生石高原の麓から

和歌山の歴史・文化・伝承などを気ままに書き連ねています

「清井之上」と木地師

(「紀州 民話の旅」番外編)

 前項「清井之上の話」では、平家の落人伝説が残されている旧美山村の「清井之上(せいのうえ)」地区について紹介したが、この集落について「美山村史」では「木地師木地屋」が大きな役割を担っていたものとの考察を示している。
清井之上の話 ~美山村(現日高川町)上初湯川~ - 生石高原の麓から

 

 木地師(きじし)とは、諸国の山中を移動しながら樹木を伐採し、主に轆轤(ろくろ)を用いて椀や盆などの木工品を加工、製造する職業集団である。伝承によれば、文徳天皇の第一皇子である小野宮惟喬親王(おののみや これたか しんのう 844 - 897)が、近江国小椋庄おぐらのしょう 現在の滋賀県東近江市で隠棲していた際に「綱引き轆轤(ろくろ)」を考案し、ここから椀や盆などの木工技術が全国に広がったとされることから、惟喬親王を「木地師の祖」と称することもある。
滋賀報知新聞 東近江発の超大型情報 「惟喬親王伝説」を追う

 

 また、木地師は俗に「朱雀天皇(あるいは正親町天皇の綸旨」と呼ばれる文書を所有し、これによって諸国の山に出入りして7合目より上の木材を自由に伐採する権利が保障されていると主張した。

 

 民俗学者柳田國男(やなぎた くにお 1875 - 1962)は、このように特定の土地に定住せず各地を移動しながら生活する者木地師のほか、宗教者芸能者など)を「漂泊の民」として研究の対象とした。中でも木地師は、前述の惟喬親王の伝承に基づいて小椋庄の筒井八幡(現在の筒井神社)大皇器地祖(おおきみ きぢ そ)大明神(現在の大皇器地祖神社)いずれかの氏子となることが事実上義務付けられており、両社によって定期的に氏子狩(うじこがり)と呼ばれる確認作業(及び金銭の徴収)が行われてきたことから比較的史料が残されていたため、これ以後民俗学歴史学の対象としてしばしば取り上げられるようになった。

 

 柳田は、木地師をはじめとする「漂泊の民」に関する研究と並行して、「山人」、「サンカ」に関する論考も行っている。また、歴史学者網野善彦(あみの よしひこ 1928 - 2004)はその著作の中で「山民」という用語をしばしば用いている。これらの語はいずれも山を主たる生活の場とする人々を指してはいるものの、本質的に大きく異なっている用語であるにもかかわらず、しばしば混同して用いられている。このため、本項ではこれらの言葉についても資料を示して簡単に解説していく。

木地師の本所とされる筒井神社(滋賀県東近江市蛭谷町)


1 旧美山村の木地師
 清井之上を含む旧美山村における木地師の歴史について、「美山村史 上巻」では次のように述べており、貞享4年(1687)には「せのうい(清井之上)」に約30~40人の人々が住んでいたものの、天保8年(1837)の飢饉によって集落が消滅したと推測している。

美山の木地屋
1 美山に残る木地屋のこと

 前述の氏子狩帳に姿を見せる、美山の木地屋稼業の中心は、上初湯川上流の「(せ)のうい」と寒川村内(後期は西野川村の内)で、日高川本流の最奥に当たる「小川山」であった。両者とも中世以来、木地屋の稼ぎ場となった古い歴史を持つ山であろうが、近世に入ると既述のように、木地師の根元を自負する近江の小椋谷の、ろくろを使う木地集団の系列に入った。こうして(ひる)谷の筒井八幡宮君か畑の大皇(おおかみ)大明神社の氏子として確認されたから、近世を通して相応の人数の人々が木地職に励んだ。
 ところで、美山の小字名図を調べると、「木地屋」という名の土地が二か所ある。これは上初湯川でも小川でもなかった。
 一つは、大字皆瀬の内、阿田木の下阿田木神社の側にあり、今一つは、大字初湯川の内、平(愛口)の地域にある。川の上流の谷深い所ではなく、日高川の本流や、愛(あたい)川の下流沿いにあった。地名の由来は不明だが、木地屋と関係深い土地であったことは間違いない。木地屋の作業場があったのだろうと思う。美山では深い谷の奥山だけでなく、日高川本流に近い所でも木地屋が仕事をしていたことを物語っている。それは「せのうい」や小川山の木地屋とは違う、別の木地屋集団だったのだろうか。二つの「木地屋」の土地に共通しているのは、それぞれ下阿田木神社、 上阿田木神社の近くにあることだろう。すると神社に奉納する木製品を作りながら、一般の人々の食器類を作って生計を立てる木地屋がいたのかもしれない。愛口(あたいぐち)木地屋の地には、奇しくも、近世の阿田木神社再興の基を作った雲蓋院宗海権僧正の碑が建っている。あるいは神社直属の木地職人(仏像等を作る)の居所を物語る中世の地名だったかもしれない。上阿田木神社には文禄4年(1595)の銘を持つ文殊菩薩坐像外十数体の質朴な木地仏ともいわれる本地仏が残されている。
 さて、貞享4年(1687)氏子狩帳の記録が美山の記録では一番古いものだが、上初湯川・せのういには8人が姿を見せる。戸主の人数なので一戸4、5人と考えると、30~40人の人々がいたことになる。小川山では戸主3人、10人余りの人々がいたのだろう。せのういのその後を見ると、40年後の享保11年(1726)には、吉忠という人が一人だけ一匁を納めている。やがて享保17、8年の全国的な飢饉の時には、美山の村々も大きな被害をうけたが、米穀をほとんど作らない木地屋が多いせのういは20名享保18年・外に上初湯川10名、中荘10名、鉢2名イモ尾2名)という多くの死者を出した。これは上初湯川地区ではせのういに一番多くの人々がいたことを示すものでもあろう。しかしその後も、せのういを訪れる人々は絶えなかったようだ。延享3年(1746)には「日高郡の内 瀬筋湯山」の名で8人が出ている。せのういの人々だろうと思う。それを証明するように遍照寺の記録に同年せのうい木地屋・武平、翌年せのうい木地屋・平蔵妻の死没記事が出ている。この頃せのういに、相当数の木地屋が集まっていた

(略)

3 「せ(せい)のうい」その後
 せのういは天保8年(1837)の飢饉で、再び大きな被害を受けた。木地屋は作った製品を売り、それで米穀を買って生活をし、自分で米穀はほとんど作らないので、飢饉等で木地が売れないとたちまち食料に困った天保の飢饉はどの地域の木地職も被害を受け、黒江(筆者注:現在の海南市では木地屋出身の商人に救済を求める運動を起こしている(前掲「紀伊国木地師制度」 筆者注:この引用文中にはない)。この年せのういと記帳されているのは3名、和田3名、鉢3名だが、上初湯川の地名で26名の死者がいた。伝承ではこの年から、せのういの人々は山渡りをやめ、不安な気持で麓に降り、農耕生活も始めるようになったようだ。遍照寺の記録には、以後せのういの地名は出てこない。集落がなくなった天保10年刊の『紀伊風土記』は天保初年の記事なので、「大風天皇社(境内山林周16間)はせいの宇井にあり」と明記されているが、それより程なく、人々の移動と共に現在地に移されたのだろう。
 同書も「大風の義詳ならず」と記している。「せいの宇井」には、木地屋の根元として文徳天皇の第一皇子惟喬(これたか)親王を祀る近江の大皇大明神筒井八幡宮の氏子として、親王の後裔をも自負する人々がいたのだから、祖元の土地の神社名や地名をしのぶ神社名がつけられたのだろうと思う。蛭谷や君か畑のある愛知(えち)川渓谷をさかのぼると、「八風(はっぷう)」という京都と伊勢、東国を結ぶ有名な間道があり、そこに八風大明神の碑が建てられている(『滋賀県の歴史散歩」)。大神(おおかみ)大明神、八風大明神、第一皇子で天皇になれなかった不遇の皇子を始祖と仰ぐ人々が、「大風天皇社」を作り出しても不思議ではないように思う。
 明治に入ると、小椋茂助外5名(軒)の名で大皇大明神の氏子として記帳し、寄進している。しかし木地職を専業としていたかどうかは明確でない。


2 木地師の歴史
 前述したように、木地師は、惟喬親王が小椋庄で隠棲していた際に轆轤を考案したことが始まりと伝承される。学術的にはこの伝承は後世の創作である可能性が高いとされているものの、一般社団法人日本森林学会は、この伝承をもとに東近江市小椋谷おぐらだに)を「木地師文化発祥の地」として「日本林業遺産」に認定した。その認定理由は下記のとおりである。

 木地師木地屋とは主に、轆轤(ろくろ)を用いて椀・盆などを作る木工職人のことを指す。轆轤の使用だけでなく樹木伐採や木工の一連の過程で独特の道具と技術を保有し、良材を求めて各地を渡り歩くという特殊な職能集団であった。木地師は、平安時代初期に東近江市の小椋谷に隠遁して村人に轆轤技術を伝えたと伝承される惟喬親王を祖神とし、小椋谷を出自の地とする帰属意識を広く共有していた。特に小椋谷の君ヶ畑蛭谷においては、全国の木地師を把握し統括する氏子狩氏子駈)を行って金銭を徴収する一方、手形・免状・鑑札・神札等を発行して、諸国で樹木伐採や搬出、移動を行うことに権威付けをすることで、木地師社会の保護を担った。
 このように東近江市小椋谷は、独特の技術・習慣・制度を古来より継承してきた木地師の文化の中心地と考えられ、関連する貴重な建造物・技術・道具類・資料群が残されている。なお、何をもって「文化発祥」と見なすかは学術的な定説にはいたっていないが、継続的な研究と伝統を地域として引き継いでいく高い意欲が認められるため、林業遺産に選定する。
2018年度林業遺産(No.33)木地師文化発祥の地 東近江市小椋谷 | 林業遺産林業遺産選定一覧 | 学会の取り組み | 一般社団法人 日本森林学会

 

 木地師は、良質な木材を得るために全国の山林を移動しながら生活していたが、山林への立ち入りや樹木の伐採を行うにあたり、その権利の根拠となる「木地屋文書」と呼ばれる書類を持参することが常であった。この書類は前述のとおり「朱雀天皇(あるいは正親町天皇の綸旨」に由来するものと伝えられ、一般的には「諸国の山に入り7合目より上の木材を自由に伐採できる」という権利を保証したものとされている。島根県益田市の「広報ますだ 平成31年(2019) 1月号」において同市文化財課が木地屋文書について簡単な解説を掲載しているので、以下にその内容を引用する。

 木地屋(きじや 木地師 きじし)とは、轆轤(ろくろ)を使って木材を加工し、椀・盆・杓子などを製作した人々のことです。中世から明治初期まで、良材を求めて諸国の山々を渡り歩きながら活動していました。
 木地屋流浪の民であるが故に、しばしば迫害にあいました。彼らは、文徳(もんとく)天皇の第一皇子である惟喬親王(これたか しんのう)近江国小椋郷(おうみのくに おぐらごう 滋賀県東近江市に隠棲し、山々の材木を加工して生計をたてることを天皇家から認められたという伝承をよりどころに、親王を業祖・祖神と仰ぎ、みずからも親王の末裔と称することで、その権利を主張しました
 小椋郷に所在する蛭谷(ひるたに)の筒井八幡宮(筒井神社)と君ヶ畑(きみがはた)の金竜寺(きんりゅうじ 筆者注:惟喬親王隠棲の地と伝えられ、大皇器地祖神社の別当寺として神社の管理にあたった)の二つの本所(ほんじょ)が諸国の木地屋を支配していました。木地屋は本所に金品を納める代わりに、活動を保証する文書を発給してもらうなどの保護を受けました。そのような文書が木地屋文書です。
広報ますだ(平成31年1月号) - 益田市ホームページ
P6 益田市文化財の紹介


 東京都武蔵村山市立歴史民俗資料館資料館だより 第24号 平成8年(1996)3月」では、同市の「ろくろ屋 渡辺家」所蔵の木地屋文書5通が紹介されている。このうち4通は承平5年(935)、元亀3年(1572)などの古い元号を用い、木地屋特権の由来、根拠が古くから伝わるものであることを示すものであるが、同資料館ではこれらの資料は明治2年に作成されたものとみなしている。以下に、惟喬親王(文中では「小野の宮」)の名が記載されている文書(史料2)の内容を引用する。

近江の国 愛智郡(えちぐん)
小椋庄おぐらのしょう) 筒井
轆轤(ろくろし)職頭(しきとう)の事
四品(しほん) 小野の宮 製作と称うる
彼の職 相勤むるの所
神妙の由候なり
(もっぱ)ら器質の統領と為し
諸国山入(いら)せ令(し)むるの旨
西は櫓(ろ)(かい)立つる程
東は駒の蹄(ひづめ)の通る程
免許せ被(ら)れ訖(おわんぬ)

天気(ていけ)候所なり
(よ)って執達(しったつ)(くだん)の如し。

承平五年十一月九日 左大丞(さだいじょう) 在判
器杢助(もくすけ)

※読み下しは同資料館による。原文は下記リンク先を参照のこと。
資料館だより|武蔵村山市 公式ホームページ

※筆者注: 上記文書中にある「天気(ていけ、てんき)」とは「天皇の意思、意向」を意味する語であり、「天気所候也 仍執達如件」は天皇の綸旨であることを示す一種の定型文である。この場合、文書の日付が承平5年(935)であることから、このとき天皇であった朱雀天皇による綸旨と解されている。また、宛名の「器杢助」は、当時木地師のトップに位置する人物の名前であるとされ、全国の木地師は、この器杢助の配下であるという身分を有していれば綸旨に基づく特権を享受できるものと主張していたのである。

 

3 柳田國男による「木地屋
 柳田國男は、木地屋木地師を学問的研究対象とした最初の研究者であったとされる。柳田の論文及びそれ以後の木地屋研究の系譜については、田畑久夫氏の「わが国における山村研究の系譜とその問題点 木地屋のムラの場合(「人文地理 27巻 4号」 人文地理学会 1975)」に詳しい。古い論文であるが、執筆時点における既存研究の経過を概観するには適当と思われるので、以下にその一部を引用する。

a)柳田国男の研究
 木地屋研究の端緒を開いたのは,既に論じたように,柳田国男である。柳田木地屋に関する研究を3編発表している。この一連の論文は,木地屋研究の基礎的な役割を演じた重要なものであった。
 柳田木地屋に関する最初の論文は,雑誌『文章世界』に発表されたものである。この論文は,木地屋研究史において歴史的な意味をもつと考えられるので,少し詳細に,その内容をみていくことにする。
 山の中に住んでいる人々は,よくたびたび移動する。しかも,その移動は,永久に去年の小屋を見捨て,同じ山で二度と生計をたてることは少ないと,山の中の生活には,漂泊性があることをはじめに論じた。そして,その漂泊性をもった人々の代表として,木地屋をとりあげ論究するのである。その内容は,木地屋の歴史,起源,木地屋文書,木地製造技術,分布など多方面に渡っている。このように木地屋全般についての概説であるが,この論文において論じられている諸問題は,例えば木地屋の起源などのように,現在でも満足に判明しているものは少ない。特に注目されるのは,木地屋文書に関してである。この当時,まだ木地屋の根元とされている蛭谷,君ヶ畑では,この種の文書が1通も発見されていなかった。そこで,土佐で発見した文書の分析から,承平2年(935)の論旨を偽文書ときめつけ,延文3年(1358)の足利尊氏が下した免許状は,信憑性があるとしている点である。しかし,いずれの場合も,その正否の明確な理由は記していない。
(略)
 柳田は,上述の3つの観点から伝説を把握し,その事例の研究例として,木地屋をとりあげたのである。内容としては,前半では木地屋についての多面的な問題を詳細に論じ,後半では諸国の木地屋の最近(明治末期)までの状態を,分布を中心に記述したのである。その分布の範囲も北は会津から南は大隅あたりまで,木地屋が住んでいたことを豊富な事例をあげて説明するのである。さらに,柳田は第3論文の最後の章において,木地屋研究の今後の課題として,次の5項目をあげている。すなわち,(1)木地屋の移住史,(2)木材工芸に関すること,(3)惟喬親王を祖神とするに至った原因,(4)君ヶ畑と蛭谷の争いについて,(5)惟喬御伝説の起った事情に関してである
(略)
わが国における山村研究の系譜とその問題点
「PDFをダウンロード」よりダウンロード可

 

4 柳田國男による「山人」
 上記引用文の中で、柳田は「漂泊性をもった人々の代表」として木地屋を研究対象として取り上げたとされているが、柳田はこうした「生計を立てるために山中で暮らす人々」とは別に、現在の日本人とは異なる先住民が山中に逃れて暮らしているとする「山人(やまびと)」に一時傾注していた。しかしながら、柳田は遂に山人の存在を確認することはできず、やがて柳田自身もこの論について言及することは無くなった。柳田による「山人論」の変遷については、六車由実氏の「柳田民俗学における「自己」と「他者」 -「米」と「肉」の対照性をめぐって-(「日本思想史学 第28号」(日本思想史学会 1996)」に詳しいので、以下にその一部を引用する。

(略)
 だが、私たちはこの『海上の道』における柳田の語り口からは、柳田自身の確信とは裏腹に、何とも抽象的で非現実的な世界しか思い描けない。というのも、ここには「日本人」以外の人々、すなわち「他者」の存在が描かれずに、いわば自己完結的に日本人の起源が構想されているからだ。
(略)
 しかし、柳田の民俗研究には、最初からこのように「他者」が語られなかったわけではない。周知の通り、「山人論」と呼ばれる初期の研究では、「山人」の存在が「日本人」が渡って来る以前の先住民、すなわち「他者」として明確に描かれていた。例えば、「山人論」の中の「天狗の話」には次のようにある。

 「ほかでもないが日本の諸州の山中には明治の今日といえども、まだ我々日本人と全然縁のない一種の人類が住んでいることである。(中略)これらの深山には神武東征の以前から住んでいた蛮民が、我々のために排斥せられ窮迫せられてようやくのことで遁げ籠り、新来の文明民に対しいうべからざる畏怖と憎悪とを抱いていっさいの交通を断っている者が大分いるらしいのである。」
    [柳田、1909c、188~189、傍点-引用者]

 ここには、「米が食いたさに争って平地に下った」[柳田、1909c、186]「われわれ」日本人の祖先が、「かれら」先住民を征服し、支配していく様子が生々しく描かれている。これは、一切の血腥い暴力が排除され、自己完結的に日本人の起源が構想される『海上の道』での叙述とはまさに対照的であるといえよう。
 では、柳田は、なぜその学問を形成する過程において、日本人の内部から「他者」を排除し、抽象的な日本人起源論を作り出していったのか。いったい初期「山人論」から晩年の『海上の道』までの間に柳田の学問にどんな変化があったというのだろうか。
(略)

『日本思想史学』バックナンバー第26〜30号

 

5 サンカ
 木地師など「生計を立てるために山中で暮らす人々」や柳田國男が論じた「山人」とは別に、山を生活の拠点とする人々の中に「サンカ」と呼ばれる者もいた。サンカ(「山窩」「山家」「三家」「散家」「傘下」「燦下」など様々な漢字が当てられた)は、定住することなく狩猟や採集、竹細工加工などによって生活していたとされるが、所有権という概念に乏しく、勝手に個人の土地に立ち入ったり物を持ち去ったりすることが多かったため、里に住む人々からは「犯罪者集団」と見なされることもあった。

 もともと「山窩」という表記は、「山中に住んで窃盗などをはたらく犯罪者集団」を指す警察用語として主に用いられたものである。ところが、小説家の三角寛(みすみ かん/ひろし 1903 - 1971)がサンカを題材とした娯楽小説を相次いで発表したことから注目が集まり、1980年代のオカルトブームにおいて、サンカは神代文字を使用する超能力を使う古代文明の生き残りであるなど荒唐無稽な本が多数出版されたことから様々な誤解が人口に膾炙するようになった。サンカの概要については下記Wikipediaの記述を参照のこと。
サンカ - Wikipedia

 

6 網野善彦による「山民」
 網野善彦は、従来の日本中世の研究が「定住農耕民」を中心に据えたものであったのに対し、職人や芸能民など、農民以外の非定住の人々である「漂泊民」の視点から社会を捉える新たな枠組を提唱した。その独特の観点は「網野史学」「網野史観」とも称され、しばしば批判の対象となったが、その後の中世研究に大きな影響を与えたことは否定できない。網野は、代表的な著作の一つである「日本中世の非農業民と天皇岩波書店 1984)」の中で、「非農業民」とは「農業以外の生業に主として携わり、山野河海、市・津・泊、道などの場を生活の舞台としている人々、海民・山民をはじめ、商工民・芸能民等々」だと位置づけており、農業民とは異なる集団として「海民」「山民」などを挙げている。「山民」という語は柳田國男も前述の「山人」と対比して「山中で狩猟・焼畑を営む定住民」を指すものとして用いており六車由実「柳田民俗学における「自己」と「他者」」)、網野が生み出したものではないが、網野が捉える「山民」について、米家泰作氏は「網野善彦の「山民」概念(「歴史評論 805号」 歴史科学協議会 2017)」で次のように整理している。

 日本史の通史的な視座のなかで「山民」に触れ始めた1990年代以降については別として、中世の「山民」に関する網野の問題意識は、大きく整理すれば次のようになるだろう。
 第一に、水田を中心とする土地支配の周縁や外側にある人々だということである。個別的な土地の支配や私有の論理が及びにくい山野という広大な自然に働きかけるために、天皇や権門の下で特権的な立場を得て、ある種の集団を形成していたことが焦点となる。
 第二に、生業の中心は果実(特に栗)や林産物の生産にあったということである。平野部ないし都市にこれらを供給していたことが重視され、農業を含む自給自足的な生活よりも、分業と流通の経済を担っていたことが強調される。
歴史科学協議会 - 『歴史評論』2017年5月号
Kyoto University Research Information Repository: 網野善彦の「山民」概念


 一般的に、中世から近世にかけての民衆史は、平地に住み、農耕や漁業により生計をたてる人々柳田國男は「平地民」と呼んだ)を中心に語られることが多く、清井之上のように「里」から隔絶された深山に暮らし、森林の恵みによって生計をたてる人々についてはあまり顧みられることはなかった。これについて、高橋直氏は「日本史教育における「山民社会」の視点の導入の意義(「筑波社会科研究 16号」筑波大学社会科教育学会 1997)」で次のように述べており、我が国の歴史を考えるうえで山民社会が果たしてきた役割に着目する重要性を示している。

 以上のような研究のなかで明らかにされたことは,山民社会は,他の地域から隔絶した地域に展開し,生産性が低く,自然環境の圧倒的な影響下にある,という従来まで我々が抱きがちなイメージは決して正しくない,ということである。日本列島は山地に海岸部など極めて多様な自然環境のもとにあり,そこに展開する社会も多様な自然環境にあわせて多様なあり方を示していた。そのなかで古代国家をつくりあげたのが,畿内の平野部に本拠を置くヤマト政権であり,それ以降の政治史を概観してみても平野部の権力が中心であった。しかし権力を土台で支える民衆の活動に注目してみると,海や山などを舞台としていることがわかる。権力者の意図のもとに残された文献史料を分析手段とする従来の歴史学が権力者中心になりがちであるのに対して,関連分野の研究の成果に刺激されて明らかにされつつあることは,多様な自然環境のもとで生活する民衆の姿であった。ただし現時点では,海の生活や文化を扱った研究が蓄積されてきているのに対して,山の生活や文化は軽視されているという印象を免れないが,そのことは歴史的評価として,山の地位が低かったことを意味しない。確かに海上交通やそれを介しての流通網の展開など,いわゆる教科書上で歴史を理解するうえでも,海の役割は決して軽視してはならない視角であることが注目され始めてきた。それに比べて山に展開した山民の社会は,平野部の社会と関わりあう機会は相対的に低かったかもしれない。しかしそれは平野部の社会を基準にした見方であり,山を生活の舞台としていた山民にも,各時代を通じて独自の社会が展開しており,平野部の社会との関係を持っていた。現在山村を「過疎」だとか「僻地」といった言葉で括られがちであるが,それはあくまでも現代的な価値観からみた考え方であり,前近代社会のなかでは社会的分業の一翼を担う存在として欠かすことのできない存在であったということができるだろう
つくばリポジトリ