「モータースポーツ回顧録」のカテゴリーでは、過去の個人サイトに掲載していたモータースポーツ関連の記事を再掲していきます。
今回の記事は1997年7月に鈴鹿サーキットで開催された「フォーミュラ・ニッポン第4戦」の話題です。
フォーミュラ・ニッポンについては、4月に開催された第1戦に関する記事でも詳しく紹介していますが、我が国におけるモータースポーツの最高峰に位置づけられている選手権シリーズです(世界選手権の一戦として開催されているF1を除く)。
’97フォーミュラ・ニッポン第1戦 鈴鹿(1997.4.27)
1997年のフォーミュラ・ニッポンは下記のとおり全10戦が計画されており、このうち鈴鹿サーキットでは前回の記事で紹介した第1戦に加え、今回ご紹介する第4戦、11月に開催される第10戦(最終戦)、の3レースが開催されました。
開催日 | サーキット | |
Rd 1 | 4月26日 - 27日 | 鈴鹿サーキット |
Rd 2 | 5月17日 - 18日 | CP NIMEサーキット |
Rd 3 | 5月31日 - 6月1日 | 富士スピードウェイ |
Rd 4 | 7月5日 - 6日 | 鈴鹿サーキット |
Rd 5 | 8月2日 - 3日 | スポーツランドSUGO |
Rd 6 | 8月30日 - 31日 | 富士スピードウェイ |
Rd 7 | 9月13日 - 14日 | CP NIMEサーキット |
Rd 8 | 9月27日 - 28日 | ツインリンクもてぎ |
Rd 9 | 10月18日 - 19日 | 富士スピードウェイ |
Rd10 | 11月8日 - 9日 | 鈴鹿サーキット |
第1戦の記事中でも紹介しましたが、この年フォーミュラ・ニッポンに参戦したドライバーの中にはF1経験者や後にF1デビューした者も多くいて、このシリーズはF1へのステップアップカテゴリーとして世界からも注目を集めていました。
また、当時のF1ではホンダが既に撤退していたものの、同社の技術を引き継いだ無限(現在はM-TEC)がプロストチーム(旧リジェ)にエンジンを供給していたほか、ヤマハもアロウズチームにエンジンを供給、タイヤの面ではこの年からブリヂストンがF1に参入して5チーム(プロストGP、スチュワートGP、ミナルディ、アロウズ、ローラ)に供給を始めるなど、まだまだ日本のメーカーが大きな存在感を示していたことから、必然的に日本のレースはF1との関係性が強く意識されていたのです。
こうした背景を踏まえて以下の記事を御覧いただくとより一層面白いのではないかと思います。
1997年 全日本選手権
フォーミュラ・ニッポン第4戦 鈴鹿
虎之介 今季初優勝
「日本一速い男」の異名を持つ星野一義の突然の引退という衝撃のニュースから開幕した今シーズンのフォーミュラ・ニッポン。日本のレースの最高峰として、また世界で最もF1に近いと言われるシリーズとして、毎レース熱い戦いが繰り広げられています。
昨年のチャンピオン、ラルフ・シューマッハがF1へとステップアップし、激しくタイトルを争った服部尚貴がホンダの期待を担ってアメリカのインディカーレース(インディ・ライツ)に進出、そして童夢とホンダのサポートを受けた中野信治もプロストGPからF1レギュラードライバーに、と去年のスタードライバー達が次々にフォーミュラ・ニッポンを卒業していったため、シーズン前は、F1ティレルチームのテストドライパーも兼任する高木虎之介が独走でシリーズチャンピオンを獲得するのではないかと皆が思っていました。
ところが、この戦前の予想を大きく覆したのが森脇基泰監督率いるシオノギ・チーム・ノバのペドロ・デ・ラ・ロサ(スペイン)。1995年に来日し、全日本F3選手権を圧倒的大差で勝ち取ったドライバーですが、昨年初めて参戦したフォーミュラ・ニッポンではシリーズ8位にとどまりました。しかし、今年は開幕戦の鈴鹿での頭脳的なレース運びに見られるように、速さと堅実さを兼ね備えた実力派ドライバーとして、第1戦優勝、第2戦優勝、第3戦2位と目覚ましい成績を上げています。
ペドロに対抗する実力を見せているのが、星野に代わってホシノレーシングのエースに抜擢された黒澤琢弥。これまでに見られなかった安定した走りが身に付いてきて、2位、2位、優勝とこれまた素晴らしい成績で、現在ランキング2位に付けています。
3戦を経過して、シリーズポイントはペドロ・デ・ラ・ロサ26点、黒澤琢弥22点、光貞秀俊7点、飯田章5点、高木虎之介4点、本山哲3点、ラルフ・ファーマン(イギリス)3点となり、ペドロ、黒澤の圧倒的な強さが目立ちますが、その他は高木を除いてかなり新しい顔ぶれとなり、いよいよフォーミュラ・ニッポンの新時代が始まったことが実感されるようになりました。
さて、こうした状況のもとで開催されることになった今回の第4戦鈴鹿。ところが、今回のレースは予選から大きな波乱が待っていました。
土曜日に行われた予選で、アタック周回に入っている最中に前方でスロー走行を行っていた山田政夫にコースを塞がれたと思った黒澤琢弥が、追い越しざま山田に幅寄せする動きを見せたため、主催者から全てのタイムを抹消され、最後尾からのスタートというペナルティを与えられてしまいました。
さらに、公式予選で4位に入り、上位6台だけで決勝出走順位を決めるスペシャルステージに進出したペドロ・デ・ラ・ロサも、ミッショントラブルでアタックできず、結局ノータイムで6位のスタートとなってしまいました。
これで、決勝でのレース運びが俄然楽になったのが高木虎之介。スペシャルステージでトップタイムをマークし、ポールポジションからスタートする事ができるだけに、スタートさえ失敗しなければ、今季初めての優勝の可能性が大きく広がりました。
そして迎えた決勝レース。高木のスタートは決して良くなかったのですが、予選2位に付けていた影山正彦もそれほど素晴らしいスタートができなかったため、結局1コーナーへは高木が先頭で進入。ガソリン満タンで車重が重く、タイヤも十分に暖まっていないという厳しい条件の下では圧倒的な速さを見せる虎之介が、序盤で大きくリードを取りました。その後、時折2位の影山正彦が、あるいは予選3位の光貞を10周目でパスしたペドロ・デ・ラ・ロサがそれぞれ高木に迫る速さを見せますが、結局最後まで虎の背後を脅かすことができず、そのままの順位でゴールを迎えることとなりました。
スターティンググリッド最後尾の26番目からスタートした黒澤琢弥は、2周目に早くも15位までジャンブアップ。その後も毎周のように順位を上げていき、「もしかすると表彰台か」という期待を抱かせましたが、15周目のヘアピンコーナー手前でマシントラブルのためストップ。ポイント獲得はなりませんでした。
終わってみれば虎之介の完勝で、ある意味では緊迫感に欠けるレースであったとも言えますが、ファンとしては、これでようやく役者が揃い、本当のチャンピオン争いがこれから始まるという楽しさを与えてくれたと言えるでしょう。
順位 | ドライバー | チーム マシン |
1位 | 高 木 虎之介 | PIAA ナカジマ・レーシング レイナード97D |
2位 | 影 山 正 彦 | チーム・インパル ローラT95-50 |
3位 | ペドロ・デ・ラ・ロサ | シオノギ・チーム・ノバ ローラT97-51 |
その速さは誰もが認めるところ。しかし、レース本番での競り合いや、コンディションが悪いときの我慢の仕方などには課題もあり、必ずしも「速さ」イコール「強さ」ではないところがレースの難しさ。
「もう心はF1に向いていて、フォーミュラ・ニッポンに対する興味を失ってしまったのではないか」とまで言われることもありますが、前回の富士のレースでスタートに失敗しながらもねばり強い走りで3位入賞を果たしたことが一つのきっかけとなったか、今回のレースでは久々にぶっちぎりの「虎之介パターン」の勝ち方を見せてくれました。
早ければ今シーズン中にでもF1出場かという声もありますが、F1のレギュラードライバーになるためにはなんとしても「全日本フォーミュラ・ニッポン・チャンピオン」のタイトルが欲しいところでしょう。
昨年の全日本F3選手権で童夢の脇坂と激しいチャンピオン争いをし、僅差でシリーズ2位に甘んじた山西康司(PIAA NAKAJIMA RACING)。トップフォーミュラ初出場の今シーズンですが、早くも予選タイム4位と非凡な才能を見せつけてくれました。
歴戦の強者を敵に回しての激しい争いが期待されましたが、スタートに失敗して7位に後退。その後、10周あまりにわたって影山正美(NAVI CONNECTION)を追いかけましたが、130Rでスピン、コースアウトしてレースを終えました。
場内のFM放送では、「山西、お前もしかしたら体力が無いんじゃないか?」と揶揄されていましたが、確かに重いハンドルと戦い、強烈な横Gに耐えながら、35周、1時間以上のレースを戦い抜くためには、一流のスポーツ選手に匹敵するだけの体力が必要だと言われています。しかも、この日は梅雨とは到底思えないほどの強烈な日差しが降り注いでおり、フォーミュラ・ニッポンのルーキーには相当にこたえるコンディションであったと言うことができるでしょう。
優勝は虎之介、2位が影山正美、3位がペドロという表彰台でした。虎之介は、「(得意な)十勝スピードウェイでのレースがないのは残念だけど、次の菅生でも優勝を狙いますよ」と珍しく意欲的な発言をしていました。
2位に入った影山正彦は久々の表彰台で、「虎が速いのは判っていたけど、こっちも一生懸命がんばった。」と満足げな表情。後から脱水症状で倒れたという情報もあり、とりあえず今回のレースは限界まで攻めた結果だったようです。
そして、3位がペドロ・デ・ラ・ロサ。時には影山を激しく攻め立てて、何度かは横に並びかけようかというところまで行ったのですが、どうやら暑さのせいでタイヤのグリップが無くなったようで、結局最後は影山に離されてしまいました。それでも、しっかりと3位に入って選手権ポイントを獲得するところが今季チャンピオン最有力候補の面目躍如というところでしょうか。
Drivers, Drivers, and Others
中野信治がF1へ進級したことにより、唯一の国産フォーミュラ・ニッポン・マシン童夢F104Rのステアリングを託されたのが昨年のF3チャンピオン、脇坂寿一です。その才能には疑いのないところですが、今シーズンは運にも恵まれずこれまで12位、6位、リタイヤと厳しい戦いを余儀なくされ、今日のレースでも1周でリタイヤと散々な結果になってしまいました。
期待が大きいだけに、もう少し頑張って欲しいと思うのは贔屓の引き倒しでしょうか。でも、もうちょっと光ってほしいな、と思います。
今回を含め、4戦で優勝、優勝、2位、3位と全て表彰台に上っており、チャンピオン最有力候補となったペドロ・デ・ラ・ロサ。
世界中で行われているレースのうちで最もF1に近いのが日本のトップフォーミュラであると言われており、ジャック・ビルニューブ(こっちは全日本F3からアメリカのインディカーレースを経由したけど)やラルフ・シューマッハのように日本での活躍がF1進出への足がかりとなったドライバーはたくさんいます。ペドロの目標も当然のようにF1であり、今シーズンの成績次第では来期はF1、というのもあながち夢物語では無いでしょう。
ヨーロッパにありながらF1ドライバーの数が極めて少ないのがスペインの特徴でもありますので、ペドロの日本での活躍は、スペインのモータースポーツにおける大きなサクセスストーリーにつながっていくのかもしれません。
NAVI CONNECTION レーシングチームの舘ひろし監督。芸能人とはいえ、必ず毎戦サーキットに足を運び、監督としての役割を果たしているのは立派です。
昨年までの顔であった影山正彦、近藤真彦という2人のドライバーから、今年は影山正美、山本勝巳という若手(といっても正美は今年でもう30歳になってしまったんですねぇ・・・もう「若手」と呼んでは失礼だなぁ(^^;)のドライバーにスイッチしました。影山正美は昨年まで使用していた横浜タイヤからブリヂストンタイヤ(今年は全車ブリヂストンタイヤ使用が義務づけられた)にチェンジしたことによって今年は生き生きとした走りを見せていますし、ドイツF3の経験を持つ山本勝巳も今年はある意味で勝負の年であるといいう覚悟でそれぞれ頑張っています。
今回のレースでも、影山が5位、山本が9位とそれぞれ結果を残しました。しかし、この2人の実力とチームのポテンシャルを考えれば、なんとしても今シーズン中には表彰台を何回かゲットし、できれば一度は表彰台の一番高いところに立ってもらいたいところです。
ANABUKI 童夢無限チームの監督、松本恵二。私のようなちょっと前からのレースファンにとっては、国内レース界へ「日本たばこ(CABIN)」という大企業のスポンサーを最初に持ち込んだドライバーという印象が大変強く残っています。
「彼にとってプレッシャーはエネルギーだ」というキャビンのCMコピーは、日本のCMコピー史に残る珠玉の名言だと私は信じているのですが・・・(=^_^=)。
写真は、F3のスタート前にコース上で自チームの横山崇選手にアドバイスを与えているところ。F3に2台エントリーした童夢チームでは、脇坂薫一(脇坂寿一選手の実弟)選手が3位、横山崇選手が9位とまずまずの結果を残しましたが、正直なところ、脇坂選手には優勝を期待したいところです。
それはともかく、なんか、「松本恵二も老けたなぁ・・・」というのが私の率直な印象でした(ファンの方、ゴメンナサイ・・・(^^;)
全日本フォーミュラ3選手権シリーズ第5戦
フォーミュラ・ニッポンが日本のフォーミュラレースの最高峰であるのに対して、その一歩手前に位置するのがフォーミュラ3(F3)。3000ccのレーシングエンジンが使用されるフォーミュラ・ニッポンに比べて、市販エンジンをベースとした2000ccのエンジンを使用するF3ではチームごとのマシンの性能差がほとんどなく、純粋にドライバーの力量が試されるレースとなっています。
そんな中、今シーズンは他を寄せ付けない圧倒的な強さを見せているのがトム・コロネル。これまでの4戦中3勝を飾っており、今回のレースでは、誰がトムを止めるのか、あるいはトムがやはり手の付けられない速さを見せるのか、というのが一番の見所でした。
レースが始まってしばらくの間は、ポールから飛び出したトムを予選2位の立川祐路が激しく追い上げ、一時は130Rコーナーで並びかける勢いを見せたのですが、結局その後はトムがじりじりと差を広げ始め、最終的には3.89秒差で余裕の4勝目を挙げました。このままの調子でステップアップしていけば、トムも近いうちにはF1への道が開けてくるかもしれません。
今年からF3への挑戦を開始した長島正興選手。知っている人は知っているが、知らない人はたぶん知らないだろうと思いますが、なんとあの読売巨人軍の長島監督の息子さんです。
「メガネスーパー」という(F3では)メジャーなスポンサーを獲得しているところは親のおかげかもしれませんが、いくらバックに誰がついていようが、遅けりゃ誰も相手にしてくれないのがこのレースの世界。その点、長島選手はF3への登竜門とも言えるフォーミュラ・トヨタで優勝を含む活躍を見せているほか、ツーリングカーレースでも活躍しているところから、間違いなく本物のレーサーであると言えましょう。
残念ながら15位ということであまり良い結果であったとは言えませんが、今後の活躍に期待しましょう。
F3には長島2世もいますが、レース界ということで言えばもっとメジャーな2世がいます。No9のスリーボンド・GO・ダラーラF397HKSを走らせるのは清水剛選手。清水という名字とスリーボンドというスポンサー名で誰もが(レースファンなら)思い出すのが清水正智選手です。
清水正智選手と言えば、本職が歯科医で、そのかたわらでレースに参加し、トップフォーミュラ(当時はF2と呼ばれていました)や、富士グラン・チャン・シリーズ、耐久選手権など日本のほとんどのメジャーなレースに参戦していた「日本一のアマチュアドライバー」でした。初期にはスリーボンドがスポンサーでしたが、むしろ後年の派手なピンクの「トライデント」カラーに塗られたマシンとレーシングスーツを思い出す人の方が多いのかもしれません。
もうレースへは出場していないようですが、清水正智選手が現役時代、「息子が大きくなったら2人でチームを組んで耐久レースに出るのが夢だ」と言っていましたが、その息子もすでに23歳、とうとうF3までステップアップしてきました。親子のドライバーによる耐久レーシングチームは実現するのでしょうか。
このほかに、トムスレーシングチームからは同チームの舘信秀代表の息子である舘信吾選手も出場しており、いよいよ日本のレース界も2世時代に突入したようです。
肝心の成績ですが、舘選手は5位、清水選手は11位ということで、今回の2世対決は舘選手の勝ちだったようです。
上記の記事ではANABUKI 童夢無限チームの監督として紹介している松本恵二さん。1949年12月生まれですからこの当時は47歳だったようです。星野一義、中嶋悟と並ぶ日本を代表するスタードライバーで、1979年全日本F2選手権チャンピオン、1983年富士グランチャンピオン(GC)シリーズチャンピオン、1985年世界耐久選手権WEC-JAPAN優勝(星野一義、萩原光との3名)など輝かしい戦績を誇り、1992年の引退後はチーム監督などを通じて後進の育成に努めていましたが、2015年に惜しくも肝硬変のため享年65歳で亡くなってしまいました。
1985年に日本国内でのたばこの製造・販売を独占していた日本専売公社の事業が民営化され、日本たばこ産業株式会社(JT)が発足したことに伴い、この頃からたばこの販促活動が極めて活発に行われるようになりました(健康被害を考慮して宣伝活動が自粛されるようになったのは1998年以降のこと)が、当時、最も多くのTVCMが放映されていたのがキャビン(CABIN)というブランド(2016年廃止)であり、1986年からそのCMキャラクターを努めていたのが松本恵二さんでした。
下記のMiddle EdgeというWebメディアのサイトに当時のCM動画が紹介されていますので、詳しくはこちらをご覧いただければと思いますが、とにかく、当時はこのCMが強烈にカッコいいものとして多くの人々の脳裏に焼き付いたと思います。松本さんは1986年にベストドレッサー賞を受賞されていますが、これはこのCMによって醸成されたイメージが多分に貢献しているものであることは間違いないでしょう。
この年F3初挑戦の長島正興選手。上記の記事にもあるとおり長嶋茂雄巨人軍終身名誉監督の息子さんです(正興選手は「長島」表記を使用されています)。長嶋家は、長男・一茂、長女・有希、次女・三奈、次男・正興の4人きょうだいで、正興さんはその末子になります。
正興さんのレース活動についてはWikipediaにある程度の記述があるのですが、おおむね2000年以降についての記録しかなく、それ以前の活動についてはWeb上にほとんどまとまった資料はないようです。わずかに、SuperGTに参戦していた頃に所属していたニスモ(nismo)チームのサイトに簡単なレース活動歴が掲載されていますので、ここではこれをご紹介しておきます。
1992年 シビック(TI英田)で4輪デビュー
1994年 N1耐久、鈴鹿フレッシュマンN2クラスに参戦
1996年 FTでフォーミュラにデビュー
1998年 F3に参戦
1999年 アメリカ、フォーミュラアトランティックに参戦(~00年)
2001年 JGTC、S耐に参戦
2002年 JGTC、S耐に参戦
2003年 S耐クラス3チャンピオン。JGTCに参戦
2004年 JGTC、S耐に参戦
2005年 S耐に参戦
ただ、この資料ではF3参戦を1998年としていますが、実際にはこの記事が書かれた1997年から参戦しており(1998年も継続して参戦)、これがどこまで正確なものであるかは不明です。
Wikipediaによれば、2001年に全日本GT選手権第6戦でGT300クラス優勝を果たし、2003年にはスーパー耐久クラス3のシリーズチャンピオンになるなど、レーシングドライバーとして相当の評価を得ていたようですが、現在は事実上引退状態にあり、環境管理士などの分野で活動されているとのことです。
長島正興 - Wikipedia