生石高原の麓から

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’97フォーミュラ・ニッポン第10戦 鈴鹿(1997.11.8~9)

 「モータースポーツ回顧録」のカテゴリーでは、過去の個人サイトに掲載していたモータースポーツ関連の記事を再掲していきます。

 今回の記事は1997年11月に鈴鹿サーキットで開催された「フォーミュラ・ニッポン第10戦」の話題です。

 フォーミュラ・ニッポンは、F1の直下のクラスと位置づけられていた国際F3000選手権がコスト削減のためにワンメイクシャシー、エンジン、タイヤを一種類に限定)されたことを受け、メーカーやチームがある程度自由にマシンの開発を行えるよう日本独自の規格を制定したことにより発足したシリーズです。
 このため、マシンの戦闘力はF3000よりも高く、ドライバーとしてはF1で求められる高度なマシン開発能力を学ぶことができるとあって、この年は多くの外国人ドライバーがフォーミュラ・ニッポンに参戦することになりました。(詳細は「’97フォーミュラ・ニッポン第1戦 鈴鹿」を参照ください。)

 しかしながら、結果的にこの年はペドロ・デ・ラ・ロサの独走状態となり、他の外国人ドライバーでは、同年のF1ザウバーチームからスポット参戦(4戦に出場し最高位は9位2回)したノルベルト・フォンタナ(アルゼンチン)が第7戦MINEで優勝するなどの実績によりシリーズ3位に入ったのが最高であり、あまりF1で大成した選手が現れなかったのは残念なことです。
 まあ、それだけこの時期のフォーミュラ・ニッポンが高度な戦いであったという見方もできるでしょうし、この当時日本に活路を求めて参戦した外国人の多くが日本人と比べてもそれほどポテンシャルが高いとは言えなかったと見ることもできるでしょう。
 以下の記事はこうした背景を踏まえてご覧ください。

 

1997 フォーミュラ・ニッポン
シリーズランキング

 順位  氏名  ポイント 
1  ペドロ・デ・ラ・ロサ  82
2  黒澤 琢弥 28
3  ノルベルト・フォンタナ  21
4  光貞 秀俊 20
5  影山 正美 19
6  高木 虎之介 18
7  影山 正彦 16
8  ラルフ・ファーマン 12
9  金石 勝智 10
10  飯田 章 7

 

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1997年 全日本選手権
プレイステーション
フォーミュラ・ニッポン第10戦 鈴鹿
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実車ミニ四駆ガンブラスターXTO」
詳細は「'97JTCC鈴鹿スーパーツーリング」参照のこと

 

Pedro! The Fastest!!


 F1日本GPも終わり、秋風の到来とともにレースの世界もいよいよ終幕を迎えつつあります。
 開幕当初はF1へのステップアップを控えた高木虎之介がどれだけ勝ち星を重ねられるか、そして見事チャンピオンの座を獲得できるのか、というのが今シーズンの最大の注目点であると思われていましたが、いざ蓋を開けてみると、トラが意外にも大苦戦を強いられ、代わってペドロ・デ・ラ・ロサ(スペイン)黒沢琢弥がすばらしいパフォーマンスを繰り広げる展開となりました。
 とりわけ、来日3年目を迎えたペドロ・デ・ラ・ロサの成績はめざましく、今シーズンこれまでの9戦を通じて優勝5回、出場した全てのレースで3位以内の表彰台をゲットするなど圧倒的な強さを見せ、第7戦で早々にシリーズチャンピオンの座を獲得しました。

 こうした流れを受けて始まった今回の第10戦は、今年度の最終戦ということもあり、各ドライバーとも来シーズンの体制づくりのためにスポンサーへのアピールも含めてなんとしてもいいところを見せなければならないのですが、勝負の世界は非情なもので、やはり勝者と敗者が生まれるのは仕方のないところです。

 「ストップ・ザ・ペドロ」を目指して、高木虎之介黒沢琢弥の日本人最速コンビが一矢を報いることができるかどうかというのが今回のレースの最大の見所だったのですが、ファンの歓声はスタートの瞬間に一斉に大きな溜息へと変わってしまいました。
 虎之介の弱点の一つがスタート時の不安なのですが、今回もトラはスタートダッシュの瞬間にクラッチ操作を誤り、一気にエンスト。他のマシンがスタートラインを横切っていく脇で、全車を見送ってからオフィシャルに押し掛けされての最後尾からのスタートという最悪の結果になってしまいました。

 最後尾から追い上げた虎之介は、その後徐々に順位を上げて結果的に5位というポジションを獲得しましたが、残念ながらトップを悠々と独走するペドロには全く追いつかず、不本意な成績に終わりました。
 終わってみれば、ペドロがチャンピオンの貫禄を見せて今期6勝目をあげ、黒沢影山正彦チーム・インパルコンビが2位と3位を独占しました。とはいえ、2位に入った黒沢ペドロの早さには為すすべがないという感じで、今回のレースはペドロただ一人が主人公であったと言い切っても過言ではないでしょう。  
 

1997フォーミュラ・ニッポン 第10戦 レース結果
 順位  ドライバー チーム
マシン
 1位   ペドロ・デ・ラ・ロサ   シオノギ・チーム・ノバ 
 ローラT97-51 
 2位   黒 沢 琢 弥   チーム・インパル 
 ローラT96-52 
 3位   影 山 正 彦   チーム・インパル 
 ローラT95-50 


 

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 1995年に来日し、圧倒的な強さで全日本F3チャンピオンを獲得したペドロ・デ・ラ・ロサ。その実績をひっさげて昨年からフォーミュラ・ニッポンにステップアップしたものの、参戦初年度はシリーズ8位とやや期待はずれの結果に終わりました。ところが、国内トップフォーミュラ参戦2年目となる今年は、4月の第一戦鈴鹿で優勝を遂げるや、圧倒的な強さを見せつけることになりました。
 これまでの戦績は、第1戦鈴鹿優勝、第2戦MINE優勝、第3戦富士2位、第4戦鈴鹿3位、第5戦SUGO優勝、第6戦富士優勝、第7戦MINE2位、第8戦もてぎ2位、第9戦富士2位、と9戦中5勝、全戦表彰台という素晴らしいもので、第7戦で早々にシリーズチャンピオンを決定してしまいました。
 そして、この日のレースではスタートからダッシュよく飛び出すと圧倒的なスピードで2位の黒沢以下を大きく引き離し、完璧な勝利で引退した星野一義選手に並ぶ年間6勝という最多勝利タイ記録を成し遂げました。
 これまでも「速い」外国人ドライバーは数多く日本のレースに参戦してきましたが、今年のペドロほど完璧な「強さ」を見せたドライバーは初めてではないでしょうか。表彰台では、「3年間の応援ありがとう。来年は、できればF1日本グランプリでお会いしましょう」とファンへメッセージを送っていましたが、果たして、ペドロの1998年はどうなるのでしょうか。一説には、ティレルに加わって、虎之介のチームメイトになるという話もあるようですが、それはそれで楽しみなような、トラが嫌がりそうな・・・・・。

 

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 表彰を受けるトップ3ドライバー。ペドロ・デ・ラ・ロサを真ん中に、黒沢琢弥影山正彦というチーム・インパルのドライバーが2位、3位に並びました。
 今シーズンは、「日本一速い男星野一義の突然の引退というショッキングなニュースから始まりましたが、その後任として星野自身が指名したと言われる黒沢が今回も日本人ドライバー最速の位置を手にしました。
 昨年は高木虎之介のチームメイトとして中嶋企画のシートを得ていた黒沢ですが、チームの方針で若手の山西康司を起用することになったため今シーズンはシートを失うことになっていました。そこへ、星野からの突然の電話で栄光のカーナンバー「19」を与えられ、心機一転新たなチャレンジを開始し、見事に年間シリーズ2位の座を獲得しました。来シーズンの参戦予定はまだ明らかにされていませんが、これからも国内フォーミュラに無くてはならないドライバーの筆頭だと思います。
 影山も、今シーズンはナビコネクションへ移籍した実弟正美が好調で、前戦までのシリーズ順位では正美6位、正彦7位と差を付けられていただけに、今回のレースではなんとか兄としての貫禄を見せたかったところでしょう。
 結果、正彦は見事に今シーズン3回目の表彰台をゲットしましたが、弟の正美もコンスタントに35周を走りきり、兄に次いで4位を獲得、シリーズランキングでは正美が19ポイントで5位、正彦が16ポイントで7位と、残念ながら兄の権威はちょっぴり揺らいだというところでしょうか。
 それにしても、「世界で最もF1に近いレース」とも言われる昨今のフォーミュラ・ニッポンにおいて、兄弟でシリーズ5位と7位を占めるとはとんでもない兄弟だと思いませんか?

 

Drivers, Drivers, Drivers

 

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 フォーミュラ・ニッポンの決勝に先立って行われたF3レースのスタート直前、山口大陸(やまぐち たいろく)を激励する高木虎之介
 山口は、中嶋悟が校長を務める鈴鹿サーキット・レーシングスクール・フォーミュラ(SRS-F)の卒業生で、今シーズンは西翼(にし つばさ)とともに奨学生としてSRS-Fがスポンサーを行うマシンでF3に参戦しています。
 このSRS-Fは現役のレーシングドライバーが講師を務めていることでも有名で、高木虎之介はその看板講師でもあるのです。来シーズンはティレルからF1に参戦することが正式に発表されていますが、「トラがもし良い成績を残せなかったら、現在の日本には次の人材がいないのではないか」とまで言われ、ある意味では「背水の陣」といった趣の期待を一身に受けて世界へ飛び出していくことに気負いはないのでしょうか。
 いずれにせよ、環境にさえ適応できれば、トラの才能は世界でも十分に通用すると思うのですが・・・・・

 

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 ほとんどスポンサーのない白いマシンで疾走するカーナンバー17、チームTMSレイナード97D。ステアリングを握るのはレーシングドライバー近藤真彦です。
 28台が出走した公式予選を24位で通過、レースでは後方集団ながら川本篤ビンチェンゾ・ソスピリ(イタリア)と激しいバトルを繰り広げました。結果は残念ながら20周でスピン、リタイヤということになってしまいましたが、それなりに見せ場はあったと思います。
 とはいえ、「芸能人」ではなく、「レーシングドライバー」として考えれば、この程度の結果で「よくやった」などと評価するのは大変失礼な話。マッチには来年もこのトップフォーミュラに挑戦してもらって、さらに上の成績をめざして欲しいものです。

 

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 スリランカからフォーミュラ・ニッポンに参戦していたディランタ・マラガムワ選手がシーズン途中からマシンを降りたため、その代役としてナンバー63のマシンを駆るのがOSAMU(中嶋修)選手。なんとナンバー62(戸田哲史)、63( OSAMU)の2台のマシンを走らせるチーム・レイジュンの監督でもあります。
 1983年には鈴鹿FJ1600シリーズ3位、1985年には全日本F3選手権シリーズ9位、という実績の持ち主ですが、国内トップフォーミュラへの挑戦は1995年に全日本F3000にスポット参戦して以来ということになります。今シーズンは8月の富士ラウンド以降の5レースに出場しましたが、15位、16位、16位、リタイヤ、16位という結果に終わっています。
※ ディランタ・マラガムワ選手については「'97フォーミュラ・ニッポン第1戦 鈴鹿」参照のこと

 

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 チーム5ZIGENからF3に参戦しているリスト・ヴィルタネン
 フィンランド出身の22歳で、今シーズン序盤はフォーミュラ・ニッポンに参戦していましたが、どういう事情か、9月の仙台ラウンド以降はF3にステップ・ダウンした形でレースを続けています。
 今期の成績は、フォーミュラ・ニッポンでリタイヤ、リタイヤ、10位、F3でリタイヤ、7位、中止、5位、という結果で、あまり目立った成績とはいえませんが、その甘いマスクもあって今後日本でもさらに人気があがるのではないでしようか。期待の注目株ですよ。

 

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 リスト・ヴィルタネンと同じくチーム5ZIGENから、こちらはシーズンを通してフォーミュラ・ニッポンに参戦しているマーク・グーセン(ベルギー)
 1995~96年の国際F3000選手権で連続シリーズ3位に入った実力派ドライバーです。これもかなり期待されて日本へやってきたドライバーですが、第6戦と第8戦でそれぞれ10位に入ったのが最高の成績で、後のレースは全てリタイヤと不安定さが目立っています。まあ、それでも今年のペドロのように、参戦2年目にして突然「化ける」ということもあるので、各ドライバーの動向は常にチェックしておかなければならないんですが。

 

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 鈴鹿レーシングスクール・フォーミュラ(SRS-F)の第一期生である伊藤大輔。同じく一期生の山西康司が、昨年はSRS-Fスカラシップで参戦したF3で大活躍を見せ、あわやシリーズチャンピオンを獲得するかという派手な成績を残したのに対し、伊藤F3へのステップアップカテゴリーであるフォーミュラ・トヨタに参戦、3勝を上げるという見事な実績を上げました。
 今年の全日本F3は、フォーミュラ・ニッポンペドロ・デ・ラ・ロサと同じように、トム・コロネル(オランダ)がここまで8戦中6勝と圧倒的な速さを見せつけました。立川祐路土屋武士脇坂薫一らの若手実力派ドライバーが次々とトムに挑みましたが、いずれも牙城を突き崩すまでには至らず、かろうじて土屋が第3戦でトムをかわして優勝を遂げたのが唯一の結果となりました。
 伊藤大輔は、これらのドライバーからはやや離れたところで戦っていましたが、後半戦になるに従って実力を発揮するようになり、第6戦菅生ではポールポジションを獲得、そして、今回の鈴鹿では、トム・コロネルの欠場があったとは言うものの、見事な速さを見せ、圧倒的な強さでポール・トゥ・ウインを飾りました。
 彼は地元の出身らしく、レースのたびに応援団(たぶん、家族や親戚だと思うんですが)がグランドスタンドに顔を見せています。今回の優勝では、お母さんらしき年代の女性が大喜びしていたのが大変微笑ましかったです。

 

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 二世ドライバーと言えば、F1の世界では言わずと知れたジャック・ビルニューブデーモン・ヒルが大御所ですが、日本人でも今やF1ドライバーとなった中野信治や、黒沢琢弥が有名です。これに続く次の世代の二世ドライバーとして、私が注目しているのが彼、清水剛(しみず ごう)選手です。
 お父さんは、かつてピンクのトライデントカラーでF2富士グラン・チャン・シリーズなどに参戦していた清水正選手。本業が歯科医であったことから、練習不足がたたってなかなか成績には結びつきませんでしたが、レースにかける情熱には頭が下がる思いでした。その二世がここへ来てF1までもが視野に入る位置でレースを戦うようになってきました。さあ、彼は父親を越えて、世界へ飛び出すことができるのでしょうか。
 今回のレースは、予選12位という不本意なグリッドからスタートして、7位でのゴールインと少し不満の残る内容でしたが、ぜひとも来年以降のブレイクに期待したいものです。

 

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 こちらも二世ドライバーの舘信吾(たち しんご)選手。と言っても彼のお父さんはレーシングドライバーではなく、トヨタのワークス格としてフォーミュラばかりでなくGTJTCCなど各種のレースで国際的にも大活躍を繰り広げている「TOM’S」の舘信秀代表なのです。
 若干20歳ながら、今シーズンは第1戦6位、第3戦3位、第5戦4位とまずまずの成績を残し、ここまでシリーズポイント7位につけていました。そして、今回の鈴鹿では、予選4位グリッドからスタートして、伊藤大輔立川祐路に次ぐ3位でゴールイン。4ポイントを獲得してシリーズランキングも一つ上がり、年間6位でシーズンを終了しました。

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 この年、ペドロ・デ・ラ・ロサ全日本GT選手権にも出場しており、ミハエル・クルム(プロテニスプレーヤーであった伊達公子の元夫)とのコンビで2勝をあげてシリーズチャンピオンを獲得しています。
 このように日本のレース界を席巻したペドロですが、F1への参戦はなかなかスムーズにはいかず、翌1998年シーズンはジョーダンチームのテストドライバーを務めることになりました。その後、1999年にようやくアロウズからF1にデビューすることが決まったのですが、そのチームメイトとなったのが、なんと本文でも因縁めいた書きぶりをしていた高木虎之介だったのです。この年、ペドロはデビュー戦となる第1戦オーストラリアGPで6位に入賞して1ポイントを獲得しましたが、この年のアロウズのマシンの戦闘力は低く、結果としてこれがこの年の同チームの唯一のポイントとなってしまいました。
 その後もなかなか目立った成績を残すことはできなかったのですが、結果的に正ドライバーとしてはアロウズ ('99-'00)、ジャガー('01-'02)、マクラーレン('05-'06)、ザウバー('10-'11)、HRT('12)と各チームを渡り歩きながら9年で107回の出走('98,'03-'04,'07-'09はテストドライバー又は第3ドライバー)を果たしたというのは立派な記録だと思います。

ja.wikipedia.org

 また、他のドライバーからの信頼も厚いようで、F1に参戦するドライバーによって構成される組織である「グランプリ・ドライバーズ・アソシエーション(GPDA)」では、ペドロが2回、通算6年間にわたって会長を努めています。
グランプリ・ドライバーズ・アソシエーション - Wikipedia

 

 本文の最後で紹介している舘信吾選手は、この翌年(1998年)の全日本F3選手権でシリーズ3位を獲得したほか、鈴木恵一選手とのコンビで参戦した全日本GT選手権GT300クラスでは全6戦中5勝という圧倒的な強さを見せてシリーズチャンピオンとなりました。
 その翌年の1999年にはいよいよフォーミュラ・ニッポン全日本GT選手権GT500クラスという2つのトツプカテゴリーに参戦することが決まっていたのですが、開幕を目前に控えた3月、TIサーキット英田でのテスト走行中の事故によりわずか21歳という若さでこの世を去ってしまいました。
 信吾選手が所属し、父である舘信秀氏が創設者であり現在は会長を務めるトムス(TOM'S)では、現在も同社が走らせるレーシングカーには必ず「With Shingo」のステッカーを貼っているとのことです。

welovesgt.com

 

 また、OSAMUこと中嶋修選手も2012年にレース中の事故により亡くなっています。Wikipedaによると、これは鈴鹿サーキットで行われたスーパー耐久シリーズのレース中の出来事で、他車のトラブルでコース上にオイルが撒かれていたところを通過した中嶋選手のマシンが急激にコントロールを失い、フェンス沿いに設置されていたタイヤバリアに激突したものでした。同選手はヘリコプターで病院に緊急搬送されたものの、残念ながら脳挫傷で亡くなったそうです。ご冥福をお祈りします。
 なお、この事故がきっかけとなってスーパー耐久シリーズに参加する車両にはHANSデバイス(頭部と頸部を衝撃から保護する装置)の装着が義務付けられた結果、これ以後はレース中の死亡事故は発生していないとのことです。
OSAMU - Wikipedia