生石高原の麓から

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足の宮さん ~印南町島田~

  中山王子社は、またの名を「足の宮さん」という。足の病気に霊験あらたかだとかで、いまも足や腰の悪い人たちが、あちこちから訪れている。

 

 あるとき、熊野詣での山伏が、このあたりで急に足をいため、それがもとで亡くなってしまった。あわれんだ村人たちがねんごろに埋葬したところ、土まんじゅうから大きな石が出てきた。そこで村人たちは、それを祭神としてまつり、「山伏さん」「やまっこさん」とあがめているという。

 

(メモ:国鉄紀勢線切目駅から歩いて約10分。国道42号線からも近い。)

 (出典:「紀州 民話の旅」 和歌山県 昭和57年)

中山王子・足の宮 参道入口

 

  • この話について、前項「亀地蔵」で紹介した印南町作成のパンフレット「紀州日高路 印南 ふるさとお詣りコース」では、次のように紹介されている。

 昔、一人の山伏熊野詣りの途中、島田に来た所、足が悪くなり、足を引きずり、とうとう井尻谷辺りで、命絶えたという。里人にねんごろに葬られたが、その埋葬された所に大きな石が出てきた。人々はそのことに霊験を感じ、その石を祭神として祀り、いつの間にか、足痛を治してくれると信仰するようになった。土地の人は「山伏さん」「やまっさん」として、崇めるようになった。
 明治41年、神社合祀の時、中山王子に祀られるようになり、足宮さんとして、親しまれている。御本体は名杭にあり、草鞋を供えたり、頂いたりし、今もお詣りが多い。
ふるさとお詣りコース | 印南町

 

  • 本文では、中山王子社の別名を「足の宮」とするが、正確には、「中山王子(熊野参詣道の休憩所・遙拝所である「王子」のひとつ)として位置づけられている「王子神社」の境内社の一つが「足ノ宮神社」、通称「足の宮さん」である。和歌山県神社庁のWebサイトでは、王子神社及び足ノ宮神社の由緒等について次のように解説している。これによると、ここに倒れたのは河内の行者で、江戸時代の初期のことであったとされる。また、明治末期までは「山伏さん」と呼ばれていたが、その後「足の宮さん」との呼び名が定着したとする。

王子神社
 熊野九十九王子の一つで、御幸当時は、往時の熊野街道(現在はイロハ坂)中山の王子ケ谷の周辺に鎮座。
 熊野三山に参詣の途次又は帰途、人々の憩いの場所として賑わったであろう。
 建仁元(1201)年『後鳥羽上皇御幸記』に「超 山参 切部中山ノ王子」とある。
 社地が現在の地に移されたのは、いつのころか定かでないが「元禄十(1697)年中山王子權現奉造宮建立、切目村庄屋宮井太治兵衛謹白」という棟礼から見ても、江戸中期以前であることは確かである。
 室町時代の初期、榎木ノ城主が御守護神として現地に遷宮したという説もある。
 明治41年10月12日、雨森神社(上広見鎮座)日吉神社(長谷谷鎮座)金比羅神社(尾崎鎮座)蛭子神社(浜松鎮座)八阪神社(天王本鎮座)金比羅神社(橋ケ谷鎮座)等を合祀し、現在に至っている。
 また同時に、山伏神社(名杭鎮座)を移転し、末社として祀っている。
 この山伏神社は、村山普氏の調べによると、今を去る370有余年前(江戸時代の初期)河内の行者が諸國修行中、大和大峯山脈又は吉野群山で修練を重ねて居るとき、急に熊野山篭を思い付き、冷水飛び散る滝壺で潔身苦行幾十日かを重ねてようやく満行を迎え、喜び帰路についたが、名杭の谷に着いたとき、旅のつかれと寒さのために持病の足痛が増し、悲鳴を上げて七転八倒して苦しんでいるのを村人が発見した。
 田舎のこととて薬も医者もなく、村人たちはたゞ見ているのみであった。
 その行者は「医者がないのか、ないのなら私が足痛を治してやろう」と言い残して死んだ。
 村人たちは、生前十分の看病が出来なかったお詫びに丁重に葬り、墓標を建てて杉の木を植えた。
 死後数日を過ぎた頃、墓標は山吹色の黄金燭に輝き、村人等は驚いて、この行者の行徳をたたえて一祠を建て行者の霊を祭ったと言い伝えられ、また効験あらたかで、明治の末期まで「山伏さん」と申していたが、いつの間にか足の宮と申すようになったというのである。
和歌山県神社庁-王子神社 おおじじんじゃ-

 

  • 上記のパンフレットからの引用文にあるように、山伏が埋葬された場所は、中山王子から東北に約1.2キロメートル離れた名杭(なぐい 現在の印南町島田)地区にある。山伏神社の旧社地であるこの地には現在も「足神さん」と呼ばれる祠が祀られており、ここに参詣する人も多いという。
奥の方に足神さんの祠がある

 

  • 足神さんと同じく名杭地区にある観音堂は、足の宮の本地仏神仏習合思想に基づき、神道の神は、仏が自らの化身として我が国に現れたものであるとみなす)を祀ったものとされる。この本尊である「名杭十一面観音立像(県指定有形文化財」について、印南町のWebサイトには次のような解説が掲載されている。

 本仏像は、昭和56年に修復され化仏と持ち物は旧態に修復されているが、彩色は腕釧にのみ金箔のあとが残っている。両腕はほぞ差しであるが、本体は檜の一木造りで台座を失っている。伏し目がちの彫眼で童顔ながら慈悲深い観音像で、総高176センチメートルある。
 衣文の彫りの流麗さ、修復前の側面から見た体躯は一見しただけで平安時代の造像と観受される。県内には平安時代の造像が多く残されているが、本観音像は、その中でも重要文化財級と肩を並べる優秀作の範疇に入る仏像である。
 桃山時代単独尊として名杭の地に安置されていたようであるが、それ以前すなわち鎌倉時代までは、おそらく切目五体王子社の神宮寺として、熊野詣の人々の尊崇を集めたものと推察される。
4,名杭十一面観音立像 | 印南町

 

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本ページの内容は、昭和57年に和歌山県が発行した「紀州 民話の旅」を復刻し、必要に応じ注釈(●印)を加えたものです。注釈のない場合でも、道路改修や施設整備等により記載内容が現状と大きく異なっている場合がありますので、ご注意ください。