「モータースポーツ回顧録」のカテゴリーでは、過去の個人サイトに掲載していたモータースポーツ関連の記事を再掲していきます。
今回の記事は1997年8月に鈴鹿サーキットで開催された「FIA GT選手権第7戦 Pokka 1000Kmレース」の話題です。
鈴鹿サーキットで毎年8月に開催されている1000km耐久レースについては、以前、1996年の「'96 POKKAインターナショナル1000km耐久レース」に関する記事の中で詳述していますが、96年のレースは民間団体(BPR)が主催する「BPRグローバルGTシリーズ」という国際レースの一環として開催されたのに対し、今回ご紹介する97年のレースは国際自動車連盟(FIA)が主催する正式な選手権レース「FIA GT選手権」の1戦として位置づけられました。
’96POKKAインターナショナル1000km耐久レース(1996.8.25)
BPRグローバルGTシリーズ - Wikipedia
FIA GT選手権 - Wikipedia
いわゆる「ハコ」と呼ばれる自動車(F1などのフォーミュラカーとは異なり、四輪がボディに覆われ、運転席に屋根があるタイプの競技用車両)を用いた世界選手権レースとしては、1995年、1996年にかけてFIA主催によりツーリングカー(量産市販車をベースにした車両)で争われる国際ツーリングカー選手権(ITC)が開催されており、ヨーロッパの主要な自動車メーカーはこのレースに全力を注いでいたのですが、この選手権が1996年をもって終了し、1997年からはGTカー (少量生産の高性能スポーツカーをベースにした車両)を使用したレースに世界選手権がかけられることとなったため、このシリーズにはポルシェ、BMW(マクラーレン)、パノス、ロータスといったスポーツカーメーカーがワークス(メーカー直系)チームを送り込み、激しい闘いが繰り広げられることになったのです。
こうした背景を踏まえて以下の記事を御覧いただくとより一層面白いのではないかと思います。
1997 FIA GT選手権 第7戦
Pokka 1000Kmレース
昨年のレースレポートでも書いたのですが、「鈴鹿1000Kmレース」は鈴鹿サーキットで行われるレースの中でも私が最も好きなレースです。真夏の終わりに繰り広げられるモンスターマシン達のバトルが延々と続けられ、ドライバーにとって耐久レースであるのはもちろん、観客にとってもそれなりの「耐久イベント」であると言えます。
しかしながら、レース時間が概ね6時間以上にわたることから、コースのあちらこちらを自由に歩きながら、時にはビールを飲んで昼寝をするというような一種の「のどかさ」が漂っていることが大きな魅力です。
今回は、今年から始まったGTマシンによるFIA耐久選手権シリーズの第7戦として開催されることになり、日本初お目見えのメルセデスCLK、今回が日本での初レースとなるポルシェ911-GT1に加え、昨年のPOKKA1000Kmレースの覇者マクラーレンGTR-F1の3ワークスが勢揃いしました。
レースは、予選で1、3、4位を占めたAMGメルセデスチームが、予選2位のワークスポルシェを置き去りにして圧倒的なレース展開を見せます。途中でゼッケン11のメルセデスがコースアウトし、順位を落とすアクシデントがありましたが、ゼッケン10、12のメルセデスは6時間にわたる高速耐久バトルを淡々と、しかし猛烈な速さで駆け抜け、薄暮の中、見事なワン・ツー・フィニッシュを遂げました。
順位 | No. | ドライバー | チーム マシン |
1位 | 10 | アレッサンドロ・ナニーニ マルセル・ティエマン ベルント・シュナイダー |
AMGメルセデス メルセデスCLK GTR |
2位 | 12 | クラウス・ルドヴィク ベルント・メイランダー |
AMGメルセデス メルセデスCLK GTR |
3位 | 3 | ピエール・アンリ・ラファネル ジャン・マルク・グーノン アンダース・オロフソン |
ガルフ・チーム・ダビドフ マクラーレンF1 GTR |
ペースカーの先導によるフォーメーションラップからそのままスタートするローリング方式のスタート直前。予選順に、12メルセデス、7ポルシェ、11メルセデス、10メルセデスと続く。
6時間にもわたる長時間のレースでは予選での順位そのものはそれほどの意味を持たないが、それでもやはり予選順位はチームの総合力を示すものであるというのは間違いのないところ。
スタート50分経過後から給油とタイヤ交換作業のために各チームのピット作業が始まりました。
メルセデスやポルシェ、マクラーレンといった純レーシングマシンともいえるマシン群の中で、レースには圧倒的に不利と言われるフロントエンジンという特異なレイアウトを採用しながらここまで8位と大健闘を見せていた 20パノス(チームDAMS)ですが、給油の際に洩れた燃料がエンジンの高温部に触れたのか、一気にマシン全体が炎上しました。
もちろんチームスタッフは耐火服に身を包んでおり、消防隊員も常にスタンバイしていることからマシンの火災はすぐに消し止められましたが、残念ながらチームはこれでリタイヤという事になってしまいました。
次々とヘアピンをクリアしていく9マクラーレンF1 GTR(チームBMW)、4パノス(デビット・プライス・レーシング)、50ポルシェ911 GT2(アグスタ・レーシングチーム)、17ポルシェ911 GT1(チームJB)の各車。
その成り立ちも、エンジン排気量も、生産台数も、そして価格も全然違うこれらのマシンが同じ土俵で闘う、そして戦略とちょっとした運の差によって必ずしも良いマシンが上位に来るとは限らない、ということが耐久レースの最大の見所であると言えるでしょう。
1マクラーレンF1 GTRを従えてヘアピンコーナーをクリアしていく11メルセデスCLK。
メルセデスといえば日本では典型的な「オヤジ車」と思われているようなところがありますが、実はF1やGTカー、スポーツカーレースとあらゆるレースで活躍した歴史をもつ偉大なるメーカー。そのメルセデスが伝統の銀色に輝くボディを与える「シルバーアロー」のマシンは、「勝つこと」を宿命づけられているのです。
このマシンがコーナーを駆け抜けていく時の挙動を見ると、その動きはまさにフォーミュラカーそのもので、ポルシェやマクラーレンとは明らかに一線を画するものがあります。いや、ホントに速いっすよ、このマシン(・_・;)。おまけに、V12 6000ccのエンジンが奏でるレーシングサウンドが綺麗なんですよ。個人的には「ベンツ」ってそんなに好きな車ではないんですが、このCLKは、ちょっと好きになってしまいました(^^;。
初代「おいおい、そんな化け物マシンをGTレースに参戦するためだけの目的で市販しちゃマズイんでないかい?」マシンであるポルシェ911 GT1。
つまり、1995年にマクラーレンがF1のノウハウを注ぎ込んで作り上げた市販スポーツカーであるマクラーレンF1 GTRが登場、そのおかげでGTレースにおける最高のマシンという地位から滑り落ちたポルシェが起死回生の一打として投入したのがこの911 GT1なのです。
かたや、「究極の市販スポーツカー」として登場したのがマクラーレンF1 GTR、これに対して「市販するための最低限の装備を備えた理想的なレーシングマシン」として生み出された911 GT1。そのポテンシャルの差は明らかで、1996年、911は結果こそあまり残すことはできませんでしたが、各チームに大きなショックを与えたのは明らかです。
しかし、このマシンの登場に触発されて、「まるで子供の喧嘩に大人を呼んでくるような」、市販スポーツカーとは名ばかりの純レーシングマシン第2弾をメルセデスが投入してきてこれほどの力を見せつけられるとは、ポルシェも予想していなかったのではないでしょうか。
レギュレーション上の不利というのもあるようですが、結果として、ポルシェ陣営はかろうじて5位にスタック、ブーツェン、ウォレック組の911 GT1が入ったのが最上位という状態でした。
デビット・プライス・レーシングの4パノス。このマシンは、レーシング・コンストラクターのレイナード社が製作したカーボン・モノコックのシャシーに、6リッター・OHV(!)エンジンを搭載するフロントエンジン(!)車だというとんでもない(メルセデスCLKとは全然別の意味での)化け物マシンです。
そのコンセプトのとんでもなさとは裏腹に、結構速いところも見せており、選手権第2戦では予選でフロントローを獲得しています。
でも、このマシン、映画「バットマン」に登場する「バットモービル」そっくりだと思いません?
11メルセデスをドライブする鈴木亜久里。去年の鈴鹿での国際ツーリングカー選手権でもメルセデスをドライブした亜久里ですが、今回はベルント・シュナイダー(F1のザクスピード時代の亜久里のチームメイト)、アレクサンダー・ブルツ(今シーズン、病気のベルガーの代役としてベネトンからF1に出場。デビュー3戦目で3位表彰台に上る)とのF1トリオでCLK GT1を走らせました。
タイヤトラブル、コースアウトとメルセデスの中では唯一表彰台に上がれませんでしたが、亜久里は初ドライブにもかかわらず上位陣に遜色ないペースで周回を重ね、ブルツにステアリングを渡しました。
ドライブ後の亜久里の様子を見ていると完全に疲労困憊という状況で、それだけでも真夏の耐久レースの過酷さが感じられました。しかし、9月には栃木県に新しく作られたサーキット「ツインリンクもてぎ」で亜久里と中嶋悟「元」選手との「対決レース」がエキジビジョンとして行われるらしいのですが、今日のレースを見る限り亜久里はまだまだ現役選手のようです。大丈夫かな、中嶋さん(^^;。
亜久里組のメルセデスの決勝順位は7位でしたが、それなりに見せてくれたレースでした。
蛍光レッドのカラーリングが目に鮮やかな44ラーク・マクラーレンF1 GTR。
他のマクラーレンは全て外国籍のチームですが、このラーク・マクラーレンは日本チームです。
ドライバーは、日本人として初めてル・マン24時間レースに優勝した関谷正徳、「ドリフトキング」と呼ばれ全国の若者に人気の土屋圭市、そして自動車雑誌のジャーナリストからレーシングドライバーに転身し、一時はF1進出がほぼ決定というところまで上り詰めた理論派ドライバー中谷明彦の3人です。
マシンは最新型のマクラーレン、ドライバーはいずれも鈴鹿を知り尽くした実力派のベテラン、ということで大きな期待がかかったのですが、レース早々にタイヤトラブルでピットイン、中盤にもタイヤとボディが干渉して緊急ピットインするなどトラブルが重なり、順位を落としました。
結果は9位に終わりましたが、上位陣が予想を上回るハイペースで逃げる中、猛暑とトラブルを克服して見事に完走を遂げたことは賞賛に値すると思います。
市販車とはいいながら実際に購入するとなれば1億円は下らないマシンがほとんどの中で、その10分の1の値段で購入できるという極めてチープな(って、1000万円なんですけどね)マシンで出場しているのが84NSXドリーム28コンペティションです。
このチームは、2005年に開催される愛知万博をアピールするために東海地方のホンダNSXオーナーズクラブが中心になって参戦したということで、マシンはほぼノーマルのNSXだそうです。
それでも予選タイムは、前座として開催されたスーパーシルビアのN1クラスに近い2分31秒台を出せるところがNSXたるところ、レースではラップタイムで30秒以上の差がある他のマシンの邪魔にならないよう淡々と走り続けました。
はじめからそういう戦略だったのかどうかは判りませんが、中盤で長いピットイン、レース終了直前に再度ピットアウトしてとりあえずチェッカーフラッグを受けることができたものの、トップから126周遅れのリタイヤ扱いとなってしまいました。
そろそろ夕闇が訪れようとする午後6時30分、10メルセデスがゴールインしてPOKKA 1000Kmレースは終了しました。
いつもの年の1000Kmレースであれば、日がとっぷりと暮れて、暗闇の中にマシンのヘッドライトが煌々と輝くシーンが見られるのですが、今回は優勝者のラップタイムが主催者の予想をはるかに上回ったのか、まだ空に明るさが残るうちのゴールインでした。
来年もこのレースが行われるのであれば、スタート時刻(今回は午後0時30分)はもう少し遅くした方がいいのかもしれません。確か以前このレースがグループCマシンで争われていた頃は午後1時半のスタートでしたからね。
酷暑を耐えきって見事に優勝を遂げ、表彰台でファンとチームクルーの声援に応える10メルセデスのドライバー達。左からアレッサンドロ・ナニーニ、ベルント・シュナイダー、マルセル・ティエマン。
アレッサンドロ・ナニーニ(左)は1990年秋、ヘリコプターの事故で右手を完全に切断する怪我を負いました。懸命の治療の甲斐あって右腕はなんとか繋がりましたが、機能は十分に回復しませんでした。しかし、専用マシンを携えて2年後にはレースに復帰、ツーリングカーレースで12勝を上げています。日本では昨年の国際ツーリングカー選手権(ITC)以来の登場ですが、見事に優勝を飾ったとあって表彰台に詰めかけたファンから絶大な声援を受けていました。
シュナイダー(中央)は、もともとナンバー11のマシンのドライバーでしたが、レース規定により1チーム1回だけ同一チーム内でのドライバー交代が認められるため、急遽ナンバー10に乗り換えて最終ドライバーとしてチェッカーを受けました。これにより、シュナイダーはシリーズポイント10点を稼ぎ、J.J.レート(チームBMW)、スティーブ・ソパー(チームBMW)と並んでシリーズ選手権のドライバーランキングトップに躍り出ました。
マルセル・ティエマンは・・・すみません、手元に全然情報がありません(-_-;)。
こちらはGT2クラスの表彰台。 GT2クラス優勝は51バイパー・チーム・オレカのクライスラー・ダッヂ・バイパーに乗るフィリップ・ガシュ、オリヴィエ・ベレッタ。2位は57ロック・レーシングのポルシェGT2、3位は52オレカ・STP・タイサン・バイパーのクライスラー・ダッヂ・バイパーでした。
2位のポルシェには和田久選手(写真には入っていない)、3位のバイパーには松田秀士選手(写真右から2人目)と、日本人が表彰台に上れたのはファンとして嬉しいことでした。
鈴鹿の1000Kmレースでは、レース終了後に花火が打ち上げられるのが恒例になっています。今年は比較的早い時間にレースが終了したので薄暮の状態での花火でしたが、レースの興奮がさめやらぬ中、たった今までレースが行われていたコース上に立って見る花火というのは感慨深いものです。いわば、この花火の感慨を味わうためにレースファンは毎年このレースに足を運ぶのですから。
上記のように、今回のレースではメルセデスが圧倒的な存在感を見せつけたわけですが、実はこの「メルセデス」という車・メーカーには色々な変遷があり、「メルセデス」と呼ぶか、あるいは「ベンツ」と呼ぶか、一時期はどちらの名前も社名には付いていなかったとか、ごく最近になってこれが正式な社名になったとか・・・、割と複雑な事情を抱えています。
そのあたりについて、ごく簡単に下記のような表にまとめてみました。
参考:メルセデス・ベンツ・グループ - Wikipedia
「メルセデス」の名前のつく車が走り出して120年 | レスポンス(Response.jp)
1883年 | カール・ベンツがベンツ社を設立 |
1890年 | ゴットリープ・ダイムラー、ヴィルヘルム・マイバッハらがダイムラー・モトーレン・ゲゼルシャフト社を設立 |
1900年 | ダイムラー社がオーストリアの実業家エミール・イェリネックの発注を受けて製作したレース用車両を発表。 イェリネック氏の愛娘の名を取って「メルセデス35PS(35HPとも)」と名付けられたこの車両は各種レースでめざましい成績をあげ、その名声を高めた。 |
1902年 | メルセデス35PSの成功を受け、ダイムラー社が「メルセデス」の名を商標登録。 以後、同社が製造する車に「メルセデス」の名が冠せられることになった。 |
1926年 | ダイムラー社とベンツ社が合併しダイムラー・ベンツ社発足 ダイムラー車に用いられていた「メルセデス」のブランドを活かし、同社が製造する車両には「メルセデス・ベンツ」という名称が用いられることになった。 |
1998年 | ダイムラー社とクライスラー・コーポレーション(アメリカ)との合併が成立しダイムラー・クライスラー社発足 |
2007年 | クライスラー部門を米投資会社へ売却し、社名をダイムラーと改める |
2021年 | 商用車部門をダイムラー・トラックとして分離、独立 ダイムラー社は乗用車とバンの製造・販売に特化 |
2022年 | 社名をメルセデスベンツグループ(Mercedes-Benz Group AG)に変更 |
つまり、もともとはベンツの作ったベンツ社と、ダイムラーが作ったダイムラー社があり、これが一緒になってダイムラー・ベンツになり、アメリカのクライスラーと合併した時にベンツの名が消えてダイムラー・クライスラーになり、クライスラーと別れた後はダイムラーという名前になったけど、今年になって今度はダイムラーの名前が消えて車の名前(メルセデスベンツ)を社名とした、というわけです。
また、メルセデスというのも、ベンツ社とダイムラー社にはもともと直接関係なく、オーストリアの実業家が自分のために発注した車に自分の娘の名前を付けたのがはじまりで、その名前をダイムラーが商標登録して、ベンツと合併するときに会社名は「ダイムラー・ベンツ」にしたのに車の名前は「メルセデス・ベンツ」にするという不思議なことをした、という経緯があり、これがとうとう2022年になって会社名からダイムラーの名前が消えてメルセデスベンツが正式な社名になってしまったということです。
まあ、これでやっと「メルセデスベンツという車を作っているメルセデスベンツ社」ということで非常にわかりやすくなったのは間違いないですが。
GT2クラスで3位を獲得した松田秀士選手は現在もレーシングドライバー、自動車評論家、日本カー・オブ・ザ・イヤー選考委員などとして活躍されていますが、浄土真宗本願寺派の僧侶でもあります。また、その姉の幹子さんは長くビートたけしさんと結婚しており(2019年に協議離婚)、この当時松田選手は「ビートたけしの義弟」としてメディアにもよく登場していました。
下記のリンク先に掲載されている松田さんの講演記録によると、当初は義兄であるビートたけしさんの付き人兼運転手(ポルシェ)でしたが、やがて義兄の支援を受けてレース活動を開始。シビックレースを経て1984年には富士スピードウェイでのF3レースで優勝。この頃全日本F2選手権では中嶋悟が無敵の強さを誇っていたことから、ビートたけしさんが「待ってろ 中嶋!」と叫んだというのは有名な話。残念ながらその後は中嶋さんがF1への参戦を決めて世界へ飛び立って行ったのに対し、松田選手はF2(後にF3000)へステップアップしたもののマシンの戦闘力不足に苦しみ、なかなか思うような成績を残すことはできませんでした。いつのレースだったか、ビートたけしさんが鈴鹿に来ていた時にインタビューに答えて「見えなくなっちゃったよ 中嶋さん」と言っていたことが懐かしく思い出されます。
しかし、その後松田選手は「たけしプロジェクト(ビートたけしさんがメインスポンサーとなっていたチーム)」を離れてプロのレーシングドライバーとして独立。主にGTカーレースで活躍しますが、1994年からはアメリカのインディ500マイルレースに参戦するようになり、1996年には当時の日本人最高位となる決勝8位という成績を収めています(その後、2017年・2020年に佐藤琢磨が優勝)。
近年では、高齢者のための安全運転技術を紹介する著書も出版されているようですので、今後ますますのご活躍を期待したいものです。
参考:大人の部活第4回 松田秀士さん講演会レポート by柴澤亮 | Honda Cars 野崎 |栃木県大田原市のホンダディーラー