「モータースポーツ回顧録」のカテゴリーでは、過去の個人サイトに掲載していたモータースポーツ関連の記事を再掲していきます。
今回の記事は1998年7月に鈴鹿サーキットで開催された「フォーミュラ・ニッポン 第5戦」の話題です。
フォーミュラ・ニッポン(FN、一般には「エフポン」という呼び方の方が定着していたようですが)というレースについては過去の記事でも何回か紹介していますが、F1とよく似た車体に排気量3,000ccのV型8気筒エンジンを搭載したマシンで争われるレースで、日本国内での最高峰のレースとして位置づけられていました(現在はスーパーフォーミュラと名称を変更)。
このレースは日本各地のサーキットを転戦して開催されており、1998年には鈴鹿サーキット(三重県)で3戦、富士スピードウェイ(静岡県)で3戦、CP MINEサーキット(山口県 2006年に閉鎖、現在はマツダのテストコース)で2戦、ツインリンクもてぎ(栃木県)とスポーツランドSUGO(宮城県)で各1戦の合計10戦が予定されていました(富士スピードウェイの第7戦は濃霧のため中止されました)。
今回紹介するレースは、このシリーズの第5戦にあたり、これまで鈴鹿(高速コースとテクニカルコースが適度にミックスされていることが特徴)、MINE(ストレートが短くコーナーがきつい低速コースで、滑りやすい路面であることが特徴)、富士(長い直線と緩いコーナーが多い高速コースであることが特徴)、もてぎ(ストレートは長いものの急減速を要するきついコーナーが多く、ブレーキに厳しいコースであることが特徴)、とそれぞれ特性の異なるサーキットを転戦してきた後に、再びオールラウンドな能力が要求される鈴鹿サーキットへ舞台が戻ってきたという状況になりました。
下記でも紹介しているとおり、これまでの戦績は本山哲 2勝、影山正彦、脇坂寿一各1勝ということで、今回のレースが今後の展開を占う上で非常に重要なものになるものと考えられていました。
それでは、こうした背景を踏まえて下記の記事をご覧ください。
Formula Nippon Round5 Suzuka Circuit

アニイ(兄)は、師匠の前で「星野パターン」を再現
梅雨明けはまだ発表されてはいないものの、35度を越える猛暑の中で行われたフォーミュラ・ニッポンの第5戦。今シーズンのフォーミュラ・ニッポンでは、予選から決勝にかけて必ず一度は雨に見舞われるというジンクスがつきまとっていたのですが、5戦目にしてやっと完全な晴天のもとで全てのスケジュールが実施されました。
第1戦鈴鹿 影山正彦、第2戦CP-MINE 本山哲、第3戦富士 本山哲、第4戦ツインリンクもてぎ 脇坂寿一とフレッシュな優勝者の顔ぶれがそろった今年のフォーミュラ・ニッポンですが、サーキットを一巡して鈴鹿サーキットに戻って来た今回のレースでは、予選、フリー走行を通じて影山正彦の圧倒的な速さがパドック中の話題をさらいました。
前日に行われた公式予選では、影山一人が1分46秒台に突入する1分46秒408を早々に記録、予選終了を待たずして、トップを確信した走りでした。それもそのはず、予選2位につけた野田英樹のタイムは1分47秒149で、なんと後続を1秒以上引き離しての圧倒的な大差をつけてしまいます。この勢いは予選上位6人で争われるスペシャル・ステージでも止まらず、余裕でポールポジションを獲得しました。
さらに、日曜朝のフリー走行でもトップタイムを記録、あとは決勝においてトップでチェッカーを受ければ、全ての計時セッションでトップを獲得するというパーフェクトウィンになるのです。
そして迎えた日曜の午後2時、各ドライバーと観客の興味は、誰がロケットスタートを決めて影山正彦を押さえ込むのかという一点に集中しました。そして、グリーンシグナルが点灯。無難にスタートを決め、最初に1コーナーへ飛び込んで行ったのは、やはり影山でした。1コーナーでは黒澤琢弥と金石勝智が関連する多重クラッシュが発生し、5台が一挙に戦列を離れましたが、トップ争いには関係なく、影山の速さばかりが際だつレースとなりました。唯一、影山を追う体勢に入っていた本山が11周目にリタイヤして以降は、影山の全くのサンデードライブ。誰一人背後を脅かすものはなく、35周のレースを走り終えて悠々とチェッカーを受けました。
師匠であり、チーム監督でもある星野一義が得意としていた「ぶっちぎり」のレースを見事に影山正彦が再現したことになり、影山の優勝に初めて立ち会った星野監督の目は真っ赤になっていました。
これで、選手権ポイントは、本山哲26点、影山正彦20点、脇坂寿一19点となり、今シーズンのチャンピオン争いは非常に面白くなってきました。また、シリーズ4位にはこのレースでも3位に入賞し、兄とともに表彰台の一角を占めた影山正美が14点でつけており、正美もまだまだチャンピオンの権利を有していると言えましょう。
順位 | ドライバー | チーム マシン |
1位 | 影山正彦 | MAZIORA IMPUL ローラT96-52無限 |
2位 | マーク・グーセン | TEAM 5ZIGEN レイナード97D無限 |
3位 | 影山正美 | SHIONOGI TEAM NOVA ローラT97-51無限 |

スタート直後の第1コーナー立ち上がり。影山正彦、本山哲、ノルベルト・フォンタナ、野田英樹、脇坂寿一、トム・コロネルの順にコーナーを抜けて行きます。この直後に金石と黒澤がからんで大きなアクシデントが発生しました。

影山兄の速さばかりが目立った今日のレースでしたが、もう一人、観客やレース関係者から大きな注目を集めていたのが、今回PIAAナカジマチームから参戦の松田次生(まつだ つぎお)でした。昨年、鈴鹿サーキットで行われるレーシングスクール(SRS-フォーミュラ)で優秀な成績を上げたことによって、奨学生の資格を得て今年からF3への参戦を開始したばかりの19歳ですが、PIAAナカジマのレギュラードライバーである山西康司が扁桃腺の手術をするということで今回は欠場したことから、急遽代役として松田に白羽の矢が立ったものです。
F3よりはるかに馬力があるフォーミュラ・ニッポンのマシンにはまだまだ慣れていないにも関わらず、土曜日の公式予選ではあわやスペシャル・ステージ進出かと思われる予選7位のタイムを記録、決勝での大暴れが期待されました。
決勝ではスタートを若干失敗したものの、トップと遜色のないタイムで周回、SRS-Fの先生でもある田中哲也を20周まで背後に押さえ込みました。しかし、初めての国内トップフォーミュラ挑戦が35度を越える酷暑の中とあって、体力が相当きつかったのか、21周目に田中哲也に抜かれてからは徐々にタイムを落とし、近藤真彦に1周2秒近いペースで追い上げを許しました。しかし、近藤がバックミラーに映りはじめてからは新たな元気を絞り出したのかまたタイムを戻し、なんとか順位を確保、トップの脱落にも助けられて、見事に6位入賞、1ポイントを獲得しました。
松田次生、もしかしたら、大化けするかも知れません。今年、大注目のドライバーです。

開幕戦(鈴鹿)9位、第2戦(CP-MINE)8位、第3戦(富士)11位、第4戦(ツインリンクもてぎ)10位と着実に完走を果たし、今回のレースでもポイント圏内にあと一歩の7位を獲得したのが近藤真彦(チームTMS)。今年は、久々のテレビドラマの主役を演じたり、シングルを出したりと大活躍を見せていますが、レースの世界でもプライベーターとしては出色の成績を残しています。
また、マッチは自分自身のレースだけではなく、「近藤真彦レーシングプロジェクト」というチームを結成し、F3クラスに歌川拓、ルビン・デルフラーという2人のドライバーを送り込むなど若手の育成にも力を入れ始めており、今後、日本のレース界を語る上で、無視することのできない大きな役割を果たすこととなるのではないかと私は大きく期待しています。

第1戦こそ3位表彰台を獲得したものの、第2戦は5周でリタイヤ、第3戦はマシントラブルを抱えながらの6位完走、第4戦はトップを脅かす走りを見せたもののテールランプが点灯しないとの理由からペナルティを受けてトップ争いから脱落、結局リタイヤと、なんとも運が悪いとしか言えないのがこの人、ノルベルト・フォンタナ(LEMONed Le Mans)。
1995年ドイツF3チャンピオンの肩書きをひっさげて日本に上陸、その速さは誰もが認めるところながら、今年はどうも気の毒なレースが続いています。「運も実力のうち」というのはある意味で真実なのですが、今日のレースでも残り1周というところまで2位を走りながら、ミッション系のトラブルで痛恨のビットイン。結果は完走扱いになったものの、近藤真彦の後ろになる8位というリザルトになってしまいました。愛嬌があって、才能があって、きっと大成するドライバーだとは思うのですが、今年もかなり手中にしていたF1の座を逃すなど、どうも不幸の影の漂うドライバーという雰囲気が出てきてしまっています。
がんばれ、フォンタナ。

チェッカーフラッグを受けた後、互いの健闘をたたえ合うマーク・グーセン(TEAM 5ZIGEN……青のマシン)と脇坂寿一(AUTOBACS RACING TEAM AGURI……赤のマシン)。
予選4位からスタートしたグーセンは、スタートで出遅れたものの、脇坂、影山正美をバスし、19周目に4位へ浮上。前を行く野田英樹のリタイヤ、フォンタナのピットインに助けられて、昨年の来日以来自己最高位の2位表彰台を獲得しました。
第1戦ではスタートに失敗し、その後鬼神のような追い上げで18台抜きという派手なパフォーマンスを見せてくれた脇坂寿一は、今回は淡々としたレース運びをみせて表彰台に一歩とどかない4位という結果に終わりました。しかし、レース後のインタビューでは、「マシンに問題があったけど、完走できて十分なデータが取れたから、今回はこの結果に満足している」と答えていました。本当に満足だったのか、あるいは…………。

師匠の星野譲りの「ブッちぎり」パターンで今季2勝目をあげた影山正彦。前回の初優勝時には星野監督がル・マンのテスト走行のために海外へ出ていたため、監督の目の前で優勝を果たしたのは今回が初めてということで、影山はものすごく喜んでいたようてです。
本当は、メインストレートから星野監督を乗せてパレードに出たかったようなのですが、オフィシャルに制止されたようで、一人きりのウィニングランとなりました。しかし、コーナーの至るところで観客席に大きく手を挙げ、「イチバン」をアピールしていました。
テレビのインタビューでは、星野監督が、「優勝してみんなから誉めてもらうようじゃだめだ。いつでも圧倒的な速さを見せて、『あいつが勝ったんじゃ、レースが面白くない』と言われるぐらい勝つようにならなくちゃ」と厳しいコメントを付けていましたが、その目は涙で真っ赤になっていました。

表彰台の中央に立つ影山正彦と、3位のポジションに立つ影山正美。開幕戦に続いて同時に表彰台に上った「影山ブラザーズ」が今年のフォーミュラ・ニッポンにおける台風の目になったようです。
次はこの逆、つまり弟の正美が表彰台の中央に立って、兄正彦が2位の座につくというシーンを見たいものです。今年の勢いを見れば、正美の初優勝というのも十分に考えられるだけに、是非とも「兄弟下克上表彰台」というのを見たいものです。

フォーミュラ・ニッポンと同時に開催された全日本F3選手権第6戦。明日のF1ドライバーを目指す若者が大勢参加しています。
これまでの5戦で、イギリスのピーター・ダンプレック(トムス)が3勝と好成績を残していますが、加藤寛規(戸田レーシング)と松田次生(NAKAJIMA ホンダ)が各1勝をあげており、今回の鈴鹿でも新たなウィナーの誕生が期待されていました。
しかし、結局フタを開けてみれば、予選3位から好スタートを決めたダンプレックが後続を徐々に引き離し、悠々のドライブで今季4勝目を挙げました。前のもてぎのレースで優勝した松田次生が山西の代役としてフォーミュラ・ニッポンに出たため欠場したとはいえ、その他のドライバーも全くダンブレックの背後を脅かすことができなかったというのは、ちょっと残念なところです。

伊藤大輔(スキル・スピード)をアウト側から抜き去り、3位の座を奪おうとする金石年弘(スーパー・アグリ・カンパニー)。今回のレースでフォーミュラ・ニッポンにデビューした松田次生とともに、昨年の鈴鹿レーシングスクール・フォーミュラの奨学生に選ばれて今年からF3に挑戦しているドライバーですが、同時にフォーミュラ・ニッポン・ドライバーの金石勝智選手の従兄弟であることでも知られています。
今回は、この見事なパッシングによって3位表彰台をゲット、これが金石年弘にとって初めてのF3表彰台となりました。

サポートレースの「ホンダシビック・インターカップ・レース」に出場している八木爵司選手。私の地元和歌山では有名なホンダ系ディーラーである「ホンダプリモYAGI」のオーナーで、鈴鹿のシビックレースの常連です。
今回のレースでは、予選12位からのスタートで、決勝は9位と、トップからはだいぶ離されてしまいましたが、なかなかの力走をみせてくれていました。

予選3位からのスタートだったものの、1コーナーで後輪をダートにはみ出し、必死で体制を立て直そうとしているのが、西垣内正義(5 ZIGEN CIVIC)。シビックレースではもう超ベテランの域に達している西垣内ですが、私が以前からひそかに親近感を抱いているドライバーです。
今回のレースでは、このコースアウトもあり、マシントラブルも発生して5周であえなくリタイヤという結果に終わってしまいました。
本文中で大きく注目していた松田次生選手は、この年のフォーミュラ・ニッポン出場はこの1レースのみで、1998年、1999年と全日本F3選手権にシリーズ参戦して年間4位、5位の成績を残したほか、1999年のF3マカオGPで総合4位という好成績をあげました。
2000年からはフォーミュラ・ニッポンに正式に参戦し、2007年、2008年には見事年間チャンピオンの座に輝きました。フォーミュラ・ニッポンで2年連続チャンピオンを獲得するのは史上初の快挙です。
その後2013年まで断続的にトップフォーミュラに参戦を継続しますが、これと並行してGTカー(市販スポーツカーをベースにしたレース専用車両)レースにも参戦しており、特に2008年以降はニッサンのトップドライバーとしてGT-Rを走らせるようになりました。これ以降、松田次生選手は2021年度までずっとGT-Rで SUPER GT レースへの参戦を継続しており(2022年度もニッサンチームのエースナンバー23番を着けて参戦予定)、2014年、2015年の2年連続年間チャンピオン獲得をはじめとする活躍を続けています。
今では「究極のGT-Rオタク」という愛称も付けられているということで、大活躍をみせてくれているのは非常に嬉しいことなのですが、ホンダが育成したSRS-Fの卒業生がホンダ陣営で十分な成績を残せずにニッサン陣営に移籍した途端に活躍をはじめたというのが、やや、微妙な感じを覚えてしまうのは、ちょっとね(笑)。
本文で松田選手の次に紹介しているのが近藤真彦選手。
近藤選手のレース活動は、1984年の富士フレッシュマンレース第2戦に日産・マーチで参戦したことが始まりとされていますが、これは、1982年に日産が新型コンパクトカー・マーチを発売するにあたって歌手・近藤真彦をCMキャラクターに起用して「マッチのマーチ 新発売」という大々的なプロモーションを行ったことが大きく影響していました。近藤選手が参戦した富士フレッシュマンレースというのは基本的にアマチュアドライバーによるレースで、通常は決して多くの観客を集めるようなイベントではないのですが、この1984年の第2戦に関しては当時のスーパーアイドル・マッチが出場するとあって3万人以上の観客を集めたとして大きな話題になりました。
改造車やチューニングカーの話題を取り扱う雑誌「Option(オプション)」では、このレースの模様について相当な揶揄を込めて特集記事を掲載していたとのことで、同誌のWebサイトには次のような記事が掲載されています。
しかし、その後、全日本F3選手権(1988~1993)、全日本F3000選手権/フォーミュラ・ニッポン(1995~2000)、全日本GT選手権(1994~2002)、ル・マン24時間レース(1994~96、2000~2003)とトップレベルのレースにドライバーとして参戦し、それ以後は自らのレーシングチーム「KONDO Racing Team」の監督としてスーパーフォーミュラや SUPER GT などのレースで何度も勝利を挙げるようになると、レース界からの見方も大きく変わってきたようです。
これについて、モータースポーツ・ジャーナリストの大串信(おおぐし まこと)氏は Sports Graphic Number 誌のWebサイトに次のような記事を掲載しています。
近藤真彦56歳はレース界でどう評価されてきた?
(略)
当時のレース活動については、業界内部でも「いつもの芸能人の道楽」と冷ややかに眺める風潮が強かった。プロを目指す有力選手とともに走るF3では、もはや芸能人の特権が働く余地はなく、実力勝負となってしまえば近藤の技量はさすがに通用しなかった。しかし下位を低迷しながら近藤はF3レースを続けた。そしてなんと6シーズンにわたって走り続けるうち、業界内部にも「近藤真彦は本気なのではないか」と、眺める目の空気も変わってきた。
(略)
ここで6シーズン戦うのは異例のことだが、近藤はコツコツと自分の技量を磨くと共に様々な経験を積むために時間を使っていたのだろう。そして1995年には国内トップカテゴリーである全日本F3000選手権(現スーパーフォーミュラ)にステップアップを果たした。
(略)
やはり近藤は全日本F3000選手権でも低迷を強いられる。単に芸能人の道楽であれば、脇役にも届かない立場でレースを続ける意味はない。しかし近藤は、F3とは比較できないレベルの体制や資金が必要な全日本F3000選手権の仕組みの中で、コツコツとさらに5シーズンにわたって活動を継続した。
この過程で近藤は、成績は残せないまでも1人のレーシングドライバーとしてレース界にその立場を確立するとともに、さらに異なる形で評価を高めることとなった。というのも、全日本F3000選手権活動の途中から近藤はレースに対する姿勢を変え、自分のチーム体制を作り始めたからだ。
(略)
チームを立ち上げて19年目の2018年、KONDO RACINGは国内トップカテゴリーである全日本スーパーフォーミュラ選手権のチーム部門でシリーズチャンピオンに輝いた。これまでに費やした19シーズンを長いと見るか短いとみるかは難しいところだが、少なくとも芸能人の知名度だけで獲得できる栄誉ではない。ここにKONDO RACINGは、脇役の域を脱し、国内レース界の主役級チームとなったのである。