「モータースポーツ回顧録」のカテゴリーでは、過去の個人サイトに掲載していたモータースポーツ関連の記事を再掲していきます。
今回の記事は1996年4月に鈴鹿サーキットで開催された「フォーミュラ・ニッポン 第1戦」の模様です。
前回の記事では全日本GT選手権の様子をご紹介し、その際にサーキットで行われる自動車で用いられる車両には大きく分けて「フォーミュラカー」と「ハコ(箱)」の2種類があるということを説明しました。全日本GT選手権は当時の日本で行われていた「ハコ」のレースの最高峰でしたが、これに対してフォーミュラ・ニッポンは「フォーミュラカー」における国内レースの最高峰として位置づけられていました(世界選手権であるF1レースは別格扱いです)。
4つのタイヤが剥き出しのレース専用車両であるフォーミュラカーのレースは、これまで様々なカテゴリーで開催されてきました。中でも一番有名なのがフォーミュラ・ワン(F1)ですが、この下位にあたるカテゴリーは様々な変遷をたどっています。
最もわかりやすい形・名称であったのが1950年代から1980年代中盤まで続いた「F1(世界選手権) - F2(エフツー F1へのステップアップカテゴリー) - F3(エフスリー 各国ごとの選手権レースで若手ドライバーの登竜門)」というピラミッドでしたが、景気の動向や自動車メーカーの思惑などにより1980年代以降はこのピラミッドが大きく揺れ動くことになります。
フォーミュラ2 - Wikipedia
フォーミュラ3 - Wikipedia
1995年まで、国内最高峰のフォーミュラカーレースと位置づけられていたのは、上記のF2規格に代わって登場したF3000(エフ さんぜん)規格による全日本F3000選手権でした。しかし、国際自動車連盟(FIA)が主催する国際F3000選手権では1996年から参加チームのコスト削減のために車体とエンジンのワンメイク化(それぞれ一社ずつが独占供給する)方針を決定したのに対し、日本ではレースのエンターテインメント性を高めることを目指して車体やエンジンに複数メーカーの参入を可能とする独自規格を制定し、これに基づく日本オリジナルのレース「全日本選手権フォーミュラ・ニッポン」を立ち上げたのです。
今回紹介するレースは、まさにこの「新生フォーミュラ・ニッポン」の開幕戦であり、記念すべきレースでしたので、そのあたりも踏まえて下記の記事をご覧いただけると面白いと思います。
4月28日、鈴鹿サーキットにおいて「1996年全日本選手権フォーミュラ・ニッポン第1戦」が開催されました。1987年から1995年まで日本の最高峰のレースとして開催されてきたF3000レースが、今年から「フォーミュラ・ニッポン」と名称を改め、新たなスタートを切ったのです。
レース内容は、予選で圧倒的な速さを見せたヤングタイガー・高木虎之介がスタートで出遅れ、国産マシン童夢を駆る中野信治、「日本一速い男」星野一義、94年の全日本F3チャンプ・M・クルムに次ぐ4番手となる波乱の幕開けとなりました。
しかし、虎は、スプーン入り口でクルムを、またシケイン入り口で星野を、それぞれ強引とも言える突っ込みでかわし、序盤のうちに中野追撃態勢を整えました。
ここからの中野と高木のトップ争いは近来まれに見る厳しいもので、二人の若手の一歩も譲らぬ争いが、まさに新時代の日本のトップフォーミュラの幕開けを告げるかのようです。
結果として、残り8周になったところでシケイン入り口で高木が中野の後部に追突、高木はリタイヤ、中野が体制を立て直す隙に乗じてトップを奪った星野が漁夫の利を得て2年ぶりの優勝を遂げました。
また、今年から日本に本拠地を移したラルフ・シューマッハ(F1チャンピオンのミハエル・シューマッハの弟)が、上位陣の脱落に助けられながらも非凡なスピードを見せ、日本のフォーミュラ初参戦にして3位表彰台を獲得しました。
決勝レース結果
1位 | 星野 一義 | カルソニックIMPUL | ローラT96/95 無限 |
2位 | 中野 信治 | avex童夢無限 | 童夢MF104i 無限 |
3位 | ラルフ・シューマッハ | チーム・ル・マン | レイナード96D 無限 |
他の選手とは桁違いのスピードを見せた高木虎之介。中野との接触の後、テレビのインタビューに答えて「ペースが遅すぎるよ。(中野は)ミスが多かったし。」と悪びれもせず答えるあたり、21歳にして既にレース歴10年以上という風格を漂わせていると言ってもよいほどである。
決勝スタートで見事なジャンプアップを見せ、トップに躍り出たあと虎之介と激しい競り合いを見せた中野信治。中嶋悟の支援を受け、イギリスでFVL(フォーミュラ・ボクゾール・ロータス)を戦った経験を有し、将来を嘱望されている若手ドライバーだが、日本へ帰国して以来比較的地味なレースが続いていた。今年は童夢で国産F1マシンの開発に携わるなど、活躍の場を広げている。今回のレースでは、シケインで虎之介と接触し、再スタートに成功したものの、星野にトップを奪われ悔しい2位に終わった。
星野一義48歳、「日本一速い男」は今も健在である。トップ争いの接触に助けられての勝利だが、要するにトップに何かが起きたときにすぐ前へ出られる位置に着けているというのがこの人の凄いところだ。しかし、中嶋悟も鈴木亜久里も片山右京もみんなこの人を乗り越えてF1へ飛び込んでいった。若手ドライバーにとって、F1の世界へ入るためになんとしてでも乗り越えなければならない大きな、高い壁は今年も元気である。
「F1GP NIPPONの挑戦」を旗印に純国産マシンでのF1挑戦を計画している童夢レーシングチーム。フォーミュラ・ニッポンのアトラクションの一つとして、今回のレースでは完成したばかりのマシン童夢F105のデモンストレーション走行が行われた。日本人ドライバーの育成も検討している童夢では、全日本F3選手権で開幕2連勝を果たした脇坂寿一選手にテストドライブのステアリングを託した。テスト用に搭載されている無限・ホンダV10エンジンはこれまでにも増して官能的な響きを奏でた。
もう一つのアトラクションの目玉がこれ。航空自衛隊ブルーインパルスによるアクロバット飛行(公式には「展示飛行」と呼ぶ)。昨年までは国産のT2高等練習機を使用していたが、今年からは機体を同じく国産のT4に変更し、パイロットも全員交代して新生ブルーインパルスが誕生した。実際の展示飛行の経験は短いが、密集隊形での編隊飛行や、カラースモークによるハートマーク描きなど、約30分間にわたって華麗な演技で観客を魅了した。
スタンドに向かってポーズを取るTEAM 5ZIGENのスタッフとキャンギャル。ドライバーはマルコ・アピチェラ(イタリア)。
この年にスタートしたフォーミュラ・ニッポンはやがて独自の進化を遂げ、2013年からスーパーフォーミュラという新しい規格のもとでレースが行われるようになりました。スーパーフォーミュラのマシンには一時的にエンジン出力を高める「オーバーテイクボタン」があり、このボタンを使用したかどうかがマシン上部に取り付けられたランプの色で観客にも判る、というまるでゲームのようなシステムもあり、今まで以上に観客が楽しめるような取り組みが行われているのが特徴です。
また、上記の文中にあるように、この時期には、レーシングカーコンストラクター(製作者)である「童夢」が、「F1GP NIPPONの挑戦」と題した国産マシンによるF1参戦計画を発表し、実際にマシンの開発も進められていました。
当初はホンダのF1への復帰を視野に入れた活動であったと言われていますが、スポンサーの獲得やマシンの開発などが思うように進まず、結果的に1998年頃をもってこの活動は終息してしまったようです。
童夢・F105 - Wikipedia
しかしながら、同社は現在もレーシングカーの開発を続けており、フォーミュラカーに関してはかつてのF3の流れを汲む「フォーミュラ・リージョナル・ジャパニーズ・チャンピオンシップ」用のマシンを独占供給するなど、その勢いは決して衰えていないと言えるでしょう。
DOME CO., LTD. || 株式会社 童夢