生石高原の麓から

和歌山の歴史・文化・伝承などを気ままに書き連ねています

日本人初のメキシコ見聞録・井上善助(すさみ町)

 「和歌山あれやこれや」のカテゴリーでは、和歌山県内各地に伝わる歴史や伝承などを気ままに紹介していきます。

 

 今回は、江戸時代後期に、乗り込んだ貨物船が嵐にあって漂流した後、外国船に助けられてメキシコに長期滞在することとなった結果、図らずも日本人初となるメキシコ見聞録を残したことで知られる井上善助(いのうえ ぜんすけ)を紹介します。

東航紀聞」より「漂流洋上図」
(図中の「イスラス デ サンビイケ」はサンドウィッチ諸島のことと思われる)
国立国会図書館デジタルコレクション

 井上善助(下記引用文にあるように「井上」は後に与えられた姓であり、漂流当時の名前は単に「善助」である)について、朝日日本歴史人物事典朝日新聞出版)では次のように解説されています。

善助(ぜんすけ)
没年:明治7.10.29(1874)
生年:文政4(1821)
 近世紀伊和歌山県の漂流民。一説に文化14(1817)年に生まれ,明治7(1874)年9月21日没過去帳天保12(1841)年に兵庫の廻船永寿丸(永住丸)の船頭として漂流,スペイン船に救助されメキシコに着く。同地で厚遇され,マカオを経て中国人によって弘化1(1844)年に送還。帰郷後,紀伊藩士に語った『東航紀聞』は日本人として最初のメキシコに関する見聞記。故郷の周参見(すさみ町)の藩役所に召しかかえられ,ペリー来航に際して江戸で将軍への献上品の鑑定を行った功で井上姓を与えられる。
<参考文献>岩崎俊章編『東航紀聞』(『日本庶民生活史料集成』5巻漂流)
(春名徹)

善助(ぜんすけ)とは? 意味や使い方 - コトバンク

 

 また、一般財団法人みなと総合研究財団のWebサイトには「港別みなと文化アーカイブ」という項があり、全国各地の港に関連する歴史や文化に関する資料が掲載されていますが、ここにある木村甫氏の「周参見港の『みなと文化』」という著作では善助の経歴について次のように記しています。

(4)人物
①井上善助
 近世、海上で活躍した多くの周参見人の中でもっとも代表的なのは、井上善助である。天保12年(1841)、摂津兵庫の中村伊兵衛の千石船栄寿丸沖船頭※1であった善助(当時25才)は、同郷の堀弥市と乗組員11人と共に兵庫港で酒・砂糖・塩などを積んで奥州南部に向かっていた。が、途中犬吠埼沖で暴風に遭う。帆柱を切断された栄寿丸太平洋上を120日間漂流し、偶然通りかかった異国船に救助されるが、乗組員は離ればなれになり、善助アメリカのカリフォルニア半島南部へ送られた。各地を転々とした後中国から長崎に辿り着くが、長期間拘留され厳しい取り調べを受けた。ようやく周参見に帰ったのは弘化2年(1846)、3年5ヶ月ぶりであった。堀弥市はその翌年4年9ヶ月振りの帰京であった。
 当時鎖国中の日本は外国の事情に暗く、紀州藩では学者を使って両者の漂流中や外国滞在中の見聞をまとめ、詳しい記録を作成した。中には2人が覚え帰った現地語が相当数紹介されている。また善助の口述した内容は漂流記として編纂された。後に善助弥市士分に引き上げられ、周参見浦二分口役所の役人に任じられた。
 嘉永6年(1853)ペリー浦賀に来航すると、幕府はアメリカ大陸や中国の見聞をもち帰った善助弥市を江戸へ呼び出し、尋問を行った。また、両者は60人70人の武士たちの見守る中、アメリカの軍隊の調練の仕方を異国の服装で剣や銃を持って見て来たままに披露したという。善助はその後も紀州藩の海防関係の仕事で活躍し、明治7年(1874)に57歳で逝去している(杉中浩一郎「周参見浦漂流人に関しての覚書」より要約)
 井上善助は頭脳明晰で教養もあり、非常に対しても冷静沈着に対応し、常に気力が充実した人格的にもすぐれた人物であったことが、彼の波乱に富んだ生涯の記録を見て強く感じることである。 
港別みなと文化アーカイブス(執筆者のプロフィールを含む)|みなと文化研究事業
※1 船長として実際に船に乗り込む運航の責任者。対義語は船の所有者(船主)を指す「居船頭(いせんどう)」。

 

 すさみ町が発行した「すさみ町誌」には、「井上善助、堀弥市漂流物語」という項が設けられており、善助らの漂流の様子が詳細に記されています。ここでは、その概要と善助の略年譜の部分を引用します。

二 井上善助、堀弥市漂流物語
はじめに
 幕末に近い天保12年、我が郷土周参見出生、善助25歳、は帆船栄寿丸の船頭として乗組員13名、そのうち周参見出身の水主弥市(46歳)を含め遭難、漂流し、翌年外国船に救助され、太平洋を渡りアメリカに渡り各地を転々として弘化2年正月、3年6か月振りに再び故国の土を踏んだ。この途中弥市はまた別の運命をたどり4年8か月でこれまた無事に故国に帰ったのである。その間の漂流実況や外国事情等詳細な観察による貴重な文書が残っている。善助翁の曾孫にあたる和歌山市在住の井上政雄所蔵の善助漂流申口書上申書があり、弥市翁の同様漂流外国物語はすさみ町上杉賢児所蔵のものがあり、その両方の文献から当時の日本の交通事情、外国の様子、また国境を越えての人情の機微等を記述してみる。
 原文は口述そのままの筆記と見え、段落なしの読みづらい文であるができるだけ読みやすくして、主文は善助口上書を中心にして書いてみる。

一、善助略年譜
文化4年(丑)誕生
天保2年(卯)15歳中村屋に奉公
同12年(丑)8月兵庫船出、10月遭難漂流、今(昭和52年)より136年前
同13年(寅)2月外国船に救助されアメリカに渡る。
同14年(卯)正月(清国)奥門(オウモン 筆者注:現在のマカオ、6月乍浦(サホ 筆者注:現在の浙江省嘉興市平湖市)、12月長崎-長崎抑留410日間
弘化2年(巳)正月和歌山へ帰着、2月郷里周参見に帰る。船出してから3年6ヶ月なり。
嘉永6年(弘化5年2月嘉永改元異国船出没の風説あり、人心動揺す。当時善助は二分口役所に勤務、大島の遠見番兼務、弥市は潮岬上野の遠見番勤務す。6月米使ペリー国書を携え船艦4隻を率い、突如浦賀に来航、国内騒然たり。善助江戸に召出され、幕吏にして当時の人傑、江川太郎左衛門川路三左衛門等に海外の事情を語る。
明治7年10月没 享年58
(以下略)

 

 善助らの漂流の様子は、明治43年(1910)に周参見尋常高等小学校が発行した「周参見村郷土誌」にも詳しく紹介されています。ここでは、平成13年(2001)に発行された「改訂復刻周参見村郷土誌」及び「周参見村郷土誌註釈」に基づいて、「井上善助小伝」及び「井上善助亜米利加漂流記」を紹介します。

井上善助小伝
 左記は井上善助自から亜米利加漂流記を羅馬字(ローマ字)に綴り、幅に仕立ててあり。左に記す。

天保12年(1842)丑8月攝州(せっしゅう)兵庫出帆浦賀御番御改め済み、同12年常州沖にて戌亥風(いぬいかぜ)にて吹き流され、4ヶ月余り太洋を漂い居り外国船に助けられ、東の方へ60日程はしり参り、北アメリカの内南の方サンルカス(筆者注:サン・ルーカス メキシコのバハ・カリフォルニア半島南端の岬及びそこにある市)へ上げられ、2日滞留。同所よりパス(筆者注:バハ・カリフォルニア半島西岸の中心都市・ラパス)へ送り呉れ、此所役人コマンダンテ(筆者注:スペイン語comandante 司令官・地方長官の意)と申す人に厚く世話になり、200日余逗留。帰朝の義相歎き、同所よりマサタラン(筆者注:現在のメキシコ・シナロア州マサトラン)へ渡海、此所より唐国澳門マカオへ着き、猶又乍浦(さほ)へ送り呉れ、同所より長崎へ卯の12月着岸。弘化2年(1845)巳の正月御国へ帰着。
    周参見浦善助書

 善助氏帰着後、頼春水(らい しゅんすい)に逢い漂流の顛末を物語せし時、左の絶句を揮毫せられ、現に家什(かじゅう)として額面に伝われり。

  漂流知歴幾夷蠻  話盡千辛萬苦間
  愛爾思親思且國  丹心一片此生還
      春水之与善助
周参見村郷土誌註釈

頼春水の絶句
漂流して幾夷蠻(いくいばん)を知歴す
話尽(ことごと)く千辛万苦の間
愛爾(あいじ)親を思い且つ国を思う
丹心(たんしん)一片此(ここ)に生還す
    春水之を善助に与う

全文の意訳
漂流して多くの外国を見てまわった
話はことごとく多くの辛さや大変な苦労のことばかりである。
ああ親を思いそして国を思いつづけた。
そのひたすらな真心が通じて、ここに生きて帰ることができたのである。
    春水これを善助に与える

頼 春水
広島の人 儒学者頼山陽の父
広島藩儒に登用され学問所創設に参画。藩の文教振興に尽した。文化13年(1816)70歳で没


 又数回藩に召出され、外国の事情を話し、嘉永6年(1853)江戸に召出されて幕吏(ばくり)川路江川の二士に逢い、海外文物形勢を物語りして止まり、遂に浦賀の米艦に至らずして還れりという。


 今井上氏に伝うる所の漂流記あり。海外の事情尽し得て面白し。
 碑文簡にして能く尽せるを以て左に記す。(注釈別稿)

井上善助本州牟婁周参見浦人天保十二年辛丑秋八月當年二十五洋中遇颶放流於鯨涛之中凡百三十日漂至北亞墨利加州後乗澳門商船帰干長崎乃天保十四年卯冬十二月也善助為人捷敏能蕃字旁方言土語無所不通暁故國侯賜以月俸嘗在彼土数年帰朝之後其名傅播一時云明治七年甲戌冬十月廿九日歿享年五十八於此子孫胥議建石證叙略
   明治乙亥仲夏    中邨正彦撰並書

周参見村郷土誌註釈

井上善助墓碑文
井上善助は本州牟婁周参見浦の人なり。
天保12年辛丑(かのと うし)秋当年25。洋中颶(く)に遇い鯨涛(げいとう)の中に放流して凡そ130日漂い北亜墨利加(あめりか)州に至り、後澳門(まかお)の商船に乗りて長崎に帰る。乃(すなわ)天保14年卯(う)冬12月なり。
善助の人と為り捷敏(しようびん)にして蛮字(ばんじ)を能し、旁(あまねく)方言土語に通暁(ぎょう)せざる無し。故に国侯月棒を以て賜う。
嘗て彼の土に数年在りて帰朝の後其の名一時伝播(でんぱ)する云。
明治7年甲戌(きのえ いぬ)冬10月29日没。享年58。
此に於て子孫胥(とも)に議して建石し略を叙して証す。
   明治乙亥(きのと い)仲夏  中邨(むら)正彦撰(せん)並びに書す

全文の意訳
井上善助は本州牟婁周参見浦の人である。
天保12年(1841)辛丑の秋25歳の時航海中に暴風に会い、大波の中を流されておよそ130日間ただよい北アメリカ洲に至り、後マカオの商船に乗って長崎に帰った。それは天保14年(1843)卯の冬の12月であった。
善助の人柄は、さとりが早く外国語をよく知っており地方の言葉や昔からの言葉のすべてにわたってくわしかった。それであるから、藩の殿様から月手当てをいただいて召し抱えられたのである。
以前外国に数年在住して日本に帰って来た後、其の名が一時広く伝わったと言われている。明治7年(1874)甲戌の冬の10月29日に亡くなった。58歳であった。
この時にあたって子孫が共に話し合って墓石を建て、おおむねの事柄を書きしるしてあきらかにすることにした。
   明治8年(1875)乙亥の5月    中邨正彦文を作り書す

 

(中略)

 

井上善助亜米利加漂流記
 周参見井上善助は15歳の頃より攝津国兵庫中村屋伊兵衛方に奉公せしが、25歳の時、其の持船栄寿丸千石積の沖船頭となり、丑年天保12年(1841)8月兵庫にて酒・砂糖・塩・操綿等積入れ、奥州南部へ商いの為23日水夫12人と共に出帆し、9月18日浦賀番所御改め相済み、翌19日豆州網代浦へ入津日和待をなし、10月4日同所出帆、10月12日常州犬吠崎沖にて戌亥(いぬい)暴風の為大洋に吹き流され、翌年寅2月20日まで凡130日洋中に漂い居たりしが、外国船の見る所となり、救助せられて亜米利加に航し、4月中頃或る陸地に着し、6人を船に残し、7人を上陸せしめて出帆せり。
 此の航海日数55日。此の所を「サンルカス」と称す。2日を経て又小船にて昼夜東に航し「サミセンテ」に上陸せし処、外国船に居残りたる2人の水夫に逢い、他の4人を問えども、船に居残りて今行く処を知らずという。即ち9人となりしが、一人ずつ別居せしめらる。然れども待遇甚だ厚し。
 其の指揮をなす官人は軍人にして、名を「コンマンダンテ」と言う。滞在すること50余日。恰(あたかも)7月10日朝辰巳(たつみ)風烈しくなり難破船ありて、乗員15人程端船にて上陸す。見覚えある顔あり。是れ先に救助せられし外国船なりしなり。就て居残りたる4人を問えども、言語通ぜず要領を得ずして止みたり。
 此の所にて100日滞在し、10月中旬に至り黒船来たり、主人「コンマンダンテ」に談合の上、黒船に乗り込ましむ。此の時主人「コンマンダンテ」外男女10人許り見送り来たり、別れを惜まる。斯くて3日西に航し「サミセンテ」に着陸せり。
 此の辺総て亜米利加アメリカ)カルホルネと申す。
 上陸後又一人ずつ別居せしめられ、10月下旬に至り、前の黒船の船頭来たり、初太郎なるものと2人を乗せ、南の方5昼夜航海して翌卯年正月下旬着港す。7日間逗留して乗船せしは、亜米利加の地を離れたるものにして、日数214,5日間、亜米利加の地を踏みしわけなり。
 着港地は広東澳門(かんとん まかお)と申す地にして、亜米利加出帆後航中にて95日を費し、此の地にて又90日逗留。他の船にて同所出帆6月上旬に至り、長き航海を経て或地に着せり。此の地乍浦(さほ)と称す。
 唐国に入りてより270日を経たり。即ち卯年9月上旬乍浦に於いて日本人の漂流者に出逢いたり。内一人は栄寿丸同船の初太郎にて、他の7人は加賀及び仙台船の漂流者なし。
 9月23日まで厚遇を受け、海路10日目12月3日と言うに、我が長崎に着船し、数百日揚屋入り仰せ付けられ、切支丹宗の事其の他巨細の調べあり、赦免せられて巳正月23日、若山に着せしまで長崎着の日より410日とす。
 兵庫出帆の日より、3年6ヶ月に亘りて生まれ故郷に帰るを得たり。

 

  江戸時代、徳川幕府いわゆる「鎖国」政策※2をとっており、日本人の外国への渡航は原則として禁じられていました。しかしながら、海運や漁業に携わる者の中には嵐によって遭難した後に外国船に救助され、そのまま異国へ上陸することとなった者がしばしば見受けられるようです。こうした状況について、石川榮吉氏は「接触と変容の諸相:江戸時代漂流民によるオセアニア関係史料(「国立民族学博物館研究報告別冊 6号 オセアニア基層社会の多様性と変容-ミクロネシアとその周辺-」国立民族学博物館 1989)」において次のように記しています。
※2 「鎖国」という言葉は、江戸時代の蘭学者・志筑忠雄が「鎖国論(1801)」において初めて使用した造語であり、幕府の公式な用語ではない。またその実態も完全な国境の閉鎖ではなく、一定の厳しい制約のもとで外交・貿易を統制するというものであったことから、近年では「鎖国」という言葉を用いるのは不適当であるとの議論がなされている。「鎖国」にはなぜ「 」をつけているのですか。|株式会社帝国書院

 古くから繰返されてきた海難事故ではあるが,その件数が急増し,漂流事件もまた増加してくるのは,近世以降のことである。これは,このころになると記録がだいぶ整備されてきたという事情もあるが,なんといっても最大の理由は,国内の流通経済が発達し,海運が盛んになったことである。海運が盛んになったにもかかわらず,造船を含めて航海術が幼稚であり,気象・海況を読む術も未熟であったところから,海難事故が頻発するようになったわけである。
 漂流の記録がこれまでになく増加してくるのは,生還者がそれだけふえたということにほかならない。これには,国際環境の変化が大きくあずかっている。漂着した先で,破船を修理するとか,あるいは新たに船を造るとかして帰還した例もないではないが,漂流中を異国船に救助されたり,漂着先で異人に助けられたりしたすえ,異国船に送られて帰国をはたしたという例が,圧倒的多数を占めているのである。これは,日本近海に出没する異国船の数が増したこと,日本に開国を迫る海外諸国が,漂流民護送をその手段として利用しようとしたこと,といった国際情勢から結果したことであった。
(以下略)
国立民族学博物館学術情報リポジトリ(みんぱくリポジトリ)

 

 こうした日本人漁民らの太平洋での漂流について、上記論文の後段「オセアニア関係漂流史料」には善助らが乗り組んでいた「榮寿丸(永住丸)」を含めて次のような9件の記録が記されています(※印は筆者注。経緯・史料等の項目は省略した。)。

1.若宮丸関係
(1)船籍等
奥州石巻米沢屋平之丞持船,800石積,24端帆,16人乗組。
(2)遭難・漂流
寛政5年(1793)12月2日。
(3)帰国
文化元年(1804)9月6日(4名)。
※帰国者はロシア、デンマーク、イギリスを経由して大西洋を横断し、ホーン岬を経て太平洋を渡って長崎へ帰着

 

2.稲若丸関係
(1)船籍等
大坂安治川,伝法屋吉右衛門持船,500石積,17端帆,8人乗組。
(2)遭難・漂流
文化3年(1806)正月7日。
(3)帰国
文化4年(1807)6月18日(ただし,一説には6月11日)(2名)。
※帰国者はハワイ、マカオジャカルタを経て長崎へ帰着

 

3.神社丸関係
(1)船籍等
奥州南部領閉伊郡船越浦,黒沢屋六之助持船,650石積(一説には800石積),12端帆,12人乗組。船名について後出「戸川家蔵長崎志続編(筆者注:本稿では省略)」では神祐丸としているが,他の史料ではすべて神社丸であり,神祐丸は誤写と思われる。
(2)遭難・漂流
文政3年(1820)12月12日(一説には12月6日)。
(3)帰国
文政8年(1825)12月13日(4名)および文政9年(1826)正月元日(3名)。
※帰国者はパラオ、シャム(タイ)、マカオ、乍浦(中国浙江省)を経て二隻の船に分乗して帰国の途に着いたが、暴風に逢い、一隻は大隅国屋久島、もう一隻は遠州吉田村に漂着した

 

4.長者丸関係
(1)船籍等
越中富山,能登屋兵右衛門持船,650石積,21端帆,10人乗組。
(2)遭難・漂流
天保9年(1838)11月23日。
(3)帰国
天保14年(1843)5月23日(6名)。
※帰国者はハワイ、カムチャツカ、アラスカを経てエトロフ島で日本側役人に引き渡された

 

5.中吉丸関係
(1)船籍等
奥州仙台領気仙沼小友浦,及川庄兵衛持船,積石数・帆端数不詳,6人乗組。
(2)遭難・漂流
天保10年(1839)11月25日。
(3)帰国
天保11年(1840)3月24日(6人)。
小笠原諸島・父島に約60日間滞在した後、自力で銚子に帰着。当時はハワイ在住の欧米人5人がハワイ島民15人を伴って入植してから10年後であり、父島の領有権は確定されていなかった。

 

6.土佐国漁船関係
(1)船籍等
土佐国高岡郡吾川郡とした史料もある)宇佐浦,筆之丞事伝蔵持船(居浦の徳右衛門の漁船を借受けたともいう),かわら(和船の船底材)2丈5尺,5人乗組。
(2)遭難・漂流
天保12年(1841)正月7日。
(3)帰国
嘉永4年(1851)正月3日(3名)。
※乗員の一人が後にジョン・万次郎と呼ばれるようになる。ハワイで滞在した後、万次郎はマサチューセッツ州フェアヘーヴンで教育を受けた後カリフォルニアの金山で働いて旅費を稼ぎ、ホノルルで他の乗員と合流したうえで、うち2人(1人はホノルルに残留を希望した)とともに琉球へ帰着。

 

7.榮寿丸(永住丸)関係
(1)船籍等
兵庫西宮,中村屋猪兵衛(伊兵衛としたものもある)持船,1000石積(一説に1200石積),28端帆,13人乗組。なお,船名については,榮寿丸としたものと永住丸としたものとがある。
(2)遭難・漂流
天保12年(1841)10月12日。
(3)帰国
天保14年(1843)12月3日(2名),弘化2年(1845)7月11日(2名),同年同月13日(1名)。

 

8.天寿丸関係
(1)船籍等
紀州日高郡薗浦,和泉屋庄右衛門持船,950石積,13人乗組。
(2)遭難・漂流
嘉永3年(1850)正月9日(一説には6日)。
(3)帰国
嘉永4年(1850)12月28日(5名)および嘉永5年(1851)6月24日(7名)。
※5名はハワイからギルバート諸島硫黄島、香港、マニラ、上海を経て乍浦から長崎に帰着(ハワイでは井上善助、ジョン・万次郎らとも出会っている)。7名はカムチャツカを経て伊豆下田に帰着。

 

9.永力丸(榮力丸)関係
(1)船籍等
摂津兎原郡大石村,松屋八三郎持船,1600石積(一説に1500石積),31端帆,17人乗組。
(2)遭難・漂流
嘉永3年(1850)10月29日。
(3)帰国
安政元年(1854)7月22日(11名)および安政6年(1859)5月18日(1名)。
※11名はサンフランシスコ、ハワイ、香港、マニラ、上海、乍浦を経て薩摩に帰着。別途3人は乍浦からアメリカ大陸に戻り、このうち彦太郎は米国市民権を得てジョセフ・ヒコと名乗り、米国大統領にも謁見した。後に米国の神奈川領事館付き通訳に任命されて、安政6年、初代駐日米国公使ハリスとともに来日した。

国立民族学博物館学術情報リポジトリ(みんぱくリポジトリ)

 

 上記のうち、善助らの事案に該当する「7.榮寿丸(永住丸)関係」の記述によると、本件の漂流については冒頭に記した「東航紀聞」のほかにも各種の記録が残されているようです。

(6)史料
 この漂流一件については,嘉永7年(1854)に版行された『海外異聞,一名亜墨利加新話(既出荒川編『異国漂流記続集』に収載)のほか,その原本である『亜墨新話』-これは阿波出身初太郎からの聞書きを,阿波藩の儒臣前川文,那波希顔がまとめて藩主蜂須賀斉裕に献呈したもの(既出石井編『校訂漂流奇談全集』,『通航一覧続輯』巻之百十四<刊本第4巻>などに収録)-や,その他「口書」類が幾つか残されている。しかし,それらはどれも,漂民が長期滞在した19世紀中頃のメキシコ事情と,帰国前に訪れた中国諸港市の事情についてはかなり詳しく,これはその方面での貴重な史料とみなすことができるが,漂民らが帰路太平洋横断中にハワイに寄港したと思われるにもかかわらず,これに触れるところはまったくないのである。唯一,ハワイについてわずかながらも触れているのは,つぎの史料だけである。
  『東航紀聞岩崎俊章(編)嘉永4年(1851)(刊本は池田編『日本庶民生活史料集成』第5巻に収載)
 国会図書館所蔵本が底本とされている。刊本の編者池田氏によれば,同書の所在は国会図書館以外に知られぬよし。
 稿本の編者岩崎俊章紀州和歌山藩士。藩侯の命により,紀州出身の漂民で帰国できた善助および弥市の両名について聞書きを作り,これを仔細に校訂して全10巻にまとめあげたものが本書である。編纂にあたっては,桂川甫周(編)『北嵯聞略(筆者注:伊勢国・大黒屋光大夫等らによるロシア・シベリア等の見聞録)』と,大槻玄澤(編)『環海異聞(筆者注:仙台の船頭・津太夫らによるロシア・モスクワ等の見聞録)』とを手本としたことが,編者岩崎によってその序文中に記されている。
 全10巻は「漂流始末」3巻,「風土記」6巻,「附録」1巻(唐山紀事)から成るが,残念ながら現存するのは「漂流始末」3巻と「風土記事」3巻だけで,他の4巻は所在が知れない。
(以下略)

国立民族学博物館学術情報リポジトリ(みんぱくリポジトリ)

 

 ここで紹介されている「東航紀聞」については、現在、国立国会図書館デジタルコレクションにおいて随時閲覧することが可能です。同書には、冒頭に掲げた「漂流洋上図」をはじめとするカラフルな図解が多数掲載されており、当時の北米(主にメキシコ)の風俗を垣間見ることができます。

国立国会図書館デジタルコレクション

 

 

 



 平成21年(2009)は、日本とメキシコとの交流が始まって400年を迎える記念の年として日墨両国※3で各種の記念事業が行われました。
 この時から400年前にあたる慶長14年(1609)年、フィリピンからスペイン領メキシコのアカプルコに向かっていたガレオン船(大型帆船)サン・フランシスコ号」が嵐に遭遇して房総半島沖で難破、岩和田村(現在の千葉県御宿町の住民らが乗組員317名を救助するという事件が発生しました。この船に乗船していた前フィリピン臨時総督ドン・ロドリゴ・デ・ビベロは、徳川家康に面会して両国の友好について話し合った後、幕府が建造した船(サン・ブエナ・ベントゥーラ号(按針丸とも))によってメキシコへ送り届けられました。結果的にその後の「鎖国」政策により両国の交流は途絶することになりましたが、その直前の時期にあたる慶長18年(1613)に仙台藩伊達政宗がいわゆる「慶長遣欧使節」をメキシコ経由でスペインへ派遣したのは、この事件が大きなきっかけであった※4と言われています。
ロドリゴ・デ・ビベロ - Wikipedia
慶長遣欧使節 - Wikipedia
※3 17世紀以降中国ではメキシコを「墨是哥」または「墨西哥」と表記していたため、日本でもこれを取り入れてメキシコを「墨」の字で表記することが一般的になった。
※4 伊達政宗は、ロドリゴ・デ・ビベロを救助した返礼として日本に派遣されたセバスティアン・ビスカイノ答礼大使と謁見している。慶長遣欧使節団が日本とヌエバエスパーニャ(当時のメキシコ)との往復に用いたサン・ファン・バウティスタ号は、乗船を難破で失ったビスカイノの協力により建造されたものであり、ビスカイノはこの船で慶長遣欧使節団とともにヌエバエスパーニャへ帰国した。
セバスティアン・ビスカイノ - Wikipedia サン・ファン・バウティスタ号 - Wikipedia

 

 このように、日本とメキシコの交流の原点となったのはスペイン船(当時のメキシコはスペイン領であった)の我が国への漂着だったのですが、これに対して日本人がメキシコに渡った最初期の事例として取り上げられるのが、この善助らの漂流事件(現在のメキシコ合衆国が建国されたのは1821年で、善助らがメキシコに上陸したのはその約20年後にあたる)でした。在メキシコ日本国大使館のWebサイトによると、2009年にメキシコ連邦下院で行われた日墨交流400周年オープニング事業において大垣貴志郎京都外国語大学教授が行った記念講演では、上記の「ロドリゴ・デ・ビベロの遭難と帰還」とともに「栄寿丸の遭難と救助」が両国友好の象徴的な出来事として紹介されたとのことです。
在メキシコ日本国大使館

 

 善助らが滞在したマサトランという町があるメキシコ・シナロア州は、平成8年(1996)に和歌山県と友好提携を結びました。これに先立って、平成6年(1994)に和歌山県で開催された「世界リゾート博」の際にはシナロア州政府代表が会場を訪れて、同州の民族ダンスの公演も行われています。また、令和3年(2021)には友好提携25周年を記念して「Día de Japón en Sinaloa 2021(シナロアにおけるジャパンデー)」がオンラインで開催されたところでもあります。
 善助たちの漂流は、このように意外な形で現在にまでつながっているのです。

友好・姉妹提携先の概要と交流の実績 | 和歌山県

教員の活動紹介!~オンラインイベント「Día de Japón en Sinaloa 2021(シナロアにおけるジャパンデー)」に登壇します! | 和歌山大学