電気会社など大手企業の広告で埋め尽くされていますが、かつてはイギリスは緑、フランスは青、ドイツは銀、イタリアは赤、日本はアイボリーホワイトに日の丸と、国ごとにナショナル・レーシングカラーが決められており、F1マシンはみなこの国の色に彩られていたものです。つまり、「F1」の世界は、ドライバー個人の争いであるとともに、それぞれのチーム、それぞれのドライバーが母国の威信をかけて戦う「代理戦争」の場でもあったのです。
 今年、日の丸のもとに戦う日本人ドライバーは2人。2年目の中野信治と1年目の高木虎之介の2人です。いずれも体制的に恵まれていないため上位入賞を望むことは難しいのですが、なんとか観客にアピールできる走りを見せてほしいものです。

 

 レース前のドライバーズパレードで観客に小旗を振る高木虎之介ティレル。かつて中嶋悟が所属していたレース界の名門として、また、オーナーであったケン・ティレルの人柄に魅かれて、日本でも非常に人気が高かったティレルチームですが、残念ながら今期限りで「ティレル」の名称は消滅し、代わってジャック・ビルニューブが実質的なオーナーとなる「BAR(ブリティッシュアメリカン・レーシング)」に衣替えすることになりました。
 このチーム変更に伴うとばっちりをもろに受けたのが今期の虎之介でした。シーズン途中からはチーム体制の大半が来期のためのマシン開発に費やされることとなり、今年のレースのためのテストもほとんどできない状態で、シーズン終盤にはティレルと同様に非力なフォードエンジンを搭載するミナルディのマシンにも先を越されることもしばしばという状況でした。今回も、結局30周目にミナルディトゥエロにぶつけられ、虎之介の最初の鈴鹿はリタイヤという結果に終わってしまいました。

 それでも、マシンのハンディを考えれば、デビューシーズンの虎之介はそれなりのパフォーマンスを示すことができたと言えるでしょう。なんといっても、開幕戦のオーストラリアGPで予選13位を獲得したことは、多くの関係者を驚かすに十分でした。その後も、際だって非力なマシンを駆っているにもかかわらず、予選では中団のポジションを獲得することも珍しくなく、チャンピオンシップのポイントを稼ぐことはできなかったものの、これまでの日本人ドライバーとはひと味違った「速いドライバー」という評価を得ることができました。

 しかしながら、単に「速い」だけでは成功できないのがF1の世界というもので、虎之介の来シーズンはまだ何も決まっていないようです。個人的には、一部マスコミに「噂」として流れたように、トヨタがF1進出への足がかりとしてアロウズチームを買収し、そのプロモーションの一環として虎之介アロウズに送り込むという話が実現されれば大変うれしいのですが・・・。なんといっても、トラはもともとトヨタ系のチームであるチーム・トムスの契約ドライバーだったのですから。それに、トラが本当にF1の世界で成功しようと思ったら、ちょっと中嶋悟の庇護の下から離れた方がいいんじゃないかと思うんですよね。今のところ、トラは少々過保護な環境にいるような気がするのです。

 

 こちらは、昨年の世界チャンピオン、ジャック・ビルニューブウィリアムズ)。昨年は最終戦までシューマッハと激しいチャンピオン争いを繰り広げた末に王座についたジャックですが、今年は一回も優勝を果たせなかったばかりか、優勝争いにさえほとんど絡めない状況で、見事に存在感のない一年を過ごしてしまいました。
 来シーズンは自らが興したBARチームに移籍が決定していますが、果たして来年は優勝争いにからむレースができるのでしょうか。

 

 こちらは一昨年のチャンピオン、デーモン・ヒル(ジョーダン・無限ホンダ)マクラーレンフェラーリウィリアムズベネトンに次ぐ五番手チームというイメージが強いのですが、終わってみれば、マクラーレンフェラーリの2強以外で優勝を果たしたのは結局ジョーダンヒルだけでした。
 この陰には、無限ホンダのエンジンパワーの急激な上昇が大きな役割を果たしたと言われておりますが、いよいよ熟成が進む来シーズンには、更なる活躍が期待されるところです。

 

 ミナルディのマシンに乗る中野信治。昨年の片山右京の後を引き受ける形でプロストGPから移籍した中野ですが、「金がない、働かない、戦略がない」とないないづくしのミナルディチームには、当初、中野も相当ショックを受けたようです。
 しかし、時にはメカニックを叱責し、時には遅くまでミーティングを繰り返すことによって、チーム内の志気は徐々に高まり、シーズン後半にはティレルのマシンを総合力で上回る結果を残すことも多くなりました。今回のレースも粘りの走りで高木虎之介の前を走っていた中野ですが、残念ながらエンジン系のトラブルでリタイヤ。日本人最高となるシーズン11完走を記録することは叶いませんでした。
 「ミナルディシューマッハ」と呼んでも良いほどの大活躍(チームの実力を考えれば「大活躍」です)を見せた中野ですが、来期のチームとの契約はまだ交わされていません。しかし、ここへ来てどうやら来期もミナルディに残留することが決定的になったようです。来期は今年に比べれば相当強力なエンジンを獲得できるようなので、今年の鬱憤を晴らすような大暴れをしてもらいたいものです。 

 

 最初のスタートでトゥルーリがエンストしたことで、やり直しになった2回目のスタート。各車がスターティング・グリッドにつくためのウォーミング・ラップを始めました。
 猛然とタイヤスモークを上げてフロントローシューマッハハッキネンが加速していきます。このウォーミング・ラップではシューマッハがものすごい勢いでコースを一周し、いち早くグリッドにつきましたが、そこには巨大な落とし穴があったようです。

 

 2度目のスタート・シグナルが点灯する直前に、突如エンジンがストップしてしまったシューマッハ。どうやら、エンジンの温度が上がりすぎたためにアクセルを戻したところ、クラッチを制御する油圧ポンプの圧力が低下し、いきなりクラッチが繋がってしまったためにエンジンが止まってしまったようです。
 スタートを遅らせたという理由によって、ルールで最後尾からのスタートを余儀なくされたシューマッハは、下位のチームとは次元の違う猛烈なスタートをみせました。1周目には既に10台をパスし、7周目には7位までジャンプアップしました。ここまでのシューマッハのパフォーマンスが今回のレースで最大の見せ場であったと言えるでしょう。
 しかしながら、その後は6位のデーモン・ヒルを抜きあぐね、次第にペースを落とします。結局、ピットインのタイミング等をうまく利用して3位まで上がったものの、虎之介トゥエロのクラッシュにより散乱した部品を踏んだことが原因でタイヤをパンクさせ、リタイアという結果に終わってしまいました。
この瞬間、ハッキネンの世界チャンピオンが決定したのです。

 

 シューマッハがリタイヤしたことによって、レース中にチャンピオンを決定したハッキネン。有終の美を飾るべく、淡々と優勝を目指して走り続けました。ある意味では、トラブルを最小限に抑えることがチャンピオンチームの資格であったと言えるでしょう。チームクルー全員がピットウォール上で出迎える中、派手なタイヤスモークを上げながらゴールインしたハッキネンウィニングランで観客の声援に応えながら、ヘルメットの間からしきりに涙を拭っていました。
 それにしても、今回の鈴鹿ではハッキネンの出身国であるフィンランドの旗が至る所でうち振られていました。これだけのフィンランド国旗、みんな一体どこで仕入れてきたんでしょうね。普通、フィンランドの国旗なんてそうそう売っていないですよね(^^;。

 

 ハッキネンアーバインクルサードと並んだ表彰台。シューマッハばかりが注目されたレースでしたが、実はアーバインの2位というのはもっと評価されてもいいはずです。
 最初から特攻覚悟のハーフタンク状態でスタートし、その後も少量ずつの給油で他のチームよりも一回多い3回のピットストップを行いながら、終わってみればマクラーレンの2台に割って入った2位表彰台です。この結果を見ればなおさら、「シューマッハが予選どおりポールポジションからスタートしていれば確実に表彰台の中央に届いていたのに」という気持ちが高まってしまいます。とはいえ、「It's the race それがレースというものだ」ということなんですけどね。

 

Topics

 今年の鈴鹿F1全16戦の最終戦として行われました。そして、最終戦の風物詩と言えば、出場全ドライバーによる記念撮影です。
 それぞれのドライバーの席順は特に決められていないと思うのですが、最前列にトップ4のチームが陣取り、中列の中央にはザウバー、後列中央にはベネトン、そして左右にそれ以外のチーム、と見事に順番どおり並んでいます。
 で、前列で一番態度のデカいのがシューマッハ、次いでビルニューブクルサードヒルの順に股の開き幅が小さくなり、「世界一のナンバーツーアーバインがきちんと両足を揃えて座っているところなど、個人の性格や人間関係が実によく伺われて、これだけでかなり笑っちゃっいました。

 

 ピット前からTVのレポートを行う、歌手・俳優のマッチこと近藤真彦レーシングドライバー土屋圭市、女優の「伝説の少女」こと観月ありさの3人。
 実は、マッチは1990年の「ユーロ・マカオ・富士・インターF3リーグ」というレースでシューマッハハッキネンと争った経験を持っているのです。実質的な「F3世界一決定戦」と言われたこのレースには、3人のほか、アーバインミカ・サロなど、現在のF1界を背負って立つドライバーが多数参加しており、その激しいバトルの模様は今やレースファンの間では伝説的な存在となっています。このレースに参加したマッチは立派な実績を持ったプロフェッショナルなドライバーなんですよ。

 

 昨年も鈴鹿を訪れていた羽田元首相。今回は鳩山由起夫氏と共にコース上のドライバーを激励していました。ほかのドライバーとは写真撮影まではしていなかったと思うのですが、ジャン・アレジザウバーペトロナスとはにこにこと記念撮影をしていました。
 新聞報道によれば、鳩山氏は「まるで外国にいるみたいだ。こんなに大きなイベントは、国も応援しなければいけない。」という発言をしたということですが、本気でしょうかね。もし、本当に本気なら、以前話題になったように、お台場を会場とした「TOKYO GP」の実現に尽力してもらいたいものですが。 

 

 今年のプロスポーツ界のヒーローと言えば、なんといっても横浜ベイスターズの「大魔神佐々木主浩投手でしょう。モータースポーツファンだということで、今回はTVレポーターも兼ねて鈴鹿を訪れていました。それにしても、この顔、やっぱり正面から見たら、恐いですね(^^;・・・・・  

 

 おそらくフィンランドからはるばるハッキネンの応援にかけつけたと思われる、フィンランドフーリガン。表彰式を前に、少しでもハッキネンに近づこうとコースサイドのフェンスを乗り越えてしまいました。
 そりゃ、確かに虎之介中野信治など日本人ドライバーが世界チャンピオンに王手をかければ、どんな僻地で行われたとしても日本人ファンは大挙して押し寄せるでしょうから、人のことは言えないんですけどね。

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 「TOPICS」の項で、マッチ近藤真彦が1990年の「ユーロ・マカオ・富士・インターF3リーグ」というレースに出場していたという話を書いていますが、このレースは正式には「ユーロ - マカオ - ジャパン チャレンジカップ インターナショナルF3リーグ」という名称で、1990年から1993年まで富士スピードウェイ静岡県を舞台に毎年開催されたものです。

www.sun-a.com


 マカオの市街地を舞台として毎年11月に開催される「マカオグランプリ」は、1983年から国際格式のF3マシンによるレースとなって以降、世界各国で開催されている各国F3選手権の上位者が多数参加するレースとして知られるようになり、さながら「F3世界一決定戦」の様相を示していました。1980年代後半、バブル景気に沸いていた日本では、このレースの熱狂を日本へも導入しようとマカオGPに参戦したマシンとドライバーをそのまま日本へ移動させて「F3世界一決定戦 第二ラウンド」としてこの「インターF3リーグ」を立ち上げたのです。
 時あたかもイギリスF3選手権ミカ・ハッキネンミカ・サロという「ふたりのミカ」が熾烈なチャンピオン争いを繰り広げており(選手権はハッキネンが獲得)マカオでもこの二人に注目が集まっていたのですが、レースではドイツF3チャンピオンのミヒャエル・シューマッヒャーミハエル・シューマッハ 当時は表記が確定しておらず、メディアの多くはこう表記していた)が見事に優勝。続く富士のレースでは「ふたりのミカ」とシューマッヒャーとの対決に多くの注目が集まっていました。
 12月2日に開催されたレースでは、約60台という大量エントリーのため、まず2組に分けた予選レースを開催し、その上位30台でさらに決勝レースを戦うという激しいものになりましたが、予選Aグループで優勝したシューマッヒャーが決勝レースでも勝利を挙げ、マカオに続く2連勝を遂げたのです。
 このレースの予選・決勝の記録は現在も下記のサイトで確認できますが、とにかくこのレースに参加した顔ぶれが凄い。
A組予選結果 - モータースポーツフォーラム
B組予選結果 - モータースポーツフォーラム
Aグループ レース結果 - モータースポーツフォーラム
Bグループ レース結果 - モータースポーツフォーラム
決勝レース結果 - モータースポーツフォーラム
レース・レポート - モータースポーツフォーラム


 後にF1の年間チャンピオンを獲得したのがミハエル・シューマッハ(7回)ミカ・ハッキネン(2回)の二人。F1優勝経験を持つのがエディ・アーバイン(当時はアーヴィンと表記されていました)F1に参戦(スポットを含む)した経験を有するのがミカ・サロアレッサンドロ(アレックス)・ザナルディオリヴィエ・パニスオリヴィエ・ベレッタフィリップ・アダムスヴィンチェンヅォ・ソスピーリの6人服部尚貴は1991年にコローニチームからF1日本GP、オーストラリアGPにスポット参戦したものの、マシンの戦闘力が低くいずれも予備予選不通過)。ちなみに、本文で紹介した1998年のF1日本グランプリには、このうち、シューマッハハッキネンアーバイン、サロ、パニスの5人が出場しています。
 他にも、後に日本で活躍したマウリツィオ・サンドロ・サラマウロ・マルティニパウロ・カーカッシヴィクトル・ロッソマッシミリアーノ・アンジェレッリらをはじめ、1993年のル・マン24時間レースで総合優勝を果たしたエリック・エラリー、父が創設しかつてはF1にも参戦していたレーシングチーム・ザクスビードのオーナーとなったペーター・ザコヴスキーなど錚々たる顔ぶれが出場しており、それぞれこのレースの後に大きく活躍の幅を広げていきました。
 これに対して日本人ドライバーはやや小粒でしたが、後にフォーミュラ・ニッポン全日本GT選手権という国内トップカテゴリーで合計8度の年間チャンピオンを獲得した本山哲が弱冠19歳で参戦していたほか、当時の国内F3の有力選手が多数出場していました。
 こうした綺羅星のごとく輝く世界中のトップF3ドライバーの中にあって、マッチこと近藤真彦選手は予選B組で29台中24位という成績で決勝進出をかけた予選レースに進みましたが、残念ながら9周でリタイヤとなり念願の決勝進出はかないませんでした(記録を確認すると、近藤選手はミカ・サロ、ミカ・ハッキネンとは予選レースで同走していますが、ミヒャエル・シューマッヒャーやエディ・アーヴィンとは別組でしたね)。とはいえ、予選で近藤選手の後塵を拝した森本晃生選手はこの前年の1989年まで日本のトップフォーミュラである全日本F2選手権/全日本F3000選手権に参戦していたドライバーであり、実力十分な選手であったのですから、この成績は一定の評価をされてしかるべきものだと思います。

 

 マッチの後に横浜ベイスターズ佐々木主浩投手を紹介していますが、この年のベイスターズは1960年以来38年ぶりとなる優勝(リーグ優勝、日本シリーズ優勝)を果たしています。リリーフエースであった佐々木投手は、この年、51試合、56イニングに登板し、奪三振78、失点7、自責点4、防御率0.64という抜群の成績を挙げて優勝に大きく貢献しました。佐々木投手を指す「ハマの大魔神」という言葉がこの年の「新語・流行語大賞」の「年間大賞」を獲得しており、後に佐々木投手がメジャーリーグに移籍した際にもしばしば「Daimajin」と称されていたようです。
佐々木主浩 - Wikipedia

 ちなみに、佐々木氏のモータースポーツ好きは現在も続いているようで、2022年もD'station Racingアミューズメント施設などを運営するNEXUSグループが運営するレーシングチーム)によるスーパー耐久シリーズ参戦体制の総監督を務めるとのことです。
D'station Racingが2台体制での2022年スーパー耐久参戦体制を発表。ST-1にニュル向けのバンテージGT8Rを投入(オートスポーツweb) - Yahoo!ニュース