「和歌山あれやこれや」のカテゴリーでは、和歌山県内各地に伝わる歴史や伝承などを気ままに紹介していきます。
今回は、豊臣秀吉の第1次朝鮮出兵(日本では「文禄の役」、韓国では「壬辰倭乱」 1592)の際に加藤清正配下の武将として朝鮮半島に攻め入った後、朝鮮側に投降して朝鮮の武将として勇名を馳せ「賜姓金海金氏(しせい きんかい きん し)」という氏族集団の始祖になったと伝えられる日本人・沙也可(さやか 朝鮮名・金忠善)を紹介します。
和歌山市北部にある平井中央公園の一角に「沙也可(1571~1642)生誕地、平井城跡」と題された説明板が建立されており、次のような文章が日本語とハングルで記されています。
沙也可(1571~1642)生誕地、平井城跡
韓国の歴史教科書に史実として記されている話ですが、戦国時代、全国制覇を実現した豊臣秀吉は、次に朝鮮の覇権をめざして二度にわたって出兵しました。
その時に、加藤清正(小西行長の説もある)の将として、多くの兵を統率して加わっていた武将の一人は、鉄砲衆を引き連れ離脱のうえ朝鮮義勇軍として大いに豊臣軍を苦しめ、その後も朝鮮の平和に尽力し、その功績により、時の宣祖王※1から金海金氏※2の称を賜り、両班(貴族)※3に列せられました。
その武将は、「沙也可」と呼ばれていましたが金忠義(筆者注:多くの資料では「金忠善」としている)と改称し、慶尚北道友鹿洞(筆者注:現在の大韓民国大邱広域市達城郡嘉昌面友鹿里)に住み生涯を終えました。現在もその子孫が健在であります。
その「沙也可」とは誰であるのかというのが、歴史上の謎になっていますが、現地に残されている鉄砲やさまざまな事実から極めて有力なのが、紀州雑賀衆、鈴木一族の説であります。
(冊子)楠見歴史散策から
※1 宣祖(ソンジョ せんそ 1552 - 1608)は李氏朝鮮時代の第14代国王。
※2 「金海金(きんかい きん)氏」とは「本貫」を「金海」、「姓」を「金」とする氏族のことを指す。朝鮮では一般に用いられている「姓(金、李、朴など)」に加えて「本貫(ポングァン ほんかん 氏族の発祥の地)」を用いることで父系氏族集団(宗族、門中)を表す制度があり、近年まで「姓」と「本貫」を同じくする(同姓同本の)男女は結婚が禁じられていたように、各個人にとって「本貫」は「姓」と同様に重要な意味を有している。現在の韓国では「金」姓が最も多く全人口の約20%を占めているが、本貫で区別すれば「金」姓はさらに206(一説には285)に分かれているとされ、このうち最大規模の氏族集団が「金海」を本貫とする金海金氏である。上記説明板では沙也可が金海金氏の始祖であるように書かれているが、本来の金海金氏の始祖は駕洛国(2世紀頃に朝鮮半島にあった国)の王・首露王であるとされており、沙也可(金忠善)に与えられた金海金氏はこの「本来の金海金氏」と直接の血縁関係はない。このため、沙也可を始祖とする氏族集団は広義には金海金氏と呼ばれるものの、「本来の金海金氏」と区別するために賜姓金海金氏、または友鹿金(ゆうろく きん)氏と呼ばれることもある。
本貫 - Wikipedia
友鹿金氏 - Wikipedia
※3 両班(りょうはん ヤンバン・リャンバン)は、高麗・李氏朝鮮王朝時代の官僚機構・支配機構を担った支配階級の身分を指す。「両班」の語源は文臣(文班)と武臣(武班)の2つの班からなる官僚制度に由来し、李氏朝鮮王朝時代には朝鮮王族以外の身分階級の最上位となる貴族階級に相当していた。
両班 - Wikipedia
この説明板は「雑賀衆・沙也可で街おこしの会(辻健会長)」が平成24年(2012)」に設置したもので、同会ではこの際に「沙也可ゆかりの地マップ」も制作しており、沙也可にまつわる伝承を和歌山市の活性化や韓国からの観光客誘致に結びつけるための各種活動を行っています。
わかやま新報「沙也可ゆかりの地紹介 市民団体がマップと説明板」
その沙也可について、「朝日日本歴史人物事典(朝日新聞出版)」の「金忠善」の項では次のように解説されています。
金忠善(キム・チュンソン)
没年:寛永20(1643)
生年:元亀2(1571)
文禄の役(壬辰倭乱,1592)の日本人武将。日本語読みは「きん・ちゅうぜん」。日本名,沙也可。号は慕夏堂。加藤清正の先鋒将として朝鮮へ渡るが,東土礼儀の盛なる有様をみて,部下を伴い投降。鉄砲や火薬の製法を伝え,また金応瑞将軍のもとで数々の戦功を立てる。朝鮮国王宣祖から官職ならびに金海金氏の姓を賜り,子孫が慶尚北道達城郡の友鹿洞に住むことを許され,現在に至る。その劇的な生涯から架空の人物とされたこともあるが,朝鮮側史料により存在が確認された。人となりについては,『承政院日記』に「ただ胆勇なること超人ならず,性また恭謹」とある。
<参考文献>『慕夏堂文集』,中村栄孝『日鮮関係史の研究』中(田代和生)
金忠善(キム・チュンソン)とは? 意味や使い方 - コトバンク
上記解説の参考文献の項にあるように、沙也可の功績に関する中核的な資料とされるのが金忠善の伝記・詩文集である「慕夏堂文集(ぼかどう ぶんしゅう)」です。その記述内容について、「宮崎県地方史研究紀要 第33輯(宮崎県立図書館 2007)」に収載された毛利泰之氏の「日向記に見る文禄・慶長の役」では次のように紹介しています。
降倭の将沙也可(さやか)の死後146年に子孫が刊行した「慕夏堂(ぼかどう)文集」によると、
『文禄元年4月、加藤清正の先鋒将として釜山に上陸。数日して配下の兵を率いて朝鮮軍に投降した。この時22歳であった。
沙也可は鉄砲・火薬の製法を朝鮮軍に伝授した。この功績が最大であった。
文禄3年から慶長2年にかけては、蔚山城を拠点に、義兵を率いる郭再祐(クワク チェウ)とともに、慶尚道沿岸の日本の軍勢を攻撃した。
沙也可の朝鮮名は金忠善(キム チュンソン)。日本軍が撤退すると資憲大夫(正二品の下階 筆者注:正二品は朝鮮王朝における官吏の階級を示す位で、正一品、従一品に次ぐ最上位から三番目の階級にあたる)に、そして女真族の押さえとして、北辺防衛10年の功績により、正憲大夫(正二品の上階)の階号を加えられ、この後沙也可は友鹿(ウロク)村に隠棲し、寓居を慕夏堂と称した』
慕夏堂文集が出版されたのは1842年(日本では天保13年)のこととされますが、上記「朝日日本歴史人物事典」の解説にもあるように、かつて我が国では同書にある沙也可の記述を偽作と断じ、その存在を否定する学説が主流となっていたことがあります。これについて日韓双方の学者・専門家によって構成された日韓歴史共同研究委員会が平成17年(2005)に公開した「第1期日韓歴史共同研究報告書 第2分科(中近世)」の「第1篇学説史 文禄・慶長の役(壬辰倭乱)」では次のように記されており、秀吉の朝鮮出兵に大義がないとして反旗を翻した沙也可の存在は、朝鮮を併合し忠君愛国を是としていた当時の我が国の国家主義的観点からは認め難いものであったのであろうとの見解を示しています。
五、降倭・義兵・被虜人
1、降倭
長期化する戦争のなか、戦線を離脱して朝鮮軍側に投降したり、戦闘中において捕虜となる日本人が数多く存在した。朝鮮側史料においては前者を降倭・投降倭・帰順倭などと言い、後者を生擒倭・被虜帰順倭などと称す〔米谷均1996〕が、ここでは便宜上、総称して「降倭」と呼ぶ。
降倭については、加藤清正の先鋒であった「沙也可」(金忠善、慕華堂とも号す)が良く知られている。その伝記『慕華堂文集』によると、従軍中、朝鮮の東土礼儀の習俗を見、中華文物の盛んであることを慕い、配下を率いて朝鮮側に投降、日本の「鳥銃」(火縄銃)を伝習させるなど対日本軍戦に活躍したという。しかしながら韓国併合の前後から、この沙也可の存在を国家主義的な観点から否定する学説が盛んになった。〔幣原坦1904・1924〕〔内藤虎次郎1915〕は、ともに沙也可の事蹟を架空の偽作と断定し、また〔青柳綱太郎1930〕は、忠君愛国理念の旺盛な加藤清正の肥後藩においてそのような非国民が出る筈がないとして、やはり架空の存在と論断している。
ところがこのような非科学的な説は、間もなく中村栄孝によって明快に否定される。中村は『朝鮮王朝実録』の記事をもとに、沙也可の存在をあらためて実証してみせた〔中村栄孝1933〕。
(以下略)
日韓歴史共同研究報告書(第1期) | 国際会議 | 事業内容 | 公益財団法人 日韓文化交流基金
上記引用文では中村栄孝氏が1933年に沙也可の存在を実証したという旨が記されていますが、これについては李寶燮氏が「帰化武将沙也可(金忠善)に関する評価の変遷(「広島修大論集 人文編 48巻1号」広島修道大学総合研究所 2007)」においてその経過を詳細に紹介しています。
3.3 中村栄孝の証明
以上で見てきたように,謎は解明されないまま昭和に入ると,朝鮮総督府の朝鮮史編纂会修史官であった中村栄孝が『朝鮮王朝実録』の宣祖朝から「降倭僉知沙也加」の記録を発見し,また『承政院日記』の仁祖朝に収録された記録からは「降倭領将金忠善」を発見した。中村は沙也可に関する記録を朝鮮時代の資料から発見し,これを根拠に沙也可の実在を証明したのである。そして,1933年1月25日に友鹿洞の金忠善後孫家を訪れて沙也可に関する関係資料を調査したのである。中村は友鹿洞を訪れた時,1630年(仁祖8年)12月16日付の正憲大夫金忠善から金生員某にあてた長男慶元の婚書(金相玉家蔵)を見ることができたと記しており,ここでの発見をも含めて1933年,『青丘学叢』第12号に「慕夏堂金忠善に関する資料について」を発表した。その後1942年に多少の修正を加え,『大邱府史』にも載せている。日本帝国時代に沙也可を仮空の人物とする否定論の所見が示されたが,中村による『李朝実録』及び『承政院日記』の発見で,金忠善・沙也加=沙也可である実在の人物として証明されたのである。
広島修道大学学術リポジトリ
沙也可について多くの日本人が知ることになったのは、作家・司馬遼太郎氏が「週刊朝日」に連載していた「街道を行く・韓のくに紀行」で沙也可の足跡を取り上げたことが大きなきっかけとなりました。上記で引用した「帰化武将沙也可(金忠善)に関する評価の変遷」では、司馬氏の著作と、それ以後の沙也可研究の動向について次のように記しています。
4.1 司馬遼太郎
1965年,日韓が国交正常化して4年後,中村栄孝は1969年に沙也可に関する論文「朝鮮役の投降倭将金忠善」を1933年に引き続き発表した。それから2年後の1971年から1972年にかけ,司馬遼太郎が週刊朝日の連載に「街道を行く・韓のくに紀行」で沙也可を取り上げたのである。
新聞の連載が終わった1972年には週刊朝日に連載された『街道を行く二・韓のくに紀行』が書籍としてまとめられ出版されることになる。
(中略)
前も述べたように日本では長い間沙也可の存在について触れることを避けてきたのは事実のようだが,司馬の紀行文はそういったあり方を変える役割も果たしたのではなかろうか。これはまた,時代とともに沙也可の認識が変わりつつあることを意味していると言えるのではなかろうか。ここで沙也可は再び歴史の表舞台に登場することとなったのである。4.2 文禄・慶長の役400年
1992年は,1592年の文禄・慶長の役から数えてちょうど400年にあたる年であるが,この年を記念してNHKで北島万次著『豊臣秀吉の朝鮮侵略』を基にした「歴史発見-出兵400年 秀吉に反逆した日本武将-」が放映された。この放送は,それまでの文禄・慶長の役に関する定説を覆し,むしろ敗戦の原因を,秀吉軍の逃亡と朝鮮への帰化にあることを沙也可の紹介とともに提示している。
(中略)
壬辰倭乱(文禄・慶長の役)の400年を期して,大阪と名古屋でシンポジウムが開かれた。1回目は,1992年11月14日に大阪城・大阪国際平和センターで1992年11月15日には名古屋朝日ホールで開かれたが,特別来賓として韓国の友鹿洞より沙也可の子孫である14代金在徳が招かれて講演を行った。2回目は,「慶長の役」が起きた1597年を記念し,1997年11月15日に前回と同様,大阪国際平和センターで「再びなぜいま沙也可か」という題を掲げ,沙也可を検証するシンポジウムが開かれた。
(以下略)
こうした研究の進展を踏まえ、日韓の学校で用いられる教科書にも沙也可に関する記述が取り入れられるようになりました。これについて、同じく「帰化武将沙也可(金忠善)に関する評価の変遷」には次のように記されています。
4.4 日韓の教科書に沙也可が登場
多くの研究者の史実の発掘や研究成果により,いまや沙也可の存在は定説となり,今まで日本では一般には知られていなかった史実が広く周知されるようになると,降倭の存在を学生に教えるべく教科書がそれを取上げるようになった。韓国においてもそれよりも時期を少し早くして中学校の道徳教科書に沙也可が取上げられている。日本においては1999年にはじめて沙也可が教科書に登場することになった。ここでは沙也可という人物が両国の教科書でどのように取上げられているのかを紹介する。
まず,韓国の中学校の道徳教科書※4には次のような記述がある。
壬辰倭乱の際,日本に「沙也可」という武士がいた。彼は幼い頃から武士修業の傍ら,文の読み書きにも励み文武両道を兼ね備えた武士であった。壬辰倭乱(文禄・慶長の役)が起きると,沙也可は加藤清正の先鋒将として朝鮮に上陸した。ところが,進撃する途中,不思議なことを目撃した。それはある農夫の家族が乱を避け移動する光景であった。
数千人の日本軍が鳥銃を発砲し迫ってくるのに,農夫は年老いた母親を背負い,農夫の妻は風呂敷包みの荷を頭にのせ,子どもの手をつないで歩きながらも姿勢は少しも崩さず山道を登っていた。その光景に沙也可は深い感銘を受けた。あのように善良でおとなしい民を害するのは聖賢の教えに背くと気付かされた。幾日か思い悩んだ末に,沙也可は自分に従う兵卒500余名を率いて我国(朝鮮)に帰順した。
※4 ソウル大学校師範大学 1種図書(1998)『道徳・倫理』研究開発委員会 82~83頁
韓国では,日本の武将沙也可が韓国の礼儀である孝に憧れ帰化したことを正面から取上げることによって儒教的教えである孝が美しい美徳である事を強調している。一方,日本の高校の教科書※5には,「朝鮮側に投降した日本武将/順倭と降倭」と題して次のような記述が見える。
秀吉の朝鮮侵略は,多くの人々をその渦中にまきこんだ。捕虜として日本に連行された人もあれば,さらにヨーロッパへ転売された人もあった。また,朝鮮人でありながら日本側についた人もいた。彼等は順倭と呼ばれている。順倭の中には,心ならずも日本側の手先になった者もいれば,もともと朝鮮国家にうらみをいだき,日本軍の侵略をきっかけに積極的に順倭になった者もいた。そして,日本軍のなかにも朝鮮側に投降した者がいた。彼等は降倭とよばれている。彼等のなかには長陣による兵糧不足と厭戦気分から降倭になった者もいれば,はじめから秀吉の海外派兵に疑問をいだき,積極的に朝鮮側に投降した者もいた。
※5 文部省検定済教科書(1999)『高校日本史 A』実教出版株式会社 48頁
韓国の教科書が儒教の孝や徳を教えるために沙也可を取上げているのとは異なり,日本の教科書では歴史の事実を伝えているだけである。朝鮮に帰化した兵である降倭と,日本側について日本の手先になった順倭の存在も史実として記述している。
広島修道大学学術リポジトリ
上記引用文によれば日本の高校教科書の記述に直接沙也可の名前は出てきませんが、三橋広夫氏の「壬辰戦争に対する日本と韓国の中学生の歴史認識(「日本福祉大学子ども発達学論集 第5号」日本福祉大学教育・心理学部 2013)」によれば、大阪書籍の中学校歴史教科書2002年版ではコラムの中に沙也可の名前が登場しているとのことです。
注(9)
大阪書籍2002年版はコラムで 「朝鮮側についた 『沙也可』/九州の大名の武将 「沙也可」 は,朝鮮に上陸後に出兵への疑問をもち,数千の兵を引き連れて投降しました.そして,火縄銃の装備などを持たない朝鮮軍にその製造法や射撃術を伝え,自らも秀吉軍と戦って,朝鮮に住みついたといわれています.このように,戦いが長引くにつれ,朝鮮との戦いに疑問を持つ人やきびしい寒さや食料不足から,朝鮮側につく人が多くなりました」 と記述している.
第1階層 - 日本福祉大学機関リポジトリ
このように現在では沙也可の存在は事実であるとして取り扱われるようになったのですが、その沙也可が日本においてどのような経歴を有していた人物なのかということについてはほとんど情報がありません。
これについてWikipediaには「雑賀説」、「岡本越後守説」、「原田信種説」の3説が掲載されていますが、いずれも確定的な資料が存在するものではないため、あくまでもひとつの仮説にすぎないと考えられています。
雑賀説
1971年(昭和46年)に小説家の司馬遼太郎は紀行文集『街道をゆく2 韓のくに紀行』で、沙也可が日本名「サエモン」の音訳、あるいは「サイカ(雑賀)」のことではないかと推理した。神坂次郎も同様の根拠で、沙也可を雑賀とした小説『海の伽耶琴 雑賀鉄砲衆がゆく』を記している。また、文禄・慶長の役後に日本につれて来られた朝鮮陶工の末裔であるとされる第14代目の沈寿官も、この説を支持している。
加藤清正の陣中には「サエモン」と名の付く武将が複数名見受けられるが、いずれも日本に帰還している。「サイカ」に関しては、確かに雑賀衆は、文禄・慶長の役にも参加しており、またかつて信長を苦しめた鉄砲隊で知られる土豪でもあり、後に秀吉によって攻められた恨みがあるということまで考慮すると、「沙也可が3000人」を「雑賀衆が300人」と言い換えることで辛うじて現実味があると主張できる。しかし文禄・慶長の役に参加した雑賀衆は反信長派との抗争に敗れた親信長派であり、後に秀吉に保護された雑賀孫一(雑賀党鈴木氏参照)らの一党であるため、これも根拠とするには弱い。ただし、別の記録から金忠善という名前のうち「善」の字については以前から名乗っていた可能性を示唆する記述があり、また日本側の記録でも雑賀衆に鈴木善之という名前の人物が確認できる。
岡本越後守説
朝鮮に出奔した日本の武将で、蔚山城の戦いと順天城の戦いでは朝鮮側の使者として和議交渉に登場した岡本越後守(阿蘇宮越後守)が沙也可ではないかとも言われている。岡本越後守は加藤清正の旧臣であり、九州の阿蘇氏と関係の深い人物だったと推測されている。阿蘇氏は肥後の豪族であるが、一揆を扇動したとして秀吉から弾圧され、数年後に今度は反乱に関与したとして当主阿蘇惟光が清正に謀殺されたのを恨んで降ったとする説である。
原田信種説
丸山雍成は原田信種という武将を挙げる。加藤清正配下で4000石の知行を得ていた重臣で、文禄元年(1592年)に咸鏡道の吉州、次いで端川に在番したことが確認できるが、翌年2月末に加藤清正軍が漢城に撤退して以降は、原田信種の名前が一時期記録から消える(ただしこの点は丸山の認識に誤りがある。後述)。このことから、端川で孤立し籠城したものの、持ちこたえられずに降伏したのではないかと推論するものである。家名が記録に復活したときには知行が1/10になっていることから、清正が重臣の降伏を隠蔽する一方、大幅な減知の上で原田家を残したとする。
(以下略)
沙也可 - Wikipedia
沙也可が雑賀衆ゆかりの人物であるという説が和歌山で広く知られるようになったことについては、上記の「雑賀説」の項でも触れられているように、和歌山市出身の作家・神坂次郎氏が平成5年に発表した「海の伽倻琴 雑賀鉄砲衆がゆく(徳間書店 平成12年(2000)に講談社から文庫版発売)」という小説が大きな役割を果たしています。
これ以降、和歌山で沙也可を顕彰しようという動きが盛んになった結果、平成22年(2010)には和歌山市に沙也可の子孫を招いて「沙也可(金忠善)日韓国際シンポジウム」が開催されるとともに、和歌浦東照宮(和歌山市和歌浦)に「沙也可顕彰碑」が建立されることとなったのです。
地元ラジオ局である和歌山放送の社長(当時)・中島耕治氏(2022没)はブログでこの時の模様を次のように記しています。
2010年11月13日
「沙也可」日韓国際シンポジウム
秀吉の朝鮮出兵の際、加藤清正の配下として朝鮮に渡ったが、投降して朝鮮軍に加わり日本軍を撃退したとされる人物「沙也可・さやか(金忠善)」をテーマにした日韓国際シンポジウムが13日午後、和歌山市のきのくに志学館で開かれました。シンポジウムには、韓国から沙也可研究家のほか、今も韓国大邱市郊外の友鹿里(ウロンリ)で暮らす沙也可(金忠善)の子孫一族ら数十人も参加、前夜から和歌山市内のホテルで歓迎レセプション、13日午前には和歌浦の東照宮で沙也可顕彰碑の除幕式が行われました。私もこの沙也可という将軍の存在がずっと気になっており、2日にわたって参加してきました。
(中略)
沙也可は火縄銃などの技術を朝鮮に伝え日本軍とも戦い、戦後その功績を称えられ朝鮮の王から金忠善の名を貰って帰化人となった、というものです。その後も女真族による侵略を撃退するなどの功績により、正二品の位階まで昇進しました。
韓国の大邱市郊外の友鹿里には、沙也可の後孫の一族が暮らしており、このシンポに来日した金在錫氏(沙也可14世孫)によると、現在その一族は17代、7500人から8000人いるそうです。
その出身地についてははっきりしませんが、作家の神坂次郎さんが、紀州雑賀衆の頭領、鈴木孫一郎など雑賀鉄砲衆が「沙也可」とする説を採り、歴史小説「海の伽倻琴」を発表、それがハングル訳され韓国でも出版されたことから、雑賀説が有力となっています。
10年前には、神坂次郎氏と二階俊博衆議院議員らが、大邱市郊外の友鹿里の一族の村を訪問、今回和歌山での日韓国際シンポジウム開催となったものです。
(中略)
□和歌山放送ニュース再録
◎「沙也可」日韓国際シンポジウム開催
豊臣秀吉の朝鮮出兵で戦い投降した紀州雑賀衆の頭領、鈴木孫一郎(すずき・まごいちろう)と同一人物とされ、作家の神坂次郎さんが歴史小説で描いた「沙也可・さやか」をテーマにした日韓国際シンポジウムが、きょう(13日)和歌山市のきのくに志学館で開かれました。
シンポジウムは、和歌山放送などの協賛で和歌山の観光を考える百人委員会が開いたもので、およそ100人が出席し、400年前の歴史上の人物を通して日本と韓国の友好を深めました。シンポジウムでは「海の伽倻琴・うみのかやごと」で沙也可を描いた神坂さんや、韓国の沙也加研究会会長の陳炳龍(ちん・ぴょんろん)さんらが講演しました。
この中で神坂さんは「出身校も雑賀小学校で、資料も徹底的に調べている。沙也可が雑賀衆ゆかりの人物であることは間違いない」などと述べました。また陳さんは「沙也可が誰で、出身地がどこかはまだはっきりしないが、韓国と日本の友好の架け橋になっている」などと述べました。
きょう(13日)はシンポジウムの前に、和歌山市の和歌浦東照宮で沙也可の顕彰碑の除幕式が行われました。
(以下略)
「沙也可」日韓国際シンポジウム: 一語一絵 過去ログ
また、平成24年(2012)には沙也可が晩年を過ごしたとされる友鹿里(うろくり 大邱広域市達城郡嘉昌面友鹿里)に沙也可を顕彰した「達城(たるそん)韓日友好館」が開設され、そのオープニングセレモニーに大橋建一和歌山市長(当時)はじめ、和歌山県代表や雑賀衆・沙也可で街おこしの会の会員らが招かれました。当時、和歌山市が発表したプレスリリースでは、オープニングセレモニーの模様を次のように伝えています。
1 韓日友好館オープニングセレモニーについて
5月3日午後2時から、大韓民国大邱(てぐ)広域市達城(たるそん)郡嘉昌面(かちゃんめん)友鹿里(うろくり)に新たに開設された「達城韓日友好館」のオープニングセレモニーが行われました。セレモニーでは、約200人の参加者を前に、金文澳(きむ むの)達城郡長、金相保(きむ さんぽ)韓日友好館建立推進委員会委員長らとともに大橋建一市長が祝辞を述べた後、記念植樹、テープカットなどの行事を行いました。2 韓日友好館の展示内容について
韓日友好館では、1階部分において雑賀衆ゆかりの人物であると伝えられている「沙也可(さやか 韓国名:金忠善(きむ ちゅんそん))」に関する資料を中心に韓国と日本との交流の歴史を展示しているほか、2階部分において和歌山県と和歌山市の歴史・文化・観光に関する資料等が展示されています。
ちなみに、オープニングから約2年後の2014年7月に同地を訪れた広島大学准教授(当時)の桑島秀樹氏は「司馬遼太郎〈湖西のみち〉・〈韓のくに紀行〉をその感性哲学から読む : 初期『街道をゆく』が描く〈日本人の祖形〉と朝鮮憧憬(「文芸学研究 第22号」文芸学研究会 2019)」において当時の達城韓日友好館の様子を次のように記しています。
2014年7月初旬、大邱(テグ)・嶺南大学での「東方美学国際会議」(参加国は、日・中・韓)に際して、この友鹿洞の村を訪れる機会に恵まれた。
(中略)
山を下り、書院(筆者注:鹿洞書院 金忠善の位牌を安置し祭祀を行うための施設)に隣接する、あきらかに最近建てられたように見える建物に入った。沙也可=金忠善を顕彰する記念館であった。日韓友好の館という位置づけらしい。受付で「どちらからですか」と問われたので、日本から、と鹿姫さんを介してハングルで伝えてもらう。すると記念館スタッフは、「今朝も、日本人が二人来た」という。「和歌山からだ」と。むろん東方美学国際会議の出席者ではない。まだ夏休みには早い7月初旬の平日に、和歌山からこの沙也可の里を訪ねる日本人がいるとはっ!-ちょっと驚きであった。
しかし、この友好記念館の展示内容を観て得心がいった。「沙也可」の正体は-1980年代半ばの神坂次郎の小説と同じく-現在では、かつての司馬の推測を離れ、むしろ紀州・和歌山の「雑賀衆」の侍ということで、すでに一定の共通認識が成立していたのだ。このような現在の「定説」に基づいて、この新設の記念館兼友好会館は運営されている。だから観光のハイシーズンには、和歌山からバスを仕立てて多くの来客があるという。
(中略)
21世紀を迎えた今日、半島内陸のこんな山間の小村に、日韓両国の友好関係を途絶えさせまいと、400年以上前に生きた「礼教降倭」の日本人を顕彰する立派な新施設が建てられ、現に運営されている-じっさい真夏の平日に日本人が訪ねてくる-という事実は、それだけでも、きわめて奇特なことではないだろうか。
(中略)
大阪大学学術情報庫OUKA
このように、沙也可が雑賀衆ゆかりの人物であるということについては、ある程度多くの人々が是認するところとなったきたわけですが、それでは「沙也可とは誰だったのか?」と問われれば、これに対する明確な答えはまだ見つかっていません。
前述の神坂次郎氏は「鈴木孫一(雑賀孫一)の嫡男・鈴木孫一郎」であるとの説を提示しているわけですが、そもそも「雑賀衆の頭領」として名高い「雑賀孫一(「孫市」と表記される場合もあり)」ですらもその実態はよくわかっていないのが実情です。Wikipediaでは「和歌山市史」などの記述をもとに、次のような3人の人物がそれぞれ「孫一」と呼ばれた可能性があるとしています。
参考:和歌山市史 第1巻 (自然・原始・古代・中世) - 国立国会図書館デジタルコレクション
(国立国会図書館デジタルコレクションの閲覧には無料の利用者登録が必要)
1 鈴木重秀
石山合戦で侍大将となった「鈴木孫一」は鈴木重秀と推定されている。『信長公記』や『本願寺文書』に「鈴木孫一」として記載がある。鈴木重秀については、「サイカノ孫一」(『言継卿記』)、「さいかの孫市」(「真鍋真入斎書付」)として史料に出てくることもあるが、これは「尾張の信長」等の類例の他称と考えられ、本人の自著でも書状の宛所でも「雑賀孫市」(雑賀氏)はない。更に言えば、彼の戦友の佐武義昌の覚書や信長・顕如・頼廉の書状など、彼と関係の深かった人間による表記は「鈴木孫一」である。
2 鈴木重朝
豊臣秀吉に仕え小田原征伐や伏見城の戦いで活躍した「鈴木孫一」は鈴木重朝と推定されている。『伊達家文書』に「鈴木孫三郎」として記載がある。
3 平井孫一郎義兼
和歌山市平井の蓮乗寺に墓碑がある人物で、蓮乗寺には本願寺顕如から下付された方便法身像がある。小牧・長久手の戦いで信雄・家康側に立ち秀吉を牽制した雑賀衆の指導者が平井孫一郎義兼と推定されている。
上記Wikipediaの記述には神坂次郎の小説に登場する人物と同じ「孫一郎」の名を持つ人物が登場しますが、これは正しくは「孫市郎」と表記されるべきで、蓮乗寺の墓碑には次のような文字が刻まれています。
正面 「釈法誓墓」
左 「雑賀住 平井孫市郎藤原義兼」
右 「天保三年(1832)壬辰五月上旬改」
「天正十七年(1589)己丑五月二日」
裏 「当寺九世現住正因再建之」
参考:楠見西小学校ふるさと学習フィールドワーク資料
ふるさと学習(6年) – 和歌山市立 楠見西小学校
ページ下の「⇒ふるさと学習2日目フィールドワーク」に資料へのリンクあり
しかしながら、一般的には平井孫市郎義兼という人物は鈴木重秀の兄弟と考えられており、上記Wikipediaの記述にもあるとおり神坂次郎氏も義兼は重秀の長兄であるとの説を取っているようで、どうやら「平井孫市郎=鈴木孫一郎=沙也可」とみなすことは無理なようです。
また、前述のWikipediaにおける「沙也可=雑賀」説の項で名前が挙げられている鈴木善之という人物については、鈴木佐大夫(鈴木重秀の父)の兄弟又は叔父・甥などと伝えられているようですが、その実体は不明であり、これも沙也可の正体であると見なすことは困難です。
結局のところ、沙也可が日本でどのような立場にあった人物なのかは現時点では知るすべも無いのですが、和歌山市においては、それは必ずや雑賀衆にゆかりを持つ人物であるに違いないとして、冒頭で紹介した説明板のように雑賀衆の本拠地であった孫一の居城(平井城)跡を「沙也可生誕地」と位置づけているのです。
ちなみに、冒頭の説明板が設置されているのは高台にある平井中央公園の敷地内ですが、実際に孫一の居城があったのはそこから南側に広がる「政所の坪(まんどころの つぼ)」という小高い平地だと言われています。上記で紹介した「楠見西小学校ふるさと学習フィールドワーク資料」にはその場所の位置図が掲載されていましたので、参考にしてください。